「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

最終更新 2000/05/03 0:52

第32回配信
空爆開始から一年


 

昨年世界を騒がせた中国大使館正門には献花がしてあった。建物は(左上)ガラスもまだ割れたままで痛々しい。あの空爆は何だったのだろうか
   例えば皆さんがご自分の住んでいる町を離れて、雪の山でも夏の海でもいいのですが、3日くらい素晴らしい旅行をして帰ってきたと思って下さい。それから1週間なり1ヶ月なり経って、また繰り返される普通の日々の中でふと旅のことを振り返ってみる時、1週間 / 1ヶ月が過ぎているのは頭では分かっているのに、まるで昨日のことのように思えたり、逆に半年も経ってしまったように思えることはありませんか。いやT・マンの「魔の山」の受け売りのように聞こえたら失礼。でも日常からかけ離れた経験に対する特別な時間感覚というのは、ある程度誰にもあるように思えるのです。
   ベオグラードの市民にとって、そして私にとって空爆は、素晴らしい旅とは正反対の、とても嫌な非日常体験でした。それから1年が経った今、私には何か何年も前のことのように思えています。私の周囲でも私と「同じように感じる」人あり、「昨日のことのように覚えている」人あり、思い出し方は様々ですが、「1年が1年とは思えない」という感慨は誰もが持っているようです。
3月24日、空爆開始から1年で「再現」された共和国広場のコンサート
   ただ、3月24日の空爆開始「一周年」の日だけは、遠くなっていたはずの1年前が急に昨日のことのように思い出されてきました(日本のテレビの取材でしばらく多忙にしていてこのページの更新が遅くなり失礼いたしました)。この日はミロシェヴィッチ政権体制側が組織して、空爆中毎日行われていた官製イベントが再現されました。昼は市中心部・共和国広場でコンサート。夕方は市内の3つの橋の上で北大西洋条約機構(NATO)への抗議集会。夜はサヴァ川にかかるブランコ橋でまたコンサート。それらは78日間続いた非日常の中で繰り返される特殊な日常でした。このコンサートのメインスローガンは「歌があるから生きていられた Pesma nas je odrzala (空爆開始時に私同様日本のテレビの通訳を務めていたイェレナの名訳です)」でしたが、1日だけ再現された今回のそれは「思い出そう --- 歌があるから生きていられた」でした。
   思い出そう、って、何を思い出せばいいと言うのでしょうか。夜の訪れと共に鳴り響く空襲警報、夜空にやってくる低い飛来音と防空軍の花火のような対空砲火を?やがて必ず来る遠雷のような地響き、あるいは近くに落ちた時の、身をすくめる轟音と揺れを?二日に一度は電気と水のどちらかに不自由したことを?相次ぐ誤爆のニュースの中で、ユーゴにいる人間は軍人も市民も、報道関係者も外国人も関係なくみな死に遭う可能性があると感じる恐怖、あるいはミロシェヴィッチ体制に、NATOに対するやり場のない憤りを?
空爆が早くも映画に

   早くも空爆時のベオグラードの庶民の生活が映画になり2月に公開されました。中堅俳優として今も活躍中のLj・サマルジッチが自らメガホンをとった「スカイ・フック Nebeska udica」で、先のベルリン映画祭でも賞こそ取れなかったものの話題を呼びました。空爆を受け廃墟になった体育館で草バスケットに興じる若者たちを中心に、サイレンと轟音の中の庶民の日常が描かれていきます。私(大塚)自身は「映画としてはちょっと散漫かな」という印象でしたが、地元では概ね好評のようです。
   私自身に照らし合わせて言えば、日本のテレビへの電話レポートで「ピンポイント爆撃なんだから、ベオグラード中が焼け野原になっているわけではない」ことを言いたいのに、40秒や60秒では被害の状況や地元の反応だけに終始せざるを得なかったもどかしさと、停電対策で一段落ごとに文書を保存しながら毎週更新を目標に続けていった「(旧)ユーゴ便り」の執筆が、他の人にはない思い出だったと言っていいと思います。
   確かに他の多くの人とは違うことを実際に経験しているという気持ちの高揚はありましたが、間違っても快いとは言えないそんな記憶が、3月24日だけは甦ってきました。このページで空爆中何が書けて、何が書けなかったかは読者の皆さんのご判断にお任せしますので、ご興味のある方はバックナンバーを見てみて下さい。

第14回「ベオグラード(非)中立宣言」    第15回「警戒、警戒!」
第16回「反NATOで『団結』」    第17回「エコロジーの相当ヤバい話」
第18回「史上初のネット戦争」    第19回「ベオグラード大停電」
第20回「天使でも悪魔でもなく」    第21回「出国した(言い)わけ」

社会党本部は空爆された他の施設と異なり総鉄筋造りのため取り壊しのメドも立っていない。このまま「記念」に保存するという噂もピンポイント爆撃の実状。空爆被害の集中したミロシュ公通りは一見普通に見えるのだが、1ブロック離れたところにある軍参謀本部は今も右上の有様(参謀本部の写真は昨夏山本邦光氏撮影)3月24日ブランコ橋のコンサートへ向かう若い男女はミロシェヴィッチのシンパ。ベオグラードでは「少数派」のはずだが・・・

   このところベオグラードは25度を越すほどで、4月にしては暖か過ぎるくらいの日が続いています。ヨーロッパはどこでも4、5月が一番美しい季節だと私は思っていますが、春を迎えた当地でも木蓮や桜が家々の庭に美しく咲いています。
   冬は通常でも停電、断水が多いということは前に書きました。まして空爆で発電・送電施設が被害を受けた冬は大変なことになるのではないか。前回ベオグラード事情をレポートした第24回第25回配信ではそんな不安を書きました。野党勢力は、民主党を中心とする「変革のための連合」に同調する経済学者グループ「G17プラス」の悲観的な予想を、反体制支持伸張のためのバネにしようとしました。「そんなひどい冬を経験する前に、ミロシェヴィッチ打倒へみんなで団結しましょう、支持をお願いします」というわけです。ところがこの冬に関しては、政府当局の方が一枚上手、でした。セルビアの南部では暖房事情が深刻だった地域もあるようですが、ことベオグラードに関しては、今まで私が過ごした11回の冬の中で一番停電・断水が少なかったと言っていいと思います。既に空爆期間中に発足した共和国復興再建公団が、ユーゴ従来ののんびりした建設工事からは考えられないようなスピードで住宅、道路、橋梁などの工事を続け、電気公団は冬期暖房の節電を呼びかけながらも発電・送電施設の復旧を急ぎました。もちろんそうした復旧の成果は国営放送セルビアテレビのニュースで大々的に宣伝されるわけです。
ドナウ川に突っ込んだままのノヴィサド・自由橋にて。ノヴィサドでは町に掛かる橋が全て爆撃されたが、その復興が今年予定されている
   全ては当然のことながら政治宣伝、つまり選挙に向かって動いています。まだ議会から公示の動きはありませんが、今年後半には地方選、連邦議会選が行われる予定です。より重要なセルビア共和国議会選は来年の予定ですが、来年2001年半ばにはミロシェヴィッチ連邦大統領の憲法で定められた任期が切れます(連邦大統領は連邦議会両院の間接選出で再選禁止)。97年、ミロシェヴィッチは三選が禁止されている共和国大統領の2度目の任期切れを前に、連邦大統領にシフトするというウルトラCをやってのけましたが、来年は権力維持のためにどういうウラ技を使うか。彼がどのポストに就くとしても、あるいは憲法を改正(改悪?)して新しいポストを作り出すにしても、社会党+ユーゴ左翼+急進党体制にとっては「生き延びる」ため、また野党にはミロシェヴィッチ打倒の足場を固めるために、今年の両選挙は大変重要になってきます。
   1月に行われたセルビア社会党党大会で目立ったのは、「野党勢力はNATOの回し者、裏切り者である」という旨のミロシェヴィッチ党首の発言が公式テーゼになったことと、ベオグラードなど96年の地方選で「落とした」都市の奪回に向け地方支部の人事異動を行ったことでした。
   社会党に先立ちシェシェリ党首の再選を追認した極右・セルビア急進党は、中立メディアと野党は「民族の裏切り者であり、逮捕・粛清されてしかるべきである」と気勢を上げました。週刊誌「ヴレーメ」、日刊紙「ダナス」など中立・反体制系各誌紙はこれに抗議の姿勢を示すため、急進党とシェシェリ党首の記者会見、声明などの発表を拒否し続けています。
   野党側も冬期の暖房燃料の人道的支援や制裁部分解除を先進諸国に要請して宣伝を狙いましたが、西側の反応は今一つで、制裁のうち解除されたのは国際航空の復活だけでした。3月からはベオグラード空港に独ルフトハンザ、オーストリア航空、スイス航空などが再び飛び始めたのは明るいニュースですが、野党の宣伝効果はほとんどなかったと言っていいでしょう。昨年9月21日に始まった「変革のための連合」(民主党を中心とする政党連合)主催の連日の集会は、当初こそ警察が介入しジンジッチ民主党党首が殴打されるなど、対決姿勢の熱気がありましたが、やはりもう一つの人気政党セルビア再生運動の同調を得られず、12月に事実上終息してしまいました。
都市部で人気の民主党、ジンジッチ党首(写真=FoNet)
   しかし2月以降、中道小政党の仲介で再び民主党と再生運動が同調、4月14日には8月19日(第24回配信参照)以来久しぶりに全野党の参加による大集会が共和国広場で行われ、野党の一応の団結を示す機会となりました。
   野党側に再び団結の機運を呼び起こす重要な契機となったのは3月の一連のメディア潰しの動きでした。3月6日未明、ベオグラード市放送局「スタジオB」の中継施設が警官の制服を着た何者かによって荒された直後、マルコヴィッチ通信相から周波数使用料の未払い(ユーゴの電波は形式上軍の所有になっており、国営セルビアテレビも使用料を支払っているかどうかは確認されていません)を理由に同月末で放送禁止を通告されました。
   「スタジオB」は市の放送局であることから、ベオグラード議会で多数を取った政党の色が付きやすい宿命にあります。従って現在の同放送局のニュースは市の権力を握るセルビア再生運動とドラシュコヴィッチ党首がかなり「私物化」している印象はありますが、社会党(国営セルビアテレビ)、ユーゴ左翼(テレビ・ピンク)、急進党(テレビ・パルマ)の体制側御用放送とは違うニュースが見られる首都唯一の放送であることは確かです。
   3月上旬には他にも地方の中立・野党系テレビ、ラジオ放送局が同じような理不尽な理由で放送禁止の憂き目に遭い、各地で市民の抗議集会が開かれました。セルビア中部チュプリヤ市の民放「TVネマーニャ」は、音楽などの娯楽放送専門でしたが、野党系の政治家が登場するトーク番組の放送を始めたところ、やはり周波数使用料の未払いを理由に当局の介入を受けたといいます。
4月14日の野党集会で演説するセ再生運動・ドラシュコヴィッチ党首
   これらのメディア騒動は、一度はバラバラになりかけていた野党勢力が再団結する好機となりました。スタジオBはベオグラード市が使用料を支払って一応問題解決、当局側も禁止した放送局の放送再開を一部認めるなど手を控える姿勢を見せましたが、4月14日の野党側集会が開かれた共和国広場には10万人を超える(外電発表による。当局発表は3万5千)と思しき人々が集まり、大変な熱気を帯びました。
   「現体制によってみんな殺されつつあるんだ、しかも国はどんどん小さくなる一方だ、こんな体制には選挙で負けて出て行ってもらおう!」(ドラシュコヴィッチ・セ再生運動党首)、「セルビアはもっとまともな国になれる、世界から認めてもらえるような国になれる。そのために我々は断固戦おう!」(ジンジッチ・民主党党首)。改革左派から王党派までいろいろな政党の寄せ集めですから、相変わらずミロシェヴィッチ政権打倒を叫ぶ最大公約数以外はバラバラの印象がありましたが、取りあえず形の上では野党も団結して体制側に対抗できることを久しぶりに示した集会でした。

   ベオグラードの暮らしはまずまず安定しています。民営店はもちろん、国営系店舗でも輸入品はいくらも出ていますし、ある程度お金に余裕のある階層には至ってのんびりした毎日です。昨年空爆を受けていた事実から読者の皆さんが期待されるような状態からはほど遠いと言っていいくらいではないでしょうか。しかし基本食料品に関しては、相変わらずほめられない話が続いています。
   空爆中の戦時統制下では不当値上げや出し惜しみが禁止されたため、ガソリン、タバコほか輸入品はともかく、国内で生産できる基本食料品の深刻な不足は起こらなかったことは書きました。ところが空爆が終わって、従来の公定価格・値上げ許認可制に戻った途端にまた業者の出し惜しみが始まりました。インフレ圧力の中で政府の値上げ認可が業者の要求に追いつかないため、国内で十分生産できているはずの食用油、砂糖、肉類、小麦粉などがスーパーマーケットから姿を消してしまうのです。
「当局のメディア潰しのやり方はメチャメチャだ」と怒るスタジオB・コヤディノヴィッチ社長。同放送局のニュースは再生運動の御用放送だが、それでも首都唯一の反体制系ゆえ視聴率は高い
   食用油1リットルの小売価格は約12ディナールでしたが、これに必要なひまわり5キロの原料価格は14ディナール、これでは出し惜しみが当然ですね。ジャガイモ1キロの値段(16ディナール)で砂糖が2キロ弱が買え、ミネラルウォーター1リットル(11ディナール)分と食用油1リットル分の価格が同じというのもおかしな話で、特に加工農産品の価格がアンバランスなほど低く抑えられていることが分かります。政府は特に理由を発表しておらず、どういう方針で何を目指しているのかが今一つ分かりません。敢えて言えば、消費者(の生活安定)の方が国営系労働者よりも選挙宣伝上ターゲットとして重要、という当局側の判断が働いているのではないかと思われます。パン製造の大手「ジトヴォイヴォディナ」のマティッチ社長は、「基本食料品価格を安定させようという政府の方針と努力は間違っていないと思う。しかし、塩、イースト菌、燃料の値上げが相次ぐ中、小麦粉を国からタダ同然でもらっている我々にとってもパンの公定価格3ディナールは安過ぎる」と言い、典型的な体制側機関であるはずのセルビア商工会議所マティッチ会頭も「大幅な価格自由化を」、と政策の見直しを提唱しています。
復活させてはならぬ?

   4月末は正教暦のイースター(復活祭)でしたが、これに関係するともしないとも言える新しいジョークが出回っているようですので紹介します。
   セルビアのある村の近くの路上にミロシェヴィッチ大統領の死体が転がっていた。通りがかった2人のクロアチア人「葬式ぐらいはやってやらないと。あそこの村まで運んで行こうよ」「いやオレ達が殺したと思われてもイヤだな、さわらぬ神にたたりなし、よ」。で2人は立ち去ってしまった。次に通りがかった2人のアルバニア人、同じく「オレ達が殺したと思われてもイヤだな」。で立ち去ってしまった。次に通りがかったのは2人のユダヤ人。哀れに思ってミロシェヴィッチの死体をセルビア村に運んで行き埋葬を申し出たら、村人いわく「お前らユダヤ人と一緒に大統領の葬式なんて冗談じゃねえ、お前らが埋葬したキリストは復活しちまったじゃねえか」
   ある国営系店舗では「ヴォイヴォディナ風サラミ」を、当局の鑑査を逃れるため「ヴォイヴォディナ風辛口サラミ」と「辛口」という言葉だけ品札に付けて公定価格の10%増しほどで売っていましたが、先日摘発を受けたためまた消えてしまいました。それぞれの品について数週間から数ヶ月不足が続くとまた値段が上がって現れる、という繰り返しが現在も続いており、本稿執筆時点では鶏肉の不足が目立ち、砂糖は角砂糖だけ、バターは民営店のみ、という状態です。
   こうした国産品不足は今に始まった現象ではありませんし、ほとんどの人が買いだめて備蓄を作ることに慣れているので消費者が深刻に困るところまでは達していないと言えますが、今年2月の消費者物価は昨年同月比53%増、一方実質給与は11%減(エコノミスト・マガジン4月10日号による)、もちろんもともと率の高い失業者や、空爆で職を失った人を無視してもこの数字ですから、生活はじわじわ苦しくなっています。復興が進んでも国際的経済制裁が続く中、経済危機に陥るおそれは常に潜在していると言っていいでしょう。

   コソヴォ、モンテネグロもまだこの先どうなるか分からず、ユーゴという連邦国家が存続できるかどうかさえ怪しい中、一言で言えば、セルビアの先行きは不透明です。しかし今年後半の選挙に向けて、取りあえず対決の構図は出来上がりました。周囲には「もう政治の話はたくさん」という疲労感が感じられることも確かですが、1年前に不安な眼差しを空に向けていたのは昔の話です。ベオグラード市民、セルビアの住民にとって新しい「熱い季節」がそこまで来ているように私には思えます。(2000年4月下旬)


山本邦光氏、FoNet通信に謝意を表します。特記のない写真は2000年2月から4月に日本のテレビ取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。


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