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■林重秀の墓
本経寺北東部の墓地の中央付近にある小さな石霊屋である。林多門藤原重秀は大村藩の刀匠である。鍛冶場は杭出津二丁目(通称昭和通)にあった。家は代々足軽であったが、天保元年(1830)より刀鍛冶となり、天保一二年小給に列せられのち村大給となった。明治五年六十五才で没した。



■柴江運八郎の墓
大村家墓所の北方にある。運八郎は大村三十七士の一人である。始め一刀流をよくしていたが、神道無念流斉藤弥九郎の高弟となり、斉藤門下の龍虎と称された剣客で、力では渡辺昇、術では柴江運八郎が勝るといわれた。明治になり大阪、大分の警察部に勤め、二十二年(1889)帰郷し剣道を教え、三十一年範士となった。この墓碑は有志の人々が遺徳を偲んで、昭和十一年建立したものである。


■本経寺歴代住職の墓
大村家墓所の北隣に並んでいる。写真には写っていないが、右の方にも住職らの墓碑が数列に並んでいる。
奥の方から第二世日恵上人より、凡そ世代順に第三十三世日教上人までとなっている。



■中島家の墓
本経寺の北隣にある墓で三基並んでいる。中央の小さい墓石は中島三百三藤原完善と銘してあるが、この中に一〇人ほど合葬してあるといわれる。その一人に幕末の勤王志士松林飯山の妻であったおこまさんもいるという。飯山が慶応三年(1867)凶刀に斃れた後、宮村の中島小太郎氏と再婚したのである。



-寺院紹介-
本堂境内古い構え寺内部位牌宗宝|墓碑|
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