鎮 魂 譜

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32期

昭和50年1月4日  谷川岳一ノ倉沢滝沢リッジにて遭難

厳冬の一ノ倉沢

滝沢リッジに消えた悲運の三人の仲間

遭難を報じた当時の新聞記事

「滝沢リッジ」表紙

遭難を報じた当時の新聞記事

遭難追悼誌「滝沢リッジー亡き岳友に捧ぐ」

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追悼集「滝沢リッジ−亡き岳友へ捧ぐ」へ寄せて

                  定方良輔

  昭和五十年一月四日、谷川岳一ノ倉沢滝沢リッジを登ってきた、石川、今城、関根の三名は、ふりしきる雪の中、国境稜線で待機していた、サポート隊の岡部、小林と元気なコールを交し得た。

  登山終了点まですこしを残す雪璧に彼等が集まり、トップが次の行動に移ろうとした瞬間、足許の雪が切れて「あっと」言う間もなく、一つの塊となって、サポート隊の視野から灰色の谷へ消えてしまった。

  その年の谷川岳は春の降雪が多く、夏になっても、例年にない豊富な残雪が渓を埋めた。

  彼等が発見されたのは、朝夕、一ノ倉の岩壁が露しぐれに光る九月八日であった。

  関根、石川、今城の順で固い雪渓の中に折り重なっていた。

  山に敗れた無惨な彼等をゆすり起こし、

  「長い間、御苦労さん」

と、棒のようになっている固い足を軽くたたいた。 その夜は、秋としては珍しく、激しい雨が降りつづいた。

  翌日、山の仲間は、ずぶ濡れになって彼等を収容した。

  雨があがり、秋冷の嶺に三すじの紫の煙が立ちのぼる。そして、骨になってしまった彼等は、家の者にだかれて、それぞれの故郷に帰ることが出来た。

  この八ケ月有余の歳月は、実に長く、多くの人達に迷惑をおかけした。亡き岳友に代って、あらためて不祥事をお詫びしたい。

  特に捜索のヘリコプターに御尽力くださった自衛隊の方々、土合山の家、沼田警察署、谷川岳警備隊、谷川岳登山指導センター、群馬岳連、並びに東京都岳連の方々に心より御礼を申しあげたい。

  捜索、および遺体収容に出動した会員の延人員は、実に七百四十一名に達し、東京はもとより、関西、九州からも仲間が一ノ倉に馳せつけてくれた。山仲間のきずなに新たな感銘をおぼえる。

  今回の冬期滝沢リッジ計画は、昭和三十五年一月の初登攀の原点に戻り、一週間、一ノ倉の風雪にたたかれても、登り得ることを基本にしていた。

  暮までに、肩の小屋に非常食糧などの荷上げをし、西黒尾根からのサポート隊と、滝沢リッジ取り付き点までの雪崩を警戒しての、一ノ倉出合までのサボート隊とに分れ、取り付きを確認している。

  計画されてから三ケ月、一日の仕事を終えて各自、ランニングのトレイニングをかかさなかったと聞く。

  私の関知する限り、登山計画と山行への姿勢に不備のものはない。

  山の遭難の多くは、無謀な登山に原因がある。しかし、高度な登山、とくに登攀は死と紙一重の境にあり、危険がいつもつきまとう。登山が危険との闘いである以上、如何に注意してもさけられない遭難も起りうるのである。きびしい自然に対しては、かなしいかな人間完璧なものではあり得ない。

  厳冬の一ノ倉のきびしさを十分に計算して、共に命を託し合い、誰に強いられることなく、彼等は進んで至難の山行きにのぞんでいった。氷璧での四泊五日の行動中、晴れた日は一日だけであり、待ちかまえた試練に存分に奮闘したとおもえる。

  敗れたとはいえ、健闘しての終幕であり、登山家としてのみにくさはない。終命まで氷璧で声をかけ合って、彼等は健康そのものであった。

 この追悼集も、健全で快活であった彼等の横顔を、活字として残しておきたく、月報より遺稿となった文章を抜粋して主体とした。さらに、仲間の遺難に、一山岳会の動きの記録を加えることにした。

  遺稿に共通して感ずることは、彼等が単なる、クライミングアニマルではなく、登山を広く理解していたことである。登攀記録より、エッセーの文章がそれを物語っている。

  石川の「旧道」は、短片の中に鋭い詩心があふれ、歩く中に思索する山男の姿が沸々とうかぶ。

  氷壁に挑むたくましい男の面影よりも、孤独を愛する旅人をしのばせる。

  今城の「横尾にて」は、登山に最も大切な意志の持続が、安易さと妥協して崩れてゆく心のジレンマを、北アルプスに流れる一片の雲に寄せている。

  両者に比して、家庭の柱であった関根は、生活に立脚しての登山のむづかしさを考え、一つ一つの山行を大事にした姿勢がうかがえる。

  「新人としての感想」は、理屈だけの人間になりたくないとした、彼の人間像を浮き彫りにしている。

  登山家の条件として、

  「歩くことを好み、思索することを愛し、且つ本を読む」

  その三つの条件を、彼等は実践を通して、驕ることなく身につけてきていた。

  惜しい山の仲間を失ってしまった。   

(昭和五十一年十二月)

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遺 稿

旧 道

石川文男

  「何ヶ月ぶりかなあ」

  などと考えながら、いつも出端をくじかれそうになる土合駅の長い階段を登って、空を見上げる。

  「ん! ピーカンだ!!」

  空は青黒く、無数の星が白く輝いている。

  センターでカードヘ記入し、一の倉沢出合へ向かう。出合に着く頃には、東の空は白みはじめ、淡い紅にそまっていた。

  広くたんたんとした山道をゆっくりと歩く。静かだ。何もかも……。

  高ぶっていた心も静まり、人の声もしない。自分の足音と、時おり鳴く名も知らぬ鳥の声が、私にはさわがしいほどに聞こえる。

  道端のススキの穂には、早くも秋の気配が感じられる。そして苔むした石垣は、昔を語りかけているかのようだ。

  芝倉沢出合を過ぎると踏み跡こそあるが、草木が生い茂ってヤブコギを強いられる。十分と歩かぬうちに、朝露にぬれて全身ビショヌレである。然し雨のそれとはちがって、何とも気持の良いものである。

  やがて武能沢出合を過ぎてしばらく行くと、新道との分岐点に出る。

  白樺小屋付近で靴をぬいで逆さにする。ジャーとばかり水がこぼれ、川の中でも歩いてきたかの様で思わずため息がでる。

  蓬峠との分岐点を清水峠へ向かう。広くなだらかな道である。静かに歩いているつもりだが、蛇にとってはうるさいのだろう。安眠を妨害されて迷惑そうに、草むらの中へ姿を消してゆく。が、おどかされているのはいつも私の方だ。そんなことが何度か繰返されて、ようやく清水峠に着いた。

  はじめて水筒の水を飲む。

  「まずい」

  芝倉沢でつめた水だが、途中に水場が多かったからだろう。

  空腹を満たしたら、眠気をも満たす結果になってしまった。一時間ほど眠ったであろうか、目がさめたらガスに視界をさえぎられていた。

  だらだらの下り道を、清水に向って歩きだす。足が濡れているせいだろうか、それともしばらく山歩きをしなかったためだろうか、いくらも歩かぬうちに、マメと靴ズレが出来ている。

  「チクショーメ」

  やけっぱちになって歩いたが、清水部落に着くころには足をひきずっていた。

  最終バスに乗りこむと、小さな子が車中のおばさんらしき人に手を振りながら、涙を流していた。焦点のあわぬ目で、ボンヤリと私はその光景を見ている。

  やがて、バスは視線をゆすって発車した。(一九七二)

横尾にて

今城正男

  めざした四峰正面は、おもいもよらぬ積雪にあきらめねばならなかった。横尾谷をヒザまでの重いラッセルで進んでいる時、

  丸山さんから

  「状態が悪いから、あきらめようじやないか」

と言われ

  「そうしますか」

と、すぐ簡単に言ってしまった。

  斜面はゆるくなったが、まだ最低コルより5・6のコルへ見上げる北尾根は長い。

  この重い雪のラッセル、壁についた雪、きのうの横尾谷でしんしんと降る雪のビバーク、別に、これといって我々をここから引きもどすほどのものでもない。自然のふるまいを知らない訳でもない。四峰の登攀意欲もある。しかし、それ以上にどうしても今回登らなければならないといった執念は、もう自分の心の中にはなかったのかもしれない。

  これまで苦労してきたトレールを足ばやに横尾まで一気に下り、横尾の河原のど最中でツェルトをかぶり、食糧の整理などをして、ヒザをかかえてしばらくウトウトする。

  けだるい眼をしながらツェルトの外に顔をだすと、強烈な光がとびこんでくる。横尾の河原に吹く風は、かすかに残っているトレールを消していた。

  泣きづらのような細々とした眼で見上げる屏風は、あいかわらず白い壁からさかんにチリ雪崩を落している。四峰も悪いだろう。

  蝶ヶ岳の稜線は風が強いのか、広がった青空にさかんに雲が流れる。今度はしばらく、雪原を背にウトウトする。

  まあ、いいさ、この横尾の青空を見上げただけでも。ツェルトにもぐり、ラーメンを丸山さんと食う。

(月報1973年8月号)

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一九七一年冬期合宿 新人としての感想

関根保夫

  現代におけるアルピニズムには、金と暇が必要な条件になっているらしい。年間を通し、わずか数日間の登山行為をしたからといって、それだけではアルピニストとはいえない。

  右のアルピニズムを求める者にとっては「山での生活」という時の瀬は必然的に長いものになるだろう。そして彼は自分の求めている山行きをせっせと行うために満足のいく装備をそろえねばならず、かなりの額の金を必要とする。

  ことに冬山に関するかぎり、充分な装備と余裕のある日程は登山計画の常識となっている。しかし、山を目差す多くの若者にとって、この金と暇はむずかしい問題である。

  会では新人であるけれど、私は社会に出てすでに五年、もはや完全な農夫になりきっている私にとって、家庭での責任を双肩に担っている以上、一週間から十日間の山行き合宿に参加することは、多くの抵抗もあり、非常な決意が必要だった。

  この冬は、上越支部独自の計画で北鎌尾根が予定され、新人の私も一応参加するはずであったが、いろいろな事情で、私一人東京支部の合宿に参加させてもらうことになった。

  それで私なりに思いつめていた「冬の合宿」は、上越谷川連峰縦走ということになった。

  谷川岳といえば、地元であるだけに、まず全行程の参加がしたいと思った。しかし、それには九日問の休暇が必要だ。以前からある程度覚悟はしていたものの、現在の私にはそんな長期間の自由はなかった。農作業は山ほどあった。山への憧れと、家庭や仕事のことが頭の中でぐるぐるまわった。それがおさまった時、脳裏に鮮な雪の谷川連峰があった。

  12月28日(快晴)

  土合駅で合流、総員九名である。駅の待合室で仮眠、石黒チーフリーダーはベンチに横になったとたん、豪快ないびきをかきだす。その余裕は山への自信だろうか!。

  入山前の緊張、初めての冬山への不安、憧れと期待、いろいろなことが頭をよぎる。とにかく、初めての長い冬山の生活が始まるのだ。

  白ヶ門への急な登りは、四月の新人歓迎山行きで経験ずみである。会へ入って初めての山行きが、白ヶ門であった。そして、一年の集成である冬山は、白ヶ門の登りから始った。何か因縁のようなものを感ずる。

  取り付いて、わずかなピッチでアイゼンを着用する。いつもながら山行き初日はバテ気味になる。荷の重いこともあるが、心の整理とトレーニング不足は歴然として重くのしかかる。

  先行パーティのトレースがあるにもかかわらず、白ヶ門の登りに六時間余りも費し、PM15:10、笠ケ岳附近の幕営地に着く。

  12月29日(曇のち風雪)

  一気に肩の小屋までと、意気揚々出発したが、朝日岳を降りるころより天候悪化、風雪強く視界まったく不良のため行動中止となる。雪面を掘り下げてブロックを切り、天幕設営に汗を流す。大キジを打つのに一大決心を要す。これも初めての経験である。

  12月30日(快晴)

  アイゼンにワカンジキを併用して出発。ジャンクションピークで石黒チーフから周囲の山々の説明を聞く。遠く西の空には、北アルプスが白く輝いている。清水峠では国鉄送電線監視所の人達が、白銀の世界でスキーを楽しんでいた。

  豪雪で知られるこの地にしては、比較的雪がしまり、楽に歩けた。蓬峠でワカンジキをはずす。武能岳の登りはきつく、茂倉岳手前の幕営地に着いた時はもう暗くなりはじめていた。新人は皆バテにバテて、設営はひどくつらかった。

  12月31日(風雪)

  停滞、行動中の辛さは、停滞日の休息をあこがれさせたが、実際、停滞日の時の瀬は思いの外、所在がなく動きたくなるから不思議だ。晩に甘酒、年越しのそばをいただく。

  1月1日(風雪)

  下界では記念すべき日であるが、山にあっては、昨日の続きであり、明日のためにしか今日はない。その今日もまた一日停滞であろうか。昨日、西黒尾根より入山予定のB隊はどうしているだろうか?。北アルプス、北鎌尾根の岡部さん達も、天幕の中にとじこめられているだろうか?

  午後、風雪も弱まり、14:00出発する。約30分程で茂倉岳の頂へ着いたが、視界あいかわらず不良で行動打ち切り、時間もあるので雪洞を掘ることになる。皆初めてのことで大喜びだ。石黒式?九人用、茂倉山頂雪洞完成!! 一日はやい初夢を見よう。

  1月2日(風雪)

  さすがに雪洞生活はぬれる。シュラフは内と外からとでビショビショになってしまう。でも寒くはなかった。AM11:00、チーフリーダーの判断で出発となる。目標はB隊が待機している肩の小屋だ。きびしい風雪の中での行動、これが冬山の本当の姿なのだ。飛雪が容赦なく目に入り、前がよく見えない。トップの石黒チーフを見失うまいと必死であった。三時間の緊張の末、やっと肩の小屋に着いた。

  小屋から少し離れた気象用の百葉箱を小屋の一部とまちがえて、バンザイ!!を叫んだら、石黒チーフから

  「小屋は、まだだ」

と大声でどなられてしまった。

  小屋には、南先輩を主とするB隊がいて、私達を暖く迎えてくれた。小屋はたちまち満員になってふくれあがった。夏合宿以来の九州勢もいて話がはずむ。夜、小屋の外で天幕を張っていた、前橋山岳会の人達が遊びに来る。

  1月3日(晴)

  今日から南先輩と原が合流して11名の大所帯となる。全員元気で、最初から早いピッチですすむ。

  白一色の世界にひらける展望、エビのシッポ、小気味よいアイゼンのきしむ音、快適そのものである。肩の小屋を後にして、七時間後には平標山に着いてしまった。

  動きたくても動けなかった日、数百メートルしか行動できなかった日、そしてこんなにも歩けた日、冬山の色々な要素をさまぎまと見せつけられた。平標の山頂には、C隊安達さん達の手紙があった。ビニール袋につつまれ、石でしっかりおさえられた紙片に、「長い縦走、御苦労さん」

と、したためられてあった。

  長い行程であったが、完全縦走できた喜びで、苦しかったことなど忘れていた。全員で鵬翔エールを交わす。

  明日は多少の悪天候でも下山できるだろう。一度に気がゆるみ、平標小屋内の生活がすこしだらける。すかさず、石黒チーフからカミナリを落とされる。まだ合宿は終っていない。気を引きしめなければならない。

  1月4日(晴)

  AM7:30、小屋をあとにする。ワカンジキの着け方を変えたら、非常に不安定になって歩きずらい。早く「一本、休憩」の声がかからないかと思う。三国山附近で写真をとる。バックの稜線は平標から仙ノ倉、万太郎と続き、谷川岳耳二つははるかその彼方であった。たしかに自分達は、この白く輝く稜線を歩いてきたのに、それが信じられないほど、白銀の山稜は圧巻であった。

  いつの日か、再びこのコースを辿ることを心に誓い別れを告げる。三国のトンネルはもうすぐそこだ。私にとって、初めての冬山合宿は終った。

  八日間の生活の中で多くのものを学んだ。そして一つの確信をもつことが出来た。それは……。自分にとって「登山」とは何か?趣味ではない。それだけは確かだった。自分は何故に山へ登るのか、それが、これからの課題である。(了)

追悼文、遺稿は『滝沢リッジ−亡き岳友に捧ぐ』(昭和52年9月刊)より転載したものです。

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