鎮 魂 譜

安久一成会員

安久一成会員

19期

昭和47年4月10日

マナスルにて遭難

昭和47年4月10日、韓国第二次マナスル登山隊に参加、第三キャンプ(6300m)において雪崩に遭遇、約800米流され負傷、瀕死の重傷の同僚隊員を看護中2回目の雪崩に遭い、マナスルの氷雪に中に姿を消す。

墓碑銘

追悼碑

 群馬岳連ダウラギリW峰登山隊に参加中の田中壮佶会員が南面コーナボンコーラ3600m付近で、安久会員遭難のニュースをラジオで聞き、近くの岩にシェルパに彫らせた

会員への年賀状

遭難を報じた新聞記事

会員への年賀状

遭難を報じた当時の新聞記事

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主な山行記録

昭和32年 入会 7月夏季合宿北岳バットレス、8月登攀合宿穂高、
谷川岳一ノ倉沢二ルンゼ、10月八ガ岳
昭和33年 1月冬季合宿穂高岳・槍ガ岳、3月春山合宿穂高屏風岩Uルンゼ、
4月谷川岳一ノ倉沢烏帽子南稜、7月北アルプス全山縦走、
10月穂高屏風岩東壁試登、11月北鎌尾根単独
昭和34年 1月冬季合宿鹿島槍天狗尾根、3月春山合宿北鎌・穂高・滝谷、
5月穂高屏風岩東壁第2登、8月穂高屏風岩中央壁初登攀、
11月穂高屏風岩Uルンゼ右岩壁試登
昭和35年 5月穂高屏風岩Uルンゼ右岩壁初登攀、前穂高岳東面右岩稜、
昭和36年 2月前穂高岳東壁Dフェース冬季初登攀
7月谷川岳一ノ倉沢滝沢下部・滝沢スラブ・滝沢リッジ
8月穂高屏風岩東壁青白ハングルート初登攀
昭和37年 5月全岳連ヒマラヤ登山隊ビッグ・ホワイト・ピーク初登頂、
9月剣沢大滝完登12月穂高屏風岩東壁青白ハングルート
昭和38年 1月穂高屏風岩東稜・中央壁、7月夏季合同合宿薬師岳−剣岳登攀
昭和39年 4月長野岳連ヒマラヤ遠征ギャチュンカン初登頂
昭和40年 ヨーロッパ・アルプス登攀
昭和41年 8月夏季合同登攀合宿穂高
昭和42年 韓国の山、8月夏季合同縦走・登攀合宿種池−立山−三田平・登攀
昭和43年 東ニューギニア横断、1月屏風岩東稜−4峰東南壁−前穂右岩稜
昭和44年 日本エベレストスキー探検隊
昭和45年 日本エベレストスキー探検隊、8月夏季合同登攀合宿穂高
昭和46年 韓国第1次マナスル登山隊 8月夏季合同合宿針ノ木峠−槍−涸沢
昭和47年 韓国第2次マナスル登山隊 4月10日遭難行方不明

主な著作

『ロッククライミング』 東京新聞社出版局 昭和43年
『写真版・登山教室』 実業之日本社 昭和44年
『エベレスト 日本エベレストスキー探検隊の記録 共著 文芸春秋 昭和45年
『雪山技術』 東京新聞社出版局
『白い王国 安久一成ヒマラヤ写真集』 東京新聞社出版局 昭和48年

 その他『ヒマラヤの高峰 別巻 写真集』(深田久弥編 雪華社 昭和41年)『カラー・世界の山々』(山と渓谷社 昭和42年)『世界の名峰』(東京新聞社出版局 昭和47年)などに作品が収録されており、抒情性を排しクールな視点で山を見つめ、その雄大さや厳しさを画面に切り取ったといわれる、登山家・山岳写真家安久一成独自の世界を垣間見ることができる。

 なお、山岳雑誌「岳人」「山と渓谷」などに写真作品、登攀記録、ルート解説などの多くの著述が残されている 。

 また、「岳人」300号(昭和47年6月)には22ページにわたり、安久一成ヒマラヤ遺作写真集、追悼悼文が掲載されている。

写真集「白い王国」

写真集箱

白い王国 安久一成ヒマラヤ写真集」(左表紙 右箱)


写真展

 『山を愛する写真家たち−日本山岳写真の系譜』展(企画・監修東京都写真美術館 平成11年9月−11月開催)

 明治の黎明期から今日に至るまでの山岳写真作家40人のひとりに選ばれ、次の5作品が展示された。

  《タンボチェの仏塔の彼方にアマダブラム》

  《イムジャ氷河源頭の無名峰》

  《パンチ・ポカリ湖に映る山々》

  《ゴザインタン、ランタン氷河より》

  《ロールワリン・ヒマールのメンルンツェとその直下の湖》

なお、展示作品は日本写真企画発行の『山を愛する写真家たち−日本山岳写真の系譜』に収録されている。


遺 稿

 或るインドア・クライミング

  山の写真と文章と

  ここに一枚の写真がある。

  北穂高の頂上から北面を写したもので、南岳の岩場を通り抜けた縦走路が南岳の傾斜の弛い斜面を通り、中岳へと見えかくれしながらも、一条の白い線となって走っているのが、それと指適できる。中岳の右肩に白い雲をバックにして、ちょこんと乗っかっているように槍の穂が見えている。

  縦走路を境にして左側はもくもくした白い雲が谷を埋め、その上部には黒い空の中に白い線を描きながらたくましい入道雲が立ち昇っている。中岳の東斜面には二つの大きな雪田がある。その末端ではおそらく冷たい水が飲めるに違いない。

  さんさんと降りそそぐ、夏の強い日ざしを浴びて、時たま吹いて来る冷たい風に吹かれながらの三千米の稜線漫歩。そんな楽しさが思われる。そのような夏山の写真である。私はしばらくうっとりとする。空想にふけりながら、山の写真を眺めるのは楽しい。

  山と四つにとりくんで撮られた写真はしばしばはっきりと私に山を知らせてくれることがある。知らされるというよりは、むしろ逆に写真を利用して自分の気づかない部分を知ろうと心がけることがある。未知の岩壁にルートを開拓しようとする時など特にそうである。

  屏風岩の中央壁を狙った時だ。現地でも幾度か偵察をしたが、適切なルートを発見することはむずかしかった。ところが、この時は実際に見た印象よりも、写真の方がルートを決定する大きな要素となった。

  それは一月、五月、八月と同じ場所から季節を違えて撮った、三枚の写真であった。それらの三枚を見くらべ、中央壁の雪のつき方の相違から、登攀に最も影響をおよぼすレッジ、バンド、溝、ブッシュ、傾斜などの有無や大小は、写真にはっきりとあらわれていたのである。

  われわれの登攀ルートや装備は、写真の検討によって決定されたといってもよかった。そして登攀はほぼその机上プランにそって行なわれ、完登に成功したのである。

  ヒマラヤ遠征においては写真のしめる役割や要素がとくに大きい。実際には一度も見たことのない目的の山は、どのような名文で正確に書かれていたとしても、その山自体の条件を理解することはむずかしい。

  山の描写はゲーテでさえもペンを投げたという話だが、それにくらべてたった一枚の写真は、何気なく撮られた写真であっても、また目的の山が端の方にぽつんと写っているような写真であったにしても、時にはそれが登攀ルートや装備を決定することがある。

  インドア・クライミングの楽しさは、いろいろあるであろうが、私にとっては文章より写真の方がより直接的である。岩場のルートに夢中になっているためかもしれないし、文章を味わう要素がないからかもしれない。

  昨年、私はヒマラヤに行く機会を得た。第三次ビッグ・ホワイト・ピークの遠征だった。

  食糧係になった私は、マナスルやチョゴリザなどの日本隊の記録を調べ、経験者の話を聞き、すべての私事を投げ出して食糧計画に没頭したが、その計画の間に、私は以前読んだことのある深田久弥さんの「雲の上の道」を読み返した。

  ただヒマラヤの紀行として読書の楽しさを味わっただけだったこの書物は、こんどはそこに書かれている同じ山塊に行くという、実践を前提とした読書になった。このときそれは単なるヒマラヤの紀行ではなくわれわれの遠征の文献となった。真剣な気持ちで活字を追わざるを得なくなったが、同時にそれは机上プランの楽しさをもつ読書となった。

  展開するキャラバン道中の風景、そしてそこに生活する現地人の珍しい風俗。そういうものをいっそう深く私は期待とあこがれをもって読んだ。時には書かれている文章にうなずき、時には表現に期待をはせて、つぎに現われる光景を見ようと足を早めたこともあった。

  三度目に読んだのは、遠征から帰って来てからである。そのとき、それはあたかも記録映画のように、一字一字の活字が正確な絵となって頭の中を流れ、土の色が目に染み、鼻ににおい、ポーターの顔が現われ笑い声が聞こえてくる。

  私の印象に残る光景の一つをそこから拾ってみよう。

「その河に出るまでに一つの山鼻を越えねばならない。その山鼻の上の峠にもう少しで登り着こうとした時だった。上から“見えますよ、見えますよ”と声がかかってきた。私は駆け上った。そして見た。ジュガール・ヒマールの全容を。息のとまるような、素晴らしい眺めだった。北方の紺碧の空に、氷雪に輝くヒマラヤを、今こそ私は自分の肉眼で見た。左から、ドルジェ・ラクパ、主峰、ギャルツェン・ピーク……」

  このいくたびかの同じ内容の書物のうけとりかたはまちまちであった。今後もまた違った思いで読むことがあるであろう。

  山の写真も、山の文章も、それぞれ楽しい。五万分ノ一の地形図を見ることすら楽しいのだ。しかし、その楽しさには、人によって深浅や高低がある。

  インドア・クライミングの楽しさを、本当に理解し、味わうようになれるには、やはりまず自分を充実させることだとつくづく感じる。(了)


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