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"Kanon" One of another - D.B.C. Compact mix

3

 数日があわただしく過ぎた。
 じりじりと起きるのが遅くなる名雪とともにはらはらしながら登校し、読んだことのない教科書を前にして知らない教師のちんぷんかんぷんな授業を受け、寒さに震えながらなじみがあるようなないような居候先の家に帰る。引っ越す前は意識せずにやっていたことがいちいち新鮮というか面倒というかという感じで、気がつけば落ちいついて考えている余裕などなかった。他にも本当に寒いところでは雪が降っても傘をささなくていいことを学んだり油断せずに雪道を歩いても転ばずにすむようになるまでにはずいぶん時間がかかりそうだということを身をもって学んだりといろいろなことがあった。
 その中にはこんなこともあった。トイレで小用を足していたときのことだ。隣に立った奴がいきなりこんなことを言いだした。
「水瀬名雪のプライベートショット、一枚五百円でどうだ?」
 そういえば人気あるって話だったな、と思いながら祐一は応えた。
「見飽きてるからいらない」
「違う違う、そうじゃなくておまえが撮って売るんだよ。いいこづかい稼ぎになるぜ」
 体を震わせて祐一は隣を見た。うしろの席に座っている、たしか北川という名前だった。
「アイディア料はいらない。ただ、美坂とのツーショットがあったらただでくれ」
「……わかりやすい奴だな」
「だろ?」
 北川はにやりと笑った。それ以来、祐一と名雪が話しているときやそこに美坂が加わっているときなどに北川はなにかとそばに近づくようになった。
 他にはこんなこともあった。昼休み、学食に入れないので購買でパンを買って教室に戻ってきたときのこと。窓から見える、雪に埋もれた中庭にめずらしく人影が見えた。一人は美坂香里。もう一人は私服の少女。顔がはっきり見える距離ではなかったが、その面影には見覚えがあった。二人は真剣に話しあっているようだった。
「祐一〜、おなかすいたよ〜。早く食べようよ〜」
 じゃんけんに勝って先に戻っていた名雪は窓の外など気にもしない様子でなさけない声をあげていた。その隣、自分の席に腰をおろして机の上にパンを置くと祐一はとりあえず訊いてみた。
「なあ、美坂って、妹、いる?」
「え? う、うーん……」
 名雪は口ごもった。「……今度、香里に聞いてみなよ。私、彼女の家の事情、よく知らないから」
 すまなそうに言い、あやまるように上目使いで裕一を見る。事情があるらしいことは容易に察せられた。祐一はそれ以上その話をするのはやめた。ただ二人のただならない様子はいつまでも脳裡に残った。

 そんなこんなで新生活に慣れるのにいそがしく、夜は荷物の整理もろくにせずに泥のように眠った。眠れないよりはずっとよかった。眠れないで余計なことを考えてばかりいるよりは。

 それが、すこし気がゆるんだからだろうか。休みの前の日になって、引っ越してきてはじめて、祐一は夢を見た。

 商店街に立っていた。
 人影はなかった。静かだった。なのになぜかいまよりも活気があるように感じられた。七年前のアーケードだ、半ば覚めている意識がそうつぶやいた。
 祐一はふりかえった。
 女の子が泣いていた。泣きながら、祐一の服の裾をつかんでいた。
 祐一はこまっていた。
 知らない女の子だった。歩いていたらいきなりぶつかってきたのだ。おころうとしたときにはもう泣いていた。泣きながら、いつのまにか祐一の服の裾をつかんでいた。すがるように。
 何を訊いても答えてくれず、祐一は途方に暮れた。
 なにか助けになるものはないかとあたりを見まわして、その店に気づいた。
 女の子の背中に手をあて、なだめながら店の前まで歩く。おこづかいと相談してから背伸びをして注文し、祐一は二つのうちのひとつを女の子に差しだした。
「ほら、これ」
 祐一の声に女の子は薄目を開いた。
 そして不思議そうに差しだされたたいやきを見た。泣き声がすこしおさまって祐一はすこしほっとした。
「あげる。おいしいよ」
 そう言うと女の子は上目づかいで祐一を見た。とまどうようなためらうようなその瞳に祐一はあらためてたいやきを差しだした。
「いっしょに食べよ。ほら」
 ちょっと強い口調に女の子はちいさくうなずいてたいやきを受け取った。
 そのまま二人でたいやきを食べた。黙々と。
「……ごちそうさま」
 やがて祐一よりずいぶん遅れて女の子はたいやきを食べ終えた。まだ悲しそうな顔をしていたが、もう泣いてはいなかった。
「おいしかった?」
「……うん」
「よかった」
 祐一はほっとした。
 アーケードの下なのでよくわからなかったが、あたりはもう薄暗くなりはじめているようだった。早く戻らないとおこられる。いまさら手遅れに違いなかったけど。
「じゃあね」
 そう言って走りだそうとする祐一の服の裾を、いつのまにか女の子はまたつかんでいた。
「……」
 祐一はこまった顔で女の子を見た。
 女の子もこまった顔で祐一を見ていた。
「……あの……ありがとう……」
 それだけ言うと女の子は目を伏せた。服の裾はつかんだまま。
 祐一はこまった顔で女の子を見た。
 と、つぶやきみたいなちいさな声が聞こえた。
「……また、食べたい……」
「……足りなかったの?」
 女の子は首を横に振った。
「……また、明日……いっしょに……」
「……ああ」
 祐一はなんだか女の子がかわいそうになってきた。泣いていたのもこうやってひかえめな誘いかたをするのもきっとなにか理由があるに違いない、女の子の態度はそう思わせた。
「うん、いいよ。じゃあまた明日、この時間にこの場所で。どう?」
 女の子はうなずいて祐一の服から手を離した。
「……ボク、待ってるから……」
「じゃあ、約束。ほら。指切りしよ」
 祐一は右手の小指を差しだした。と、女の子も遠慮がちに右手を差しだした。
 指切りを終えると祐一はうしろを見ながら駆けだした。
「じゃあね!」
 手を振って前を向く。最後に瞳に写った少女は手を前に伸ばすような振るような中途半端な姿勢で祐一を見つめていた。

 目が覚めてもしばらくぼうっとしていた。
 あゆとはじめて出会ったときのことだった。名雪と二人でおつかいにアーケードに来て、待ちあわせの約束をして二人別々に買いものをして、そしてあゆと出会ったのだ。
 ――あのあと、すねる名雪のご機嫌をとりながら家に帰ったんだったっけ……
 そんなことを思いながら布団の中で寝返りをうつ。小指にまだ指切りの感触が残っている気がした。始業式の日の指切りの――
 はっとして上半身を起こした。
 寒さに思わず体を震わせた。

 起きてみるとまたもや朝よりは昼に近い時間だった。
 一階に下りて恐縮しながら秋子叔母さんにあいさつし、姿が見えない名雪のことを聞くと今日も部活という話だった。あの目覚ましのベルの渦は今日も鳴ったのだろうかと祐一はふと思う。もしあの中で寝られるようになったのだとしたら自分もたいしたものじゃないかという気がした。そのかわり人として大切なものをなくしてしまったような気もするが。
 そんなくだらないことを考えながら昼食まで新聞を読みテレビをぼーっとながめて過ごした。

 昨日の心積もりではまだかたづいていない荷物の整理をするつもりだった。けれど昼食を終えて一休みしてもどうもそういう気分にはなれなかった。夢の感触がまだ残っていてなぜだか落ちつかない気分だった。
 窓の外に目を向けると、曇ってはいたものの大荒れになりそうな雰囲気ではなかった。
「出かけます」
 そう秋子叔母さんに声をかけて裕一は家を出た。

 別にあてがあるわけではなかった。あるいはもしかしたら、という気分はあったが、期待するほうがどうかしてるとも思っていた。だから商店街のアーケードを端から端まで歩いて見知った顔を見つけられなかったときもがっかりはしなかった。どんな店がどこにあるのかがだいたいわかっただけで充分だった。
 そう思いつつ、けれどなぜだか去りがたくて、さあこれからどうしようかと通りの端に立って考えていると、遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。
「裕一君!」
 裕一は声のしたほうに顔を向けた。
 走りよってくる姿が倒れるところが見えた。どてっ、というなかなか派手な音がした。背中の羽がなさけない感じでひょこひょこ揺れた。
 小走りで駆け寄ると裕一は頭のそばでしゃがんだ。
「ひとつ聞いていいか?」
「……なあに?」
「なんでこんな何もないところで転べるんだ?」
「うぐぅ、裕一君冷たい……やさしい言葉をかけてくれたっていいのに……」
 あゆは顔だけを起こして裕一を見た。半ばべそをかきそうな顔だった。
「裕一君を見つけてうれしくて急いで近づこうとしたからなのに、裕一君、手を貸してもくれない……」
「俺は逃げも隠れもしないからそんなにあわてるな。ほら」
 裕一は手を差しだす。あゆはその手をつかみ、二人はいっしょに立ちあがった。あゆはコートの汚れをはたいて落とした。
「でも、世の中何が起きるかわからないからね。突然隕石が落ちてくるかもしれないし」
 なぜだか胸が強く痛んだ。あゆの浮かべていた笑顔もどこか寂しげだった。
 ごまかすために祐一は言った。
「たしかに。あゆがたいやき持ってないこともあるしな」
「……ボクだっていっつもいっつもたいやき食べてるわけじゃないよ」
「そうか? 二度あることは三度あるって言ってたじゃないか」
「あれはそういう意味じゃないよ」
 あゆはほっぺたをぷっとふくらませた。子供みたいでかわいかった。
「……食うか?」
「え?」
「たいやき、食うか? おすそわけのお返しするよ」
「ほんと? 裕一君がおごってくれるの? うわあ、うれしいなあ! うん、食べる食べる!」
 あゆは胸の前で手を叩いて無邪気に喜んだ。
「よし、じゃあ行こう。たいやき屋ってあっちだったけ?」
「あ、ボクはちょっと……」
 あゆは一転してしりごみする。考えてみたらあたりまえの話だった。
「……そうだよな。じゃ、すぐ戻ってくるからここで待ってろ」
「うん。いってらっしゃい」
 ぶんぶん手を振るあゆに見送られて祐一はたいやき屋に小走りで向かった。
「ほら」
 戻ってきて紙袋を渡すとあゆはもともと笑っていた顔をさらにほころばせた。そのまま二人で立ったままたいやきを食べた。
「おいしいね、祐一君」
「まああそこのたいやき屋は昔もうまかったからな。本当の本当に焼きたてだし」
「ううん、それだけじゃなくて、祐一君からもらったと思うといつもよりずっとおいしいよ」
 その言葉に祐一は残っていた尻尾を口の中に押しこんであゆを見た。あゆはようやく三分の二ほどをたいらげたところだった。
「なあ、あゆ」
「なあに?」
 口をもぐもぐさせながらあゆは祐一を見あげた。
「このあいだ、あゆ、言ったよな。俺が昔のまま変わってないって」
「うん。今日だって祐一君、わざわざたいやき買ってきてくれた」
 祐一は今朝見た夢のことを思いだした。「……おまえはたいやきがあれば幸せなのか?」
「そういう意味じゃないよ。昔もいまも変わらずやさしいって言ってるんだよ」
 あゆはにこっと微笑んだ。
 ――本当にそうか?
 そう聞こうと思いながら、けれど祐一は別の言葉を発していた。
「まああゆも昔のままみたいに見えるからな。お互いさまってとこかな」
「……どういう意味? それって」
 最後の一口をほうりこんであゆは祐一に顔を向けた。目は笑っていた。声は笑っていなかった。口を滑らせたのは火を見るより明らかだった。
「あ、いや、別に深い意味があって言ったわけじゃなくて、そうだ、そのコートとリュック、いつもおんなじだよな、よく似あってるよ、かわいくって――」
 しどろもどろになりそうになりながら弁解する祐一をあゆはじっと見ていた。冷たい笑みを浮かべた目で。
「――うん、でも今度は制服姿も見てみたいな、今度学校帰りに寄ってみろよ、でもそのときはたいやきは――」
「――制服?」
 あゆはきょとんとした表情を浮かべた。
 思いがけない反応に祐一も言葉をとぎらせてあゆを見かえした。
 すこしのあいだ、まるで音が消えたみたいに二人とも互いを見つめあった。
 静けさを破ったのはうしろから聞こえてきた声だった。
「祐一? なにやってるの? こんなところで」
 振りかえると名雪が不思議そうな顔で二人を見ていた。
「たいやき食べてたんだよ。ね? 祐一君」
 いつのまにか笑顔に戻っていたあゆはそう答えると同意を求めるように祐一にうなずきかけた。
「あ、ああ」
「ふーん」
 名雪は祐一とあゆを交互に見くらべた。最後に祐一を見て意味ありげな笑みを浮かべる。
「祐一、いつのまにこんなかわいい彼女作ったの?」
「え? ボク、祐一君の彼女に見える?」
 あゆはびっくりした顔で名雪を見た。
「真に受けるなよ。からかわれてるんだって」
「……そうなの?」
「さあ、どうかしら」
 笑みを浮かべたまま名雪はあゆに視線を転じる。名雪はわりに背が高いほうなので小柄なあゆと並ぶととても同じ学年には見えなかった。
「はじめまして。私、水瀬名雪です。祐一のいとこ。よろしくね」
「ボク、月宮あゆ。こちらこそよろしくお願いします」
 あゆはぴょこりと頭をさげた。
「あゆちゃんって言うの? じゃあ私のことはなゆちゃんって呼んでくれる?」
「――やめてくれ。ややこしくてかなわない」
 思わず祐一は口をはさんだ。あゆもちょっとこまった顔をして言った。
「うーん、やっぱりボク、名雪さんって呼ばせてもらうよ」
「残念……」
 そう言う名雪の顔は本当に残念そうだった。
「それで、名雪こそこんなところで何してるんだ?」
「私? 部活の帰りだよ。ちょっとお買いものしてたんだ、ほら」
 名雪はカバンといっしょに手にぶらさげた袋をちょっと持ちあげた。なんとなくいやな予感がした。
「もしかして目覚し時計か?」
 祐一の言葉に名雪はきょとんとした顔をした。
「どうしてわかったの?」
「……いや、なんとなく」
 祐一はあさってのほうに目を向けた。そんな二人の様子をあゆは興味深げに見ていた。
「祐一君と名雪さんって仲いいんだね」
「まあいとこだからな」
「ほんと? 私たち、仲良く見える?」
 さらっと流した祐一とは対照的に名雪はうれしそうに訊きかえした。
「うん、見える見える。まるでいとこじゃなくて兄弟みたい」
 そう言うあゆの顔はなぜかどこかさびしげだった。
「兄弟みたいだって。どう? 裕一」
「どうって言われてもなあ。昔からこんなもんだったろうし」
「裕一、冷たいよ」
 名雪は不満げな目で裕一を見た。
「ねー、冷たいよねー」
 同意するようにあゆはうなずいた。笑顔のまま。
「わかった。俺が悪かった。だからあんまりいじめないでくれ」
 祐一は両手を軽くあげた。
「いじめてるんじゃないよ。本当のことを言ってるんだよ。ねー、名雪さん」
「そうだよ、祐一」
 二人は意気投合した様子でうなづきあった。祐一はあきらめの息をついた。
「あ、ボクそろそろさよならするね。祐一君、たいやきご馳走様でした」
 ぽんと胸の前で手を叩くとあゆはぺこんとおじぎをした。
「なんだ? 用でもあるのか?」
「うん、ちょっと探しものがあるんだ。じゃあまたね!」
 おおきな声でそう言い、あゆは手を振りながら走って去っていった。そのうしろ姿を祐一は名雪と並んで見送った。
「……しかしいつ会っても元気な奴だなあ」
「かわいい女の子だね」
 その言葉に祐一は横目で名雪を見た。
「さっきの言葉、まさか本気で言ってたんじゃないだろうな?」
「さあ、どうかしら」
 思わせぶりな笑みを口元にただよわせて名雪は歩きだした。
「ちょっと待てって、おい、名雪、誤解してるって、おまえ――」
 言いながら祐一は名雪の後を追った。

 帰宅したときはちょうど夕暮れどきだった。夕陽に赤く染まる家の玄関にあがった名雪はたったとそのままリビングに走っていった。
「ねえお母さん聞いて聞いて、祐一ったらもうガールフレンド作っちゃってるんだよー」
「だからちょっと待てって、名雪」
 後を追いかけた祐一がリビングに入るとソファでくつろいでいた秋子叔母さんがおっとりと顔を祐一に向けた。
「あら、そうなんですか? さすがですね」
 ――さすがって、どういう意味なんだろう?
 ふとそんなことを思ったが口には出せなかった。
「それもね、すごくかわいい娘なんだよ。背中のリュックに羽なんかつけちゃったりして。月宮あゆちゃんって言うんだって」
「――月宮?」
 その瞬間、秋子叔母さんの顔からそれまで浮かんでいたおだやかな微笑みが虚をつかれたように消えた。
「――どうしたの? お母さん。もしかして知ってるの?」
「え? いいえ、そんなことないわよ。さ、そろそろ夕ごはんの準備しようかしら。名雪、よかったら手伝ってね」
 そう言って立ちあがった秋子叔母さんの顔にはもう元の微笑みが戻っていた。そのままキッチンへと歩きだす。どことなく釈然としない様子ながら、けれど何も言わずに名雪はそのあとに続いた。
 ひとり祐一だけがリビングの戸口に立ちつくしていた。
 秋子叔母さんの顔に一瞬だけ浮かんだとまどいの表情が瞳に焼きついていた。
 胸を衝かれた気がした。
 得体の知れない不安が背中から忍び寄ってくる――そんな錯覚を祐一は覚えていた。

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