事例10

「どうして休学でなくてはならないのですか? これまで何度も説明しましたように、現在の研究室の状態、教授からは甘ったれている、とか、そんなことならばやめるしかないでしょう等といわれ、研究室内にはこちらの体調の悪さや医者にかかっているということを公衆の面前で嘲笑うような助手がいるようなこの状態で、また、テーマについても、教授自ら、この仕事はもっとはやくにちゃんとした結果がほしいから君にはまかせられない、キミはなにか違うテーマにしなさいなどと言うような状態で、いろいろと半年以上悩んだ結果が退学なのであり、何ヵ月休学しようともその気持ちに変わりがありようはずがない、と何度もいったはずです」

「それは、お金のはなしだね。君がいまやめると研究費を返さなくてはならなくなってしまう。授業料は払ったんだろ? だったら、九月までは休学というかたちで在学していてほしいのだ。 君の気持ちはわかったから、お願いだからぼくたちのためを思って休学ということにしてくれないか、ね?」

 この学生は、一年前に所属していた研究室で、体力的な問題と、指導教官と実験内容に関する議論が満足にできなかったことについての不満から、大学院からの研究室を変更し、一年と少しがたったところだった。新しいテーマは植物材料を用いての酵素の精製だったのだが、テーマをすすめていくうちに、いくつかのいきづまりにあい、自分なりに悩んだ結果、このままでは修士の論文をまとめるにたる結果はでないだろう、と判断して指導教官に相談したのだが、その際には「ちょっとためしてだめなら、そうやってすぐに代えるのですか? それは考えが甘い」といわれ、それならばと、できるところまでは受け持った責任としてやりとげようと決めた。それで修士論文がかければよし、書けなかった場合は、その時点で大学をやめよう、と心に決めた。その後、再度指導教官とテーマについての話をした際に、この決意を述べたところ、「それではこちらは間に合わない」といい、「それなら大学をやめたらいいでしょう」といわれた。(「こちら」とはなんなのだろう) その後、ただでさえ、話し合いの場が少なかった教官との関係が、さらに遠ざかる。結局、彼のテーマの次のステップを他の人間にまかせる、と教授が公言した時点で、学生にとっての果たすべき責任も消失し、一刻もはやく退学したい、というのが希望となった。その過程で、学生には身体上のはなはだしい症状があらわれ、時には感覚が消失し、時には身体が麻痺し、という具合だったのだが、病院での診断では何一つ異常はみつからなかった。カウンセラーの紹介で心療内科に通い、とりあえず大学を休むことを勧められる。上の対話は、その中で退学の意思を教員に伝えた際のものだ。

 実際には、年度初めに設定された大学院生一人あたりの研究費は、その年度の途中に当該大学院生が退学したとしても返さなくてはならないという事実はない。この嘘が判明してもなお、研究室の教員は、とにかく、なにがなんでも、本人がどういう希望をしめそうとも、退学を思いとどまらせて休学にさせようとする。それは、あまりにも必死な行動であり、いかに学生が言葉をつくそうとも、けっしてそれらに耳をかそうとせずに「休学か留年にしてくれ」の一点張りだった。


 問題は、学生の権利というものを露程も意に介さない教員がごろごろしている、ということにある。小学校や中学校の義務教育ではないのだから、学生は自らのために学業の場に身をおいているのだ。そこでの進退は学生本人のきめるべきことがらである。この研究室の「問題」は、実は彼がはじめて直面したわけではない。十年前にも同様に精神的なストレスに耐えながらかろうじて修士を終え、就職した学生がいた。彼女は、結局、できるだけ研究室に人がいない土日に大学にきて実験する、というスタイルで自分の精神状態と実験の環境を確保してはいた(たまたま、私は当時向いの実習室に常駐していたので話相手となったり、実験や資料の整理を手伝ったりしていた)。ストレスを与えている張本人である現教授は私のところにある日やってきてこういったものだ。

「彼女は、いまとても大変な時期なので、あまり話をしたりしないでほしい」

と。どうして「大変」なのかは彼の頭の中にはまったく存在しない問題だった。十年後、彼女についてこの教授は「あのひとは、わがままなところがありましたからねえ」と、しゃあしゃあとのたまったそうだ。今回、体を壊しながらもそれでも半年なんとかがんばってきた学生も、研究費をかえさなくてはならなくなった腹いせ(少なくともここの教員はそう信じているらしい)に、たぶんそのうち「あの学生もわがままでしたから」と軽くかたづけられてしまうのだろう。これだけではない。この研究室では卒業した後、自分の連絡先を研究室に明かさない学生の数は無視できないほど多い。ここは、そういう研究室なのだ。彼女は、その後私に「ごめんなさいね、あんな先生で。あれで、悪い人ではないんだけど」と痛々しくも言ってくれた。

 彼は、マメ科植物のmRNA合成系を研究していた。今回の件について、教授や助手のいい分はこうだ。「彼には、今のテーマをちょっとずらすだけの、ほとんどかわらないテーマでやってみてはどうか、といったのだけれど、わかってもらえなかった。ほんのちょっとずらすだけで、やることが大きくかわる、ということはまったくないのに」、と。実際はこうだ。生化学的な手法でmRNA合成系を解析していた人間に、突然「免疫電顕なんかどうでしょうね。あれはカンタンそうだし」ということで電顕屋になれ、という「ずれ」だったのだ。これに関して免疫電顕なんかは学生実習程度の集中力があればできる仕事で、体力がなくてもただ手を動かせば結果が出る、といいきってもいる。免疫電顕に対しても、学生実習に対しても失礼な失言なのだが、こんな教員の実習を受けている学生達こそ、いい迷惑だろう。もちろん、こんな教員どもの指導を受けている大学院生にとっても、実に迷惑で無責任なはなしだ。

 「他の研究室に説明できないし、教授会でも承認してもらわなくてはならないから、退学する理由の裏付けとなるものをよこせ」などということまでいっているという。これについても、「退学の際に裏付けが必要」などという事実は存在しない。学部に問い合わせたところ、当人、保証人の署名と理由の付された用紙が提出されればそれで十分ということであった。他研究室はおろか、教授会で指導教官が「説明するための裏付け」など退学に関しては必要ないのである。どうして、こういうすぐばれる嘘を連発してとりつくろおうとするのだろう。自分のために必要な嘘なのだろうが、それにしても、この教授が教授会というものをどういう目で見ているかがあまりにもよくわかってしまう嘘でもある。

 もし、彼がこのまま教員に強制されるかたちで休学扱となったり、あるいは、「研究室には何の問題もない。ただ、彼が個人的におかしかっただけだ」といった「裏付け」が他研究室や教授会に流れたならば、これは学生に対する人権侵害の事例として、明白なものとなるかもしれない。あまりにも酷さすさまじく、信じ難いほどであるが、これが「教育」を御旗としてかかげる大学研究室のひとつの実体なのだ。問題の根は、あまりにも深い。


 たとえば、この記述自体に対して、「かたよっている」、「おおげさにかいている」、「名誉毀損だ」といった批判が陰ではでまわっている。ただし、ここにあるそれぞれの内容そのものを「虚偽」とはいえない事情が彼らにはある(実際、事実なので彼らには否定できないわけだが)ため、「彼は病気だから」の一言で、なにもかもをかたづけようとしている。それこそが「名誉毀損」になりうることなど考えもしないで。このままでは、学生がいなくなった後、彼の名誉は傷つけられほうだいということになりかねない。ある助手は、このページを書いた人間に直接抗議する、と発言したらしいのだが、現在までのところ、私のところには何一つ彼等からの接触はない。これは、セクハラやイジメの事例で、「する側」は必ず「そんなつもりではなかった」「おおげさにいいたてている」「こっちこそ名誉毀損だ」と主張して「自分たちこそが被害者なのだ」という恥知らずなアピールをしたがるのと似ている。だまっていた場合、被害を受けたほうの社会的立場がさらにあやうくなることまで似ている。セクハラも、今回の事例も、もし、なにもかもが水面下でいつものとおりにごまかされていたら、後に残るものは「あの学生はちょっと精神的におかしかったからねえ。ま、病気だったんだからしかたがないけれど、あれにも苦労されられましたよ。こちらは誠心誠意をつくしたのですが、学生がわがままでしたから」といった一方的な結論だけであったろう。事実、過去の出来事はすべてそうやって処理してきているのだから。立場というものの違いによる構造的な弱者に対して、理不尽な態度をとってまで自分たちのなにがしかの財産やプライドを守りたがる人間、そのためには他人などどうなっても構わないと考えている人間というのは、結局同根の魂をもっているのだろう。 


解決:
 今回の問題の根幹にあるものは、学生と教員とのすれちがい、コミュニケーションの不足である。もっとも顕著だったのは、実験の結果について自由に語り合い、意見を出しあうという風習がなかったことであろう。学生は、実験の結果がでると紙の上にまとめたものをつくり助手に見せ、その上で改めて助手といっしょに教授に見せにいく、というスタイルとなっている。このやり方では、ある程度のまとまった結果がでない限り学生は実験についての報告をしずらくなる。ここに存在しているのは一種封建的なピラミッド体質である。いわゆる講座制の問題点なのだ。学生がなかなか報告できずにいる間に、教員側は経過時間を数えて、これくらいはできたはず、という認識に勝手に到達するし、往々にして学生はどこかでいきずまっていて懸命に現状打開を試みている、というような擦れ違いを生じてしまう。その結果、学生に期待していた教員ほど、実際には自分の期待したようには実験がすすんでいなかった、ということを知った時点で、その期待が落胆と失望に転化する。もちろん、この「期待」というのは学生の研究成果に対する期待ではなく、奴隷が産み出す収穫を市場で換金したときの金勘定という意味の「期待」なのだが。これは、同様に、研究の方針についての理解においても学生と教員との間で大きくすれ違っていくことを意味する。そもそも、学生は教員がただの奴隷使いだなどとは思っていないのだから。もっとも、それ以前にここには士農工商、もとい、「教授・助教授・助手・他研究室の教員・事務職・一般人・実験材料」のそのさらに下に「学生」が位置付けられたヒエラルキーが存在する、ということからして問題なのだが。

 ここで、今回の事例は奇妙な方向に迷走していった。学生は、自分の限界をいちはやく見極め、また、教員との関係にも見切りをつけ、退学を決意したのに対し、教員側はなんとしてでも退学をやめさせ、せめて休学させるように、との方向で尽力してしまったのだ。擦れ違いという意味ではここでの擦れ違いが最も顕著なものであった。退学をやめさせるために、教員側は手段を選ばず、言葉を選ばず、という愚策にでた。その過程で、名誉毀損ともとれる失言、暴言が大量に吐き出される。いわく、「彼はまともな状態ではないから」、「彼とは意思の疎通ができないから」、「彼は病気だから」、「彼は自分の病気をなおそうとしないから」、「客観的な事実として彼は医者に通っているのだから普通の状態ではない。こちらのいうことをすべて悪く取るのだ」などなど。また、その際に使われた方便が「研究費をかえさなくてはならなくなる」であり、「説明しなくてはならないから医者の診断書を」であった。これらは、みな、なりふり構わぬといってよい態度であり、あるものは教員として決していってはならぬものであるし、またあるものは虚偽のものですらある。どうして、こんなにしてまで休学にさせたかったのか。他者に対する説明では、教員はこの学生がいかに研究にむかないか、いかにこの学生がいることで研究室の他の人間にストレスがかかるかを滔々と説明する。この研究室での研究にはむいていない、と明言しておきながら、しかし、その当人が研究室を離れる、と発言したときには執拗にそれをとめようとした。これはなぜか。本当に学生がむいていないのであれば、できるだけすみやかに違う人生にむけて一歩をふみだすことこそ双方にとって正しい選択なのだが、それをひたすらに拒否したのは何故か。

 思うに、彼等教員にとっては「研究者以外の人生」というものが想像もできなかったのだろう。つまり、退学、すなわち研究歴の途絶は人生の敗北を強く意味し、しかも、それは一種脅迫観念的なものであったのだと思われる。閉鎖した象牙の塔のかかえもつアンビバレントな側面、社会に対してえらぶる分、社会に対して抱いている本能的な恐怖心のあらわれといえるかもしれない。これは、たとえばこの研究室では学生が研究以外のことに時間を費やすことをことのほか嫌う、というところにも現われている。留学生が日本語を学ぶ時間すら認めない、というほどであり、また学生の研究時間の妨げとなると見るや、他所の学生にまで忠告するほどでもあったのだから。これは、客観的にみれば、あるものはやはり人権の侵害であり、あるものは不当なしめつけであり、またあるものは明確なイジメなのだが、そこに至るこの経路は、おそらく「研究歴」が途切れる、ということに対する恐怖、研究から離れて社会へ直面する恐怖が「教育」と化したのだろう。したがって、学生の「将来のために」退学を思いとどまらせることこそが、彼等の教育者としての一つのノルマ、あるいは脅迫観念となっていたのではないだろうか。ほとんど、妄執ともいえるこれは、教員という職が人間にあたえるストレスとプレッシャーの結末としての人格の崩壊ととってもいいだろう。事実、大学院を修了してから、つまり、学位をとってからは一定年数の間は「食えないのがあたりまえ」であり、そうでなくては一人前ではない、という時代があった。「きみはどれくらいの期間食えなかった?」というのが挨拶になるほどである。就職したい、とか、他の人生を探したい、というのはこういう人種にとっては唾棄すべき負け犬の妄言となり、そういう学生を輩出した研究室という汚名を冠されるくらいなら差別でも人権侵害でもなんでもやる、というなりふりかまわぬあせりと恐怖症があるのだといえる。

 ここでの悲劇は、この「思い」の深さに端を発していた。この場合、どうあるべきであったのか。学生の研究に対する適性を的確に判断することも教育の一つの重要なポイントであり、また、この判断抜きには、そもそも教育などおぼつかない。特に、この場合、すでに他の研究室との決別を経験してきた学生を受け入れたのだから、この点についての予備知識は受け入れる教員側には十分にあったはずである。従って、修士課程のテーマを決める際にも、この点についての考慮と話し合いをもつことが可能だったはずである。この、初めの段階で、学生を読み誤った、といえるのではないか。優秀な学生を期待する教員にとって、真摯で責任感あふれる学生は優秀以外のなにものでもない。ここに、学生に対する過剰な安心と、結果としての放置が完成してしまう。また、研究という一軸をもって、研究者を計る定規とし、また、学生を判断する規範としすぎる、というこの研究室独特の潔癖さによって、学生自身の逃げ道もなくなっていく。

 教員サイドとしては、この学生がここでの研究にむかないのであれば(そして、そのように教員自身明言していたのだが)、なるべく早いうちに、他の研究室、他の大学にうつるか、あるいは、研究者以外の人生を選択肢にいれるようにすすめる、ということができたはずである。また、教育対象となる学生が千差万別である以上、研究室に「あわない」学生が時に現われることは一種の必然であり、それをもって何がしかのデメリット、あるいはペナルティを連想するのは間違っている(最も、研究者社会に対して教員が気違いじみた妄想と幻覚を抱いている場合に限って、異なる結論に到達するのだが)。従って、教員が教師であったならば、学生が自ら退学を決意するよりも前に、この点について話し合い、最も学生にとって無理のない人生を選択しうるように運ぶ、というのがやるべきことであっただろう。たとえば、お茶のみ場で、和気あいあいとしたなかで、教師も学生もなくおしゃべりの一環として、最近の結果や自分のアイデア、ディスカッションについて先輩後輩、教員いりみだれたところで開陳し、立場にかかわらず率直な意見をだしあう、というようなシステムであれば、この問題は随分解決していたのではないか。それができないのは、教員が自分が教員であるというただその一時をもって学生に対して偉そうなそぶりをとりたい、身分の違いをみせつけたいという場合なのだ。

 「向かない学生」に対して、しかし、「研究歴の切れ目は人生の終わり」という強迫観念が「向かない学生をやめさせられない」というジレンマを産んだ。「やめてもいくところがない」という考え方で退学を拒絶する。本人の退学の意思を尊重する親を大学によびつけ、子供を思いとどまらせないのは親として無責任だ、などという無礼な放言までしてのけるという暴走ぶりまでみせるに至った。これらは、みな「研究者」であり続けることへの執着の現れであり、そこに人生の完結をみている教員であればいざしらず、これから自らの人生をつくりあげていく学生にとってはこんなものは無駄な足枷以外のなにものでもない。教育というものは、学生のためにあるのであり、教員のためではない、ということを自覚するのはこんなにも困難なのだろうか。特に、専門化の著しい、競争の激しい分野ほど、そういう傾向があるようにも思える。教育は、まず第一にコミュニケーションからはじまるはずなのだが。

 結局、教員と学生との間のつながりが「研究」によってしか成立しなくなる、というところにこそ問題がある。研究室のシステムは一朝一夕でできあがるものではない以上、ここに即座の解決を求めるのには無理があろう。事実、この研究室できちんと大成し、活躍している人間もいるのであり、研究室としての業績も別に行き詰まっていたり停滞したりしているわけではない。金銭的にも、学生の研究費にたよらなければならないほど危うい運営をしているわけではない。中には、席料と称して研究費をまきあげることを目的としたあげく「研究費だけはらいこんで、よそで研究はしてくれる人間がいっぱいこないかなあ。宣伝しようかなあ」などとやる下賎の輩もいる(事例2、3の助手である)この教室で、これは貴重な環境かもしれない。従って、ここに必要だったのは、当事者間の交通整理であった。学生が容易に話をすることができ、教員もその言葉を中立者の言として尊重できるような交通整理をする立場、一種のカウンセリング機能をともなった第三者としての相談役というものが必要だったのではなかろうか。

 結果として、この学生は退学届けを事務に提出することについて、教員との合意に達することができた。そこにいたる心身の疲労はすさまじかったが、これで一段落となるであろう。問題は、いかにしてこのような不幸な出来事の再発をふせぐか、いかにして、現在他の研究室、他の大学で進行しているであろう、第二、第三の事例を未然に発見し、解決していくか、という点につきる。本当の、解決はこれからなのかもしれない。

 ささやかな後日談だが、この後、この研究室のある助手は周囲に学生を何人か集めたところで「あの阿部のつくっているホームページは、阿部が自分でやったはずがない。あれはきっと阿部の指導教官が阿部をそそのかしてやらせたのだ。したがって、阿部の指導教官は自分に謝罪する必要があるのだ」とのたまった。なんともいえぬ恥ずかしい論理だが、ようするに彼らにとっての「研究室という絶対君主制」はそれほどまでに強固なものなのだろう。もちろん、僕が誰かに「そそのかされた」などという事実はないし、ましてやそこに僕の指導教官がかかわったという事実もない。このコーナーは、トップページに明記して有るとおり、僕、阿部道生個人によって作成されているものであり、それ以上でもそれ以下でもない。件の助手氏は学生にはそういうことをのたまいながら、僕のところにも僕の指導教官のところにも謝罪をもとめるといった抗議はよこしていない。どうも、自分よりも立場の弱い人間にしか告白できない類のことらしいのだが、学生の親を無礼にも大学によびつけるほどのゆがんだ度胸はある癖にどうしてこういうところで筋をとおせないのだろうか。ここの学生は、結局、とくにこれ以上のトラブルもなく(すでにこれだけでも十分なトラブルを研究室から背負わされているわけだが)、1997年7月一杯での退学が認められた。もちろん、その際に医師の診断書など必要なわけもなく、教授会でもなにひとつ問題なくみとめられたものだ。当該研究室では、年度が終わるのをまたずに、すでにこの学生の名前を研究室の表示から消し去った。こういうところひとつとっても、反省無く忘れようとしている、というのは、今後もまた同様の問題をここから排出する可能性が高いということなのかもしれない。どうも、この問題は予断をゆるさぬ状況のようである。

 反省無く、は、同時に記憶力や責任意識の有無とも密接にかかわっている。この助手が、当該学生が「病院に行っているくらいだから普通ではない」と強弁した論拠の一つは「遠心分離機の操作ミスによってつぶれた遠心管」に代表されていたし、実際、いつ誰がその話をしにいっても即座に「ほら、こんなにつぶれて。ひどいでしょう。へたすると我々の命があぶなかったんだから」といえるように常時自分の机の上にその「つぶれた遠心管」は常備されていたのだけれど、その「事故のあった実験」で、まさにその助手本人が、学生が遠心分離機に遠心管をセットする際に直接の指導を行い、見ていたほどである。つまり、「つぶれた遠心管」に関する指導責任は、「その場で直接の指導をしていた」この助手個人にあるのであり、「へたするとこの助手のおかげで命をうしなっていた」とはまさに学生のことだった。このあたりの記憶力のなさ、責任感のなさには、実に恐ろしいものがある。自分に責任がふりかかってきさえしなければそれでよく、学生の命などなんとも思っていないのかもしれないが。

 大学の総長も事務などを通じて今回の件についての情報収集をしていると聞く。このコーナー自体、総長は目をとおしていることも確認されている。そういうはなしが聞こえてきた時、この研究室の教授は突然頭をまるめてしまった。別に、そのまま禿頭を続けるつもりがあるわけではなかったことは、その後はえてきた頭髪をそるでもなくそのまま毬栗状にのびるにまかせていることからもあきらかであった。また、「女子学生が気持ち悪がるから」という理由で一時期は常に帽子も携帯していたところからみても、積極的な意思あっての禿頭ではなかったことがうかがわれる。「教授の動向に常に従う」はずの当該研究室の二名の助手達は、すくなくてもいまのところ頭を丸める気配はない。学内では「いつまるめるか」という興味が満ちているのだけれども。