事例


 ここにあげられた事例は、よせられたもののうちのごく一部である。多くは、筆者の所属している東京都立大学での事例であるが、他大学のものも復数ふくまれている。また、ここにある事例を見て、あたかも自分の大学の出来事をみてきたかのようだ、という感想を送ってくれた人もいた。これらは、決して特殊なものではない、というところに事態の深刻さがある。また、こういった問題に共通しているのは、大学という閉じた空間の中での構造的弱者である学生本人が、教員の「指導」をうのみにした挙句、あたかも何もかもが自分のせいであるように受け止めてすべてを自分のせいにして傷心していくところにある。それは、セクハラと似たような構造といえるかもしれない。弱者は、その立場の弱さゆえにさらなる弱者となっていく、という悪循環となってしまう。

 さらに、大学には治外法権であるところの「大学の自治」というものがあって学生の立場をさらにないがしろにしている。これは、教員が理不尽なやり口で学生の単位や卒業、学位をはばんだり恐喝の材料にしても、「自治」を口実にして様々な批判から逃れ、責任回避ができてしまうのだ。相談を受けた教員も他の研究室の学生の処遇や講議をとった学生の単位については何一つ口をはさめない、ということがある。たとえ、それがどんなにひどい事態であっても何もできないのだ。それは、内政干渉なのであり、自治に守られた大学の平穏の根幹を揺るがしてしまうのだ。いいかえるならば、大学の自治とは弱者であるところの学生をくいつぶすことでかろうじて成立しているものだということだ。これは、いわゆる「大学改革」が教員の待遇改善要求の言い換えでしかなく、結局は大学の自治を盾にして現実の大学の環境を一切改善できていない理由でもある。


 自分のおかれた状況は、特殊なものではないこと、続く他の学生達が同じ目にあわぬようにするためにも、きちんと自分の負った被害は世にアピールしなければならないこと、その際に、組織の中には味方はいない場合が多いこと、等、ここで示しておきたいポイントは数多い。また、組織は多くの場合こういったアピールを好まない、という事実もある。たとえば、私自身の学籍が来年度の更新を拒絶されることもありうる、という「アドバイス」も学内の人間から受けているくらいなのだから。

 参考資料のコーナーにも案内したが、三省堂より1997年の夏に出版された「キャンパス性差別事情 ストップ・ザ・アカハラ」は関連する議論を適切にまとめあげた好著である。特に、大学という環境がかかえもつ構造的な問題、人事の不鮮明さ、自治という名目の無責任、監督組織不在による暴走、公務員という「安定した」職環境によるさまざまな弊害等について詳しい。本「事例」でとりあげられているケースと比較した時、そのあまりにも符合しすぎるほどの類型的なハラスメントの数々の重さを感じずにはいられない。ぜひ、一読をおすすめする。


事例1

事例2

事例3

事例4

事例5

事例6

事例7

事例8

事例9

事例10

事例11



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