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作者は菅原孝標(たかすえ)の娘、1008年生れ。
菅原孝標は菅原道真の5世孫。若くして父に先立たれたため官途もはかばかしくなかったと思われる。973年生れ。
母は藤原倫寧(ともやす)の娘。生れは975年頃か。
母の姉、作者の叔母は「蜻蛉日記」の作者、道綱母(935‐995)。
ただし、伯母と母は大きく歳の離れた異母姉妹。
兄、定義は氏長者で大学頭文章博士となる。
作者は、後朱雀の娘、祐子内親王家に出仕。
祐子内親王の母、嫄子は後朱雀の皇后。一条の孫、頼通の養女。
継母(上総大輔)は、後一条の中宮威子(道長の三女)に仕えた。
継母の叔父、高階成章は、大弐三位賢子(紫式部の娘)の夫となる。
継母は987~90年頃の生れだと想像できる。賢子は年下の叔母。
紫式部、生れは970年説、973年説などあり。
源氏物語は、1001年頃から書き始め、1010年頃に完成。
紫式部の娘、賢子、大弐三位は999年生れ。
後冷泉の乳母となり、のちに従三位、典侍(ないしのすけ)。
作者は賢子になりたいと思ったかもしれない。あるいはちょっと手の届かないライバル。
清少納言は966年頃の生れ。枕草子は、996年頃から書き始める。
1000年に中宮定子が没した後も、1008年頃まで書き続けた。
一条 三条 後一条 後朱雀 後冷泉 後三条
後朱雀のもう一人の妃、禎子は後三条の母。ひょっとしたら、「故宮のおはします世ならましかば」の梅壺の女御かも。
橘俊通(としみち)、作者の夫。6歳年上。1058年没、作者51歳の年。
源資通(すけみち)、春秋の定めのお相手。3歳年上。
時雨の夜は1042年。資通38歳で蔵人頭になったばかり。蔵人頭の多くは近衛中将も兼ねる。つまり、頭中将だ。
ついでだから、
猫になった姫君(侍従の大納言、藤原行成の娘)の夫であった人物の末裔として、後に藤原定家が生まれ、その定家が更級日記を後世に残すこととなった。
建礼門院右京の大夫は、藤原行成の末裔にあたる。
右京の大夫は定家の求めに応じて家集を提供している。
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