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 大村藩第18代大村純忠はキリシタン大名として有名であり、長崎開港の大恩人であるが、その信仰の故に長崎の要所を宣教師に解放してキリシタン禁止の要因を成した。
 その子第19代喜前は、父の信仰を受けながらも、幼少の頃は人質として他国に在ること多く、その為にキリシタンとの縁薄く、長じて後は加藤清正との親交を通じて法華経との縁が深く結ばれていた。関ヶ原の役後、加藤清正の指導により英断を以てキリスト教を廃し日蓮宗に帰依した。喜前は菩提寺の建立を発願し、熊本本妙寺の法性院日真上人を開山にお願いした。そこで日真上人は本瑞院日恵上人を大村に派遣し、慶長10年(1605)加藤清正の設計を得て工事を起こし、慶長13年(1608)間口9間、奥行き12間の大本堂を中心に七堂伽藍が完成した。同年8月寂照院日乾上人の来駕をこうて開堂大法要を厳修、萬歳山本経寺と号した。
 この後漸次領内に末寺が建立され、大村八ヶ寺と称さるるに至り、本経寺は中本寺となる。爾来、日蓮宗の宗風大いに起こり、「大村法華」と称さるるに至った。
 然るに安永7年(1778)不慮の火災により全堂ことごとく消失。その後、9年を経て、天明7年に再建されて今日に至る。