home  index  Page        
更級日記を読む

更級日記を読む
 
更級日記について
菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)の作。
作者五十二歳のときに書かれた自叙伝的な回想記。十三歳の帰京の旅から始まり、晩年までが綴られている。ただし、この回想は執筆時の視点で顧みた回想ではない。五十二歳の分別は排除されて、十三歳の少女が瑞々しく描かれている。

更級日記は人に読まれることを前提に書かれているが、その当時、多くの人に読まれることはなかったようだ。百七十年後、藤原定家が書き写して世に出すまで、菅原家の片隅に眠っていたらしい。

その後、大正期に佐佐木信綱などによって再々発見される。
そのころ西洋の文学にばかり目を向けていた文学者たちは目をまんまるにして驚いた。

神西清は小説「見守る女」の中で、更級日記を薦める恵子に、
「ボ-ドレ-ルだって、敵わないことよ。」
と、言わせている。

堀辰雄は「姨捨記」に、
「異国の文学にのみ心を奪はれて居つたその頃の私に、或日この古い押し花のにほひのするやうな奥ゆかしい日記の話をしてくだすつたのは松村みね子さんであつた」
と書いている。
松村みね子はアイルランド文学研究者であり、歌人。

「見守る女」と「姨捨記」は古典講読で語られた講義内容の受け売りである。ラジオを聞いていて、思わず膝を叩きながら、更級日記の作者に成り代わって誇らしく思った。

作者の人柄を思い描いてみる。
世間的な人ではない、これは確かなようだ。天邪鬼なところもある。どこか近代的な意識を持った人のようにも思える。
おそらく他人のうわさ話をしない人である。うわさ話をしないから、他人からどう言われているかなどは、実感としては興味を持てない人だと思う。源氏物語では、うわさになることを恐れる場面が多く描かれているが、なぜそんなことを気にするのか、と不思議に思いながら読んでいたかもしれない。

更級日記を映画にするならば、主人公は古川琴音だろうか。上野樹里も考えてみたが、上野樹里には姉ちゃんを演じてもらいたい。いつかタイムスリップ出来るようになったら、真っ先に会いに行きたい、そんなゆかしい姉妹なのだ。


 
「更級日記を読む」について
更級日記との出会いは、浪人時代の模擬試験であった。
  源氏の五十余巻、櫃に入りながら、得て帰るここちの
  うれしさぞいみじきや
この文章の素直さにやられてしまったのだ。

さっそく紀伊国屋に向かった。
「更級日記を探しているんですけど」
店員さんはさっと身をひるがえして岩波文庫を取り出してくれた。
「大学のゼミで使うんですか」
「いや、あの、浪人生です」
「・・・・・」
このとき、一瞬、間の空いた店員さんの笑顔を見やりながら、私はなにか得意げな気持ちになっていた。

御禊の日に初瀬詣に向かう作者の一行は、行き違う人々にことごとく嘲笑される。その様子はこと細かく描かれているが、その時の作者はどこか得意げである。このくだりを読んだとき、更級日記を買い求めた日のことを、にんまり、思い出したのであった。

受験勉強が終わると更級日記も遠く霞んでいくように忘れていった。それから三十年が過ぎて、NIFY短歌フォーラムで、茫人さんの「更級日記研究」連載が始まった。初瀬詣のくだりもこのときに読んだのである。わたしの更級日記が復活した。「さるべきにやありけむ」と言いたくなる。

更級日記の門出からちょうど千年後の2020年、ラジオの古典講読は更級日記であった。加賀美幸子さんの朗読はありがたく、繰り返し聞いて飽きが来ない。やはり「さるべきにやありけむ」なのだ。

かくして「更級日記を読む」なるものを書いてみようと思ったのであるが、ここから、声の調子を少し落として、突然、「ですます調」に変わります。

「更級日記について」を読み返して、偉そうに書いてやがるなって思いました。ほんとうは何も分かっていないのに、断定口調で書いたりして、でもこれは簡略化のためでもあるのです。断定助動詞の「伝聞推量用法」と呼ぶことにします。すこし無理しているようにも思いますが、まあ、身の丈に合わないことを始めてみるのも、また面白かろうと思うことにして、とりあえずやってみましょう。

本文は「更級日記研究」に倣って八十八の章に分けています。これは「新潮・日本古典集成」に準拠したものだそうです。同研究などを参考にしながら、注釈やら、語義やら、感想やらを書き添えていこうと思っています。全くの素人の個人的な覚え書きです。


 
人物関係メモなど
作者は菅原孝標(たかすゑ)の娘、1008年生れ。

菅原孝標は菅原道真の5世孫。若くして父に先立たれたため官途もはかばかしくなかったと思われる。973年生れ。

母は藤原倫寧(ともやす)の娘。生れは975年頃か。
母の姉、作者の叔母は「蜻蛉日記」の作者、道綱母(935‐995)。
ただし、伯母と母は大きく歳の離れた異母姉妹。

兄、定義は氏長者で大学頭文章博士となる。

祐子内親王(1038~1105)、後朱雀の第3皇女。作者の出仕先。

藤原嫄子(1016~1039)祐子内親王の母。8月没。
後朱雀の皇后。別名、弘徽殿の中宮。一条の孫、頼通の養女。

三条の宮、脩子内親王。一条の第1皇女、母は定子。(996~1049)

平安中期の帝  一条、三条、後一条、後朱雀、後冷泉、後三条

継母は高階成行の娘。後一条の中宮威子(道長の三女)に仕えた。
叔父、高階成章は、大弐三位、賢子(紫式部の娘)の夫となる。
987~90年頃の生れだと想像できる。賢子は年下の叔母。
上総大輔の名で後拾遺和歌集に入集。理知的な歌。

紫式部、生れは970年説、973年説などあり。
源氏物語は、1001年頃から書き始め、1010年頃に完成。

紫式部の娘、賢子、大弐三位は999年生れ。
後冷泉の乳母となり、のちに従三位、典侍(ないしのすけ)。
作者は賢子になりたいと思ったかもしれない。あるいはちょっと手の届かないライバル。

清少納言は966年頃の生れ。枕草子は、996年頃から書き始める。
1000年に中宮定子が没した後も、1008年頃まで書き続けた。

橘俊通(としみち)、作者の夫。6歳年上。1058年没、作者51歳。

源資通(すけみち)、春秋の定めのお相手。3歳年上。
時雨の夜は1042年。資通38歳で蔵人頭になったばかり。蔵人頭の多くは近衛中将も兼ねる。つまり、頭中将だ。

藤原定子:父は道隆。母は高階貴子。(976~1000)

藤原彰子:父は道長。母は源倫子。後一条、後朱雀の母。(988~1074)

藤原生子:別名、弘徽殿の女御。(1014~1068)
後朱雀の女御。「故宮のおはします世ならましかば」の梅壺の女御。

一品の宮は禎子内親王のことか。あるいは脩子内親王のことか。

禎子内親王:父は三条、母は藤原妍子(道長の二女)。後朱雀の中宮、後三条の母。(1013~1094)


ついでだから、
猫になった姫君(侍従の大納言、藤原行成の娘)の夫であった藤原長家の末裔として、後に藤原定家が生まれ、その定家が更級日記を後世に残すこととなった。

建礼門院右京の大夫は、藤原行成の末裔として生まれた。猫になった姫君は「大」をいくつか重ねた叔母と言うことになる。姫君の死後、夫は別の女と結ばれて、その子孫が定家である。右京大夫は定家の求めに応じて家集を提供しているが、姫君の魂は再び猫に生まれ変わって、「よしなさい。そんな奴に見せるんじゃない。みゃあ。」と、語り掛けていたかもしれない。


----------------------------------
    年表
----------------------------------

13歳(1020年)
   上京の旅(1~13)
   ひろびろと荒れたる所(14)
   継母との別れ(15)

14歳(1021年)
   乳母と姫君の死(16)
   うれしさぞいみじきや(17)

15歳(1022年)
   天照大神を念じませの夢(20)
   猫(22)
   長恨歌(23)
   姉ちゃん空を眺めて(24)

16歳(1023年)
   火事(25)

17歳(1024年)
   隣の梅(26)
   姉ちゃんの死(27~30)

18歳(1025年)
   司召の失望(31)
   東山に移り住む(32~38)
   あからさまに来てみれば(39)

19歳(2026年)
   契りおきし花(40)
   浅茅が原の宿(41)
 ~
   継母上総大輔(42)
   あらましごと(43)

25歳(1032年)
   父の赴任(44~45)
   太秦に参る、一条の男車(46)
   荻の枯葉(47)

26歳(1033年)
   あづまより人来る(48)
   清水寺に参る(49)
   一尺の鏡(50)

29歳(1036年)
   父の帰京(53)
   西山の暮らし(54)
   京に移る(55)

32歳(1039年)
   祐子内親王家に宮仕え(55~58)
   前の世のことの夢(59)
   宮の御仏名に召しあれば(60)

33歳(1040年)
   橘俊通と結婚、水の田芹(61)
   さてもありはてず(62)

34歳(1041年)
   姪にひかれて出仕(63~64)
   かたらふ人どち(65~67)

35歳~37歳(1042~1044年)
   源資通と春秋のさだめ(68)

38歳(1045年)
   石山寺詣(69)
   このころ長男誕生

39歳(1046年)
   御禊の日に初瀬詣(70)

40歳(1047年)
   鞍馬寺詣(71)

42歳~(1049年~)
   石山寺詣(72)
   夫と共に初瀬詣(73)
   越前に下りし友に(75)
   西山の奥に行く(76)
   太秦に参籠(77)
   和泉に下る(80)

48歳(1055年)
   阿弥陀仏来迎の夢を見る(85)

50歳(1057年)
   夫の俊通、信濃に赴任(81~82)

51歳(1058年)
   夫、俊通の死(83)

52歳(1059年)
   ふるさとに一人暮らし(84~88)


1
あづま路の道の果てよりも
あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間宵居などに、姉継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままにそらにいかでかおぼえ語らむ、

いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、京にとく上げたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ、と身を捨てて額をつき祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所にうつる。

年ごろあそび馴れつる所を、あらはにこほち散らして、たちさわぎて、日の入り際のいとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとてうち見やりたれば、人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。

「あづま路の道の果て……生ひ出でたる人」は、日記と言うよりも物語を書き始めようとする書き出しなのだろうか。
更級少女の空想の一つであったかもしれない。数え年十三歳の少女。現代風に言うなら、小学校2年生のときに上総に下って今は六年生。この地に生まれたとする空想もあっただろうし、この地でずっと生きていく人生を想像することもあっただろう。
祈りが通じて京に上るというのも、父の任期満了は明白な事実なので、それはあえて書かずに、空想の世界を織り交ぜたのであろう。

いかばかりかはあやしかりけむを:
上総で過ごした四年間は作者の性格や感性の有り様にも大きな影響を及ぼしたに違いない。都育ちの娘たちとは違うという思いも強かったのではないだろうか。字句通りに読めば「あやしかりけむ」は引け目であり、自虐的とも見えるのだが、これを内面的な反語表現と見ることは出来ないだろうか。「あやしかりけむ」の内実、上総での経験を誇らしく思っていたと言うことだ。堂々と宣言しているように思えてきた。

【あやし】普通でない。不思議。→(都の貴族から見て不思議な)庶民の粗末な姿。田舎の人の姿。
【を】接続助詞。提示型の軽い逆接。

継母:
作者と継母の関係はすこぶる良好。「いかに思ひはじめけることにか」とあるが、継母との会話の中から、物語世界への空想を膨らませていったことに間違いはないと思われる。継母は良き教師でもある。母上と呼んでいたのだろうか。実の母親は一人都に残っている。母上は可能だが、おかあちゃんとは呼べない。父親の妻である継母に対して、おかあさんと呼ぶのも嫌味だ。おばちゃんあたりがちょうどいいのだが、継母は、お姉さんと呼びなさい、などと言っていたかもしれない。

わが思うままに:私の望むようには誰も語れないなのか、語る側が自分で思うようには語れないなのか。後者のほうが自然かなあ。

等身の薬師仏:
等身の仏となると、古着を丸めて人形を作るようにはいかない。兄と父を猛烈に責めてせがんで作ってもらったのだろう。浮彫りのような、半ば木に埋もれている仏像を思い浮かべてみた。整ってはいないが、思いのこもった薬師仏だ。

日の入り際のいとすごく霧りわたりたるに:
少女にとっては待ちに待った門出である。薬師仏を見捨てて行く後ろめたさも、悲しさも、大きな喜びの中に包み込まれていて、ゆったりと宥めることが出来た。それを味わう余裕さえあったかもしれない。
ところが、思いがけず濃霧が立ち籠める。映画の場面として見るならば、内には薬師仏が静かに立っており、外は恐ろしいばかりの霧だ。その霧の中を出て行く。不吉な旅立ちを予感させるような場面である。もちろん、これは不吉の予兆ではない。だがこの光景は、少女の心に何かしらの変化をもたらしたに違いない。これまでゆとりの中にあった悲しみが、急に手に負えないものになってきた。

【すごし】心に衝撃を感じさせるさま。気味が悪い。鬼気迫るようだ。
【霧りわたる】動詞「霧る」の連用形と「渡る」の連語。

人知れずうち泣かれぬ:
旅立ちに涙を見せるのは不吉だと言われていた。これは「旅立ちに涙は不吉だから泣くな」と人を慰める常套句のような戒めだったのではないかとも思う。不吉だからと言って涙を堪えたり堪え切れなかったりの場面が源氏物語にもある。更級少女はこの戒めを守ろうとしたのだ。「泣かれぬ」の「れ」は自発、泣くまいとしても堪え切れなかった。


【ゆかし】行くの形容詞化。(行って)見たい、聞きたい、知りたい。
【こころもとなし】思うことがかなえられずに落ち着かないさま。思いが募っているさま。
【人ま】人のいない時。人気(ひとけ)のない間。人目のないすき。
【みそか(密か)】「ひそか」は漢文調の訓読文で用いられ、「みそか」は主に和文脈で用いられた。現代語にも「みそか事」など残っている。
【いみじ】超現代語訳すれば、「めっちゃ」とか「すんごい」とか、そんな感じか。更級日記では83回使われている。文章量の比率で見ると源氏物語のほぼ4倍。すこし気になるところ。

生ひ出で(おひいで)、宵居(よひゐ)、継母(ままはは)、額(ぬか)
三日(みか)、十三(じふさん、とをあまりみつ)

にほんごであそぼに倣って、今日の名文
「あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人」


2
門出したる所は
門出したる所は、めぐりなどもなくて、かりそめの茅屋の、蔀などもなし。簾かけ、幕など引きたり。

南は遥かに野の方見やらる。東西は海近くていとおもしろし。夕霧たちわたりていみじうをかしければ、あさ寝などもせず、かたがた見つつ、ここを立ちなむこともあはれに悲しきに、

同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、下総の国のいかだといふ所にとまりぬ。庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、おそろしくて寝も寝られず。

野中に丘だちたる所に、ただ、木ぞ三つ立てる。その日は雨に濡れたる物ども干し、国に立ちおくれたる人々待つとて、そこに日を暮らしつ。

「ただ、木ぞ三つ立てる」の一文が古典文学の中にあって異彩を放っているらしい。このような印象を、ただ印象のまま記述した文章はほかに見当たらない、と言うことらしい。
この木に紐を結びつけて、濡れた衣服を干している情景など思い浮かべてはなりませぬ。
丘の上に並び立つ三つの木にさわやかな風が吹いているのだ。

東西(ひむがしにし):
東がわからない。西を導くための接頭辞なのか。西には海がある。使い方は違うが、かごめかごめの「うしろの正面」を思い出した。関係ないか。

あさ寝(あさい)などもせず:
朝寝坊の生活だったのだろうか。普段と違って早起きをした。あるいは、普段もまずまずの早起きなのだが、それにもまして、なお一層の早起きをした。朝早くから目が覚めてしまった、と読むことも出来そうだ。

ここを立ちなむこともあはれに悲しきに:
国司の館がここにあったらよかったのに、と思ったに違いない。上総での普段の生活はどうだったのか。野山を駆け回ることは出来たのか。勝手に出歩いてはならないと厳しく言われていたであろうが、姉ちゃんと二人、こっそり冒険の散策に出掛けることもあった、と思ってみたりする。

雨かきくらし(掻き暗し)降るに:天候よりも、暦の吉凶が優先。

【門出】旅に出る前に、吉日を選んで、仮に家を出て近くに移ること。
【めぐり】かこいの垣や塀。

茅屋(かやや)、庵(いほ)、寝も寝られず(いもねられず)

にほんごであそぼに倣って、今日の名文
「野中に丘だちたる所に、ただ、木ぞ三つ立てる」


3
まのてしら、くろとの浜
十七日のつとめて立つ。昔、下総の国に、まのしてらといふ人住みけり。疋布を千むら万むら織らせ、晒させけるが家の跡とて、深き川を舟にて渡る。昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、川の中に四つ立てり。人々歌よむを聞きて、心のうちに、

朽ちもせぬこの川柱残らずは昔の跡をいかで知らまし

その夜は、くろとの浜といふ所にとまる。片つ方はひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原しげりて、月いみじう明かきに、風の音もいみじう心ぼそし。人々をかしがりて歌よみなどするに、

まどろまじ今宵ならではいつか見むくろとの浜の秋の夜の月

まのしてら:
定家の自筆原本は「まのしてら」を「まののてう」と読むことも出来るらしい。こちらは「真野の長」として意味は捉えやすいが、「まのしてら」の不思議な響きも捨てがたい。

疋布(ひきぬの):
一疋(ひとむら)で一巻き。疋も反も長さの単位。→反物。

風の音もいみじう心ぼそし:
風の音を聞いていると心細くなる。作者はこの心細さを好んでおり、心細さに親しんでいるようだ。心細さは静寂に通じるものであろう。
あるいは、風の音そのものが心細いのか。この場合の心細いは、もの悲しくとか、もの寂しくとか、そのように聞こえてくるということ。すこしだけ客観的に距離を置いた心細さである。
松原を歩いていると、木漏れ日のように月の影が落ちている。その月影を踏みながら、風の音を聞くともなく聞いている。風の音の変化に耳を澄ませてみる。大きく息を吐く。心が静まり返っていく。今ここにいる自分自身が不思議なことのように思われて、ふと我に返ると、もう二度とこの浜辺に立つこともないということに気付き、はっとする。


まどろまじの歌は『玉葉集』に入集。
「いつか見む」:もう二度と見ることはないだろう。
素直な歌である。素直さが心地よいのだが、どこかにひねりが欲しいような気もする。

川柱の歌も、散文的ではあるが、川柱がよく残っていてくれたという素直な感動が詠まれており、作者も気に入っていたのだろう。だから、不出来だとは思いながらも、記念すべき第一作として更級日記に記した。

この時代、掛詞だとか、縁語だとか、七面倒くさい技巧ばかりに関心が集まり、複雑怪奇な歌が多い中で、作者はこの風潮を突き破ろうとしているかのようである。少し先回りすることになるが、「苗代の水かげばかり」の歌などは近代短歌のようでもある。

千むら(ちむら)、万むら(よろづむら)、川柱(かはばしら)

にほんごであそぼに倣って、今日の名文
「風の音もいみじう心ぼそし」


4
まつさとの渡り
そのつとめて、そこを立ちて、下総の国と武蔵との境にてある太井川といふが上の瀬、まつさとの渡りの津にとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物など渡す。

乳母なる人は、をとこなども亡くなして、境にて子うみたりしかば、はなれて別にのぼる。いと恋しければ、行かまほしく思ふに、兄人なる人いだきて率て行きたり。みな人はかりそめの仮屋などいへど、風すくまじく引きわたしなどしたるに、これは、をとこなども添はねば、いと手放ちに、あらあらしげにて、苫といふものを一重うち葺きたれば、月残りなくさし入りたるに、紅の衣上に着て、うちなやみて臥したる月かげ、さやうの人にはこよなくすぎて、いと白く清げにて、めづらしと思ひてかきなでつつうち泣くを、いとあはれに見捨てがたく思へど、いそぎ率て行かるるここち、いとあかずわりなし。おもかげにおぼえて悲しければ、月の興もおぼえず、くんじ臥しぬ。

つとめて、舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひき立てて、送りに来つる人々これよりみな帰りぬ。のぼるは止まりなどして、行き別るるほど、ゆくもとまるもみな泣きなどす。幼な心地にもあはれに見ゆ。

「乳母なる人」:
産褥は汚れであるとされ、同行できなかった。
「さやうの人にはこよなくすぎて」は貴族人の限界だろうか。どんなに愛情を抱いていても、さやうの人という垣根を壊すことは出来なかった。貴族と庶民の隔たりは思いのほか大きいようだ。

「めづらしと思ひて」:
思い掛けなく来てくれたのが嬉しかったのだろう。出産の後しばらく会っていなかったかもしれない。当分会えないと思っていたのが、会いに来てくれた。【めづらし】は思い掛けなく好ましいもの。
出産がこの日の出来事とは考えにくい。この境は上総と下総の境だろう。あるいは、境も大雑把に言ったもので、「いまたち」の12日間かもしれない

「いとあかずわりなし」:
【飽く】満足する。
【飽かず】には、まだ満足できない、もっと欲しい、という上向きの気持ちと、つまらない、不満だと思う下向きの気持ちと、相反する二面性がある。ここでは、乳母の傍にもっといたいと思う上向きの思いと、兄に連れて行かれることが不満だと思う下向きの思いが同居している。でも、もとは一つなのだ。同じ一つの言葉だと納得させられる。

「これよりみな帰りぬ」:
まず別れの場面であることを述べて、その後に細部を述べる語り方。門出もこの語り方であった。源氏物語、須磨でも「三月二十日あまりのほどになむ、都を離れたまひける」とあって、それから都を離れるまでのことを詳細に述べている。まずは見出しを、といった感じ。

「とまる」:
「のぼるは止まりなどして」は、上京する一行が立ち止まって別れを惜しんでいる。「ゆくもとまるも」の「とまる」は見送りに来た人々がここで止まって引き返す。

「幼な心地にもあはれに見ゆ」:
別れが悲しかったのではない。泣いている人に共感したのでもない。
川の両岸に向かい合って手を振る光景が心を打ったのだ。描写としては、「あなたの岸に車ひき立てて」ぐらいだが、その光景は目に浮かぶようである。

【かつがつ】少しずつ、ぼつぼつと。熊本弁では、次から次に休みなく、という意味で使っているのだが…
【わりなし(理無し)】たえがたく苦しい。どうにもやるせない。
【くんず(屈ず)】屈すの転。心が沈む。気がふさぐ。
【ひき立つ】車を止める。(見た目も良いように)きちんと並べて止めたと読んでおこう。

太井川(ふとゐがは)、別(べち)、仮屋(かりや)、苫(とま)、衣(きぬ)

にほんごであそぼに倣って、今日の名文
「あなたの岸に車ひき立てて、送りに来つる人々これよりみな帰りぬ」


5
竹芝伝説
今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、泥のやうにて、紫生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末見えぬまで高く生ひしげりて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所のらうの後の礎などあり。
いかなる所ぞ、と問へば、

これはいにしへ、竹芝といふさかなり。国の人のありけるを、火焚屋の火焚く衛士にさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つ造り据ゑたる酒壺に、さし渡したる直柄の瓢の、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ、とひとりごちつぶやきけるを、
紫生ふと聞く野:
古今集の名高い歌 詠み人しらず
紫の一本ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る

馬に乗りて弓持たる末見えぬまで:写実的で的確な表現だ。

ははさう、らう:不明だが、はは荘の領の後の礎
さか:不明
七つ三つ:ある程度大きな数量だと想像する。童謡「七つの子」の七つとも通じる民謡的な数字表現であろうか。
【など】とうして。なぜ。「なにと」の音変化。
【直柄の瓢(ひたえのひさご)】瓢箪を縦に割ったひしゃく。柄がなく、直接それを握るところからの称。

泥(こひぢ kohiji)、蘆荻(あしをぎ)、一本(ひともと)、生ふ(おふ)

その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾の際に立ち出でたまひて、柱に寄りかかりて御覧ずるに、このをのこのかくひとりごつを、いとあはれに、いかなる瓢の、いかになびくならむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾を押しあげて、

あのをのこ、こち寄れ、と召しければ、かしこまりて高欄のつらに参りたりければ、言ひつること、いま一返りわれに言ひて聞かせよ、と仰せられければ、酒壺のことをいま一返り申しければ、われ率て行きて見せよ、さ言ふやうあり、と仰せられければ、かしこくおそろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひたてまつりて下るに、

ろんなく人追ひて来らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとにこの宮を据ゑたてまつりて、勢多の橋を一間ばかりこほちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひたてまつりて、七日七夜といふに、武蔵の国に行き着きにけり。
いみじうかしづかれたまふ:「みかどの御むすめ」と同格

あのをのこ:
直接話法の中に作者の立ち位置が入り込んだもの。実際は「そのをのこ」または「そこのをのこ」と呼び掛けているはず。源氏物語でも直接話法の中に語り手の敬語が混じったりしている。

ければの連続:
最初読んだときには違和感があったのだが、朗読を聞いていると、たいへんに味わい深い。「思ひけれど」の着地感がまたすばらしい。明らかに意図的なもので、読み手に「あれっ何だ」と思わせる作者の罠のようなものか。作者が楽しく書いている様子も伝わってくる。

【やう(様)】外見にこめられた意味。子細。事情。道理。「ようあり」の形で用いられることが多い。

さ言ふやうあり:
こう言うのには、きちんとした理由があってのことなのですよ。皇女も男のひとり言を聞いたときに、「さるべきにやありけむ」と思うことがあったのだろう。デジャブのように「あ、これだ。これだった」と前世の記憶を思い出したような気がしたのかもしれない。

さるべきにやありけむ:
そうなる運命であったのだろうか。そうなるべくしてなったのだ。

それを飛び越えて:
男は皇女の方を見やりながら、橋を壊していった。時には手を振ることもあっただろう。一間ばかりを壊してから、しまった、皇女に背を向けて壊さなければならなかった、ということにようやく気が付いた。気が付くのが遅かった。男は泣き出しそうな顔をしつつも、それでも、皇女に向かっては笑って見せた。皇女は男の顔を見て「ああ、この男となら大丈夫」と思った。「さあ、それを飛び越えて来なさい」皇女の静かな声が聞こえてきた。男はいちかばちか、一世一代の大跳躍に挑んだ。

【をのこ】男の子。成人男性を「をのこ」と呼ぶときは、低いものとして扱う男性。下男、しもべなど。この男は、ここでは、最後まで「おとこ」とは呼ばれていない。

御むすめ(みむすめ)、来らむ(くらむ)「らむ」は終止形接続、
ろんなく(論無く)、一間(ひとま)、七日七夜(なぬかななよ)

みかど、后、皇女失せたまひぬとおぼしまどひ、求めたまふに、武蔵の国の衛士のをのこなむ、いと香ばしき物を首にひきかけて、飛ぶやうに逃げける、と申し出でて、このをのこをたづぬるに、なかりけり。ろんなくもとの国にこそ行くらめと、おほやけより使下りて追ふに、瀬田の橋こほれて、え行きやらず。
首にひきかけて:
目撃情報として、男の足が迅かったのだ。当然、作者の脚色だが、おもしろい表現である。

皇女(みこ)、香ばし(かうばし)「かぐはし」の音便
三月といふに武蔵の国に行き着きて、このをのこをたづぬるに、この皇女、おほやけ使を召して、われ、さるべきにやありけむ、このをのこの家ゆかしくて、率て行けと言ひしかば率て来たり。いみじくここありよくおぼゆ。このをのこ罪しれうぜられば、われはいかであれと。これも前の世に、この国に跡を垂るべき宿世こそありけめ、はや帰りて、おほやけにこのよしを奏せよ、と仰せられければ、

言はむかたなくて、のぼりて、みかどに、かくなむありつる、と奏しければ、言ふかひなし、そのをのこを罪しても、今はこの宮を取り返し都に帰したてまつるべきにもあらず、竹芝のをのこに、生けらむ世のかぎり武蔵の国を預けとらせて、おほやけごともなさせじ、ただ、宮にその国を預けたてまつらせたまふよしの宣旨下りにければ、

この家を内裏のごとく造りて住ませたてまつりける家を、宮など失せたまひにければ、寺になしたるを、竹芝寺と言ふなり。その宮の産みたまへる子どもは、やがて武蔵といふ姓を得てなむありける。それよりのち、火焚屋に女は居るなり、

と語る。
【ありよし(在り好し)】生きているのが快い。住みよい。
【れうず(凌ず)】ひどい目にあわせる。
【れうず(掠ず)】奪い取る。かすめ取る。鞭打つ。
【おほやけごと】公けに仕えること。公務。また、租税・賦役。

三月(みつき)、前の世(さきのよ)、宿世(すくせ)、宣旨(せんじ)

にほんごであそぼに倣って、今日の名文
「言ひつること、いま一返りわれに言ひて聞かせよ」


6
あすだ川、もろこしが原
野山蘆荻の中を分くるよりほかのことなくて、武蔵と相模との中にゐてあすだ川といふ、在五中将の、いざ言問はむ、と詠みける渡りなり、中将の集にはすみだ川とあり、舟にて渡りぬれば、相模の国になりぬ。

にしとみといふ所の山、絵よくかきたらむ屏風を立てならべたらむやうなり。片つ方は海、浜のさまも、寄せかへる浪のけしきも、いみじうおもしろし。

もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日ゆく。夏は大和撫子の、濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる、これは秋の末なればみえぬ、と言ふに、なほ所々はうちこぼれつつ、あはれげに咲きわたれり。もろこしが原に、大和撫子しも咲きけむこそ、など人々をかしがる。
あすだ川、すみだ川:
平凡社百科事典の隅田川の項目に、古くは「あすだ川」とも呼ばれたとある。隅田川を渡るときに、地元の人から、「すみだ川と言うこともあったようだが、今はあすだ川と呼んでいる」とでも教えられたのだろう。
だが、今作者が渡ろうとしている川はその「あすだ川」ではない。記憶の錯綜か。あるいは、武蔵の国の印象が悪すぎて、有名な「すみだ川」は相模の国の境でなければならないと、強引に物語を捻じ曲げたか。
伊勢物語には、「武蔵の国と下総の国との中に、いとおほきなる河あり。それを角田河といふ」とある。
ちなみに、現在の横浜あたりまで武蔵の国であったから、多摩川ではないというのが通説のようだが、どうだろう。分からない。

在五中将(ざいごちゆうじやう):
在原業平。作者不詳の歌物語、伊勢物語の主人公とされる。
皇族に生れ、臣籍に降って在原。五男であったため在五。行平の弟。

名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

絵よくかきたらむ屏風を:
絵のようだとほめている。絵の方が実物よりも上なのだ。これがこの時代の伝統的な価値基準であったとのこと。和泉に下るときには、住吉の浦を「絵にかきても及ぶべき方なうおもしろし」と記している。これも裏を返せば、本来は絵の方が上という価値基準に基づいている。浦島太郎の歌に「絵にも描けない美しさ」とあるのも同じで、この発想が伝統的な慣用表現となったのであろう。だとすれば、この価値基準は形式化しながらも近代まで受け継がれてきたことになる。

あはれげに咲きわたれり:
「けなげに」だろうか。「寂しそうに」だろうか。両方だな。

にほんごであそぼに倣って、今日の名文
「なほ所々はうちこぼれつつ、あはれげに咲きわたれり」


7
足柄山
足柄山といふは、四五日かねておそろしげに暗がりわたれり。やうやう入り立つ麓のほどだに、空の気色、はかばかしくも見えず、えも言はず茂りわたりて、いとおそろしげなり。
「四五日かねておそろしげに暗がりわたれり」:
薄暗い山道の印象が強くて、執筆時には、それが何日も前から続いていたように思い出された。この印象に基づいたものか。あるいは、暗闇の中から遊女が現れる、その場面設定としての効果を狙った誇張であろうか。

茫人さんは、山道に入ってから抜けるまでを四五日と見ておられる。足柄山を越えた後で振り返って、「四五日にわたってずっとおそろしげに暗がりわたれり」である。そうであればこそ、「麓のほどだに」の「だに」が生きてくるし、「足柄山といふは」とも自然に繋がる。これも、まず見出しのように全体を述べてから、詳細を述べる語り方。どうやらこれが正解のようだ。

【かねて】(日数を表わす語を受けて)…前から。
【かねて】以前からずっとその状態を続けてきたという気持を表わす。前から。今までずっと。
麓に宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇にまどふやうなるに、遊女三人、いづくよりともなく出で来たり。五十ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四五なるとあり。庵の前にからかさをささせて据ゑたり。

をのこども、火をともして見れば、昔こはたと言ひけむが孫といふ、髪いと長く、額いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕へなどにてもありぬべし、など人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌をうたふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、西国の遊女はえかからじ、など言ふを聞きて、
難波わたりにくらぶれば、
とめでたくうたひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなくうたひて、さばかりおそろしげなる山中に立ちてゆくを、人々あかず思ひてみな泣くを、幼き心地には、ましてこのやどりを立たむことさへあかずおぼゆ。
「遊女」:
親子三人の稼業と思っていたが、違うようだ。遊女は傀儡師や猿楽の一座に属していたらしい。年配の女は座長の妻かもしれない。二十歳の遊女が「こはた」の孫であり、「こはた」と言えば相手にも通じると思って紹介している。都にも名の通った遊女だったようだ。更級少女には知る由もない名であるが、その名を書き留めている。
遊女の芸能文化は後に白拍子を生み出す。その芸術的感性はこの時代から培われていたかもしれない。この夜、日常にはあり得ない美が出現した。作者も夢の中の出来事のように見とれていたに違いない。五十二歳の執筆時にも、ありありと思い出すことが出来たことだろう。

「いづくよりともなく出で来たり」:
物の怪が現れたとでも思ったか。そんな現れ方である。去り行くさまは「さばかりおそろしげなる山中に立ちてゆく」で、やはり幻想的だ。

「すゑたり」:
傘を据えたのではなく、遊女を座らせた。主語は年長の女だろうか。孝標一行の男たちだとすれば、遊女に芸を許したと取ることも出来るが、とりあえず年長の女としておこう。唐傘は大きなものだったと想像する。差し広げた唐傘の前が舞台になるのだろう。

「こはたと言ひけむが孫といふ」:
年長の女が不確かな情報として伝えたのではない。「けむ」は話を聞いた作者の側の伝聞推量。「いふ」は連体形で主格。

「きたなげなし」:貴族が庶民をほめる言葉としては、ほぼほぼ最高のほめ言葉だったらしい。ちなみに、乳母には「きよげにて」と言っている。

「さてもありぬべき下仕へ」:相当の家の下仕え。
「かからじ」:「かくあらじ」の変形
「さへ」:その上…まで。…までも。「添え」から出た語か。

「幼き心地には、まして…」:
大人たちは何度か経験していることなのだろうが、私は初めて遊女の歌を聴いたのだという思いか。あんなに騒ぎ立てて聴くものじゃない、静かに耳を澄ますべきだったのに、と大人たちを非難しているのかもしれない。自分が一番の理解者だと思ったかもしれない。明日もここに留まって、遊女たちが歌ったこの場所で、繰り返し思い出しながら噛み締める時間が必要なのだ。

まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中のおそろしげなること言はむかたなし。
雲は足の下に踏まる。山のなからばかりの、木の下のわづかなるに、葵のただ三筋ばかりあるを、世ばなれてかかる山中にしも生ひけむよ、と人々あはれがる。水はその山に三所ぞ流れたる。

からうじて越え出でて、関山にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走の関のかたはらに、岩壺といふ所あり。えも言はず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし。
「雲は足の下に踏まる」:
霧だろうか。足元もかすむほどの濃霧。雲の中を歩いているような気分になるだろう。あるいは雲海か。直接雲を踏んではいないが、「足の下に踏まる」の感覚はあると思う。雲海を見下ろしたとすれば、その様子は情感を込めて描写したくなるものだが、「雲は足の下に踏まる」だけである。雲海を表現するものだとしたら秀逸だが、執筆時の記憶に空想が紛れたとも考えられる。高く険しい山だったのだ。

「葵の世離れて生ひけむよ」:
葵祭の葵だ。その葵が都を離れた山中にあることを人々はあわれがった。
作者がこれを思い出すとき、世捨て人が寂しさと向き合っている姿として思い出されたのだろう。それで、「世離れて」なのかと。

「えも言はず大きなる石」:
しめ縄の張られた大きな岩だろうか。側面の穴から水が湧き出している。
最初、岩の上に立っている姿を思い浮かべたが、違う、見上げているのだ。

遊女(あそび)、三人(みたり)、西国(にしぐに)、葵(あふひ aoi)、
三所(みところ)、横走(よこばしり)、四方(よほう(方形))

にほんごであそぼに倣って、今日の名文
「月もなく暗き夜の、闇にまどふやうなるに、遊女三人、いづくよりともなく出で来たり」


Next Page
かめゐ
かめhr @ pluto.dti.ne.jp