■純伊(すみこれ)公、喜前(よしあき)公の霊廟
瓦葺寄棟の方形の木造霊廟には、第十六代純伊公、第十九代喜前公を合祀してあり、広さ四坪の中に二基の五輪塔がある。この廟前には喜前公に仕え殉死した秀山(しゅうざん)(波佐見焼元祖)、西太郎左衛門(軽輩の身で喜前公に愛された)の五輪塔がある。右の高い五輪塔は第二十五代純富(すみひさ)公である。墓前には多くの石燈籠が見られる。 |
■第二十八代純昌(すみよし)公の墓
石霊屋の内部格天井には金箔をほどこした跡が残っており、正面両側には大村瓜紋、日脚紋、九葉紋が浮彫りされているが、第二十七代純鎮(すみやす)公の墓も類似している。丹後守純昌公の在世中は、長崎に外国船がしきりに入津し騒然としたところで、猿煙場がつくられ、伊能忠敬の領内測量が行われ、洋式練兵が始まった。
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■第十六代純伊公の墓(右)
信濃守純伊公は御太宗と呼ばれている。文明六年(1474)有馬貴純に敗れ、加々良島等に潜み苦難の末、六年後近傍の領主たちの救援をえて、旧領を奪回しめでたく帰還された。この時領民たちがあり合わせのもので、食事を接待したのが大村ずしの始まりである。また祝賀のため始めて踊られたのが、県指定、国撰択の無形民俗文化財となっている黒丸踊、寿古踊、沖田踊である。 |
■第十九代喜前公の墓(左)
丹後守喜前公は、キリシタン大名で有名な第十八代純忠公の長男である。秀吉の時代各戦に従軍して武威を輝かし、慶長四年(1599)玖島城を造営し、関ヶ原合戦の時徳川方にくみし、法華宗に改宗して本経寺を建立し藩の安全を図り、その後ご一門払いを断行して藩政の基礎を固め、御中興と呼ばれている。
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