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"Kanon" One of another - D.B.C. Compact mix

2

 頭の上のほうで電話が鳴っていた。
 目を閉じたまま手を伸ばし、手探りでやかましい音をたてる携帯電話をつかむ。慣れない操作に手間どって、アラームを止めるころには目はすっかりさめていた。
 かといって疲れがすっきり取れたという感じでもなく、祐一はやれやれという感じで息を吐いた。
 薄明るい部屋の中で、吐いた息は白く見えた。
 ――マジ?
 もう一度試してみた。マジだった。
 布団から出る勇気をなくし、祐一はどうやったらこの冷たい空気に触れずに着替えることができるか真剣に考えはじめた。
 その耳に、突然けたたましいベルの音が聞こえはじめた。
 ――?
 頭をほんのすこしだけ起こして音のするほうに向ける。どうも壁越しに聞こえてくるようだった。壁の向こう側では相当な音量に違いない。
 隣は名雪の部屋だった。
 ベルは止まる気配はなかった。
 と思ったら別の音色のベルが重なった。さらに別の音色のベルが重なる。しまいにはいったいいくつ鳴っているのかわからなくなった。
 祐一は茫然と音の聞こえてくる壁をながめた。
 それからあわてて布団から出ると急いで着替えて部屋を出た。寒いなんて言ってられない。「なゆきの部屋」と書かれたドアプレートの下がっているドアの前に立ち、かなり強めにノックする。
「名雪? 起きてるか? 死んでるんじゃないだろうな?」
 とりあえずそう言って耳を澄ます。中に聞こえた自信はなかった。その間もベルはずっと鳴りつづけていたから。
 止まりそうな気配はなかった。
 中に入ってみようかともちらと思ったが、さすがにそれはためらわれた。知らないうちに寝顔を見られて気にしない年頃の女の子はいないだろう。とするとできることはない。祐一はとりあえず階下に下りることにした。
 キッチンでは秋子叔母さんがコーヒーを淹れているところだった。
「あら、おはようございます、裕一さん。よく眠れました?」
「あー、いや、その……」
 祐一はなんとなく上を気にした。と、気配を察したかのように秋子叔母さんも目で上を見た。
「名雪、起きました?」
「……目覚しはまだ全部鳴りつづけてます」
 祐一の言葉に秋子叔母さんはため息をついた。
「昨日はがんばって早起きしてたのに……」
 そして手早く祐一の分のコーヒーとトーストを準備すると二階に上っていった。
 待っていようかとも思ったが、せっかくのあたたかいトーストを冷ましてしまうのも悪いと思い、祐一は先にありがたくいただくことにした。テーブルには色とりどりのジャムが並んでいる。瓶がまちまちでラベルも貼っていないところを見るとどうやら手作りらしい。裕一はとりあえずバターだけを塗った。
 半分ほど食べたところで秋子叔母さんと名雪がダイニングに顔を出した。
「……おはようございまふ〜」
 名雪は普段よりさらにおっとりした調子で言いながら席についた。目が半分眠っていた。あの轟音の中でまだこんなに眠そうでいられるなんて、と祐一はある意味感心した。いとこの意外な一面を垣間見た気分だった。
「ほら、早く食べなさい。今日は祐一さんといっしょに行くんだから、早めに出ないと駄目でしょ」
 やさしく諭すように言いながら秋子叔母さんは名雪の前にコーヒーとトーストを置いた。名雪は半分寝たままの目でのんびりとトーストにイチゴジャムを塗って一口かじった。
 そのまま目を閉じた。
「……起きろよ」
 足で名雪の膝の下あたりをつっつく。それでスイッチが入ったみたいに名雪の目がまた半分開いた。
「……ふぁい」
 のんびりと口と手が動く。コーヒーを口にしたらその動きがすこしだけ速くなったようだった。まあらしいといえばらしいのか、そう思いつつ祐一はコーヒーを飲みながらその様子をながめた。
 やがて全部食べ終わると名雪は満足した様子で言った。
「ごちそうさま」
 その様子を隣に座って見ていた秋子叔母さんが頬に手をあてていった。
「今度から祐一さんに起こしてもらおうかしら」
「やだお母さん、そんなの恥ずかしいよ」
「でしょう? そうしたら、すこしは緊張して見られる前に起きようとするんじゃないかしら」
「そんなんで起きられるようになるんなら苦労しないよ……」
 ちょっと憂鬱そうな顔になって名雪は席を立った。「行こ、祐一」
「あ、ああ。ごちそうさまでした」

 外に出たとたん信じられないくらい冷たい空気に包まれた。
 祐一は回れ右してちょうど玄関から出てきたところの名雪とぶつかった。
「わっ、ちょっ、ちょっとどうしたの?」
「帰る」
「まだ学校行ってないよ〜」
「低温警報かなんかで休校に決まってる」
「こんなのこっちじゃ普通だよ〜。今日は天気いいし風もないからいいほうだよ〜」
 その言葉に足を止め、祐一はコートの袖をつかんでいる名雪を見た。
 名雪はにっこりと微笑んだ。
 あきらめのため息をつき、祐一はしぶしぶと歩きだした。

 学校は水瀬家から歩いて行ける距離にある。本数の少ない電車やバスを待ったり乗りいだりするよりはずっとありがたい、そう裕一は思っていた。いまのいままでは。
「寒いのなんてすぐ慣れるよ」
 隣を歩きながら名雪は元気に言った。
「とてもそうは思えない」
 裕一は体を震わせて首をすくめた。冷蔵庫の中のほうがまだましなような気がした。
「だって、裕一、雪遊び好きだったじゃない」
「それはそうかもしれないけど……」
「帰ってきたらひさしぶりに雪だるまでも作ろうか。それともかまくらとか」
「うー」
 裕一はうつむいて横目で名雪を見た。名雪はあきらかに楽しんでた。
「いっしょのクラスになれるといいね」
「え? あ、ああ、そうだな。知ってる人が近くにいれば心強いし」
「だいじょうぶだよ、きっと。うちの学校いい先生ばっかりだし」
「……先生はいい人ばっかりでも、学校には学校の都合があるんじゃないの?」
「だいじょうぶだいじょうぶ」
 言いながら名雪はリズミカルに歩く。どうやら祐一が寒さに震えている様子を楽しんでいるだけではないようだった。
「大丈夫って言えば、時間のほうは大丈夫なのか?」
 祐一の言葉に名雪は腕時計を見た。
「あ……ちょっとだいじょうぶじゃないかも」
「ちょっと?」
「うん。いつもよりは早いけど、でもいつもは私走ってるから」
「……」
 祐一は無言で歩くペースを速めた。

 まわりにちらほらと同じ制服姿の学生が見えるようになってきて、学校の校舎が見えるところまで来て、祐一はようやく歩くペースを戻した。
「祐一、歩くの速いよ」
 とがめるように名雪が言う。あえて何も応えないで祐一は校舎に目を向けた。今日から通うことになる学校の見慣れない校舎はいやにがっしりとしているように思えた。
 ――きっと寒冷地仕様に違いない。
 そんなことを考えていると、うしろから声がした。
「名雪、おはよう!」
 声をしたほうに顔を向けると名雪の肩を叩く制服姿の少女が見えた。
「あ、香里、おはよう」
 香里と呼ばれた少女は名雪の隣に並んで歩きはじめた。
「どうしたの? 今日は早いじゃない」
「……普通だよ」
「そう? 歩いて校門に向かってる姿なんでずいぶんひさしぶりに見た気がするけど」
「……いじわる言わないでよ」
 名雪は口をへの字に曲げる。少女は明るく笑い、そして唐突に視線を祐一に向けた。
「それで、こちらが噂のいとこね」
「うん」
 うれしそうにうなずいて名雪も祐一に目を向ける。状況がよくわからないまま、とりあえず祐一は頭を下げた。
「はじめまして。相沢祐一です」
「美坂香里です。はじめまして」
 少女は上品にお辞儀をした。すまして、と言ってもいいかもしれない。それがよく似合う大人びた雰囲気を美坂香里はただよわせていた。
「香里はね、私とおんなじクラスなんだよ。だからきっと祐一もおんなじクラスになるよ」
「いや、まだどうなるかは――」
「あら、そうなの? じゃあ仲良くしてもらわなくちゃ」
 美坂は微笑んで言った。おもしろがって話をあわせている調子だった。
「――こちらこそ、よろしく」
 なりゆきで裕一はまた頭を下げた。その様子をおもしろそうにながめていた美坂は名雪に何事かを耳打ちした。
「でしょ?」
 うれしそうに名雪が応える。その顔をへえ、という感じで見ると美坂はまた名雪の肩を叩いた。
「じゃ、あたし用事があるから先に行くね。またあとで会いましょ」
「うん、あとでねー」
 名雪がちいさく手を振って見送る中、美坂は小走りに先に進んでいった。
 距離が離れたところで祐一は名雪に訊いた。
「なんて言ってったんだ? えーと、美坂さん」
「名雪の言ったとおり、けっこういい男じゃない?って」
「……へ?」
 祐一はあっけにとられて美坂が去っていった方向に目を向ける。その顔を名雪はくすくす笑って見ていた。
「……名雪、あることないこと言いふらしてるんじゃないだろうな?」
「そんなことしてないよー」
 名雪は逃げるように先に出る。そのあとを追いかけて歩を進めると、すぐ先はもう校門だった。名雪はくるっとふりむいて祐一を見た。
「職員室の場所はわかる?」
「ああ。転入試験のときにだいたい見てまわってるから」
「そっか。残念。あのときいられればよかったんだけどなー」
「部活で遠征だったっけ? タイミングが悪かったよな」
「ほんとそうだよねー。泊りがけなんてめったにないのに。田舎だからしかたないけど。
 でもいまこうしていっしょにいられるからいいか」
 言って祐一に微笑みかけ、名雪はちいさく手を振った。
「じゃあまたあとでね」
 背を向けて昇降口のほうへと歩いていく。同じクラスになることを微塵も疑ってないようだった。
 ――そんなに都合よくいかないだろ、普通。
 そんなことを思いながら裕一は外来者の受付のほうへとまわった。

 始業式が終わるまで待たされた。
 それから担任だという先生が迎えに来た。石橋と名乗ったその先生はあまり生徒指導に熱心なタイプには見えなかった。そのほうがありがたいと思いながら祐一は教室まで石橋の後を追った。
「ほら、席につけ」
 言いながらドアを開けて先生が教室に入っていく。祐一はおとなしく外で待った。
「最初に転校生を紹介する。相沢祐一君だ。相沢君、入って」
 先生の手招きに応じて中に入り、横に並んで立つ。
 いやに注目されている気がした。
 ――まあ高校のこの時期の転校生ならそういうもんか。
 そう思いかけ、それだけじゃない可能性に気づいた。
 可能性は窓側のうしろのほうの席で祐一に向かってちいさく手を振っていた。そのうしろにはつきあっておもしろがって手を振っている少女。
「じゃあ簡単に自己紹介を」
 その言葉に祐一は意識を教室全体に向けなおした。
「はじめまして、相沢祐一です。家庭の都合で今日からこの高校に通うことになりました。卒業まではもう一年ほどしかありませんが、仲良くしてもらえるとうれしいです。よろしくお願いします」
 頭を下げると拍手が聞こえた。
「じゃあ、とりあえず空いてるあそこの席に座って」
 言われた席は確認済みの場所だった。祐一は視線を感じながら移動して席に座った。
「ほら、私の言ったとおりでしょ?」
 隣の席の名雪が自慢げにちいさな声で言った。

 ホームルームは簡単な連絡事項を伝えるだけですぐに終わった。
 先生が出ていくとすぐにうしろから美坂が声をかけてきた。
「びっくりね、名雪の言ってたとおりになるなんて」
「いちばん驚いてるのは俺だと思う……」
 祐一は横を向いて応えた。
「なんでー? 私の言ったとおりになったら、なにかおかしい?」
 名雪がふくれた顔になる。
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「まあおかげで相沢君のあいさつを聞けたけどね。そつがなさすぎてつまんなかったけど」
「……悪かったな」
 当然続くだろう質問に備えて祐一は内心身がまえた。
 けれど美坂はその質問を発することなく立ちあがった。
「さ、あたしは今日はまっすぐ帰るけど、名雪はどうなの?」
「私、部活」
「今日もあるのか? たいへんだな」
「うん。部長さんだしね。そんなに時間かからないはずだけど」
 言いながら名雪も立ちあがった。「祐一はすぐ帰るんでしょ? せっかくだから、昇降口までいっしょに行こうよ」
「ああ」
 祐一も立ち、三人で教室の外に出た。そのあいだもやっぱり残ってる他の生徒たちから注目をあびているような気がした。
「ごめんね、祐一、お昼ちょっと待っててね。できるだけ早く帰るから」
 階段を降りながら名雪は言った。
「――ああ、そうか。叔母さん仕事だもんな」
「うん、そう。あんまりおなか空いてたら先に食べててもいいけど」
 そこまで聞いてからふと気になったことを祐一は口にした。
「なあ、俺のことクラスのみんなに話してあったのか?」
「うん。私のいとこが今日からこの学校に通うんだよー、って」
 名雪は屈託なく応える。その耳元に口を近づけ、祐一は声を潜めて言った。
「一緒に住んでるってことは言わないでおいてくれよな」
 名雪はきょとんとした顔で祐一を見た。
「なんで?」
「なんで、って……体裁悪いし、いい噂になるような話でもないし……」
 当然のことだと思ってたのであらためて訊きかえされるとすぐにはうまく答えられなかった。その顔を名雪は真剣な表情で見つめた。
 そして階段を一階まで降りてから言った。
「ごめん、手遅れー!」
「手遅れ――っておいっ!」
 祐一が声をあげたときには名雪はもうぴゅーっと駆けだしていた。廊下をくっと曲がって下駄箱のあいだに姿を隠す。あっけにとられその場に立ちつくして祐一はその姿をただ見送った。
「喜々として話しまわってたわよ」
 振りかえると美坂がおもしろがるような顔で祐一を見ていた。
「……聞こえてた?」
「けっこうショック受けた男子多いみたい。名雪、人気あるから」
 祐一はおおきくため息をついた。とぼとぼとふたたび歩きだす。
「別にいいじゃない、そんなこと気にしなくても。いとこなんだし」
「まあ気の持ちようではあるけどさ……」
 そう言いながらも言葉に力は入らない。教室に行く前に教えられた下駄箱の前で靴を履きかえる動作ものろくさと身の入らないものになった。
「あの娘、うれしいんじゃないかな、家族が増えたみたいで。ずっとお母さんと二人っきりだったから」
「――え?」
 祐一は顔をあげた。すでに靴を履き終えていた美坂は隣で微笑んで祐一を見ていた。
「だから、お兄さんらしくしてあげてね、いとこさん」
 とん、と祐一の胸を軽く叩き、じゃあね、と手をあげて美坂は先に出ていった。意表をつかれた言葉を心の中で何回か反芻しながら祐一はそのうしろ姿を見送った。

 外に出たとたん強く冷たい風に巻かれて祐一は現実に引き戻された。
 空は晴れていた。が、昨日の名雪の話を信じるならいつ変わってもおかしくなかった。そうなったらもう外に出る気なんてしないに決まっている。祐一は予定を変えて足を商店街のほうに向けた。

 といっても特にたいした用があるわけではなかった。とりあえずは目覚ましが探してもなかったときのためにその値段をたしかめること。時計屋はすぐに見つかり、その店頭で見たかぎりでは安物なら生活費の心配をしなくても買えそうだった。祐一は一安心して店先を離れた。
「――ちょっと待った! 動かないで――」
「――は?」
 声のした方向に顔を向けようとした瞬間、なにかに体あたりをかまされて祐一はその場に横向きに派手に倒れた。
「……うぐぅ、痛い……」
 聞こえてきた声には覚えがあった。祐一は顔をあげて自分の上に倒れている少女を見た。
 たいやき娘も顔をあげて祐一を見た。昨日と同じコートにリュック。背中の羽がひょこひょこ揺れた。
「あれ?」
 不思議そうな顔はすぐに笑顔に変わった。「わー、昨日とおんなじ人だ。すっごい偶然だね」
「喜ぶ前にどいてくれ、頼むから」
「うん、そうだね。ごめんなさい」
 立ちあがって左手でぱたぱたとコートをはたく。右手には紙袋が昨日と同じようにかかえられていた。
 祐一は思わず紙袋を指差して言った。
「まさか昨日と同じ展開じゃないだろうな?」
「え?」
 祐一とその指が指し示すものを交互に見て、たいやき娘はにっこりと笑った。
「――あたりっ!」
 そして祐一の腕をつかんで走りだした。
「ちょっと待てっ! なんで俺まで――」
「ボクがどっちに逃げてったか教えられたらこまるもん!」
 声をあげながらたいやき娘は角をでたらめに曲がって駆ける。
「それなら最初っからこまるようなことするな!」
「しかたないんだよ! 昨日の分払ったら今日の分足りなくなっちゃったんだから!」
 ――払いに行ったのか。
 妙なところで感心し、それで毒気を抜かれ、祐一はひっぱられるままにしたがった。
「……で、どこまで走るんだ?」
「知らない! とにかく安全なところまで!」
「とにかくって、もうずいぶん遠くまで来たような気がするけどな」
 あたりを見ながら祐一はつぶやいた。
「――え?」
 つられたようにたいやき娘は速度を落とす。やがて足を止めると祐一の腕を放してあたりをきょろきょろと見まわした。
「ほんとだ。いつのまに」
 そう言う声は弾んでいた。
「ずいぶん走りまわったからな」
 祐一もあたりを見まわした。細い車道を挟んでポプラの並木がまっすぐ続いている。人通りはあまりないらしく積もった雪が歩道を隠していた。知らない場所だった。すくなくとも引っ越してきてからは一度も訪れたことのない場所だった。
「ここまで来ればもう安心だね」
 ほっとした様子でたいやき娘は言った。紙袋をしっかりかかえて。
「俺に聞くなよ」
「うぐぅ……キミ、冷たいね」
「あれこれいいようにふりまわされてやさしくできると思うか?」
 祐一は言い放つ。どうしてだかこの少女を相手にしていると気安い言葉がぽんぽんと飛びでてきた。
「悪かったよう、ひとつあげるから機嫌直してよう」
 紙袋を開き、たいやき娘は取りだしたたいやきを祐一に差しだした。「はい、いっしょに逃げてくれたお礼」
「……やっぱり、ここで食うのか?」
「うん。だって、たいやきは焼きたてがいちばんだもん」
 微塵の迷いもなくたいやき娘は言った。その顔と差しだされたたいやきを祐一は交互に見た。
「……じゃあ、明日こそまちがいなく、お金全部払うんだぞ」
「うん!」
 あまりに無邪気な返事に内心苦笑しながら祐一はたいやきを受けとった。
 そのまま二人で並んでたいやきをほおばった。傍から見たらきっとヘンな光景に違いなかったが、幸い誰も通りがかりはしなかった。
「ごちそうさま」
 食べ終えるとたいやき娘は満足げに息をついた。とっくに食べ終えておいしそうに食べるたいやき娘の様子をながめていた祐一はやれやれという感じで言った。
「さて、じゃあ戻るか」
「うん」
 たいやき娘はうなずいた。
 そのまま二人とも動かなかった。
「……じゃあ戻るか」
「うん」
 たいやき娘は笑顔で祐一を見ていた。その顔を祐一は見かえした。
「うん……って、ただ突っ立ってたって戻れるわけないだろ?」
「……キミ、知らないの?」
「……知らないのか?」
「うん。だってボク、こんなとこ来るのはじめて」
「……地元民じゃないのか?」
「住んでたって知らないとこは知らないよ」
「……ちょっと待てよ……」
 祐一はあらためてあたりを見まわした。「俺だって知らないよ、一昨日引っ越してきたばかりなんだから。七年前だったら知ってたかもしれないけど」
「――七年前?」
 たいやき娘ははっとした顔になって祐一を見つめた。「それってどういうこと? 七年ぶりにこの街に来たってこと? 七年前にこの街に来たことがあるってこと?」
「あ、ああ」
 それまでとは打って変わった真剣な調子にすこし気圧されながら裕一は答えた。
「七年前の冬に?」
「ああ、それが最後だった」
「……ひょっとして、裕一君?」
 どきっとした。
「……なんで俺の名前知ってるんだ?」
 たいやき娘は答えなかった。その瞳は心なしか潤んでいるように見えた。
「――裕一君!」
 声をあげ、両手を広げてたいやき娘は裕一に迫った。
 ついよけてしまった。
 どすっ。
 どさどさどさっ。
「あ……」
 しまったと思ったときにはもう遅かった。たいやき娘は街路樹の一本に正面衝突していた。枝に積もっていた雪が落ちて頭や肩にかぶっていた。
「……大丈夫か?」
 おそるおそる聞くとたいやき娘はすごいいきおいでふりかえった。
「大丈夫じゃないよ! なんでよけるんだよ!」
「いや、つい反射的に」
「そんなに反射神経がいいなら商店街でもよけてよ!」
「いや、見えてるのと見えてないのとでは勝手が違って――」
「――もういいよ!」
 たいやき娘はぷいっと顔をそむけた。真っ赤になった鼻の頭を左手でさする。
「うぐぅ、痛いよう……せっかくの感動の再会シーンがだいなしだよう……」
「いや、まあこういう再会シーンもめずらしいってことで」
「めずらしくってもうれしくないよう……」
 たいやき娘はかぶった雪を手で払う。目が涙目になっていた。
 さすがに気の毒になってきて、とりあえずあやまろうと口を開きかけた瞬間、今度は遠くのほうから物音が聞こえた。
 どさっ。
「きゃっ」
 かわいらしい悲鳴に祐一とたいやき娘は顔を見あわせた。
「……おまえが揺らしたからだ」
「祐一君がよけたからだよ!」
 とりあえずそう非難しあってから二人は物音のしたほうに駆け寄った。
 目指す先では少女が雪の上にへたりこんでいた。制服には見えない、ふわりと広がったショールやスカートに雪をかぶらせたまま散乱した荷物に目を泳がせている。買いもの帰りなのだろう、スーパーの使い捨てのおおきな袋がすぐ前でふわりと浮かぶように口を広げていた。
「ねえキミ、大丈夫?」
 たいやき娘が声をかけると少女は顔をあげた。何が起きたんだかわからないような目をしていた。
「とりあえず雪を払わないと。そのままじゃ凍えちゃうよ」
「え? あ……はい」
 裕一に言われるままに少女は雪をゆっくり払う。そして立ちあがり、ひとつ息をついた。
「……びっくりしました」
「そうだよなあ。いきなり雪が落ちてくるなんて普通思わないよなあ」
「あーっ、裕一君、ボクのせいにしようとしてる! 元はと言えば裕一君がよけたからじゃないか」
「いや、一日に二度も三度もぶつかられたんじゃたまんないし」
「ぶつかろうとしたんじゃないよ、抱きつこうとしたんだよ」
「そうか? とてもそんなふうには――」
 言いかけ、少女が不思議そうに見ていることに気がついた。たいやき娘と裕一の関係をはかりかねているようだった。
 たいやき娘も気づいたのか、とりつくろうような笑顔になって散乱した荷物のひとつに手を伸ばした。
「それにしてもたくさんお買いものした――」
「――あっ!」
 思いがけない強い声にたいやき娘はびくっとして動きを止めた。自分がそんな声を出したことに驚いたように少女は口に手をあて、申し訳なさそうに言葉を続けた。
「……ごめんなさい……自分で拾いますから……」
「……う、うん」
 たいやき娘は手をひっこめた。そう言われては裕一も手を出すことができず、少女が荷物を拾うところをただ見つめた。
 やがて荷物をすべて集めて袋に詰めなおすと少女はその袋を胸の前に抱えなおした。
 すこし気まずい雰囲気が三人のあいだにわだかまった。
 それを打ち消すようにたいやき娘が胸の前で手を打った。
「ね、ねえキミ、このへんの人? 同い年くらいだよね? ボクは月宮あゆって言うんだけど、キミの名前は?」
 記憶が揺れた。
「――あゆ?」
 ほとんど茫然として祐一は言った。
 たいやき娘はうれしそうな笑顔を祐一に向けた。
 面影はあった。たしかに。けれど――
 理性と感情が現実と記憶で混乱した。頭から血の引く感覚。外は明るいのに目の前が暗くなる。瞳に写る光景が薄れながら揺れる――
「――祐一君!」
 腕をしっかりつかまれる感覚。その力で祐一は我にかえった。
 たいやき娘――月宮あゆがすがるようにして祐一を見つめていた。不安と心配を顔全体にあらわして。
「大丈夫ですか?」
 心配そうな少女の声が耳に入る。二人の顔を交互に見くらべ、祐一は息をついた。
「ああ。ありがとう、心配してくれて」
 そして月宮あゆの顔をあらためて見なおした。
「そうか――あゆか」
 あゆは満面に笑みを浮かべた。
「そうだよ、ボクだよ!」
 記憶の底からよみがえった名前。
 この街で過ごした最後の冬に出会った少女。
 けれどいまはそれ以上のことは思いだせなかった。
「これですこしは感動の再会シーンらしくなったかな?」
 きまりの悪さをごまかすためにそう言うと、あゆはうれしそうにうなずいた。
「そうだね。ちょっとね」
 そしてすぐに心配そうな顔になった「でも、本当にだいじょうぶ?」
「ああ。自分ではよくわからないけど、引っ越してきたばっかで疲れがたまってるんだろ、きっと」
「気をつけたほうがいいですよ。自分では平気だと思っていても、重い病気だったりすることもあるんですから」
 そう言ったのは少女だった。本当に心配そうな目で祐一を見ていた。
「そうだな、うん。気をつける」
 祐一がそう応えると、少女の表情がすこし変わった。
「でも、あの……感動の再会シーンって」
「うん、ボクたち、会うの七年ぶりなんだよ」
 あゆは心からうれしそうにうなずいた。
「……ドラマみたいですね」
「ねー」
「そうかなあ? だとしたらコメディだな」
「……なんで? 祐一君」
「だって、たいやき持ち逃げしようとしてる奴と二度もぶつかるなんて、シリアスな展開とは思えない」
「――だから、あれはしかたがなかったんだって!」
「しかたがなくたってやっちゃいけないことはやっちゃいけないことだろう」
「……そりゃそうだけど」
「またちゃんとお金払いに行くんだぞ」
「うん、わかってる。そうするから、ちゃんと」
「よし、それでこそあゆだ」
 何の気なしに祐一はあゆの頭にぽんと手を置いた。あゆはうれしそうに微笑んだ。
「よかった。祐一君が昔のまんまで」
「――え?」
 訊きかえそうとして、少女の視線に気づいた。
 少女はうらやましそうに祐一とあゆをながめていた。祐一があらためて目を向けるとはっとしたみたいにぱちぱちとまばたいた。
「――あの、じゃあ私、これで」
 ちいさくおじぎをして歩きだす。その姿に対してあゆはまるで昔からの友達みたいに手を振った。
「気をつけてね。じゃあね」
 その言葉に少女は肩越しに振りかえってまたちいさく頭を下げた。あゆは手を振るのをやめてつぶやいた。
「ボクとおんなじくらいの年かなあ。このへんで見かけたことないけど」
「……あゆっていくつだっけ?」
 祐一は横目であゆを見た。あゆは祐一の顔を見あげた。
「祐一君、覚えてないの? ひどいなあ。祐一君と同い年だよ」
「――ええっ!?」
 思わず声をあげてしまった祐一にあゆは正面から向きなおった。
「どうしたのかな? 祐一君」
 顔は笑っていた。声は笑っていなかった。
「あ、いや、その――あっ!」
 忘れていたことに気づき、祐一は少女を追って駆けだした。
「あーっ、祐一君、逃げる気!?」
「違うって! ねえ君、ちょっと!」
 呼び止められて少女は足を止めてふりかえった。その姿に祐一は足を止める前に声をかけた。
「商店街に行く道ってどっち?」

「……戻ってこれたあ……」
 アーケードの端にたどり着いたところで祐一はついそうつぶやいた。
「ちょっと冒険みたいで楽しかったね」
 なぜだかうれしそうにあゆが言う。そう言われると不思議とそう思えた。
「まあそうかな」
「祐一君、これからどうするの?」
「帰る。疲れた」
 考えてみればまだ下校中だった。気苦労もあった。すこし落ちついて休みたかった。
「そっか」
 残念そうに言い、けれどあゆはすぐに元どおりの笑顔に戻った。
「でも祐一君、この街に引っ越してきたんだよね。だったらすぐにまた会えるよね」
「……そうだな」
 なぜかすぐには答えられなかった。どうしてだろう、そう考える前にあゆは祐一の前に右手を差しだしていた。
「ね、指切りしよ」
「指切り? なんで?」
「また会えるように」
「だっておまえ、いま自分で言ったじゃないか。すぐにまた会えるって。ここに来ればきっとまたあゆがたいやきの袋を持って走ってきて――」
「うぐぅ……祐一君、もしかしてボクのこといじめてる?」
「いや、ぜんぜん。ただ二度あることは三度あるって言うからな」
「……やっぱりいじめられてる……」
 あゆはしゅんとして顔をうつむかせる。そのしぐさがあまりに子供っぽくてかわいくて、苦笑しながら祐一は頭をなでようと手を伸ばした。
 と、その手をあゆの両手が包むようにつかんだ。小指をからませてにっこりと微笑む。
「はい、指切り」
「……狙ってたな?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。ほら、指切り――」
 元気のいい声につられて祐一はあゆと指切りをした。
 ――そう言えば、指切りなんてするのいつ以来だろう?
 ふとそんなことを思い、祐一は奇妙な感覚にとらわれた。
 そんな祐一の思いなどおかまいなしにあゆは祐一のそばから離れて駆けだした。
「じゃあ、またね! 祐一君!」
「――っておい! またねっていつだよ!」
「大丈夫、二度あることは三度あるから!」
 そう言ってあゆは背中の羽を揺らしながらアーケードの向こうへと去っていった。そのうしろ姿を祐一はちょっとあっけにとられて見送った。
「……たいやき屋のおやじにつかまったりしないだろうな……」
 ついそんなことをつぶやいたが心配してどうなるものでもなかった。やれやれと首を振り、祐一は帰途についた。

「……祐一、遅いよ」
 リビングに顔を見せたとたん、ソファの上に膝を抱えて座っていた名雪がうらめしそうに祐一を見た。
「あ……」
 言葉を失い、祐一は壁にかけてある時計を見た。そろそろおやつを食べてもおかしくない時間だった。
「せっかく急いで帰ってきてはりきって作ったのに〜。おなかぺこぺこだよ〜」
 なさけない声でそう言いながら立ちあがり、名雪はキッチンへと向かった。心なしか足がふらついているような気がした。
「ごめん、名雪! 手伝うから、な? なんだったら休んでていいぞ。な? な?」
 機嫌をとるように言いながら祐一はあとに続いた。

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