鎮 魂 譜

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高島誠会員

18期

平成5年8月12日没

ビッグ・ホワイト・ピーク登頂

英文学者、オーディオ評論家急逝す


高島誠撮影作品

西穂高縦走

西穂高縦走

西穂高AC

西穂高AC

滝谷UB 滝谷1B 滝谷2A

滝 谷

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遺 稿

雪と氷の中へ  山の鬼と魔女について

  オリンピックで期待していたものに、ニチボーのバレーボールがある。先日それをみて来て、すくなからず考えさせられた。

  あの眼前に展開された生々しい俊敏果敢な動きは、およそ私が「女性」という肉体に想像していた可能性を絶するものすごいものだった。アプリオリに考えていた女性に対する美感、たとえばあのマイヨールの地中海の春を思わせるような彫刻に表象されているものと全く異なった、それは何か苛酷でダイナミックな試練を通過しなければ存在しえない合理的な美であった。

  動作というものが人間の組み合わせの形で、それも激しいスピ−ドをもって行なわれる時、並みの頭脳では追従し得ない肉体が先行し、先行する肉体を計算する瞬時に動作する頭脳がさわやかに覚めているといったものであった。

  オリンピックが終了した今日のわれわれは、ずいぶんこういった感動を記憶しているのではないだろうか。だから事はバレーだけではけっしてないのだけれど、とにかくニチボーのそれはその訓練法が世に知られていたので、この感動が私には際立っていたのであろう。

  世人は上手ということに「好き」ということを結びつける。六人の女性が魔女というような恐ろしい、ちょっとユーモラスですらある名前を頂戴し、結婚もしないでバレーにうちこむと、余程好きなんだろうなとか、すごい努力をしたんだろうなとか考えてそれで納得しがちである。

  しかし努力の量とか、好む量とかは計量するすべがないからどうにもならないが、努力や愛好の程度なら他の多くの選手たちも似ているのではないか。毎日夜の十一時まで汗にまみれ苦しんでいる人なら他チームにだってあることだろう。

  問題はもう一つ奥にある。

  大松監督との出会いである。

  世人は「鬼の大松」と呼ぶらしい。大松という人がどういう人物なのかぼくは知らない。ただ、鬼と魔女の出会いに決定的な意味をみるだけだ。平たく言えば、魔女たちがどんなにバレーを愛していたとしても鬼の存在なしには、われわれの眼前に展開されたあの「美」はありえなかったということなのである。

  もしかすると彼女たちにとってバレーとは鬼とイコールのもので、厳しいのは鬼ではなくて一人間に対する女性たちの素直さ、昔から日本にあった女性の性順さとはかなり異質の、合理的過酷さを担った素直さについてである。

  先月の「岳人」二〇〇号で、諏訪多栄蔵氏はそのリーダー論抄で、リーダーの人選・資格について、健康・人格・経験・根性・指導性・判断力と決断力・実行力をその因子にあげ、このようなリーダーを求めることはむずかしいことかも知れないと述べておられる。どうやったら、よいリーダーに巡り会えるのかについて諏訪多氏は書いて下さらなかったので残念であるけれど、あの文章は、自称リーダーたちへの警鐘となって響いている。

  青い私などが発言するのは恥ずかしいことだが、周知のように「山は好きだが、厳しい訓練などご免こうむり、自分たちだけで充分腕は磨ける」という若者もたしかに多い。しかし山における真実の「鬼」を求めて探しあぐねている将来の「魔女」もまた多いのではないだろうか。

  登山を愛し、登山にうちこむ若い人たちは非常に多いけれども、どこの大学でも山岳部よりもワンダーフォーゲル部の方が問題なく部員数で上だし、更に「自由」を愛し、適当に山へ出かける人たちはもっと数的に上回る。一人でなければ自我を喪失し、個性を殺してしまうと思っている自称単独行者、多勢で行けば安全だろうと神頼みする大山岳会員、選挙されてやむなく引受けた民主主義的リーダー、権力に物を言わせ、物理的にシゴキ傷害罪を犯す上級生リーダー、まことにこうしたケースは枚挙に暇がない。

  しかしはっきりしでいることは、そこには「真の鬼」は存在していないということである。鬼がいなければ、魔女は存在しえないのは当然であるけれども、幸か不幸か、登山には他スポーツのように観衆の前での勝負という厳しさが無いから、彼らは得意になって魔女の装いを身にまとっていられる。美人らしくみせかけた不美人の幸福がぞろぞろと山の銀座を歩いているわけである。

  一方、鬼との出会いを求めている若い人たちについて思うとき、私はその人たちにその出会いの宿命に似た意味をどうやって伝えたらよいのだろう。

  実は先日、私の所属している山岳会の新人が深夜訪ねてきて、入会以来訓練を受けてきたが、合宿になれば朝から晩まで夢中になって動き、心ゆくまで先輩たちと語り合うゆとりというものがない。技術的には得るところが多くとも精神的に山に対して向上しえない、と不満を訴えた。そうした不満ゆえに退会した新人もいたというのである。

  しかし、私は冬山合宿にこそ、この新人の求めるもの総てがあると考えている。登山という活動によらなければ陶冶されね精神が美しい輝きをみせるのは冬山である。新人たちが入会当初求めるような種類の人格なら、社会には無数にあろう。まず、冬山合宿に入るだけの基本を無雪期に、ほとんど有無をいわせずみっちりと叩きこむこと、その期間新人は何も言わず、山への願いだけを頼りに生きのびることである。

  私なども例に洩れず、四月に入会してからずいぶん迷ったものだった。ただ先輩たちの言うことをきき動くのが精一杯で、よく生きのびたと思うほどだったが、その間やはり個性とか自我などについて苦しみ通しであった。

  最初の冬山は遠見尾根であった。もちろん入会前、大学時代も自分勝手な冬山登山をやったが、今思えばそんな登山ほ登山に人らないとしみじみ思っている。

  M先輩がチーフリーダーであった。当時の遠見尾根のことで、登りのラッセル、雪洞建設すべてが苦痛であった。新人の私はとりわけ自分にのみ命令されると思いがちの負担にうめいて恨めしかった。

  猛吹雪がテントを揺るがし、内張りもなく、エアマットもない冷凍生活のうち、いつも落ち着き、ゆうゆうとしているチーフリーダーの微笑、そして「人一倍つらい仕事を命ぜられた時、誇りと歓びに満ちてそれを遂行できる素直さが身についた時、初めて一人前の登山家なのだ」と私の心を見透かしたような言葉、皆がうつらうつらと大船を漕いでいるのに雪洞の歴史を語り続けたり、夜間小用に出ても、必ずテントの張り綱を点検して入ってくる余裕、すべてが私には驚きであった。

  それはいわば判断のカタマリともいえた。雪の種類、デブリ発生地点、天候、テント周辺の積雪の仕方、そこにはM先輩一個人の経験から更にさかのぼれる歴史があった。

  登頂を終え、明朝下山という夕、私はカメラを持ってテントの外へ出た。地吹雪の彼方にカクネ里の北壁があつた。まさにあったというにふさわしい姿で、タ闇近いせいか壁は純白、そしてその双耳峯は残照で黄金の雪煙をたなびかせていた。

  ふと気がつくと、M先輩がじっとその大氷壁をみつくして立っていた。ヤッケがばたばたはためくだけで、先輩は身動きもしなかった。私はこのとき初めて「山を観る」登山家の姿をみる思いだった。このリーダーと山に登り、心ゆくまでしごかれたいと願った。いまだに美しい「魔女」たりえぬ私は恥ずかしい限りであるが、たしかにあれは一つの出会いであったと思っている。

  あれから十年か。また冬の山がやってくる。その間ぼくはどのくらい先輩たちの話を聴かされてきたことか。そしてその先輩たちの話に、ほくの十年をつけ加えてぼくは今、後輩たちに語っている。いわく「昔はオーバーシューズなんて無くて、皆で布を靴に巻きつけてその巻き方も研究しあったものだそうだよ」とか「風の少ないところはテントが埋まるからというので、風当たりのよい所へテントを張ることを始めた冬は何年頃だ」とか。

  N先輩はアイデアの王様であった。テントにビニロン生地を使用し、更に底と入口にナイロンを利用したり、チョゴリザ型から、ヒマラヤ遠征隊用にずいぶん新型をつくり、今や押しも押されもしないテントの権威になっている。自らヒマラヤに行く前に、すでにヒマラヤにおけるテントペグなどを考案していた。

  二度目の遠征では、その酷薄な生活条件と人の和を考え、テントの内張りの奥を若草色にして、入口から冷えきってテントに飛びこんで来る人の心をやわらげたものである。ラジオで聴く音楽は、アタック直前はクラシックでない方がよいが、登頂の後はクラシックなど効果的であるなどというのも凡庸なリーダーの口にしえぬものであった。ビッグホワイトピーク登頂後、BBCの流すモーツァルトを高度六〇〇〇メートルで聴いた感動を私は今でも忘れられない。

  そういえば、登頂後若い連中は食欲もなくシュラーフにもぐりこんでいるのに、N先輩は一人吹雪の中にでて、およそ水になりにくい粉雪を集め、隊員のためにスープを作ってくれたこともあった。自分も頂上に立ってきたのである。酸素欠乏の地の作業である。とても普通では考えられぬ強さであったけれども、それよりその優しい心にわれわれは降参したのであった。ここにも鬼と魔女がいるのではないか。

  山を始めたばかりの頃は、たいていの人は自分と同じような傾向の人とパーティを組みたいものらしい。恐ろしい先輩などと一緒に行って休むに休めず、食いたいものを食わずではつまらないと思うようである。しかし、自分と同じ好み、或いは個性といったようなものをもつ人と山行することは、常に一人言を言っているようなものである。いつも自分の感動に裏づけがあって心地よいし、その友には親しみを覚えるにちがいない。

  だが、冬山のように条件が厳しくなり、自分と闘う機会が増してくると、闘うべき自己と同じ自己がいつもくっついていることに苦痛を覚えてくるのである。そこにはエゴのむきだす可能性がいや増してくる。

  われわれのヒマラヤ隊が稀にみるほど友情に満ち、ハーモニィに恵まれていたのは決して偶然ではない。八人の侍、よくもまあ一人一人変わった奴が集まったものだとあきれるほど、われわれはよい意味で個性的だった。だから、厳しい山になればなるほど、人は個性的にならなければ成功しないし、パーティシップの内部で、パーティの成功のために果たすことが実は個性的だっていうことなんだねえと、その夜、私はその悩み多き新人に語ったのだった。(昭和43年)

(編者注 文中のM先輩は真鍋祐輔会員(9期)、N先輩は中野満会員(4期)のこと)


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