鎮 魂 譜

郷右近実会員

郷右近實会員

創立会員

昭和18年5月20日戦没

没地 パラオ諸島アラカペンセン島

初代代表剛介氏、南方戦線に散る

会員アラカルト年報第1號所載)

  郷右近實君 「青柳たかし」なんて、ひどくおとなしいみたいなペンネームだが、 一度お目に掛かると、仲々どうして質実剛健のWボーイ。であるが山へ行く時は別、本会のエキスパートである。マウスミュージック、サキソフォン及び写真の名手であるが、最近沢狂の傾向あり。「郷右近」なんて一度位聞いても二度と云えない程難しい。「剛介」と呼んだ方が話は早い。


  鵬翔山岳会の名称について

        関 清信

 久しぶりに会報(205号)が郵送されてきた。

 表紙が明るく多彩になり、全体が読みやすく、編集努力が感じられ、その旨を含めて、三竹会長に電話したところ、話題の中から会創立六十周年記念会誌に、創立当時の様子を何か書いてくれぬかと依頼を受け、承諾はしたものの何しろ六十年も前の出来事なので忘れがちの事が多く、私の知っている範囲での「鵬翔」という会の名称について書いてみる事にしました。

 その名称については二通りありました。

一つは会報一号の「発足に際して」として記載された次の文章によるものです。

喧噪灯雑な都塵から遠く離れて静かな山々の懐へ入り、大自然の自由と青春の歓心を味はふ目的の下に鵬翔山岳會は誕生致しました。會員は少なりと雖も我等は若人の熱を以て此の會をよりよきものに育て上げやうではありませんか!

 扨て會の内容に就て會則以外の大体の説明をしますと、先づ會の名前ですが之は我々が何時も聖なるあこがれを以て仰ぐあの緑の天地を鵬の如く自由に翔け廻らうと云う意味で「鵬翔」の二字を選んだのであります。

 もう一つは、私達は法政大学高等商業部内の山の好きな仲間が数人おり、その友達を集めて山の会を作り、誰とはなしに法商(ホウショウ)と呼び合っている事から、一般会員を含めて、鵬翔山岳会として発足することに決めました。

 そして、その名称の発案者である初代会長郷右近實君は、その後出征し、昭和十八年四月南方戦線に於て戦死を遂げました。

 彼は、彼の言葉通りに、緑の天地を鵬の如く自由に翔き廻り、彼の魂は今、鵬翔山岳会創立六十周年を迎え、名付け親の如く私達の前に再び帰ってきたのではないでしょうか。

 きっと会の発展をいつまでも見守っている事と思います。 合掌

遺 稿

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向後保会員宛ての書状(昭和17年頃のものと思われる)


 年報第1號(郷右近会員編輯昭和15年7月発行)より

  巻頭に寄す

  この小さな一冊子は、我々がやっとこの一ケ年間を無事に守り育てた、可愛らしい我々の子供の無邪気な片言であり、愛すべき泣声である。

  そして我々の愛児は、どうやら目が見え耳が聞え、多少は口も利ける様になった。時々は其所等を這ひ廻るが未だ自らしっかり立つ事は出来ない。

  乞願はくば諸君、此の純真な赤ん坊に、より温かい感情とより力強い精神とを与へ、以て大きな発展へと導かれん事を。

編輯後記

▽ 先づ以て発行の大分遅れた事をお詫び致します。色々原稿の事や印刷の関係もあり、とうとう今迄かかってしまった訳です。

▽ 併し乍ら内容はかなり充実してゐるつもりです。どうかこの一冊から我等のグループの溌剌たる息吹を感じて下さい。

▽ 我が会も一ケ年を経過し、多少は人の認める所となった訳です。之に気を許さずより以上の大前進を開始しませう。

▽ 会員のある一部のみがハリ切っても会全体の発展とはならない。会の発展は会員全体の熱と努力とに依って始めてもたらされる。

▽ あらゆる娯楽よりも運動よりも趣味よりも遙かに超絶した山。その山に親しむ事こそ真に生甲斐のある生活でなくて何であらう。

▽ ベルグハイル! 今年も山嶺に此の言葉を声高く叫ぼうではないか!


會報 bR2 昭和16年11月號より

  第130回 蝙蝠澤 9月14日 係:郷右近實

   パーティ 加藤貞美、難波柳策、田地栄太郎、長澤忠三、野崎とよ關清信、郷右近實

   タイム 小沼8・40 達磨石9・50 白雲荘0・50

  「尾根をハアハア登る位なら蝙蝠澤をやらうぜ」てな譯で、新宿五時半發のゲリラ戦 術式中央線利用にて小沼へ。暑い位の日差の中を汗だくで達磨石着、直ちに蝙蝠澤へ入る。

  がらがらした汚い澤に文句たらたら溯行開始。瀧らしい瀧とてなく「あごの出る澤歩きは之が始めてだ」なんて云ひつつ行く内、右から左へ斜に落ちる五米程のなめ瀧となり、左岸のスラブをお輕く登る。

  水が消えたり出たりする所を暫く行くと六米程の涸棚に直面。右岸の石の階段を問題なく上ると又暫くで三米程のハングした涸棚となる。タコと虎がハングを乗越し他の者は右岸のバンドをターザントラバースする。水が又出て來て四米程の第一同様の瀧となり之も左岸を驅登る。

  尚も進めば傾斜は大分急になり暫くで三十度位の傾斜の岩床を曲折して三十米程に流下する大なめ瀧となり嬉び勇んで水身を登る。

  此頃より沛然として雨が落ちて來た。間もなく二股となり右の澤に水がある爲之が本澤ならんと踏込んで行くと、俄然少量の水を落す六米程の瀧が現れ、闘志満々水をかぶつて中央をダイレクト。續いて二段で六米位の瀧あり、下段は樂に這上つたが上段に手掛りなく左岸を捲く。

 次の三米程の瀧は右岸を越し上を見ると凄い廿米程の瀧となる。ザイルを途中で付けて右岸にアタックしたが十米程の所でホールドなく止むなく中止する。

 タコが「之はどうも枝澤らしい。本澤へ下りて見よう」とて左へ行くから後について行くと成程本澤らしき所へ出た。之は水のないごろ石のせり上りで一寸も面白くない。

  廿分程頑張って岩壁下の徑へ立つと、なんと此處は中央カンテの下である。「なんで−蝙蝠ぢやないよ」てな譯で白雲荘に入りザックを預けて霧雨降る岩場へ出掛ける。

 第二テラス迄登ったら物凄い豪雨となり残念乍ら引返す。雨中の懸垂でばてゝ「寒い々々」で白雲荘へ戻る。濡物を干し六時十八分に間に合せるべく小沼へ馳せ下る。


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