home  index  Page        
昇順   更級日記を読む

85
後の頼み
さすがに命は憂きにも絶えず長らふめれど、後の世も思ふに叶はずぞあらむかし、とぞうしろめたきに、頼むこと一つぞありける。

天喜三年十月十三日の夜の夢に、居たる所の家のつまの庭に、阿弥陀仏立ちたまへり。さだかには見えたまはず、霧ひとへ隔たれるやうに透きて見えたまふを、せめて絶え間に見たてまつれば、蓮華の座の土をあがりたる高さ三四尺、仏の御たけ六尺ばかりにて、金色に光り輝きたまひて、御手、片つ方をばひろげたるやうに、いま片つ方には印を作りたまひたるを、こと人の目には見つけたてまつらず、われ一人見たてまつるに、さすがにいみじくけおそろしければ、簾のもと近くよりてもえ見たてまつらねば、仏、さは、このたびは帰りて、のちに迎へに来む、とのたまふ声、わが耳一つに聞こえて、人はえ聞きつけず、と見るに、うちおどろきたれば、十四日なり。

この夢ばかりぞ、後の頼みとしける。


86
六郎にあたる甥の来たる
甥どもなど、ひと所にて朝夕見るに、かうあはれに悲しきことののちは、ところどころになりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗き夜、六郎にあたる甥の来たるに、めづらしうおぼえて、

月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ

とぞ言はれにける。


87
今は世にあらじものとや
ねむごろに語らふ人の、かうてのち、おとづれぬに、

今は世にあらじものとや思ふらむあはれ泣く泣くなほこそは経れ

十月ばかり、月のいみじう明かきを、泣く泣くながめて、

ひまもなき涙にくもる心にも明かしと見ゆる月の影かな


88
年月は過ぎ変りゆけど
年月は過ぎ変りゆけど、夢のやうなりしほどを思ひ出づれば、ここちもまどひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどのことは、またさだかにもおぼえず。

人々はみなほかに住みあかれて、ふるさとに一人、いみじう心ぼそく悲しくて、ながめあかしわびて、久しうおとづれぬ人に、

茂りゆく蓬が露にそぼちつつ人に訪はれぬ音をのみぞ泣く

尼なる人なり。

世のつねの宿の葎を思ひやれそむきはてたる庭の草むら


89
更級日記について
菅原孝標女(たかすえのむすめ)の作。
作者五十二歳のときに書かれたものと思われ、物語に憧れていた日々への懐旧と悔恨、晩年の諦めなどが綴られている。実際、後悔の思いもあったであろうが、その思いは対象化されていて、この人の後悔は言葉通りに受け取ることが出来ない。当てにならない後悔を描いているようでもある。更級日記を書いているとき、作者は充実感を覚えていたはずである。
懐旧は執筆時の視点で顧みた回想ではない。五十二歳の分別を排除している。物語の作者として、十三歳の少女を瑞々しく描き切っているのだ。最後まで物語とともにあって、物書き、表現者として生きた人だと言えるのではないだろうか。

同じ作者のものと言われている「夜半の寝覚」や「浜松中納言物語」には、発表する場として祐子内親王のサロンがあったと思われる。更級日記はどうだったのか。人に読ませることを前提に書いてあるのだが、ごく身近な人に見せる程度だったかもしれない。170年後、藤原定家が書き写して世に出すまで、菅原家の片隅に眠っていたらしい。

その後、大正期に佐佐木信綱などによって再々発見される。
そのころ西洋の文学にばかり目を向けていた文学者たちは目をまんまるにして驚いた。

神西清は小説「見守る女」の中で、更級日記を薦める恵子に、
「ボ-ドレ-ルだって、敵わないことよ。」
と、言わせている。

堀辰雄は「姨捨記」に、
「異国の文学にのみ心を奪はれて居つたその頃の私に、或日この古い押し花のにほひのするやうな奥ゆかしい日記の話をしてくだすつたのは松村みね子さんであつた」
と書いている。
松村みね子はアイルランド文学研究者であり、歌人。

「見守る女」と「姨捨記」は古典講読で語られた講義内容の受け売りである。ラジオを聞いていて、思わず膝を叩きながら、更級日記の作者に成り代わって誇らしく思った。

作者の人柄を思い描いてみる。
世間的な人ではない、これは確かなようだ。天邪鬼なところもある。どこか近代的な意識を持った人のようにも思える。
おそらく他人のうわさ話をしない人である。うわさ話をしないから、他人からどう言われているかなどは、実感としては興味を持てない人だと思う。源氏物語では、うわさになることを恐れる場面が多く描かれているが、なぜそんなことを気にするのか、と不思議に思いながら読んでいたかもしれない。

更級日記を映画にするならば、主人公は古川琴音だろうか。上野樹里も考えてみたが、上野樹里には姉ちゃんを演じてもらいたい。不思議な人だ。いつかタイムスリップ出来るようになったら是非とも会いに行きたい、そんなゆかしい姉妹なのである。


90
更級日記を読む
更級日記との出会いは、浪人時代の模擬試験であった。
  源氏の五十余巻、櫃に入りながら、得て帰るここちの
  うれしさぞいみじきや
この文章の素直さにやられてしまったのだ。

さっそく紀伊国屋に向かった。
「更級日記を探しているんですけど」
店員さんはさっと身をひるがえして岩波文庫を取り出してくれた。
「大学のゼミで使うんですか」
「いや、あの、浪人生です」
「・・・・・」
このとき、一瞬、間の空いた店員さんの笑顔を見やりながら、私はなにか得意げな気持ちになっていた。

御禊の日に初瀬詣に向かう作者の一行は、行き違う人々にことごとく嘲笑される。その様子はこと細かく描かれているが、その時の作者はどこか得意げである。このくだりを読んだとき、更級日記を買い求めた日のことを、にんまり、思い出したのであった。

受験勉強が終わると更級日記も遠く霞んでいくように忘れていった。それから三十年が過ぎて、NIFY短歌フォーラムで、茫人さんの「更級日記研究」連載が始まった。初瀬詣のくだりもこのときに読んだのである。わたしの更級日記が復活した。「さるべきにやありけむ」と言いたくなる。

更級日記の門出からちょうど千年後の2020年、ラジオの古典講読は更級日記であった。加賀美幸子さんの朗読はありがたく、繰り返し聞いて飽きが来ない。やはり「さるべきにやありけむ」なのだ。

かくして「更級日記を読む」なるものを書いてみようと思ったのであるが、ここから、声の調子を少し落として、突然、「ですます調」に変わります。

「更級日記について」を読み返して、偉そうに書いてやがるなって思いました。ほんとうは何も分かっていないのに、断定口調で書いたりして、でもこれは簡略化のためでもあるのです。断定助動詞の「伝聞推量用法」と呼ぶことにします。すこし無理しているようにも思いますが、まあ、身の丈に合わないことを始めてみるのも、また面白かろうと思うことにして、とりあえずやってみましょう。

本文は「更級日記研究」に倣って八十八の段に分けています。これは「新潮・日本古典集成」に準拠したものだそうです。同研究などを参考にしながら、注釈やら、語義やら、感想やらを書き添えていこうと思っています。全くの素人の個人的な覚え書きです。


91
人物相関メモ
作者は菅原孝標(たかすえ)の娘、1008年生れ。

菅原孝標は菅原道真の5世孫。若くして父に先立たれたため官途もはかばかしくなかったと思われる。973年生れ。

母は藤原倫寧(ともやす)の娘。生れは975年頃か。
母の姉、作者の叔母は「蜻蛉日記」の作者、道綱母(935‐995)。
ただし、伯母と母は大きく歳の離れた異母姉妹。

兄、定義は氏長者で大学頭文章博士となる。

作者は、後朱雀の娘、祐子内親王家に出仕。
祐子内親王の母、嫄子は後朱雀の皇后。一条の孫、頼通の養女。

継母(上総大輔)は、後一条の中宮威子(道長の三女)に仕えた。
継母の叔父、高階成章は、大弐三位賢子(紫式部の娘)の夫となる。
継母は987~90年頃の生れだと想像できる。賢子は年下の叔母。

紫式部、生れは970年説、973年説などあり。
源氏物語は、1001年頃から書き始め、1010年頃に完成。

紫式部の娘、賢子、大弐三位は999年生れ。
後冷泉の乳母となり、のちに従三位、典侍(ないしのすけ)。
作者は賢子になりたいと思ったかもしれない。あるいはちょっと手の届かないライバル。

清少納言は966年頃の生れ。枕草子は、996年頃から書き始める。
1000年に中宮定子が没した後も、1008年頃まで書き続けた。

一条 三条 後一条 後朱雀 後冷泉 後三条

後朱雀のもう一人の妃、禎子は後三条の母。ひょっとしたら、「故宮のおはします世ならましかば」の梅壺の女御かも。

橘俊通(としみち)、作者の夫。6歳年上。1058年没、作者51歳の年。

源資通(すけみち)、春秋の定めのお相手。3歳年上。
時雨の夜は1042年。資通38歳で蔵人頭になったばかり。蔵人頭の多くは近衛中将も兼ねる。つまり、頭中将だ。

ついでだから、
猫になった姫君(侍従の大納言、藤原行成の娘)の夫であった人物の末裔として、後に藤原定家が生まれ、その定家が更級日記を後世に残すこととなった。

建礼門院右京の大夫は、藤原行成の末裔にあたる。
右京の大夫は定家の求めに応じて家集を提供している。


Page Top
かめゐ
かめhr @ pluto.dti.ne.jp