鎮 魂 譜

中橋邦夫会員

中橋邦夫会員

31期

昭和45年9月14日

大峰山系弥山渓谷にて遭難

“群山に息吹きを”

大峰の谷深く消えた関西待望のルーキー

「群山の息吹」中表紙 「群山の息吹」表紙

追悼文集「群山の息吹を」 昭和46年9月刊


 

  追悼 1周年

                       正野 進 

 中橋君、君がこの弥山川の双門ノ滝に、ふと姿を消してしまってから、もう一年がたってしまった。

 しかし、今日こうして皆で集まり、この河原で君に話しかけていると、あの日から、もう一年がたってしまったということが、いや、それよりも、あの日以来君がいなくなってしまい、もう二度と君と山行を共にすることはないのだ、ということが、僕等にはどうしても納得できず、すぐにでも君が、あの例の少しザラついた大声で、早口に話しかけてくる、その声が聞こえるような気がしてならない。

 思い返してみると、君が僕等と一緒に山に登った期間は決して長いものではなかったことに気がつく。

 それなのに君は、豊な個性と、ただひたむきな山々への情熱でもって僕等一人一人の胸に鮮烈なイメージと共に生きつづけている。

 中橋君、君との最初の山行は、昭和四十四年の五月、新緑の伊折峠を越え、残雪の立山川を溯って東大谷の出合に愉快なテントを張り、剣岳に登った合宿だった。

 あの山行で、君は新人には辛い筈の大きなザックを背負い、汗に顔を光らせていた。室堂乗越から立山川に下る雪渓は、真っ先に滑り下りた君の一寸得意そうな顔を僕等は決して忘れることはないだろう。

 その年の夏を終わるころから、君はぐんぐん力をつけ、一年を過ぎたころには、もう全く僕等の仲間として溶け込み、むしろ若い君に引きずられるようにして山へ登り、また、新しい計画が生まれてくるのだった。

 わずか一年の間に君ほど自分の山登りをたくましく成長させた人は少ないだろう。

 二年目を迎えて、君は更に意欲に燃えていた。山にいる時も、山行を終えた報告会の席でも、地図を睨んで新しい計画を練る時も、いつも君の声がそこにあり、君のくったくのない大きな笑い声が響いているのだった。

 二月の大山や五月の穂高で、七月の北岳、また、八月の剣岳で君は存分に君の青春を展開した。

 たった一人で、北アルプスのほとんど全山を縦走した。

 思えば、君の最後の北アルプスとなった。山行の途中から幾人かの仲間に宛てた君の手紙には、君らしい、几帳面な報告の端々に、山とある喜びがひたひたと感じられるものだった。

 山に魅せられ、ただひたむきに突っ込んでゆく君の姿はたのもしく、良い仲間が増えた、僕等は皆そう思い、君に期待をかけた。

 しかし、あの時、君が山の美しさに酔い、自然との調和に、持てる若さと力の全てを注ぎ込んでいた、あの時に、自然の持つ冷酷さの一面と、努力しても努力しても完全さの得難い、人間であるが故のもろさを、共に自覚し、いさめ合うことができなかった先輩としての、自分の未熟さを思うと、拭い切れぬ悔恨の情と、あまりにも大きな犠牲に対する無力感に、ともすれば押し流されてしまいそうになる。

 しかし、中橋君、僕等はきっと、ここで踏みこたえる。

 君の死は僕等に何かしら大きなものを残した。それが何であるか、どうすれば良いのか、僕等は、まだ、それをはっきりと自分たちのものとしていない。

 ただ、僕等は、たとえ、どんなに長い時間がかかっても、それが一体何であるのか考え、追いかけ、求めていくだろう。

 あるいは、これは僕等が山に登るかぎりつづく問題かもしれない。

 しかし、このことこそ、あまりにも短かった君の生涯に報いるため、僕等にできる唯一のことであり、最大のはなむけであることを僕達は信じる。

 そして、僕等のこの決意があるかぎり、中橋君は僕等と共にあるのだ。

(昭和四十六年九月)

 

 

   父君の号泣

                       齋藤正明  

 中橋邦夫の遭難は、私たち関西支部のメンバーにとって大きな衝撃であった。

 その八年前の発足した関西支部は、基盤固めを終え、いよいよ発展に向かって飛躍しようとしていた。

 ちょうどその時期に合わせるように一人のルーキーが私たちの仲間に加わった。それが中橋だった。

 優れた登山家が果敢な登攀に並行して文をよくすることは、よく言われていることであり、それは鵬翔の草創からの伝統ともいえるが、中橋は人並みはずれた意欲的な登山との取り組みと並行して、感性の溢れた詩や創作に情熱を注いでいた。

 高校時代の友人と同人誌「群盗」を発行していたことは、その面での彼の意欲を物語る。

 あの日、遭難の報を受け、直ちに救援隊を組織し、現場に駆けつけた。弥山川双門ノ滝第三ノ滝下部の深い渓谷の底に、中橋の黄色のウインドヤッケを見つけ、皆で声の限りに呼びかけたが、空しく谷間にこだまするばかりであった。

 40メートルザイル2本を使って懸垂下降で降り立った河原には、無言の中橋が横たわっていた。その顔は全てを悟った菩薩のように安らかなものだった。

 地元消防団の人たちの協力を得て稜線まで引き上げ、仲間たちで代わる代わる担いで山を下り、ふもと川合の駐在所に安置した。

 家族が中橋との最後の別れをするため、私たちが駐在所の外へ出ていると、しばらくして、中から低く吼えるような慟哭が聞こえて来た。そしてしばし止まなかった。

 それは、それまで気丈に振る舞っていた中橋の父君の号泣であった。

 私たちは鋭い刃物で胸を突き刺されたような激しい衝撃を受け、みな涙にまみれてその場に立ちつくしていた。

 その状況は三十年余を経た現在でも、鮮烈に脳裏に蘇って来る。(平成十一年九月)
 

遺 稿

 

 「群山の息吹きを」より

 

  夏の登攀

 この俺の好きなのは

 あのザラザラした、真黒い岩の肌

 ハーケンの奏でる死人の唱。

 夏の陽につつまれた光り輝くスラブ

 快い涼風の吹き抜ける狭いピーク

 奴らは確かに夏の空の下のものだ。

 冬になれば雪もやって来る。

 夏の空の下は、楽しさに満ちている。

  登 攀

 登攀とは何か。

 何故そうした行為に私は魅せられ、

 その中へと埋没して行くのか。

 今、その答は、まだ出ていない。

 しかし、これからどれだけ続くかわからない

 私の一つ一つの登攀が、

 それを与えてくれるだろう。

 


 

 北アルプス全山単独縦走  昭和45年8月19日〜27日(9日間)

  はじめに

 真砂沢での関西支部夏季登攀合宿。その後日数のとれるメンバーによる三ノ窓にベースを置いてのチンネの集中的登攀終了後、かねてから計画していた北アルプス全山縦走を行なった。

 昨年夏、後立山から槍穂高への縦走を計画し失敗している私にとって今度の計画は、この大縦走を行なうに、最初にして最後のチャンスであるこの夏に、絶対の確信をもって成功させねばならなかった。

 この計画を思いついた動機は多くある。一つは東京支部の石黒先輩の快挙。それにもう一つは、山を始めて数年という経験の浅い自分にとって、一人で大きな縦走を行なうことは、山をよりよく知り、山でも生活技術、読図力など多くのことを得るのに、最良の方法であろうということ。この二つが特に取り上げられる。しかしまた、そこには別な意味で、より多くの日本の高峰を究めたい、といったような山への純粋な憧憬といった風な気持ちもあった。

  8月19日(曇時々晴)

 今日下山の四名に登攀具などの余分な荷を、悪いが持って下りてもらって、一人、先に三ノ窓のベースを出る。剣まで稜線通しに行くと意外に悪い。ザラ峠付近までと思っていたが、予想以上に足が延びるので、五色ケ原で水を補給後、行けるところまでと思ってどんどん飛ばし、間岳下の幕営地まで来る。ビバーク。

(タイム)三ノ窓4・50剣岳6・00雄山9・20ザラ峠12・30ビバーク地17・20(以後ビバーク地はB・Pと略す)

  8月20日(晴後雨)

 薬師岳の縦走は朝の陽光の中、左に後立連峰、前方に槍穂高をはじめ、北アルプスのほとんどの山々、そして遠く南アルプス、富士まで見えて、夏の縦走の醍醐味を十分に満喫する。太郎山、上ノ岳付近は楽しいお花畑の中の道だ。黒部五郎岳の下りで、咋日ザラ峠を駆け下った時にハイマツの枝でイヤというほど強打した右膝が痛み出し、ペースが落ちる。三俣連華岳へ急ぐ途中より激しい雷雨。一時ポンチョをかぶり避難するが寒くてやりきれず、全身、荷物までズブ濡れで三俣山荘へとび込む。一晩中雨、仕方なく小屋へ泊る。

(タイム)B・P5・10薬師岳7・40黒部五郎岳13・20三俣山荘15・40

  8月21日(曇後風雨)

 五日分の食糧、燃料を持ち、他は小屋に預け、雨の止むのを待って小屋を出る。硫黄乗越付近よりガス。笠ケ岳の方は晴れているが西鎌尾根の登りにかかる頃より、一面ガスがかかりキリション。肩の小屋に荷を置いて槍の穂へ。何も見えないが、それでも数人の人がいる。静かだ。始めて槍ケ岳を踏むが、たいした感激もない。

 雨の降る中を東鎌尾根を下り、大天井岳まで進む。幕営地にツエルトを張るが、強風にあおられ旗のようにバタバタと舞う。仕方なく大天荘の管理人の好意で小屋裏に風の来ない所を見つけてビバークさせてもらう。それでも夜はバタバタとうるさい。台風の影響による風だろう。

(タイム)三俣山荘7・50槍ケ岳12・00大天荘B・P16・30

  8月22日(風雨時々晴)

 強風の中、常念岳へと向う、休むと寒いので常念、蝶ケ岳と素通りで一気に横尾まで下る。横尾は晴れていて多くの人が日なたぼっこを楽しんでいる。久しぶりの太陽と人間臭さだ。

 家と会へ連絡をして、ゆっくり涸沢まで上る。丸木橋を渡る頃より再び雨。

(タイム)6・30横尾12・00涸沢B・P14・20

  8月23日(晴後雨)

 涸沢は朝早くから動き出す。朝日の射し込む明るいザイテングラートを登り、涸沢岳を越え北穂へ向う。途中悪場で先行パーティにちょっと待たされたほかは順調に進む。北穂を過ぎキレットへはツバメの様に舞い下りる。

 槍は晴れていたが、頂上の喧噪が下まで聞こえてきそうで、一昨日のガスの中の静かな槍の穂先を思い出しながら通り過ぎる。

 西鎌の下りではまたまた雨にあう。双六小屋を少し登ったあたりで湯俣川の谷を虹が渡っているのが見える。雨に洗われたみずみずしい緑の山肌と虹の美しさに少しの間、歩を止めみとれる。三俣山荘に預けていた荷を受け取り小屋近くの幕営地でビバーク。

(タイム)B・P6・00北穂高岳8・30槍ケ岳11・45B・P15・20

  8月24日(晴後曇)

 鷲羽岳より見る槍穂高は素晴らしい。北鎌独標左手に意外と低く富士が見えている。これから行く先は遠くかすんで、はるかに遠く長い稜線だ。

 野口五郎、三ツ岳付近はガス。展望もなく岩屑のガラガラした何の変化もないつまらない道だ。鳥帽子岳往復後、先を急ぐ。しばらくの間は池とお花畑、白い花崗岩がガスの中に浮かび上がるメルヘンの世界にいるような楽しい道。しかし南沢を過ぎると樹林の中の急な登り下りで苦しい。悪い稜線、南沢岳付近で稜線に出た時、前方下手に見えた黒部湖のグリーンの湖水が印象的だった。

 船窪岳へは崩壊壁を右に見ながらズルズルとすべるようなところを何度も木の根などをつかんでトラバースして、樹林の中の平担なピークへ着く。何度かの登り下りの後、七倉への急登の途中大きな木の根をまたぐと、小さくみすぼらしいが素晴らしく快適な船窪小屋に出る。その下が幕営地。

(タイム)B・P6・10鳥帽子小屋11・20船窪岳15・00B・P16・10

  8月25日(曇時々晴)

 七倉岳からの稜線では、ハイマツ、灌木、下草などが昨夜の雨に濡れていて、とうとう全身、靴の中まで水をかぶったように完ビショ。全く気分の悪いことこの上なしといったところだ。蓮華岳はどれが頂上かわからぬうちに過ぎてしまって、針ノ木岳で今日下る人に会への連絡の葉書を頼んで、スバリ岳へと向かう。ガスの中に見えかくれする赤沢岳はベラボウに大きく見える。これからの稜線は昨年の夏歩いているので、気が楽だ。しかし赤沢岳を過ぎる頃より再び右膝が痛み出す。スロー・エンド・ステディで行く。鹿島槍南峰は今回もガスの中。吊尾根にてビバーク。

(タイム)B・P5・25針ノ木峠9・00冷池14・40B・P16・25

  8月26日(晴たり曇ったり)

 吊尾根は朝早くから明るい。ツエルトから顔を出して美しいモルゲンロートをながめる。五竜岳の頂上は今回も晴れて素晴らしい展望。唐松岳までは意外と長く感じた。

 不帰の険は覚悟していたほど悪くもなく、あっけないほど簡単に越す。天狗の大下りの登りもまたあっけない。しかし天狗岳付近より見る白馬三山はバカデカイ。白馬岳までのダラダラした道ではこちらの気もゆるむ。白馬岳で大休止後、三国境まで十分ほどで駆け下りると鉢ケ岳の東をまいて雪倉岳の避難小屋へ。立派な小屋で、薬品セット、マッチ、ローソクまで置いてある。こんな小屋は皆で大切に使いたいものだ。しかし床板が一部無惨にはがされてあった。

 雪倉岳へはジグザグのきつい登りだが、足もとの高山植物のせいか、また白馬を越えて全山縦走を終えたせいか、苦しさはない。頂上からツバメ平まですがすがしい気分で下る。

(タイム)B・P5・30五竜岳8・00唐松岳10・00白馬岳15・00雪倉岳16・35B・P17・15

  8月27日(晴)

 北アルプス全山縦走完遂の感概を胸に、ゆっくりと朝日岳へ。朝日の登りで右手のブッシュの中でガサゴソと音がする。熊による事故の新聞記事をとっさに思い出し、一瞬ギクッとして、いままでツエルトを張るのにしか使わなかったピッケルを手に構える。意外なところで役に立つ。しかしもう音はしない。ビクビクしながらも十分ほど進むと今度は前の方で音がする。今度こそはとピッケルを握る手に力を入れるとブッシュの中から登山者が一人下りて来た。相手は少々変な目でこちらを見ている。少なからずテレくさく、ソットすれ違う。

 朝日岳で、とうとう全山縦走をやったと思うと、白馬剣の勇姿も何か私を祝っているように見える。快調に大キジを一発残して下る。

 しかし、成功したという気のゆるみからか三度目の右膝の痛みに加え、今度はチンネ登攀の際受けた落石による左足の爪のはがれかけたのも痛みだし、イブリ山から北又への樹林の下りは痛む両足をひきずり、根っこにひっかかっては転びながらの苦しい下りであった。北又小屋から小川温泉までの林道を地元の人の車に便乗させてもらえたのは全く助かった。計画の成功(笠ケ岳へは行けなかったが)の喜びを胸に小川温泉よりバスの中の人となった。

(タイム)B・P6・15朝日岳8・00北又小屋11・00

  おわりに

 剣−双六−笠往復−槍−常念−穂高−槍−双六−鳥帽子−針ノ木−白馬−朝日を十四日の予定で歩く計画であったが、結局、気の弱さ、天候の悪さが手伝って笠へはいけなかった。しかし、一応成功したと思っている。昨年夏の四十キロからの重荷による機動性のない縦走による失敗の経験により、今度は軽い荷による敏速な行動を考え、縦走の荷の大部分を占める食糧について、このことを大いに検討した。そして最後に、出発の時の荷を三リットルの水も含めて二十五キロほどにおさえることができたのが成功の大きな原因だと思う。このため食う方には多少とも不便を感じたが、この方は日頃の個人山行、例会山行のたびに粗食、小食に慣らすことにより、少々の期間はがまんできる自信と確信を得た。

 このような計画はもう今後私にはできないだろうが、今回行けなかった笠および燕方面も含めて、一度も往復という形をとらない純粋な縦走コースというのも可能である。

 もし再びこのようなチャンスがあれば、そうした計画を実践に移したいというのが今の私の夢でもある。

 最後に、この縦走のための装備、食糧を記す。

(装備)

 大型アタックザック1 二ッカー1 セーター1 半ズボン1 シャツ長袖半袖各1靴下3 ヤッケ1 帽子1 靴1 ポリタン2リットル、1リットル各1 ポンチョ1ビニールシート1 ヘッドランプ1 電池9 五万分の1地図5 コンパス1 筆記具1時計1 薬品1セット マジックインキ1 天気図用紙10 ラジオ1 チリ紙1束 カメラ1 針金1メートル 細引5メートル ツエルト1 シュラフ1 コンロ1  スイスメタ1 ガソリン2リットル ローソク5 食器2 ナイフセット1 軍手1 ピッケル1

(食糧)14日分

 アルファ米21食 ベーコン500グラム 乾燥肉1袋 行動食1食 漬物400グラム 塩コンブ100グラム コンソメ21個 インスタントお吸物20袋 ティーバッグ21袋 インスタントココア5袋 砂糖1キロ 調味料 粉末ジュース1袋

 以上のもので、残った食糧は次の通り

 アルファ米8袋 塩コンブ70グラム コンソメ12個 お吸物11袋 ティーバッグ6袋 調味料

 全体として甘いもの、砂糖、粉末ジュースなどが不足気味。チョコレート、アメなどもあればよいが、長期となると重量が増す。

 


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