60年をふりかえって(記念集会に於けるスピーチ・テキスト)

          齋藤正明(副会長)  

  鵬翔山岳会60年史の年表作成を担当していますが、昨年亡くなられた森田達雄氏が整理半ばで残された資料や、関清薫氏、犬塚寿子氏、高橋義治氏、元会員の伊東正治氏からお預かりした会報により、創立当初から今日までの活動をほゞアウトラインすることができました。

  まだ不明の年代があり、完全な年表には仕上がっていませんが、現時点の資料を基に、時間の制約もありますので、詳しくは今年中に纏める予定の「60年史」の記述に譲ることにしまして、創立から昭和44年ごろまでの前半の30年に特に重点を置き、60年をレビューしてみたいと思います。

  なお、今日は多数の先輩方がご出席ですので、お気付きの点がありましたら、ぜひご教示をお願いするとともに、誤認や独断的な部分などについては、資料が完全に揃わず、まだ総括の過程にあるということで、今回は何とぞご容赦いただきたいと思います。

  さて、この60年を、創立直後のハイキングクラブから尖鋭的な山岳会へ転換していった戦前期、戦後の再発足から、いわば「鵬翔」というブランドを確立する昭和20年代の成長期、国内外の登山を活発に行い最も輝いた昭和30年代、40年代の隆盛期、果敢な活動と遭難の多発という光と影が交錯した昭和50年代の交錯期、そして沈滞を脱し再び活発な活動を展開する復活期、という五つの時代に区分してみました。


    

T.戦前期 ハイキングクラブから尖鋭的な山岳会へ転換していった時代
昭和14年から昭和20年まで(1939−45)

  鵬翔山岳会は法政大学高等商業学校OBが中心となって、昭和14年3月12日に創立されました。発足当初の会員数は32名で、企画、編輯、会計、庶務の委員制をとり、郷右近実氏が代表に選ばれました。

  現会員関清薫氏、向後保氏、昨年亡くなられた故森田達雄氏は創立会員として加わっておられます。

  元会員伊東正治氏の手により昨年復刻された「年報」第1号によりますと、創立1年目には会員数は110名を数え、その内女性会員が34名となっています。

  第1回山行の高水三山ハイキングを皮切りに東京近郊のハイキングを中心に年間に40回の山行が行われています。

  昭和14年、15年はそういったハイキングクラブでしたが、山行を繰り返すうちに、より充実した達成感を求めるようになるのは、自然な成り行きでした。

  やがて、近くてより高い山、より難しい山、丹沢の沢や三ツ峠の岩場を目指すようになります。

  そして徐々に谷川岳へ目を向けていきました。

  目指す方向が少しずつ転換されていくにつれて、半数近くを占めていた女性会員の多くは脱落して行きました。

  本日ここに出席されている犬塚寿子、野崎登代両会員は方向転換についてこられた戦前からの女性会員で、失礼ながら当会の重要文化財的存在として、お二人とも80歳を超えられ、今後ますます健康で長寿を全うされるようお祈りしたいと思います。

  聞くところによりますと、犬塚先輩は7月にインド西部の山岳地帯へ、幻の花ブルーポピーを探しに行かれるとのことで、その意気盛んなところは大いに学ばねばなりません。

  また、野崎先輩とは先年ご一緒にアンデスを旅し、車によるものではありましたが、標高5千メートルを超える高地を訪れるなど、好奇心の旺盛なことには頭が下がりました。

  昭和17年から18年へかけて谷川岳に頻繁に向かうようになりました。

  昭和18年の記録は、ほゞ完全なものがありますので、調べてみますと、丹沢方面には延べ50回の山行がしるされており、西丹沢中川川流域開拓に会を挙げて取り組んだことが窺えます。

  丹沢に並行して谷川岳へは延べ40回を超す山行が行われました。

  この年の特異な行事としては、4月29日、鎌倉の鶴岡八幡宮から宮城までの天長節奉祝行軍50キロが、東京府山岳聯合會主催で千数百名が参加して行われています。

  それは社会活動の全てが戦争に向かって収斂されていった時代の特徴を如実に現している行事でしたが、当時100名余りの会員を擁する当会から僅か9名しか参加しなかったところをみると、自由な山登りに生き甲斐を感じていたわれがの先輩たちは、そういった押し付けの翼賛行事に無言の抵抗を示したと考えるのは私の思い過ごしでしょうか。

  仲間の多くが戦地に駆り出され、やがてはわが身となる、明日をも知れない青春を、未踏の岩壁にぶつけていったのは当然の帰結かも知れません。

  この時期に登山史に残る初登攀が達成されています。それは波状的な谷川岳一ノ倉沢滝沢下部の攻撃の結果、昭和19年7月には森田達雄、中野満両会員によって、それまで何度も退けられた滝沢下部が完登されました。

  なお、その前週には、幕岩Cフェースが、森田達雄、小川芳之両会員によって落とされました。

  当時盛んに一ノ倉に通った関根庄寿会員に伺いますと、戦時中は登山服姿で列車に乗ると、非国民として警官や憲兵に咎められるので、学生服や背広姿で、山の道具は風呂敷に包み、土合の中島喜代志氏の小屋で、着替えて一ノ倉沢の岩壁を登ったそうです。

  戦争がいよいよ激しくなり、有力会員の多くが召集される一方、軍需工場の激しい労働、食糧不足、空襲などによって、活動は殆どされない状況に追い込まれて、昭和20年8月15日を迎えました。 

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U.成長期 戦後の再発足から「鵬翔」を確立するまでの時代
昭和21年から30年まで(1946−55)

  戦火を生き延びたわれらの鵬翔の先輩たちが、敗戦の虚脱状態から脱するのに、それほど多くの時間は掛かりませんでした。

  むしろ自由に山を登ることのできる時代の到来を喜んだことは間違いありません。

  敗戦直後の昭和20年9月、7名の会員が集まり、戦後第1回の集会が開かれ、12月に開かれた総会には30名余りが集まり、鵬翔復活が高らかに宣言されました。

  そして、翌年3月には会員23名が集まって今後の鵬翔のあり方について真剣な論議が交わされました。

  有力会員が次々に復員してくるとともに、再び活動が活発化していきました。

  戦時中に中断していた一ノ倉ルート開拓にいち早く入るようになり、昭和21年7月には20名が参加して、一ノ倉沢を中心にした谷川合宿が、そして10月には一ノ倉沢奥壁放射状登攀7ルートが行われました。

  昭和22年23年は一ノ倉沢を中心とした岩壁登攀に精力を傾けるとともに、並行して他山域の未踏ルートに挑戦するようになります。

  昭和22年8月に行われた森田達雄、関根庄寿、半田峯二、戸田廣の4会員による越後の御神楽岳本谷奥壁初登攀は、やがて森田会員を中心に進められる荒沢岳開拓に繋がっていきます。

  谷川岳の開拓が一段落すると徐々に北アルプスが視野に入ってきます。

  昭和22年8月には中野満、窪谷達一野々村薫、多畑茂の4会員によって穂高滝谷ドーム中央稜が初登攀されました。

  それまでのともすれば三人寄れば山岳会と揶揄された個人中心の町の山岳会から、戦前すでに冬の北アルプスで極地法登山を実践していた、早稲田や慶応などの大学山岳部に比肩する組織的登山を目指すようになっていきます。

  昭和23年になると冬山登山実践へ確信が強固なものとなっていき、昭和23年1月初めての冬山合宿が八ガ岳で行われ、続く昭和24年1月には遠見合宿生活が行われました。

  当時の会報を見ると、昭和24年から山行先が劇的に変化していることに気付きます。

  山行先が丹沢や谷川岳から、南アルプスから穂高へ展開していきました。

  そして究極の目標はヒマラヤ登山に向けられ、年間の目標が北アルプスの冬山登山に置かれ、冬季合宿、夏季合宿という合宿形式が定着し、すべての山行が冬季合宿へのステップとして位置づけされるようになり、年間のスケジュールが確立されていきました。

  昭和27年10月、上越支部が半田峯二会員を中心に設立されました。      

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V.隆盛期 国内外の登山を活発に行った最も輝いた時代
昭和31年から44年(1956−69)

  昭和30年代に入り、国内においてはバリエーションルート開拓が盛んに行われるとともに、海外登山が手の届く存在になってきました。

  会員の層も厚くなるにつれて、合宿形式が確立し、冬山に於ける極地法登山の実践が可能となってきました。

  昭和32年4月学業を終え郷里福岡に帰った熊本敏之会員によって九州支部が設立されました。

  昭和33年の冬季合宿は、西穂高岳から奥穂高岳の往復登山がヒマラヤ遠征をイメージした極地法で行われました。

  一方、1月厳冬期穂高屏風岩第二ルンゼ登攀が中野満、新井登吉郎両会員によって行われました。

  新井登会員は穂高屏風岩東壁に新ルートを開拓するため、10月安久一成会員とともに試登、途中で行き詰まり他日を期することにしましたが、その直後、雲稜会パーティが試登ルートを足がかりに初登攀し、翌34年5月の新井登、安久両会員によるトレースは無念の第2登となりました。

  気を取り直した両会員は川室清一会員を加え、9月に穂高屏風岩中央壁に最初の鵬翔ルートを刻むことができました。

  昭和35年5月安久会員は前年に試登とした屏風岩二ルンゼ右岩壁の初登攀を達成しました。

  この年の11月富士吉田大沢で発生した大規模な雪崩は、講師としてアルピニスト教室へ加わっていた新井登会員から屏風岩開拓の志を奪ってしまいました。

  しかし、その志は後輩会員に受け継がれ、翌36年2月の鈴木鉄雄、安久一成両会員による前穂高東壁Dフェース厳冬季初登攀、青木宏之、鈴木、安久、藤平好彦、正野進の5会員による穂高屏風岩東壁青白ハングルート初登攀に結実しました。

  昭和37年9月には「幻の大滝」といわれた剣沢大滝が、中野満リーダーの下、飯田平八郎、野村彰男会員らをサポートに、鈴木、安久両会員によって完登されました。

  この年の9月、関西在住の齋藤正明、岡部勇、大渡武紀、正野進、瀬山和雄の5会員によって関西支部が設立されました。

  そして、関西支部の成長発展とともに、38年の夏季合宿からは、合同合宿が組まれるようになりました。

  昭和39年の冬季合同合宿は奥穂高集中5ルートが参加者20名によって達成されました。

  海外登山の分野では、それまでの日本山岳会を中心とした遠征が、社会人団体にも可能となり、昭和36年第2次全岳連ヒマラヤ登山隊ビッグホワイトピークに中野満会員が副隊長として参加、頂上直下200メートルで悪天により無念の敗退、翌年を期し、翌37年第3次全岳連隊に登攀隊長に中野、隊員に高島誠、安久一成の3会員が参加、ビッグホワイトピーク登頂に見事成功しました。

  昭和39年には長野岳連隊のギャチュンカンに安久会員が登頂を果たし、昭和44年には九州支部の鶴田清二、石崎史郎両会員が福岡岳連隊に参加し、ティリチミールを目指しましたが、悪天に阻まれ、残念ながら頂上を落とすことはできませんでした。

  この時期の主な記録としては、昭和41年7月黒部別山大タテガビン南東壁が前年からの2度にわたる試登を経て完登、10月穂高下又白谷の初トレース、42年5月関西支部による赤沢岳西面のルート開拓、43年冬季合同合宿に於ける屏風岩東稜、前穂四峰東南壁、前穂右岩稜連続登攀、5月赤沢山周辺の開拓、10月九州支部による阿蘇根子岳天狗峰地獄谷正面壁登攀、9月八海山西面屏風岩の初登攀など、各地に鵬翔ルートが刻まれました。

  一方、遭難事故も避けられませんでした。

  昭和39年5月鈴木鉄雄会員は谷川岳一ノ倉沢衝立岩正面にて転落遭難、44年11月富士雪上訓練合宿において吉岡重廣会員が滑落遭難、合宿中に於ける遭難発生に会員は衝撃を受けました。

  そして、12月穂高屏風岩東稜において西田正彦会員が核心部登攀後、ザイルを解いた直後転落するという事故が発生、ひと月余りの内に続いた遭難事故は、その原因の究明の過程で判明した無届け山行の責任者処分という問題とともに、今後の会組織のあり方、指導方針の見直しという問題に発展して行くことは避けられませんでした。      

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W.交錯期 果敢な活動と遭難の多発という光と影が交錯し沈滞へ向かった時代
昭和45年から60年まで(1970−85)

  前年末の相次ぐ遭難事故により、昭和45年3月緊急開催された臨時総会に大幅な組織改革が提案され、本部の下に東京在住会員をもって東京支部を新たに結成し、東京、上越、関西、九州の4支部体制として再出発することになりました。

  時間がありませんので、詳しい説明は省きますが、この時代区分以降にについては、お配りした年表を見ていただけば一目瞭然で、光と影が交錯した時代だと思います。

  各支部会員によるヒマラヤ、ヨーロッパアルプス、カナディアンロッキーなど海外登山が頻繁に行われるという明るく輝く光の部分の中には、暗い影の部分が綯い交ぜになっていることは否めません。

  創立以来順調に発展を続けていた関西支部もついに悲劇に見舞われます。

  昭和45年9月、中橋邦夫会員の大峰山系弥山川溯行中の転落遭難事故は鵬翔受難の時代のプロローグとなりました。

  深い谷底に横たわっている中橋会員の黄色のヤッケに呼びかける叫びは空しく谷間にこだまするばかりでした。

  山麓の川合の駐在所に安置された遺体に取りすがって号泣していた父親の姿を、いまでもまざまざと思い出し、胸が痛むのを覚えます。

  昭和46年11月には谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢中央稜にて高村盛信、三浦健成両会員が力尽きて遭難、翌47年4月には韓国隊に参加の安久一成会員がマナスルの雪崩の犠牲になりました。

  昭和50年1月には一ノ倉沢滝沢リッジで、稜線まであと一歩というところで雪崩に巻き込まれ、石川文男、今城正男、関根保夫の3会員はAルンゼの谷深く埋没し、9月まで遺体を発見収容することは叶いませんでした。

  昭和55年5月にはチョモランマで宇部明会員を失います。

  そして、昭和57年8月、黒部峡谷の奔流の中に宮下勝彦、田代昇、小池廣行、成田嘉治、二上耕次、山口峰人、添田伸二の7会員を失うという大量遭難事故は当会に致命的な打撃となったことは否定できません。

  その後、遺族の心情を省みない当時の東京支部長の行動は鵬翔山岳会になじまないものとして、除名処分の結果、多くの若手会員が会を離脱するという結果になりましたが、鵬翔の理念を守るためにはやむを得ないことでした。

  この年の12月にはヒマラヤ登山に精力を傾けた小林利明会員がエベレストの雲の中に消えていきました。      

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X.復活期 沈滞期を脱し再び活発な活動を展開している時代
昭和61年から現在まで(1986− )

  長らく黒部遭難という呪縛から解き放されず、沈滞化は避けられなかった鵬翔は、昭和61年頃から徐々に癒され活動が回復していきます。

  それは黒部の遭難以降に仲間に加わった若い会員が育ってきたからです。

  平成6年10月に行われた黒部遭難13周年慰霊祭で区切りをつけ、私たち鵬翔山岳会復活に向かって歩みだしています。

  そして、今日60周年を迎えたことは誠に喜ばしい限りと感慨無量です。

  さて、登山活動のスタイル、様式そのものは、登山技術、用具や交通手段、対象となる山々の物理的変容、インターネットに見られるグローバルなネットワークなど、時代とともに変化することは当然と思いますが、鵬翔山岳会の理念を体現する人間行為そのものは時代がどう変化しようとも決して変わるものではないと思います。

  理念のエッセンスは、礼儀、安全第一、自然を愛すること、会への積極的参加、誠実と友情、という五項目の綱領に平易明快に表現されています。

  私たち鵬翔山岳会はそういった理念――志といってもよいかも知れませんが――を共有する者が集まって形成している集団なのです。

  したがって、理念、志を共有することができない会員がいくら登山活動をしたとしても、それはもはや鵬翔山岳会のものとはいえません。

  間もなく21世紀をを迎えますが、私たちの鵬翔山岳会の理念が若い仲間たちにしっかりと継承され、70周年、80周年いや100周年が祝福されることを祈りながら、60年の総括を終わります。(了)                 

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