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"Kanon" One of another - D.B.C. Compact mix

4

 不安はたびたび過去にともなわれて訪れて祐一を不意打ちした。
 たとえば名雪との何気ない会話の中で。
「あ、見て見て祐一、ほら、雪うさぎ」
 ある日二人で速足で登校する途中、そう言って名雪は唐突に足を止めた。
「おーい、今日も寄り道してる余裕ないぞー」
 すこし先に行ったところで足を止めた祐一がふりかえって声をかけても名雪は動こうとはせず、ただじっと道の脇を見ていた。その視線の先、家の門と生け垣の境あたりにはたしかにかわいらしい雪うさぎが一匹ちょこんとうずくまっていた。
 どこかなつかしげに見つめながら名雪は口を開いた。
「ねえ裕一、覚えてる? 昔裕一に雪うさぎ作ってあげたこと」
 どきっとした。
 たしかにそんなことがあった気がした。けれどその記憶ははっきりとよみがえりはしなかった。むしろそれは忘れたままでいたい気がして――
「――いや、覚えてないなあ。そんなことあったっけか?」
「……残念。よくできてたってほめてもらいたかったのに」
 視線を裕一に戻して名雪は歩きだした。その顔に浮かぶ微笑みは寂しげにもほっとしているようにも見えた。

 あるいは、夢の中で。
 目の前の少女は透明なガラス瓶を差しだしている。おおきさはインスタントコーヒーの入れものくらい。ラベルがていねいにはがされたその中にはちいさな天使の人形が入っている。祐一が前の日に千円以上使ってクレーンゲームで吊り上げた人形。
 子供のころの裕一の声が言う。
「どうするんだ? そんな中に閉じこめたりして」
「閉じこめたんじゃないよ。大切に取っておくんだよ。ほら、いっしょに来て」
 聞こえたのはいまとほとんど変わらないあゆの声。そう、出会ったあの日以来二人は毎日遊ぶようになっていたのだ。
「なんだよ、教えてくれたっていいじゃないかよ」
「すぐに教えてあげるよ。だから、いっしょに来てよ」
 明るい声でそう言い、あゆは先に歩きだす。そのころのあゆはもう笑顔を取り戻していた。
 あゆはどんどん先に行く。裕一はその後を追いかける。景色はすぐに見慣れないものに変わる。年に数回しか訪れない街だ、知らないところはいくらでもある。
「おい、どこまで行くんだよ」
 そう言った声はすこし震えていたかもしれない。
「もうすぐだよ。ほら、あそこ」
 歩きながらあゆは前のほうを指差す。
 見えたのはまっすぐな背の高い木々。二列一直線に並んでいる。その先にあるのは公園の入口。遊歩道のような並木道は人も車も通らないらしく雪で覆われている。
 そのまんなかあたりで足を止めてあゆはふりむく。
「祐一君、昨日言ってたよね。この人形はひとつ願いをかなえることができるんだって。祐一君にできることなら、だけど。
 ボク、このビンをタイムカプセルにしようと思うんだ。願いごとを未来のボクにとっておくために。祐一君にはとても助けてもらったから、いまは願いごとをかなえてもらわなくてもいい。でももしかしたらまた未来のボクが祐一君に会う前みたいにとてもこまるかもしれない。そのときに祐一君に助けてもらうために。いつかまた祐一君がこの街にやってきたときに助けてもらうために。
 ……こんなやりかた、ずるいかな?」
 あゆは上目づかいで祐一を見る。
 祐一は首を横に振る。あゆの言葉がうれしくて。
 そして二人は手近な木の根元にタイムカプセルを埋めはじめる。積もっていた雪をどけて、あゆが用意していたスコップで土を掘って、そこにガラス瓶を据えて、土をかけて。
 戻した土をとんとんと叩いてガラス瓶をすっかり見えなくすると、二人は顔を見あわせてどちらともなく微笑みあう。
 そしてあゆが寂しげにつぶやく。
「……明日でお別れだね」
 ――そこで目が覚めた。

 大切なことを忘れていた。それはまちがいなかった。
 けれどそれは思いだしてはいけない気がした。思いだしてしまったらなにもかもが壊れてしまう気がした。
 だが祐一はふたたびこの街を訪れていた。戻ってきてしまっていた。
 いつまでもいまのままではいられない――その予感が、祐一にはっきりとしない不安をいっそう強く怖れさせていた。

 思わずその場で立ちどまったときにも、最初に感じたのはその不安だった。
 けれど足を止めてしまった以上無視することもできず、祐一はただ目に映る景色をながめた。
 休みの日の午後、散歩の途中で通りかかったのはポプラの並木道だった。あゆとたいやきを食べた場所。出会った少女があゆだと知った場所。
 ――もしかしたら、七年前にタイムカプセルを埋めたのはここだったかもしれない……
 そう思いながら、しかし祐一は確信を持てなかった。記憶は自分でもあきれるほどおぼろで、かつてこの街で過ごしたときのことは何ひとつはっきりとは言えなかった。
 そんな自分自身をどうとらえていいかわからず、うまくかたちにならない想いをもてあましながら、祐一はただ並木道をながめた。空に低く雲が垂れこめた天気の下で、人通りのないその並木道はやけに寂しく感じられた。
「……あの……祐一、さん?」
 背後からのひかえめな呼びかけに祐一はふりかえった。聞き覚えのない口調だと思いながら。
 少女が立っていた。おそるおそるという感じで上目づかいで祐一を見つめている。コートの襟元から見慣れたリボンがのぞいていた。同じ高校の制服だが、色は同級生とは違っていた。緑――一年生だ。
 見覚えはあった。ような気がした。誰だか思いだせず、ためにうまく言葉を見つけることもできず、祐一は相手を見つめてその言葉を待った。
 と、少女はふたたび口を開いた。なぜだかすごく恥ずかしそうに、ちいさな声で。
「……祐一さん、ですよね?」
「ああ、そうだけど」
 祐一の答に少女はほっとしたように目を閉じてカバンを持っていないほうの手を胸にあてた。
「ふう、よかった……まちがってませんでした……」
 そして目を開けるとぺこんとおじぎした。
「突然声をかけてすみません。あの、覚えていらっしゃらないかもしれませんけど、以前この場所でお会いしたことがあるんですけど」
「――ああ、あのときの」
 それで思いだした。あゆと感動の再会シーンを演じそこねたときに雪をかぶせてしまった少女だった。そのあとも一度見かけた――中庭で美坂と話しこんでいるところを。あのときは制服ではなかったけど。
「今日は、あゆさんはいらっしゃらないんですか?」
「ああ、一人で散歩してたから」
 答えながら、そういえば最近会ってないと気づく。瞬間、無意識のうちに避けているのかもしれないという思いが苦みのように走った。
 ごまかすために裕一は口を開いた。
「それにしても、よく俺たちのことを覚えてたね。名前まで。あれ一回きりなのに」
 少女は笑みを浮かべた。けれどその顔にはどこか切羽詰まったような雰囲気があらわれていた。
「ぜったい忘れません、お二人のことは。だって――」
 言葉はそこで途切れた。少女は息を飲んでうつむき、ふたたび顔をあげた。表情に変化はなかった。表面上は。
「あの、裕一さん、お時間ありますか?」
「え? あ、ああ、別に用はないけど」
「じゃあ、よかったらすこしつきあっていただけませんか?」
 祐一はあらためて少女を見かえした。
「逆ナン?」
 少女は唇をとがらせた。
「……違います。そんなこと言う人、嫌いです」
「ごめん。いや、俺もそんなことはないと思ったけど」
 祐一は頭をかいた。ほとんど会ったことのない少女から誘われる理由がわからなかった。
「……駄目ですか?」
 上目づかいで少女は祐一の様子をうかがう。切羽詰まった雰囲気は変わらずただよっていた。そんな目で見られたら断る気にはなれなかった。
「いや、まあ、いいよ」
 少女はほっとした表情を見せた。
「ありがとうございます。すこし歩くんですけど、いいいですか?」
 そう言ったときには少女はもう歩きだしていた。祐一は後を追った。
「どこに行くの? 制服で行っても大丈夫なところ?」
「はい、大丈夫です。だって、学校ですから」
「――学校?」
 思わず祐一は足を止めた。同じように足を止めてふりかえり、少女は首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「……帰ってきたところじゃなかったの?」
「はい。これから行くところでした」
「……俺、私服だよ」
「大丈夫です。私、人目につかずに入れる道を知ってますから」
「……そういう問題かなあ……」
「……いっしょに行っていただけませんか?」
 少女は表情を曇らせた。
 こまらせるのは本意ではなかった。
「ごめん、悪かった。行くよ、うん」
 裕一は歩きだした。少女はほっとした顔でその横に並んだ。

 案内されたのは通用門だった。積もった雪をほったらかしにしてあるその場所はたしかに誰も見ていそうになかった。申し訳程度につくってある人一人分くらいの幅の道を通って二人は校舎に入り、昇降口で上履きに履き替えた。
「こっちです」
 そう言った少女の後をついていって、たどりついたのは裕一のクラスの教室だった。
「ここ?」
「はい」
 少女は何事もないようにドアを開けて中に入る。なんだか妙な気分を感じながら裕一も中に入った。
「まさか自分のクラスにやってくるとはなあ……」
 裕一のつぶやきに少女はくるりとふりかえった。
「え? 裕一さん、このクラスなんですか?」
「ああ。三学期からだけどな」
「……ドラマみたいな偶然ですね」
「まあそうかなあ」
 少女はくすっと笑い、少し真剣な表情になった。
「じゃあ、美坂香里の席を知ってますね?」
「ああ、そこ」
 裕一は指さす。その先を目でたしかめ、少女は近づいてその前の席に座った。名雪の席に。机の上にカバンを置いて。
 そして窓の外に目をやった。
 まだ戸口の近くに立ったまま裕一はその様子をながめた。外はまた一段と暗くなったようだった。
「……前に、君と美坂さんが話してるのを見たことがあるよ。中庭で」
「やだ、見られてたんですか?」
 笑う気配がした。寂しげな気配だった。立ち入ったことだとは思ったが、聞かずにはいられなかった。
「どんな関係なの? 君と美坂さんは」
「姉妹です。香里は私の姉です。私は栞と言います」
「……何をしにここに来たの?」
「……お弁当を食べに来たんです」
「……お弁当?」
 栞と名乗った少女は答えなかった。すこし重い沈黙が過ぎた。
 先に口を開いたのは栞だった。
「私、入院してるんです」
「……入院?」
「はい。もうすぐ手術なんです。何時間もかかるような、おおきな。それで、その手術、成功するかどうかわからないって言われてるんです」
「――それって――……」
 言いかけ、しかしなんて言っていいのかわからず、祐一はそれ以上言葉を続けることができなかった。
「昔っから体が弱かったんです、私。でも自分は普通だと思ってました。ちょっと――いえ、だいぶですけど、人より病気がちなくらいで。
 姉は私の面倒をよく見てくれました。わがままもずいぶん聞いてくれたと思います。あんなやさしい姉がいたらお姉ちゃん子になるのはあたりまえですよね? だから私、同じ高校に入るためにいっしょうけんめい勉強したんです。お姉ちゃんと違って、私、あんまり頭よくないから。
 合格したときは本当にうれしかった。家族みんな、とても喜んでくれました。
 でも入学式の日、学校から帰ってきて――私、倒れたんです。
 たくさん検査されました。それで、心臓に穴があいてるって言われました。本当ならもっとちいさいときに見つかるはずなのに、なぜか見過ごされてきたって。このままだと長くは生きられないとも言われました。他にもたくさんむずかしいことを言われましたけど、よく覚えてません。
 それからずっと病院暮らしです」
「……でも、あのとき……」
「はい、あのときは冬休みだったので仮退院させてもらってたんです。調子も上向きだったのですこし長めに。わがままを言って病院に戻るのを伸ばしてもらって。
 もう病院には戻らないつもりでした」
 栞は顔をわずかにうつむかせた。
「死んじゃおうと思ってたんです。
 家にいるあいだじゅうずっと、お姉ちゃんとすごいけんかをしてました。お姉ちゃんは私のことを心配してくれてるのに、悪いのは全部私のほうなのに、でも、だからって素直に言うことを聞けなくて、ずっと言い争いしてました。
 それで、もう生きていたくなんかないって思ったんです。
 ああいうときって不思議ですね。そう決めたら普通の顔でそうするんです。お姉ちゃんが学校に行くのを自分の部屋の窓から見送って、もうおとなしく病院に戻るからってお母さんにお願いして買いものに出て、スーパーでいちばんおおきなカッターナイフとお菓子やいろいろこまごましたものを買って、この道を歩くのも最後なんだなって他人事のように思いながら家に戻る並木道を歩いて。
 そしたら、雪をかぶりました。晴れてるのに」
 言葉はそこで一度途切れた。
「……夜遅くなってから買ってきたカッターのパッケージを開けました。刃を長く出して左の手首にあてて、試しに軽く引いてみました。血がすっと浮いて流れました。
 そのときまではなんとも思わなかったんです。
 なのに――もう一度、今度は力を入れてやり直そうとカッターを握りなおした瞬間、祐一さんとあゆさんの顔が浮かんだんです。
 仲のよいお二人の楽しげなやりとりを思いだして、つい笑ってしまいました。
 そしたら、笑いが止まらなくなりました。
 胸が苦しくなるくらい笑って、涙が出るくらい笑って――いつのまにか泣いてました。
 私、どうしてこんなことしてるんだろう、って。
 私ももう一度お姉ちゃんとあんなふうに楽しくおしゃべりしたいのに、って。
 気がついたらカッターを置いて左の手首を押さえてました。痛かったんです、傷が。切ったときも痛かったけど、自分の痛みじゃない感じでした。でもそのときは違いました。自分の体の痛みでした。
 もう手首は切れませんでした。
 まだ生きていたい。そう思ったんです」
 栞はふりかえって祐一を見た。笑顔だった。目が潤んでいるようにも見えたが、笑顔だった。
「ごめんなさい、ほとんど見ず知らずの人にこんな話して。でも誰かに聞いてほしかったんです。それも、できればあのとき会った人に」
 静かに立ちあがり、栞は祐一に正面から向き直った。
「祐一さんとあゆさんは、私の命の恩人です。ありがとうございました」
 栞は頭を下げた。祐一は何も言葉を返すことができなかった。
 頭をあげた栞は微笑んでいた。
「まだ質問に答えていませんでしたね。私、お姉ちゃんにおねだりしたんです。学校でいっしょにお弁当を食べたい、って。
 高校に入学する前の私の夢だったんです。お姉ちゃんとお昼にお弁当を食べることが。ずいぶんちっちゃな夢ね、ってはじめて話したときお姉ちゃんに笑われましたけど。
 ちっちゃな夢でも、この先かなえられるかどうかわかりません。
 だから、おねだりしたんです。一度でいいからお姉ちゃんと学校でお弁当を食べたいって。そうしたら思い残すことなく手術を受けることができるからって。
 でも……」
 机をまわりこむかたちで歩き、栞は窓に向かって祐一に背を向けた。外はいつのまにかかなり強い雪が降っていた。
「……お姉ちゃん、来てくれないかもしれません。来たら、たとえちっちゃな夢でもかなえてしまったら、本当に最後になってしまうかもしれない――そう思っているような気がするんです。
 だから――……」
 言葉はそれ以上続かなかった。寒さがすこし強くなったような感じがした。
 やがて、声がちいさく響いた。
「……今日はつきあっていただいて本当にありがとうございました。祐一さんは帰ってください。いつまでもつきあっていただくわけにはいきませんから。
 あとは私一人で待ちます。
 春になったら会いにいきますから」
 声は消え、静寂だけが残った。
 祐一は口を開きかけた。けれど言える言葉は何も思いつかなかった。背中を向けてまっすぐ立っている少女にかけられる言葉は自分にはないような気がした。
 しばらくそのうしろ姿をながめてから、祐一はそっと教室を出た。
 たしか名雪は今日も部活のはずだった。まだ学校に残っているかもしれない。とにかくつかまえて美坂の電話番号を聞きだそう、そう思った。そして美坂を呼びだそう。祐一で駄目なら名雪にも頼んで。
 その必要はなかった。昇降口に出たところで見つけた人影に祐一は足を止めた。
 靴を履き替えていた相手は驚きを一瞬で笑顔の下に隠していた。
「あら、どうしたの? 相沢君。そんな格好で。忘れものでも取りに来たの? 先生に見つかったらおこられるわよ」
 すぐには声は出なかった。ようやく見つけた言葉を祐一はしぼりだすように言った。
「俺のことなんか放っておいて、早く行ってやれよ」
 美坂香里は笑顔を固まらせた。
 その口から、言葉がぽつりと漏れた。
「……何をしてたの?」
「姉想いの妹の話を聞いてた」
 香里は息を飲んだ。その表情を見て、変な話だが、祐一は安心した。香里が何のためにやってきたか理解して。
「どうして、相沢君――」
「説明は今度いくらでもするから。だから、早く行ってやってくれ。いまは一人で待ってるんだ。さびしいに決まってる」
 そこまで言って、祐一は香里に言われたことを思いだした。
「お姉さんらしくしてあげてくれよ」
 香里は祐一の言葉を黙って聞いていた。
 そしてちいさくうなずいた。
「そうね。人に言ったことは自分でも守らないとね」
 微笑み、香里は歩きだして祐一の脇を通りすぎた。
 ふりかえった祐一はその姿が階段のある角を曲がって消えるまで見送った。

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