事例8

数本の筆頭著者論文を持ち、学生を指導する能力も定評がある助手が、特に理由も示されないまま昇進人事をつぶされる。(その際に、ある助手なぞは自分の研究室に他の助手をよびつけては「あれにはいれるな」と裏工作を謀ったほどである。結果、その研究室に所属する学生は、教授の退官後は指導教官不在のまま、中途半端な境遇で学生生活を送ることを強いられたのだが、そのよう中途半端な状態が2-3年継続するのは仕方のないあたりまえのこと、として逆に学生はその程度のことは覚悟しておくべきある、という態度をとる助教授まであらわれた。ちなみに、つぶれた人事は当該所属研究室に知らされぬまま、密かに昇進人事ではなく公募人事とされていた。また、公募の結果、業績的にも他にすぐれた候補がいなかったのに対して今度は「手続きが不備だからこの投票自体を自分はみとめない」というアジテーションを投票時に行い芝居かがった態度で大騒ぎして投票を棄権するような人間までいた始末。結局、学生の所属している研究室の存続など二の次三の次とされたガクナイセージの結果、学生の教育という視点は、完全に欠落していた。


解決:
 上記状況に対して、学生生活・研究生活に対する不安定さを問題とした大学院生会が教員への質問状を提出したところ、全体の1/4程度の教員しか返答をよこさず、かつ、その解答者のうちの数名はあきらかに学生を小馬鹿にしたような、なんともいいようのないいいかげんな返答をよこした。それは、そもそも日本語として満足な文法構造をもたないいいかげんな作文であったり、あるいは満足な署名もなされていないおあそびのようなもの(カナで苗字だけかきなぐってあった。ちなみに、この教員は院生会の書類に対して著者のきちんとした署名が無いから無効だといいはった御仁である)であり、この段階でもやはりそういった教員は学生の立場というものを真摯に責任もって考える、ということをしていないことが明瞭となった。

 これも、現在進行形の問題である。以下に、代表的ともいえる回答の例をあげる。学生に対する無責任の極み、論旨のえげつないすり替えの数々、そして、驚愕すべき日本語としてのよみにくさなどは、そのまま、学生に対する悪意の一つのあらわれなのかもしれない。きょうびの政治家も官僚も、もっとましな文をかくだろうに。ちなみに、句読点の位置、スタイルまで原文のママである。もっとも、これは返答の中でも圧倒的に誠実なものである。また、本来ならば自らの昇進にも関連する問題である以上、別の視点からの当事者である他の助手連は、誰一人として回答をよこさなかったという。したがって、以下の回答は、「回答がきた」だけでもこの教室の教員としては驚異的な例なのだ。

(当該研究室)の今後について

・生物学教室では.”研究室は教授会構成員を含む教員2名以上で構成される”ことになっています.この研究室の要件が満たされなくなったときでも,当然に研究室がなくなるわけではなく,また当然に要件を満たすようにすぐ人事選考がおこなわれるというわけではないというのが,私の理解です.つまり要件が満たされなくなったとき,研究室は改組されるかもしれないし,補充の人事選考が行われて存続するかもししれないということです.改組または人事選考は定められた手続きによって個々に進められますから,場合によっては時間がかかることがあります.私は,退職・転出・事故等によって要件を満たさなくなった研究室が,変則的な形で存在する期間は2-3年以内に留めるべきだと考えています.教員の定年退職後の場合は,あらかじめそういう事態が予想されるわけですから,大学院生がその研究室を希望したということは,そういうリスクを承知だと考えていました.(もし私が入試の口頭試問の担当者だったら,忘れていなければ確認していたと思います.)もし,当然存続するものと考えておられたとしたら,私たち教員側の説明不足で申し訳なく思います.

・現在の(当該)研究室の今後については,少なくとも人事委員会で引き続き検討を進めていく案件だと考えています.ただ,先の人事選考で提案とその否決があったところなので,もし同研究室の人事選考がもう一度進められるとしても教室としての決定に至るまでには,ある程度時間がかかる可能性があると考えています.

人事決定の方式について

・定年退職により教授会メンバーがいなくなる研究室の,後任の教授または助教授は必ず同じ研究室ですぐ補充されるべきであるとは考えていません.また,人事委員会の教室への提案は,審議の上可決されることもあるし否決されることもあると考えています.それらの意味で,今回のことは,”事態をまねくような”という言葉で表現されるような問題のあることだとは考えていませんし,想定されることの範疇にはいります.その点で問題のないことをもたらした現在の人事選考の方式は,その意味の範囲において問題はないと考えています.

・しかし,より一般的な意味では現在の人事選考の方式に問題を感じています.教室内のメンバーだけで進めますので,内部昇格に関しては研究業績等に関する評価があまい人事がまざってしまう可能性が結構高い方式だと思います.また,外部から選考する場合も既存の研究室への所属を前提としない人事はほとんど不可能なので,より広範な候補者の応募を期待できないという場合もあるように感じています.これらの点等については,できれば改善していきたいと考えています.

 大学院生からの質問に対してもどってくる返答がこれであるくらいであり、解決といえる状態にはまだない。当該研究室は現在「研究室は教授会構成員を含む教員2名以上で構成される」という「要件」をまさに「満たしていない」状態であり、学部生、大学院生がそこには在学している。結局、学生の指導教官として名目上の指導者を他の研究室に依頼する、というかたちとなっている。補充の人事については、「先の人事選考で提案とその否決があったところなので,もし同研究室の人事選考がもう一度進められるとしても教室としての決定に至るまでには,ある程度時間がかかる可能性があると考え」るというような見解がある以上、先行きは暗いものと思われる。

 それにしても、定年人事の予定される研究室において、人事委員会は何もきめられずにその後2-3年は中途半端な状態が続くことを「学生はそういうリスクを承知」であったはず、とは、見事に人事委員の各教員を馬鹿にした態度でもあり、なかなか内部事情を推察させる雄弁な文言である。もちろん、この助教授はその人事委員会のメンバー個人個人を良く知っていたが故に「この人事がきまるはずがない」と事前に承知でき、従って「もし私が入試の口頭試問の担当者だったら,忘れていなければ確認していた」とまでいえるのかもしれないが。

 定年人事がある研究室に配属される学生は、「指導教官がかわる」ことを承知でいるべきというのならわかる。しかし、「指導教官のいない中途半端な状態になること」を承知しておけ、というのは、学生が持つ「教育を受ける権利」を堂々と土足で踏みにじる発言である。そもそも、教授が例えば新しく外部からまねかれた場合、その研究室は「当然に」既存の研究室を「前提としない」研究をこれからするのであり(それとも、これを発言した助教授のところでは外から教授がきても、その教授の研究テーマは「研究室の歴史」によって勝手にきめつけられてしまうのだろうか。大学の名誉のためにつけくわえるならば、「そのような事実は存在しない」わけだが)、従って、この「ほとんど不可能」などという許し難い虚偽の発言は一体どこから出てきたのだろうか。一読すればわかるように、この発言に対する意見、あるいはこの発言自身がかかえる自己矛盾や問題はまだまだある。

 この問題については1997年4月末の時点でなお問題は混迷の度合を含めている。大学院生会の活動に関して、この教授会構成員不在となった研究室の大学院生に直接「あんなことはやめたらどうか」という耳打ちをする教員が現れたり(この一時をもってその学生がしかるべきところに陳述したらどうなるか、ということすらも考えられなかったのだろうか)、あるいは、大学院生会の活動に対して「あれはどうせ特定の研究室のやっていることなんだからまともにとりあってはいけない」という風評を流す教員がいたり、となかなかセージ的である(後者に関しては、院生会にも問題がないわけではないのだが)。はっきりしているのは、この研究室にはいまも学生が在籍しており、そして、今もまだ教授会構成員は不在であり、そして、いまもまだ次の人事の目処はまったくたっていない、ということである。「学生」という立場ががいかに軽視されているか、大学院生会の活動というものがいかに教員からは軽んじられているのかがよくわかるエピソードである。(つけくわえるならば、この「学生の人権」のコーナーが大学内に「ある」ことが問題だ、と吹聴しているのもこの教員らしい) 最高学府といえども、所詮はこの程度のものなのだ。

 この後、有志の大学院生から書面でこの返答文面を記した教員に質問状が提出され、それに対して今度はきちんとした回答がもどってきている。その経緯は現在都立大学学内のニュースグループにおいて学内に公開されており、今後のやりとりに期待される。質問状を提出したのが大学院生会ではなく、有志だった、というところが情けないところであるが、組織などというものは学生のものであってもそれなりに硬直してしまうのかもしれない。これだけのことが大学院生に対してなされているというのに、事例10の問題についていまだ大学院生会からは何一つアクションもなく、また会合をしたというはなしもきかない。これは、学生という弱者の立場にあるものがこういった問題におちこんだ時、周囲の学生ですら、それに対する理解をしめさない、ということを端的に意味しているのかもしれない。

 1997年の12月、ようやくこの人事に決着がついた。もちろん、当該の助手の昇進が決定したのである。まるまる一年をかけないとこういうこと一つ結果しないというのは実に官僚政治的なごっこあそびが教室に蔓延していることの証ととっていいだろう。ちなみに、この決定ですらまっとうには到達せず、抱き合わせの昇格人事を同時になす、という事になっていた(その候補に立候補したのが事例2、3の助手であった)。ようするに、ファミコンで有名になった「抱き合わせ商法」である。結果的にその抱き合わせ対象となって助教授に昇進できた助手がいるわけだが、これによりその研究室は教授1、助教授2という「全スタッフ教授会メンバー」となったのだそうだ。どうも、こういうことをはさまない限りなにもはじまらない、きまらない、というのはたちの悪いなにかが教室のどこかに巣食っているとしか思えない。とりあえず、いままで一年間ちゅうぶらりんであった学生に、正当な指導教官が成立した、という点は進歩であるわけだが・・・

 さらに、1998年4月の時点で、この研究室の助手人事は滞ったままである。つまり「研究室は教授会構成員を含む教員2名以上で構成される」という「要件」はあいかわらずみたされていないのであり、人事委員会の仕事ぶりとしては極めて突出した結果がいまだに続いているということである。大学の自治というものは、このように、自分達のきめた約束すらちゃんと守ることのできない手合いにそのすべてが掌握された、いわば、オママゴトのようなものなのである。