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"Kanon" One of another - D.B.C. Compact mix

6

 ……とん、とん……
 ひかえめなノックの音。
 そして、静寂。
 ふたたび、ひかえめなノックの音。
 そして、今度はひそやかな声。
「……祐一……?」
 祐一は応えなかった。かかえた膝に顔をうずめたまま、応えなかった。
「……入るよ……」
 声、そして静寂。
 すこししてドアの開く音がそれに続いた。
「……やだ、真っ暗じゃない……」
 名雪の声がちいさく響く。戸口の気配はすこしためらってからそっと祐一に近づいてすぐ前でうずくまった。
「どうしたの? 何があったの?」
 祐一は応えなかった。応えたくなかった。
 名雪がそう聞くのはあたりまえだった。帰ってくるなり祐一は誰にも何も言わずに部屋にまっすぐ入ってそのまま閉じこもっていた。食事も取らずに、ずっと。
 本当ならこの家にも戻ってくるべきではなかった。祐一はそう思っていた。けれど他に行ける場所もなかった。いや、気がついたら戻ってきてしまっていたと言ったほうが正しい。だから、祐一は部屋に閉じこもった。誰とも話さず、誰の顔を見なくてもいいように。
 けれど独りになどなれるわけがなかった。
「……話したくないなら話さなくてもいいけど……でも、話せばすこし楽になるかもしれないよ?」
 名雪の言葉はあくまでやさしかった。祐一は膝を抱える腕に力をこめた。
 応えたくなかった。けれど名雪には応えなければならなかった。そうしなければならなかった。
 つぶやくように、吐きだすように、祐一は言った。
「思いだしたんだ。全部。七年前にこの街であったことを、すべて」
 息を飲む気配が目を閉じていても伝わってきた。
「――それって――」
 名雪の言葉はそれ以上続かなかった。
 言うまいと思った。だが堰はすでに壊れていた。自分で壊した。だから、言葉は喉から勝手にあふれた。
「この街には戻ってきたくなかった。
 俺はあゆを置いて逃げた。名雪を傷つけて放りだしたまま逃げた。逃げて忘れようとしたんだ。この街のことを。この街であった嫌なこと全部を。
 そして、本当に、忘れた。
 いままで俺は傷つけられてばっかりだと思ってた。親父とお袋は勝手に離婚して、親父は俺をほったらかして外国に行っちまって、そのくせ俺の言うことになんか耳を貸しもしないで、お袋はお袋でこういうときだけ親父の味方をして、結局この街に来るしかなくなっちまった。
 誰も俺のことなんか気にしてないと思ってた。
 でも違った。最初に傷つけてたのは俺だ。あゆを、名雪を傷つけてたのは俺なんだ……
 名雪は俺なんか迎えに来なくてよかったんだ。俺みたいに」
 言葉はそこで途切れた。祐一は奥歯を噛み締めた。
 静寂が部屋の中にわだかまった。
 名雪のか細い声がそれをそっと押しのけた。
「……私、祐一に嫌われてると思ってた。あの日から、ずっと。だから、祐一はもう家に来ないんだと思ってた。
 嫌われてもしかたないよ。だって私、あのとき、自分のことしか考えてなかったんだから。祐一のことなぐさめてあげたかったのは、自分が悲しんでる祐一を見たくなかったからなんだから。
 ずっとずっとあのときのこと考えてて、私、そうわかったんだ。
 ひどいよね、私。それなのに、なんにもなかったような顔して祐一を迎えに行ったんだから」
 言葉は一瞬だけ途切れた。
「私、うれしかった……あのとき、七年ぶりに言葉を交わしたとき、祐一が昔みたいに私の名前を呼んでくれて。
 私、傷ついてなんかないよ。祐一に傷つけられてなんかないよ。だって私、祐一と笑って話せたもん。だから――」
 それ以上言葉は続かなかった。
 頬にそっと指先が触れた。
 声は勝手に喉からこぼれた。
「駄目だ、名雪……俺はそんなふうにやさしくされていい人間じゃない」
 指先のこわばりが伝わった。
 そのまましばらく二人とも動かなかった。
 言える言葉はひとつしかなかった。
「……ごめん」
 そっと、頬から指先が離れた。
 それでも気配は動こうとはしなかった。けれど祐一はその存在をかたくなに無視した。
 やがて静かに気配は立ちあがった。
 ぱたん、とドアの閉まる音がした。

 そう、あゆをあの場所に案内したのは祐一だった。
 一人だけの、名雪にも教えていない、とっておきの場所だった。街から見える木の先を頼りに探りあてた自分だけの場所。雪をかぶって高くそびえ立つ巨木のある場所は冬の冷たい空気や静けさとあいまってとても神秘的で、簡単には人に教える気になれなかった。
 あゆは特別に連れていったのだ。その表情があまりに悲しそうだったから。
 指切りをした次の日からずっと、祐一はあゆと会うようになっていた。あゆはいつも祐一より先に来て商店街の入口で所在なげにたたずんでいた。その姿を見つけあわてて駆け寄って声をかける――それが祐一があゆと過ごす午後のはじまりかただった。
 二人でいるからといって何をするわけでもなかった。商店街を歩きまわったり、はじめて会った日と同じようにたいやきを食べたり。最初あゆは極端に口数が少なかった。だから他にできることなどなかったのだ。
 口数が少ないのはしかたがないと祐一は思っていた。とても悲しい出来事があったらしいことはその姿を見ているだけでわかったから。
 けれどそんなふさぎこんだ様子をいつまでも見つづけていたくもなかった。
 だから、連れていった。とっておきの場所へ。

 窓から射しこむ光で目が覚めた。
 ちょっと体を動かしただけでこわばった筋肉がきしんだ。それで膝を抱えたまま寝てしまったのだとようやく気づいた。喉が渇いているのは暖房を消し忘れてつけっぱなしにしていたからに違いなかった。
 ぜんぜん寝た気がしなかった。
 なんで寝てしまったのだろうと思った。
 そんなことが自分に許されていいはずがなかった。
 後悔と焦燥にかられ、しかしどうしていいかわからないまま、祐一はなすすべもなく薄明かりを見つめた。
 そして、しなければならないことに気づいた。
 毛布をはねのけて立ちあがった。よろめいたが、まだ動けた。床に放りだしてあったコートを拾いあげて袖を通す。すこし迷ってから、そっとドアを開けて気配をうかがった。
 家の中は静まりかえっていた。
 学校はとっくにはじまっている時間だった。秋子叔母さんももう仕事に出かけたのだろう。合鍵は来た日にあずかっていた。家を空にするのを気にする理由はない。
 祐一は部屋を出て階段を降りた。
 靴を履いたほうが庭での探しものはやりやすいだろう、そう思って玄関で靴を履いていたら、うしろで廊下のきしむ音がした。
 びくっとしてふりむいた。
 秋子叔母さんは真剣なおももちで祐一を見つめていた。
 なんて言えばいいかわからず、祐一はただその顔を見つめかえした。
 と、秋子叔母さんは表情をやわらげた。
「ご飯食べていきなさい、祐一さん。おなかが空いてたら戦はできませんよ」

「何をするんですか?」
 向かいあって座った秋子叔母さんは祐一が食事を終えそうになったころになってはじめて訊いた。
 最後の一口を飲みこんでから、視線をあわせられないまま、祐一はなんとか応えた。
「……忘れていたことを……大切なものを、探してきます」
「大事なことなんですね?」
 ちいさく、けれどはっきりと、祐一はうなずいた。
「――そう」
 秋子叔母さんもうなずいた。
 それから静かに言った。
「祐一さん、奇跡って信じますか?」
 祐一は目の端で秋子叔母さんを見た。なんでそんなことを言うのかわからなくて。
 秋子叔母さんは真剣なおももちで祐一を見つめていた。
「私は信じます。いままで生きてきて、つらいことや悲しいこともたくさんありました。けれど、いいこと、うれしいこともたくさんありました。二人だけの家族だけど、この家で名雪とおだやかに暮らせていることもそのひとつです。いま祐一さんが私の目の前に座っていることもそのひとつです。
 これも、ひとつの奇跡だと私は思います。だから――」
 そこで言葉を切り、いつもどおりのおだやかな微笑を浮かべた。
「――行ってらっしゃい。行って、自分の信じるとおりのことをしなさい。
 でも無理はしないでね。どこにいるかは電話で連絡すること。遅くなりそうなときもですよ」
 息を吸いこみ、秋子叔母さんに向きなおって、祐一は深々と頭を下げた。

 はっきりと道を覚えていたわけじゃなかったからたどり着くまでに時間がかかった。並木道の入口に立った祐一は自分の手際の悪さに唇を噛んだ。
 ぐずぐずしている暇はなかった。とりあえず秋子叔母さんに電話して居場所を知らせるといちばん近くの木に駆けより、デイパックから道具を取りだすのももどかしく、祐一は作業をはじめた。
 木の根元から雪をどけ、あらわれた土に針金をまっすぐ縦に差しこむ。手ごたえがなければ位置をずらして同じことをくりかえす。手ごたえがあればスコップで土を掘りかえす。何もなければ、あるいは見つかったものが石だったりしたら掘った穴を埋め戻してまた位置をずらす。そして同じことをくりかえす。ひとつの木のまわりをまわり終わったら次の木に移って同じことをくりかえす。
 気の遠くなるような作業だった。けれどどの木の下に埋めたかを覚えていない以上それ以外の方法は思いつかなかった。あゆといっしょに埋めたタイムカプセルを、あの天使の人形の入ったガラス瓶を見つけるための確実な方法は。
 もしかしたらもうなくなっているかもしれなかった。もしかしたら違う並木道かもしれなかった。けれど祐一にできることはいまこの場所であのタイムカプセルを探すことだけだった。だから祐一は木の根を掘りつづけた。時間を忘れ、ときおり通りかかる人の視線を忘れ、思いだしたように静かに降りかかる雪の冷たさを忘れて。
 目の前のことで頭がいっぱいで、頭上から声が聞こえてきたときは本当に驚いた。
「おまえ、一人でずっとそんなことやってたのか?」
 息を飲み、作業の手を止めて、祐一は頭上を見あげた。
 北川は感心したようなあきれたような複雑な表情を浮かべて祐一を見おろしていた。
 その脇には見慣れた姿がふたつ並んでいた。
「すこし休んだら? 疲れたでしょう?」
 美坂香里はしゃがんで祐一の顔をのぞきこむ。その横からコンビニのちいさな使い捨て手提げ袋が差しだされた。
「はい、これ。お昼食べてないんでしょう?」
 名雪は祐一を安心させるように微笑んだ。
 袋を受け取りながら祐一は三人の顔を交互に見まわした。
「……みんな……どうして……」
「お母さんに聞いたんだよ。祐一が大切なものを探してる、って。それで、私から二人にお願いしたの。手伝って、って」
「あたし、部活さぼっちゃった」
「私も。部長さんなのに」
 名雪と香里は顔を見あわせてちいさく笑う。
「俺はもともと暇だからな」
 北川は意味もなく胸を張った。
 やさしさが身に染みて柄にもなく涙があふれそうになるのを祐一はなんとかこらえた。まだ探しものが見つけたわけではないのだ。
「それで、何を探せばいいんだ? どこまで探したんだ?」
 祐一は手短に説明した。秋子叔母さんに聞いたのか、名雪は三人分の道具まで用意していた。
「じゃあ早速はじめるか。俺はあっちから行くよ」
「じゃああたしは向こうから。名雪は相沢君の反対側からお願い」
「うん。祐一は腹ごしらえしてからにしてね」
 口々に言って三人は祐一から離れていく。みんなに対してのつもりで祐一は深く頭を下げた。

「おい! これじゃないのか!?」
 遠くから聞こえてきた北川のその声に祐一は跳ねるように立ちあがった。
 あたりは薄暗くなって街灯がともりはじめていた。手元もあやしくなりかけていてもうあきらめなければならないかと思いはじめていた矢先の言葉だった。ただ待つのももどかしく祐一は駆けてくる北川に自分からも走り寄った。
「ほら、これ。おまえの説明とはあってると思うけど、どうだ?」
 顔をあわせ立ちどまると北川は両の掌に乗せたものを祐一に差しだした。祐一はそれをじっと見つめた。
 三分の一ほど割れたガラス瓶の中で人形が半ば土に埋もれていた。
 そっと手を伸ばし、祐一は人形の頭をつまんですこし引っぱった。体がもうすこし土の中から姿を見せた。祐一は詰めていた息を吐きだして北川を見た。
「まちがいない。ありがとう、北川、ありがとう」
 手を握って感謝の意を伝えたいところだったがどろどろの手でそうするわけにもいかず、祐一はただ言葉を重ねた。
「でもひどいわね。ずっと埋まってたんだからしかたないんでしょうけど」
 いつのまにか近づいてきていた香里が率直な感想を漏らす。たしかにそのとおりだった。天使だったはずの人形は頭に乗っていた輪と羽の片方を失っていた。
「私、これならたぶん直せるよ」
 そう言ったのは香里のうしろからのぞきこんでいた名雪だった。
「本当か?」
 祐一は勢いこんで訊ねる。名雪はすこし首を傾げた。
「うん。ほとんど作り直しってことになると思うけど――」
「頼む」
「――わかった。頼まれたよ」
 名雪は笑顔でうなずいた。

 それを機に四人は解散して帰路についた。帰るあいだじゅう祐一も名雪も何も言わなかった。
 探しものが見つかったことを報告すると秋子叔母さんはよかったですねと言ってくれた。けれどまだそれで終わりではないことは察してくれたようでおおげさに喜んだりはしなかった。ありがたかった。
 さすがに疲れを感じ、すこしだけ休もうと裕一は部屋に戻ってベッドに横になった。

 はじめてその場所にたどりついたとき、あゆはそれまで祐一が見たことのない表情を浮かべていた――驚きの表情を。
「うわあ……」
 そう言ったきり、しばらくあゆはおおきな木のてっぺんを見あげたまま動かなかった。
「な? すごいだろ? この木だけてっぺんが街のほうからも見えるんだ。それで一人で探検してやっとここまで来る道を見つけたんだ。何日もかかったんだぞ」
 祐一の自慢げな言葉にもあゆはただうなずくばかりだった。祐一は誇らしい気分になったが、同時にあゆが自分のことを気にしてくれなくなったみたいでちょっと寂しい気分も味わっていた。
 と、そんな不安を打ち消すようにあゆはくるりと振り向いて祐一を見た。
「ねえ祐一君、ちょっとうしろ向いててくれるかな?」
「うしろ? なんで?」
「いいから、ちょっとだけでいいから。ね?」
 あゆは手をあわせて祐一に頭を下げる。勢いに押されて祐一は木とあゆに背を向けた。
「もういいか? あゆ」
「まだだよ、もうちょっと」
 そんなやりとりを何回くりかえしただろうか。いいかげんじっとしていられなくなったころ、すこしちいさいあゆの声が聞こえた。
「もういいよ、祐一君」
 ふりかえってみるとそこにあゆの姿はなかった。
「あはは、こっちだよ、こっち」
 声のしたほうをよくたしかめて祐一はそちらに顔を向けた――上のほうに。
「すごいよ、街がよく見えるよ」
 あゆはおおきな木のいちばん下にある太い枝に座って遠くを眺めていた。
「――馬鹿っ、何やってんだ! あぶないから早く下りてこい!」
 叫んだ声は我ながらみっともないほどうろたえていた。
「大丈夫だよ、ボク木登り得意だもん。祐一君も登ってきたら?」
「やだっ!」
「なんで? すごくいい景色だよ。いっしょに見ようよ」
「俺は高いところが苦手なんだ!」
「……そうなんだ。もったいない」
 笑う気配が伝わってくる。あゆは足をぶらぶらと揺らした。
「やめろって! 落ちたらどうするんだよ!」
「ふーん、祐一君、本当に高いところ駄目なんだね」
「さっきからそう言ってるだろ? 頼むから早く下りてきてくれよ」
「わかったよ。祐一君がそんなに言うなら下りるよ。じゃあ、またうしろ向いててくれる?」
 言われなくても人が木を下りるところなんて見ていられなかった。祐一は背中を向けてただ待った。
「お待たせ」
 聞こえてきた言葉に祐一は待ちかねたようにふりむいた。
 すぐうしろに立っていたあゆは満面に笑顔を浮かべていた。
「ありがとう、祐一君。こんなにいい場所を教えてくれて」

「……祐一……祐一……」
 声とともに肩を揺すられて裕一は跳ね起きた。
 ベッドの脇でパジャマ姿の名雪が驚きと不安の入り交じった顔で裕一を見ていた。それで寝てしまっていたことに気づいた。睡魔にあっというまに引きずりこまれてしまったらしい。
「大丈夫? ご飯のときにも起こしに来たんだけど、起きなかったんだよ?」
 ――そんなに寝てたのか。
 祐一は唇を噛んだ。
 そんな祐一を心配そうな目で見てから名雪はふたたび口を開いた。
「ご飯、食べるならあたためるよ。それから、はい、これ」
 言って手に持つなにかを目の前にかざす。祐一はそれを見つめた。
 掘りだしてきたあの天使の人形だった。元どおりの姿に戻って、新品みたいにきれいになった。
「ごめんね、やっぱり作り直しみたいになっちゃった」
 すこし申し訳なさそうに言い、名雪は上目づかいに祐一を見た。
「いや、こんなにきれいになるなんて思ってもいなかった。ありがとう、名雪。本当に」
「……よかった」
 ほっとしたように微笑み、名雪は緊張が解けたようにあくびをした。
「……ごめん、眠くて」
 祐一ははっとしてあらためて名雪を見つめた。
 いままで気づかなかったが、名雪もずいぶん疲れた顔をしていた。そういえば今朝はあの派手な目覚ましの音がしなかった。気づかなかったのかもしれない。けれどもしかしたら、裕一に気遣って目覚ましを鳴らさないようにしていたのではないだろうか。祐一と同じくらい、いや、もしかしたらもっと、寝ていないのではないだろうか。
「……ごめん」
 祐一はそれだけをなんとかふりしぼって言った。名雪はくすっとちいさく笑った。
「祐一にそんなふうに言ってもらえるとうれしいよ」
 そして人形を祐一に差しだした。
 受けとり、祐一は立ちあがった。デイパックを拾いあげて人形をしまい、上着を手にとって袖を通す。
「出かけるの?」
 名雪の声には驚きが混じっていた。
「ああ」
 名雪を見ずに裕一は答えた。じっとしていられなかった。
「こんな時間に? 真夜中だよ?」
「わかってる」
「……ご飯食べていったら? おなかすいてると余計寒く感じるよ?」
「いや、もう出る」
 名雪を迂回してドアに手をかける。と、反対側の腕を名雪につかまれた。
「ちょっと待ってて」
「話なら後にしてくれ。帰ってきたらいくらでもするから」
「駄目、待つの」
 思いがけない強い調子に祐一はふりかえって名雪を見た。
 名雪は微笑むと祐一をそっと押しのけて先に部屋を出た。続いて祐一が外に出ると名雪は自分の部屋に入っていた。
 すぐに出てきた名雪は祐一にまっすぐ近づいて頭になにかをかぶせた。
「はい」
 反射的に頭に手をあてて祐一は位置を調整した。毛糸の帽子だった。
「それと、これ」
 あっけにとられる祐一に名雪は右の腕に下げていた袋を差しだした。ほとんど自動的に受けとった祐一はあらためて中に目をこらした。使い捨てカイロがたくさん詰まっていた。
「寒いんだから。気をつけないと」
 なんて応えていいかわからず祐一はただその顔を見つめた。
 と、にっこり笑って名雪は祐一を正面からやさしく抱きしめた。
 伝わるぬくもりに重なって言葉が聞こえた。
「今度は祐一が待つ番なのかな?」
「――そうだ。たぶん、そうだ」
 喉に詰まりそうな言葉を祐一はなんとか吐きだした。
 祐一から体を離し、それでも両手で両腕をつかんだまま、名雪はすぐそばから祐一を見つめた。
 その顔が近づいて、唇かほんのすこしだけ唇に触れた。
 手を離し、うしろに下がって、名雪は笑顔で言った。
「行ってらっしゃい」
「――行ってくる」
 祐一は名雪の脇を通って階段を降りた。

 もしかしたらいまごろ名雪は泣いてるかもしれない、冷えきった夜の街を歩きながらそう思った。あのときも祐一の見ていないところで泣いていたのかもしれない、そう思った。
 あのとき、祐一が雪うさぎを壊したあとも。
 泣きじゃくる祐一をなぐさめようと近づいてきたのは名雪だった。水瀬家のドアの外で膝を抱えてうずくまる祐一に雪うさぎを作って持ってきたのは名雪だった。
 その雪うさぎを祐一は見ていない。顔もあげずに手で振り払ってしまったのだから。
 名雪の言葉を裕一は思いだしていた。
 ――裕一、ほら、これ……雪うさぎ。私、不器用だから、あんまりうまく作れなかったけど……これ、あげるから、だから……泣かないで……
 ――そうだよね……裕一、とても悲しいことがあったんだもんね……私なんかじゃ駄目だよね……
 ――ねえ、裕一……明日、帰る前に一度、会いにきてくれるかな……。駅前のベンチで、私、待ってるから……ちゃんとお別れ言いたいから……
 ――ずっと言えなかったけど、私、祐一のこと、好きみたいだから……だから……
 ――また会いにきてくれるって、約束してほしいから……
 歩きながら裕一は顔を伏せた。どんな思いで待っていたのだろうか? 顔をあわせずに帰ってしまった自分のことをどう思っていたのだろうか?
 名雪にはひどいことばかりしている気がした。
「……ごめん」
 口の中でそうつぶやき、息をついた。あやまってもどうなるものでもないとわかっていたから。
 それでも、帰ったらあやまろうと思っていた。口には出せなくても、心の中で、何度でも。それしかできることはないから。
 そう思いながら祐一は歩きつづけた。

 森の中へはサーチライトを照らして分け入った。青白い強い光に浮かびあがる光景は昼間の景色とはまったく違って見えた。何度も迷いながら祐一はすこしずつ先に進んだ。
 ようやくたどり着いた目的の場所はうっすらと雪が積もっていて、光の加減とあいまってまったく知らないところのようだった。祐一はしばらく立ちつくしてその光景をただ見つめた。
 それから切り株に近づき、端のほうの雪を払って腰をおろした。
 そうやって眺める光景は昼間なら七年前に瞳に写っていたものと同じはずだった。
 デイパックから使い捨てカイロを取りだし、封を切ってあたため上着の内側に差しいれた。
 そして空を見あげ、息を吐いた。
 寒さが身に染みた。はじめて体験する夜の冷えこみは想像以上だった。体を震わせ、手足を意味もなく動かし、使い捨てカイロに手をあてて冷えきるのを防ぎながら、それでも裕一は座ったままでいた。
 理屈にあわないことをしていると自分でも思った。
 それをたしかめるように祐一は名雪が直してくれた天使の人形をデイパックから取りだしてサーチライトの光をあてて見つめた。
 この人形は願いをかなえることができる、そう言ったのは祐一自身だ。あゆを元気づけるために、自分にできることなら何でもやる、そんなつもりで言った言葉だ。これを探しだして元の姿に戻したからといってありえないことが起きるわけじゃない。ましてやこんな北の街で夜中を森の中で過ごす理由なんて何もない。
 しかし、それを言うならあゆが祐一の前に姿をあらわしたことも見つめる先からかき消したことも理屈にあわない出来事に違いなかった。
 ――だったら、もう一度それを望むことも許されるのではないだろうか?
 もちろんそれははかない希望に過ぎなかった。かなうはずのない希望に。
 それでも祐一は来なければならなかった。みずからに課した罰として。

 あの日、七年前のこの街から離れる前の日、祐一はあゆとこの場所で最後の待ちあわせをしていた。
 選んだのはあゆだった。最後はどうしてもあの場所で、そう強く主張したのだ。帰りの準備もあるから街から遠いこの場所は祐一はできれば避けたかった。けれど最後の最後になってあゆの言うことを聞かないわけにもいかず、結局は折れてあゆに従ったのだった。あゆの喜びようといったらなかった。
 そのとき、祐一は走ってこの場所に向かっていた。待ちあわせの時間にずいぶん遅れていた。いつものように遊びに出ようとするところを母親につかまり、そのまま買いものに連れていかれてしまったのだ。抜けだそうにもなかなか隙はなく、ようやく別れることができたのは結局帰る間際になってだった。
 ――きっとおこってるだろうな。
 そう思いながら祐一は目的地へと急いだ。
 なんとなく雲行きがあやしい感じに変わってきていた。風もなんだか不穏な感じで吹きはじめていた。祐一は息を切らせながら街のはずれまで来て森に分け入った。
「――あゆ、ごめん! お待たせ!」
 そう声をあげて飛びこんだこの場所には、けれど人の姿は何も見えなかった。
 ――帰っちゃったのかな?
 そう思ったところに頭上から声が届いた。
「祐一君、遅いよ。ボク待ちくたびれたよ」
 拗ねたような、それでいてどことなくうれしそうな声。祐一は上のほうに顔を向けた。
 木の太い枝に腰かけたあゆは機嫌の悪そうな顔を作って祐一を見おろしていた。
 そこに、風が吹いた。木々を揺らすくらいの強い風が。
 あゆの体が宙に浮かんだ。
 そう見えたのはほんのわずかなあいだだけだった。次の瞬間、あゆは祐一とおおきな木のあいだに落ちた。音をたてて。
「――あゆ!」
 そう叫んだのは覚えている。

 それからあとのことはいまでもよく思いだせない。駆けよってしゃがんで体をつかんでもあゆは答えなかった。無我夢中で森を出て知らない家の呼び鈴を何度も押して人を呼んだ。出てきたおばさんに救急車を呼んでもらうよう頼むと祐一はすぐに戻ろうとした。けれど場所がわからなくなるからとおばさんに引き止められ、じりじりしながら待つあいだに家のことを聞かれ、やってきた救急車があゆを運んで去るころには祐一もやってきた両親に詰問されていた。祐一は何も満足に答えることができず、とにかく一度みんなで水瀬家に戻った。祐一は家の中に入れないでドアの外で膝を抱えてうずくまりただ泣きじゃくった。
 そして、あまりにつらい出来事を心から締めだして――忘れた。

 はっとして目を開いた。何度もまばたきをくりかえし、手で頬を軽くひっぱたく。いつのまにか意識が薄れていたようだった。こんなに寒いのにどうしてそんなことがありえるのだろうかと祐一は心の底から不思議に思った。
 俺みたいな人間に休まる暇など与える必要はないと思った。
 この街を離れて家に帰ったあと、祐一はあゆのことは何も聞かなかった。水瀬家のことも聞かなかった。両親も何も言わなかった。考えてみればあのあと何も連絡がなかったとは考えられない。なんらかの報告はあったはずだ――あゆがどうなったか。
 それを知らせなかったのは誰の気づかいだろうか。両親だろうか、それとも秋子叔母さんだろうか。
 いずれにせよそんなことをする必要はなかったのだ、と祐一は思う。そのために自分のしたことも覚えていられない馬鹿を一人育てることになったのだから。
「――くそっ!」
 やり場のない想いに思わず声を出して毒づき、祐一は唇を噛んだ。
 一人で考える夜はあまりに長すぎた。

 その夜もいつのまにかすこし白みはじめていた。
 祐一は派手に体を震わせた。冷えこみはまちがいなくいまがいちばん強かった。
 言うまでもなく特別なことは何も起きなかった。
 ふと、名雪と三人で会ったときの最後の言葉が脳裡に浮かんだ。
『うん、ちょっと探しものがあるんだ。じゃあまたね!』
 ポケットにつっこんでいた天使の人形を取りだし、祐一はあらためて目の前にかざした。
「なあ、あゆ……探しものって、これじゃなかったのか?」
「そうだよ。よくわかったね。祐一君」
 祐一は深く息を吸いこんで目を閉じた。心を静めるようにゆっくりと息を吐きだす。
「……だったら、もっと早く来たっていいじゃないか」
「……ごめんね」
 目を開き、祐一は声のしたほうに目を向けた。
 あゆが立っていた。手を伸ばせば届きそうなところに、祐一を見おろして。
「ありがとう祐一君、見つけてくれて」
 あゆは微笑んでいた。どこか悲しげではあったが、それでも、微笑んでいた。
「たいへんだったんだぞ。みんなに手伝ってもらって、名雪に修理してもらって。ほら」
 祐一はあゆに人形を差しだした。
 あゆはうなずいた。手を差しだそうとはしなかった。
「そうなんだ。祐一君、ボクの代わりにありがとうって言っておいてくれる? 名雪さんにも、祐一君の友だちにも」
「……なんで俺があゆの代わりをしなくちゃならないんだよ……」
「……だってボク、もうここにはいられないから――祐一君にお別れを言うのでせいいっぱいだと思うから」
 言葉はそこで途切れた。あゆの表情は変わらなかった。
 すこしのあいだ、二人とも互いの瞳をただ見つめた。
 先に口を開いたのは祐一だった。
「約束、覚えてるか? この人形をプレゼントしたときのこと。二人でタイムカプセルを埋めたときのこと」
「うん、覚えてるよ。忘れるわけないでしょ? 祐一君との約束を」
「じゃあ、いま言ってくれ。あゆの願いはなんだ?」
 あゆはすこしこまったような表情を浮かべた。
「でも、だって――」
「いいから言ってみてくれ。だって、そのために埋めたんだろ? 俺たち」
「……うん」
 ちいさくうなずき、あゆはいつもどおりの笑顔を浮かべた。再会したときと同じ、街で言葉を交わしたときと同じ、影のない笑顔を。
「それでは、ボクのお願いを言います!
 祐一君、ボクのこと――
 忘れてください。
 最初からいなかったんだって思ってください」
 頬に涙が流れ、笑顔が崩れた。
「ボクのこと……うぐぅ……忘れて――……」
 言葉の最後は聞き取れなかった。あゆは顔をうつむかせてしゃくりあげた。
 祐一は立ちあがってあゆを抱きしめた。強く。
 くぐもった声が胸のあたりから聞こえた。
「……祐一君?」
「忘れない。俺はあゆのことは忘れない。いままでずっと忘れてたんだ。だから、もう、忘れない。忘れちゃいけない。
 月宮あゆはたしかにこの街にいた。俺といっしょにたいやきを食べたり遊んだりした。たしかにとても悲しいことがあったけれども、でも笑えるようになってた。
 そうだろ? あゆ」
 抱きしめる腕にさらに力をこめた。
「……だから、悪いけどその願いはかなえられない。
 俺はひどい奴だ。あゆの言う大事なことは約束も願いごとも守らなかった。いままではずっと。
 でも、もし許してくれるのなら――
 このままずっと、いっしょにいたい」
「……祐一君」
 祐一の背中にまわったあゆの腕に力がこもった。
「うれしいよ、祐一君。
 ボクも本当はもう一度祐一君とたいやき食べたいよ。もっとずっと祐一君といっしょにいたいよ。名雪さんとももっと話がしてみたいよ。
 だから――」
 祐一の腕の中であゆの頭が上向いた。そのまま背伸びするように顔が近づいてくる。祐一も迎えるように顔を近づけた。
 重ねた唇を離すと、あゆは涙でぐしゃぐしゃになった顔を微笑ませた。
「――ありがとう」

 そして、祐一の腕の中からあゆの姿が掻き消えた。

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