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■第二十代純頼公の墓
第二十代純頼公は在位わずか六年、元和五年(1619)二十八才の若さで突如として逝去された。同三年キリシタンの取締りがゆるいことを、将軍秀忠に叱責され、同五年宣教師を厳しく責めたので、信徒の恨みを買い、毒殺されたのではないかともいわれている。この結果一子松千代君の跡継ぎ問題が起り、藩は大いに揺いだのである。
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■第三十三代純穀(すみたけ)公の墓
学習院より陸軍関係の学校へ進み、最後は陸軍砲工学校を卒業して、大正十三年(1924)砲兵少尉に任官、日華事変、太平洋戦争中満州の戦野に転戦、野戦重砲兵第八連隊補充隊長で終戦、戦後郷土大村のため、昭和二十七年より十六年間(四期)の永きにわたり、大村市長として市政に業績を残された。


■クルス燈籠
第二十二代純長公の七男次郎太君の墓前にあり、あかり窓がクルスと見られるのでこの名がつけられている。次郎太君が亡くなったのは万治二年(1659)で、その二年前「郡崩れ」が起り、前年それがやっと治っている。それにしても藩主一族の墓地でクルスを刻んだとは考えられない。当時はすでに斬新な模様として、盛んに使用されていたものであろう。
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右の大きな棹石塔は第二十一代純信公、左のやや小さいのは第二十代純頼公の墓である。瓦屋根づきの門は純信公墓前にありこの墓所唯一のものである。



-寺院紹介-
本堂境内古い構え寺内部位牌宗宝|墓碑|
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