一ノ倉回想
森田達雄
悪夢のような戦争も終わりを告げて既に一年、岳友も大分還って来た。
心待ちにしていた関根はセレベスから復員し、消息の判らなかった宮井は最近ひょっこり会社へ顔を出した。二人は共に私にとって無二のザイル仲間である。
戦時中は山へ出掛けるのに気が引けたものだが、終戦後は大ぴらに行けるようになったと思ったら、こんどは食糧事情やら交通状態が悪いため、思うように行くことができない始末。毎年欠かさずに入っていた一ノ倉も、今年は一遍も覗いたことがない。と同時に想い出されるのは、柴田、関根、宮井、また今は亡き松尾、未復員の中村等と共にしたかつての山歩きである。
最初の一ノ倉
昭和十七年八月、登歩渓流会著「谷川岳」を片手に私が初めて一ノ倉に足を踏み入れたのが第四ルンゼだった。この時のパーティは北支で戦死した松尾、今なお比島で消息不明の中村、北支へ行って消息のない張り切りガール野崎の四人であった。
詰めの草付で豪雨にあい、ようやく霧の一ノ倉岳に着いた時に感じた嬉しさは、その後の三十回近い一ノ倉行のどのルートも及ばない。
五ルンゼ出合の巨岩のチムニー状を六ルンゼと勘違いし、四ルンゼを五ルンゼと思い込んでいたのもこの時であった。
雨の一ノ倉
最初の一ノ倉第四ルンゼの翌日のこと、天候は余り良好とはいえなかったが、早く稜線へ出られる点から、水上、松尾と三人で一ノ沢へ向かった。
水の殆ど涸れたチムニー滝を快適に攀じ、例の洞穴のある悪い滝を越した頃から天候は崩れ出し、忽ちのうちに豪雨となってしまった。
暫くすれば止むだろうという考えから、傍の岩蔭に身をひそめ、雨宿りをしていたが依然止まず、ついに水量は膝までも増して来た。雨と続く上の滝のしぶきで全身びしょ濡れになり、寒さと疲労が襲いかかり、山に於ける最大危機に直面した。
物凄い水量のため、前進も後退も出来なくなってしまった。三人合議の結果、意を決し右岸のオーバーハングの壁を松尾トップでショルダーで乗越し、続く水に濡れて不安定な草付混じりの岩を突破して尾根の灌木帯に這い上がることができた。この時ほど藪の有り難さをつくづく味わったことはなく、上越の山行では初めてで最後ではなかろうか。
危地を脱して直下を見下ろせば、谷全体一本の奔流と化している。霧の合間からチラッと見えた旧道出合のテントを目掛け、物凄い藪も厭わず遮二無二駆け降りた。
出合に着いて奥の方を見れば滝沢は勿論銀蛇と化し、奥壁一面白布を懸けたように水が落下しているではないか。
雨の一ノ倉の恐ろしさを身を以て体験した一日であった。ああ凄惨、雨の一ノ倉。
一ノ倉単独行
一ノ倉に入りだして一年、昭和十八年の六月初旬、積雪期の一ノ倉の偵察かたがた、第五ルンゼに入ったことがある。
前日宮井ほか一名と本谷バンドまで登ったが、濃霧のため止むなくバック。翌日快晴に恵まれ単身一ノ倉に入った。
この日は本谷を登るつもりであったが、バンドで他のパーティに逢い、本谷の雪渓状態悪く引き返すということを聞き、四月宮井と国境稜線から眺めた五ルンゼの易しそうだったのを思い出し、予定を変更し五ルンゼに入る。
出発が遅かったので時間は既に十一時を過ぎている。滝沢上部あたりから見る五ルンゼは案外傾斜が緩いと思ったが、雪渓続きの今は大分急だ。然も正午近くなので雪が緩みアイゼンが良く効かず、ピッケルを打ち込んで四つん這いになって登るという始末である。ここでスリップすれば股下から不気味に顔をのぞかせている滝沢下の雪渓まで飛ぶこと必至である。
後から上がってきた二人連れのパーティは引き返したのか姿を見せず、真にたった一人の一ノ倉のようである。
時折落下する奥壁、滝沢スラヴからのブロックの崩潰に驚かされながらも、心を落ち着け慎重にアルバイトを続ければ、最後の二股で雪渓は途切れて滝が露出している。
草鞋に履き更え、滝を攀じて左俣に入れば、雪も消え傾斜の緩い岩盤が続いていて、やっと緊張から解放され、石楠花の花咲く一ノ倉尾根を行く私の身体は喜びに満ちていた。
一ノ倉の落石
昭和十八年七月初旬、中村ほか一名が奥壁中央壁を登攀中、スリップにより撃退された際に残して来たザイルを取りに、関根、宮井を誘って出掛けた。
中村の雪辱戦でもあるので、三人は張り切って登って行った。登攀は順調に進み、とある地点まで登った時、突如として物凄い轟音と共に上部から大小無数の自然落石が我々三人に襲い掛かった。
「アッ」という隙もなくトップの関根が先ずやられ、草付混じりのクラック状を滑り始めた。所は名にし負う一ノ倉の奥壁とて確実にジッヘルできるテラスは無く、私と宮井は自分達の危険も忘れ、あわてて傍の小さな岩の出端にザイルを捲きつけた。とたんに宮井も肩に小石を受け、私のザックにも音を立てて命中した。
幸いにも関根は草付の窪みで止まり、腕を痛めたのか顔色真青になり盛んに苦痛を訴える。落石は一回で終わり、我々の方は何でもないので、直ちに関根を介抱した。
腕を逆にしただけでこと無きを得、暫時の休憩の後再び登攀を続けることができたが、この時の三人の頭の中に期せずして浮かんだのは、ザイルに結ばれて全身骨折の三人が、本谷の雪渓を真紅に染めて横たわっている姿であった。
宿望の奥壁を攀じることのできたのと同時に、自然落石の恐ろしさを知ったのである。
一ノ倉のスリップ
昭和十八年九月の谷川岳東面集中の二日前、気の合ったザイル仲間宮井と一ノ倉に於けるルンゼ中の最悪場、第六ルンゼ左俣を攻撃した時のことである。
何日か前一ノ倉に入り消息を絶った三人を捜索がてら他の仲間と共に第六ルンゼへ向かった。バンドで腹拵えの後他の班と別れる。
狭い快適な岩の階段を軽くパスし、第一の難関である所の二十米のチムニーに直面した。先ず私がトップでチムニーのダイレクト登攀を試みたが成らず、さらばとて右手前の垂直の壁にルートを選んだ。
よく見ると下向きの僅かな縦リスに打ち残されたハーケンがあるので、少しぶら下がってみたが抜けそうもないので、カラビナをかけザイルを通してぐっと右に廻り込んだ途端、「アッ」という間もあらばこそ五米ばかり下の岩の出っ張りに落下した。
運よく下でジッヘルしていた宮井に肩をつかまれ無事に済んだが、悪場を一刻も早く突破しようと焦って、慎重を欠いた当然の結果であった。
変わって宮井がトップになり、目的の左俣に入り上部の悪場のトラバースでも宮井のお陰で難なく成功し、凱歌を挙げたことはいうまでもない。
集中登山の思い出
昭和十八年九月二十六日、それは忘れもしない。我等の仲間五十余名に依って谷川岳東面集中登攀がものの見事に完成された日である。
その日の私の受持は二ノ沢右俣で、同行者は中野、山内の二人。みなその道の猛者?ばかりなので気も軽く、その意気は既に谷川岳を呑んでいた。
ヒョングリ滝よりトラバースルートに入り、灌木を出た所で先発班が烏帽子のスラヴを登って行くのを見、応答を交わして我々は二ノ沢に入った。
水に濡れた逆層のスラヴ約二百米登って三俣下に着く。大滝の右手前のカンテから取り付き、垂直の草付を登って右俣へ入る。小さな短いゴルヂュを抜けると、行く手は広々としたスラヴとなる。
前日の雨のため水量の多いスラヴを四つん這いになり、野沢小唄でチャラチャラと、手に足に水を浴びながらグングン登って行ったら、何時の間にか右上の悪いバットレスへ突き上げるリッヂに這い上がりびっくり仰天、慌てて元へ戻る。
この沢は全体がスラヴの連続のため、単純ではあるが、最も長距離なクライムを楽しむことができるが、右へ入ると悪くなるので気を付けないといけない。
やがて単調なスラヴも終わりを告げ、碧空をバックに最後のバットレスが展開する。然し今日はパーティも良いので各個にモリモリ攀じ、軽く片付けて稜線に出る。
それから五分の後には国境稜線へ出ることができた。時に十一時半、トマの耳には先着の西黒沢班、マチガ沢班、幽ノ沢班が我々三人を迎えてくれた。
私の山行中、最も嬉しかった中の一日である。
烏帽子沢奥壁登攀
一ノ倉へ入る度毎に、何時かは登りたいと思っていた烏帽子の奥壁を登る日、昭和十九年六月二十二日はとうとうやって来た。
何回も偵察を重ねて、ルートも判り、自信満々の三人、即ち小川、碓井、私は前日の最後の偵察通り、スラヴの詰めの中央部から取り付いた。
最初のピッチは傾斜こそ急であったが、適当なホールドがあったので、難無く上のテラスに着けたが、その上の垂直の草付が曲者である。先に登ったS会のK氏一行は、草付のバンドを左へトラバースして、この最初の悪場を脱している。我々は飽くまで直登を諦めず、私がトップで漸くこの難関を乗り切った。
然し真の悪場は、その上に我々を威嚇するかの如くのしかかっている悪相のチムニーであって、両壁は外に向かって開き、オーバーハングの上の出口が狭く、直登不可能の感が深い。S会のK氏一行はチムニーの基部から右壁の僅かに岩にくっついているに過ぎないような草付のバンドをトラバースして上に出ている。
我々もチムニーの突破困難との先入感があったので、チムニー直登を放棄し、バンドをトラバースをすることにした。
一ノ倉の悪場にはハーケンの効かない所が少なくない。ここ烏帽子の奥壁もその最大悪場に於いて、頼みのハーケンが歌ってくれないのだ。
ジッヘルを完璧にするため、ハーケンを一本打ち込み、勇気を奮い起こし、独特のシングルザイルによるザイルトラバースを応用して横断はじめる。さすがに悪く身体は後に引かれ気味であったが、案外調子が良く進む。
横断を終わり、回り込んだ所のテラスも憩うには余りにも狭すぎて休む暇もない。ここでもハーケンを二本打ったが、一本は一糎位入っただけだし、一本はリスが狭くて半分位から曲がってしまった。ふと下を見れば、ぶん切れて先程登って来た烏帽子のスラヴが恐怖をそそる。
真上に続く垂直気味のホールドの細かい十米ばかりの壁を、死に物狂いで乗り切れば、漸く傾斜は落ちて先刻のチムニーの上部に立つことができた。ザイルはちょうど三十米一杯延び切っており、やはり前々からの予想通り、このチムニーの突破がこの壁の登攀のキーポイントであった。アンザイレンを解いて右上のルンゼに入り、二十米程登って右壁に出る。
楽なフェースを登攀中、私が不注意に落とした頭大の石が小川の顔に当たった。小川はバランスを崩して落ちかかったが、運よくすぐ下にいた碓井の必死のヂッヘルにより転落を免れた。傷は擦過傷だけで大したこともなく、それからは小川がトップとなり、真上に見えて来た烏帽子岩を目指して登攀は順調に進んで行った。
二ノ沢本谷
昭和十八年の九月中旬、秋池、柴田、碓井など会員八名と初めて二ノ沢右俣へ入ったことがある。その時、大滝展望台から眺めた本谷の大滝の威容にすっかり魅了されてしまった。
その後、東面集中の折に再びその勇姿に接するに及び、是が非でも登りたいと思うようになったが、第四ルンゼに於いて発見された一人の遭難者の遺体引き揚げや他の二人の捜索のため、十月の日曜をことごとく潰されて、登攀は一時断念せざるを得なかった。
年が変わって十九年の七月一日、烏帽子の奥壁を陥れた余勢を駆って二ノ沢へ入って行った。この時の同行者は杉山と中野の二人。
本谷は幅二間位のスラヴの上を水が音もなく流れていた。始めのうちは何の悪場もなく、この奥に悪場があるとは思えないくらい和やかな相をしている。
中に入るに随い、両岸は次第に高く、かつ狭まって完全なゴルヂュになった。傾斜も五十度にも及び、両壁が覆い被さって薄暗い感じのする所の水苔が付いて滑り易いスラブを慎重に登る。
ゴルヂュを抜けると左から急峻なルンゼに入り、傾斜も緩くなって前方に待望の大滝が顔を現す。右俣から眺めた時はなかなか立派であったが、下から見上げる大滝の何と貧弱なことよ。全体がナメ状で下部の傾斜が緩いため、高さも二十米位にしか見えない。張り切っていた三人はすっかり拍子抜けしてしまった。
一番若い中野にトップを任せ、杉山と私はトップのザイルに引っ張り上げられたが、落ち口の手前のハングよりも、中段のテラスからの取付点が悪いと思った。バランスを要する所である。
大滝を越えると両岸も低くなり、傾斜の緩いスラヴの連続となって簡単に稜線へ出ることができたが、一ノ倉の中でこれ程綺麗なルンゼは何処にもないであろうと思われる程、この本谷の美しく磨かれたスラヴの連続は我々三人を有頂天にさせた。
その後、八月中旬、再び若い仲間五人ばかりでここを訪れたが、皆その美しさに感嘆の声を放っていた。
(「鵬翔」六十四号(昭和二十一年十月一日発行)同六十五号(十一月一日発行)掲載)
独りだけの幕岩
森田達雄
昭和19年7月15日、若い小川君とCフェースを登った。そして同年10月15日は中野君とBルンゼに入り、Aフェース南稜とアタックすることすでに2回、幕岩に対する情熱は益々燃ゆるばかりであった。
積雪期の登攀の可能性があるBルンゼにアタックすべく、昭和21年3月中旬に向かったが果さず、4月上旬は行けず、4月28日今度こそはと張り切って出かける。
前夜、水上町の中島喜代志さん宅に泊り、朝6時に出発する。二俣手前の渡渉でヘマをやり、Bルンゼ入口着9時、直ちに登攀にかかる。
第一スラブの約45度ぐらいの腐った雪渓はアイゼンがよく効かない。第二スラブは雪渓が切れて岩の上を雪解けの水が流れている。アイゼンのまま、右の草付きに沿ってガリガリと強引に登る。第二スラブの上からまた50〜60度の雪渓となっているが、第三スラブの最上部が崩れかかり、今にもブロックが滑り出しそうに見えるので、Aフェース寄りの薮に沿って登った。
Bルンゼの右俣は浅く狭いせいか、行きがべっとりついており、積雪期ならば右俣のほうが雪崩の危険少なく、かつ、楽に登れそうだ。雪渓は第三スラブの上で跡切れ、上に細いルンゼが現れる。左俣はすでに雪が落ち、詰めのBフェース南壁が黒々として頭上にのしかかっている。
両岸が薮に覆われた狭いルンゼをアイゼンのまま少し登ってみたが、狭苦しい上に、笹薮がわずらわしいので、右のAフェース南綾に逃げた。
そこから見たルンゼの上方は、またもや狭い雪渓が続いている。途中二ヶ所ほど切れて、キレット尾根に突き上げていた。登り甲斐がなさそうなので、そのまま南綾を行くことに決め、アイゼンと靴を脱ぐ。
わらじは置いてきたので、靴下のまま登ったが、急峻な薮付リッジの上にザックが重くなり、靴下がずれてきて弱った。途中、一昨年登ったときに置いた中野君の名刺を見つけ、単独行の寂しさを紛らわす。
Aフェースの頭には12時ごろついた。Bフェースの北壁を偵察したが、到底登れそうにも見えない。いよいよキレット尾根だ。脚下のオジカ沢は雪渓続きで至極簡単そうに見える。十分気を付けてアタックする。
一昨年のときもトップで登っているので気が楽だ。しかし、今日は荷物が重く、靴下がずれるのには閉口した。今日の登攀中一番緊張したところだ。左の笹薮の急斜面に今にも落ちそうなブロックが引っ掛かっており、もしルンゼを登攀していたらと思うとゾッとした。幕岩の頭に出たのが12時50分。もう悪場は終わったのだ。
今まで曇っていた天候は次第に回復し、青空が出てきた。広々としたオジカ沢の源頭の彼方にトマの耳、オキの耳が顔を出し、思わず「ヤナチャー」が出る。
残雪を頬張りながら傾斜の落ちた幕岩尾根を行けば、まもなく国境稜線へ飛び出した。 回復した天候は今日の登攀を祝福するかのごとく、360度の展望を楽しませてくれる。
昭和19年9月、蛭間君と赤谷川からエビス大黒の頭に出て毛渡沢に下降したが、あと30分ぐらいで小屋(後の群大ヒュッテ)に着けるところで真っ暗となった。
ブナの林の中のくぼんだ根元に集まった分厚い落葉をその夜のしとねに快適な夜を過ごしたのが初めてで、その後は一回も越後側へが入っていない。
久方ぶりに見る仙之倉山、万太郎山は非常に懐かしい。今年こそ再度訪れてみようなどと、一人で楽しい空想をしながら、暖かい春の日差しを浴びて少しの間伸びる。
天候良し、展望もまた良し、一人だけでは勿体ない。仲間が一緒ならどんなに良かったかとの思いが馳せる。
帰路はオジカ沢だ。グリセードでと思ったが、相当な傾斜なので慎重を期し、アイゼンのままザックザックと下り始めた。瞬くうちに大ナメ滝だ。一ヶ所切れて滝が出ているので少し右に廻り、僅か下ればまたチムニー滝で切れている。
雪渓の真中に穴が開いており、雪渓通しに下るには危ないので、左に大きく捲くことにする。雪渓になった小沢のようなところを二つトラバースし、薮に入って下の雪渓に降り立つ。丁度大滝の下に出ることができた。
仰ぎ見る幕岩の正面岩壁はすこぶる威圧的に見え、登攀は不可能のようだ。しかし、真中のリッジとAフェース南綾の薮付リッジに挟まれた壁は登攀可能と思う。
昭和19年10月8日、日本山嶺倶楽部の長越氏と河鹿岳会友会の小川氏の二人のパーティが、Bルンゼ右俣から登ったというのは、この壁ではなかろうか。Bルンゼ右俣からであるから、Aフェースの一部であると思うが、これは下から登るのが完登で相当困難と思われる。
後日のアタックを約し、傾斜の落ちた雪渓をピッケルを振りながらトントコ降りれば、たちまちオジカ沢の出合いだ。渡渉して対岸に移り、二俣の天幕場へ這い上がる。朝、簡単に渡れた倒木が水を被り、東岸の高みをずっと下まで捲いたが、落ち葉にスキー靴が馴染まず、思わぬところでアルバイトだった。
牛首の辺りから小雨に降られたが、谷川温泉へ入るころは止んでしまった。水上へは6時45分ごろ着くことができた。
(記録)昭和21年4月28日 薄曇り後晴 パーティ 森田単独
(タイム) 水上中島宅(6:00)二俣(8:30)Bルンゼ入口(9:00)雪渓終了(10:15)小さいルンゼ(10:30)南綾の一部(11:00)Aフェースの頭(12:00)キレット尾根(0:30)幕岩尾根(0:50)国境稜線(1:20〜2:00)オジカ沢下り口(2:20)チムニー滝(2:55)大滝下(3:15)オジカ沢出合い(3:30)二俣天幕場(4:00)牛首(4:50)水上中島宅(6:45)
(注)この山行の午前中は、時計が終始止まり、直し直ししたので、水上に着いたときは約2時間進んでいた。タイムはそれによって修正したもので、確実とは言い難く、大体のタイムである。
この登攀中、南綾の一部とキレット尾根まで登攀の印に名刺を置いたが、記載したタイムは約2時間の差がある訳である。
なお、この登攀は単に4月中に登ったというだけで、雪が少なく、上のルンゼも完登せずに南綾を登っているので、積雪期というようり、むしろ、残雪期の登攀であった。
(以上、昭和21年6月1日発行の会報60号による)
(感想)
「3月中旬に向かったが果さず」とはなぜなのか、当時の会報57号がないので、今になっては思い出せない。勿論、同行者が誰であったかも。多分、天候が悪かったのではないか、または積雪直後でラッセルがきつく、かつ、雪崩の出るおそれがあったのかもしれない。
後から考えると、そのとき天候、積雪の状態が良好であったら、おそらくBルンゼ直登、またはAフェース南綾のいずれかの登攀がなされていたと思う。これも運命のなせる業かも知れない。
また、「4月上旬(3月31日〜4月2日)は行けず」とはなぜだったのかも、今になっては思い出せない。
反面、5月21日〜24日は、高橋益江さんが計画した芝倉沢スキー(その報告は会報59号(21年5月)にあり)に小生だけが同行している。天候が定まりかけたお彼岸のこの間、同行者がいれば幕岩に向かっていたと思うが、同行者が得られなかったため、「あまり無理しなさんな、益江ちゃんのお守りでもしなさい」という天の啓示?があり、スキーに行ったとしか考えられない。
(スキー靴とアイゼン)
当時、アイゼンはスキー靴に合わせていたので、ナーゲル(鋲靴)に着けるわけにはいかなかった。もう一つ、アイゼンがあれば良いが、財政上、許されなかったと思う。靴下で登るというみっともない仕儀となったことを反省する。昭和18年6月7日の一ノ倉沢第5ルンゼでは雪渓続きの中、岩場部分では「わらじ」で攀じているが、これも反省材料であったはずだ。
(キレット尾根)
ここは急峻な薮のリッジのため、手で薮を掴み、足首まで薮付きリッジに蹴り込む方法で登る。距離は定かでないが、せいぜい10米ぐらいだが、幕岩の天辺だけに高度感は抜群、落ちたらオジカ沢まで途中バウンドもせず、一直線にすっ飛んで行くことだろう。ホールド、スタンスを確実にしながら一歩、一歩とあがっていった。 以上
平さんのことども
森田達雄
古い会報51号(昭和18年6月)の巻頭に「故上村平三郎君の死を悼みて」という文章を小生が書いている。
その中で、
「彼、平さんは、雪深い越後の国、塩沢の生まれで、スキーが大変上手だった。日の暮れかかったクラストの斜面をブンブンすっ飛ばした彼のサッソウたるスタイルは、最早再び見ることが出来なくなってしまった。
苗場山に行ったとき、友人が撮った平さんの素晴らしい写真も、平らさんの手に渡らずして、平らさんは亡くなってしまった」
とある。
平らさんと知り合ってから3年後、昭和18年1月の湯沢スキー、3月14〜15日の苗場山スキー、4月11日の岩殿山懇親ハイクとわずか3回であったが、なかんずく、3月の苗場山スキー行ほど彼と意気投合したことはなかった。
和田小屋で寝る間も惜しんで、今後の岩と行きを語り合った。平さんはそれまで、岩登りは余り好まなかったようであったが、最近は大いに興味を感じてか、今年は張り切ってやるぞ、と岩への熱意に燃えていた。
その平さんは、4月19日ごろから風邪気味で頭が痛かったとか、4月24〜25日の谷川岳行は残念だが行けないからと電話をかけて寄越した。とりあえず、博文館へ飛んで行ってみると、いつも元気な平さんが日本間で水枕をして横になっていた。
その後、日本橋病院へ入院したと聞いたので、近く見舞いに行こうと思っているうち、5月7日の朝、突然に水上兄から「おい!平さんが亡くなったぞ」「えっ!それは本当か」しばし唖然として口が利けなかった。
平さんと同行するはずだった4月24日〜25日の谷川岳スキー行は、追悼文の後の山行報告にもあるとおり、当初、スキーによる谷川岳から万太郎山、仙之倉への縦走を4月3日〜4日に試みたが、肩の小屋に泊まった翌日、あいにくの濃霧と雨のため果たさず、無念の涙を呑んで西黒沢を下った。
今度こそはと土合山の家の喜代志さんから肩の小屋の鍵を借り、西黒沢に入る。2〜3日前に降雪があったのか、熊穴沢にはスキーのシュプールが一つもない。快晴に恵まれ、昼食後、一ノ倉見物に出る。ことしの雪庇は例年より張り出しが少ない。ノゾキまで来ると良く見える。第四ルンゼ、第五ルンゼは割合簡単に登れそうだ。第六ルンゼはあまりにも急峻なので、登る気がおきない。滝沢Aルンゼは垂直かと思われるほどの雪渓によって埋まっていた。
翌25日、トマの耳から国境稜線を雪上漫歩、今日は風が暖かく、雪山とは思えないほど。一ノ倉岳に着き、一ノ倉を覗いたり、昼寝したりする。
12時に芝倉沢に飛び込む。平さんが一緒ならどんなに喜んだであろうかなどと思いながら、シュプール一つない広々とした斜面に大きなボーゲンをショートスキーが描く。頂上から出合いまで30分もあればお釣りが来る。芝倉沢出合いの送電小屋では見張所の人がスキーの練習をしていた。
(覚え書き)
1.谷川岳から万太郎山、仙之倉山への縦走は、天候、雪質にもよるが、仙之倉山からはシッケイ沢を下る予定であり、時間的に仙之倉山の先の平標山まで足を延ばせたときは、平標沢を下ることにきめていた。
スキー達者な平さんを失ったことと、山スキーに慣れた仲間が得られなかったこともあり、この計画は「絵に描いた餅」となってしまった。
2.4月24〜25日の同行者は小生、ほか2名となっているが、このほか2名のうちの1名は、その 後会員となった故宮井英明君である。宮井君とはその後、6月6〜7日の一ノ倉第五ルンゼのときも、ほか2名のうちの1名である。その後、7月11日、奥壁中央壁、8月15日、第三ルンゼ、9月24日、第六ルンゼ左俣と同行、良きザイル仲間となった。 以上
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