V.隆盛期 国内外の登山を活発に行った最も輝いた時代
昭和31年から44年(1956−69)

 昭和30年代に入り、国内においてはバリエーションルート開拓が盛んに行われるとともに、海外登山が手の届く存在になってきました。

 会員の層も厚くなるにつれて、合宿形式が確立し、冬山に於ける極地法登山の実践が可能となってきました。

 昭和32年4月学業を終え郷里福岡に帰った熊本敏之会員によって九州支部が設立されました。

昭和33年の冬季合宿は、西穂高岳から奥穂高岳の往復登山がヒマラヤ遠征をイメージした極地法で行われました。

 一方、1月厳冬期穂高屏風岩第二ルンゼ登攀が中野、新井登吉郎両会員によって行われました。

 新井登会員は穂高屏風岩東壁に新ルートを開拓するため、10月安久一成会員とともに試登、途中で行き詰まり他日を期することにしましたが、その直後、雲稜会パーティが試登ルートを足がかりに初登攀し、翌34年5月の新井登、安久両会員によるトレースは無念の第2登となりました。

 気を取り直した両会員は川室清一会員を加え、9月に穂高屏風岩中央壁に最初の鵬翔ルートを刻むことができました。

 昭和35年5月安久会員は前年に試登とした屏風岩二ルンゼ右岩壁の初登攀を達成しました。

 この年の11月富士吉田大沢で発生した大規模な雪崩は、講師としてアルピニスト教室へ加わっていた新井登会員から屏風岩開拓の志を奪ってしまいました。

 しかし、その志は後輩会員に受け継がれ、翌36年2月の鈴木鉄雄、安久両会員による前穂高東壁Dフェース厳冬季初登攀、青木宏之、鈴木、安久、藤平好彦正野進の5会員による穂高屏風岩東壁青白ハングルート初登攀に結実しました。

 昭和37年9月には「幻の大滝」といわれた剣沢剣ノ大滝が、中野リーダーの下、飯田平八郎、野村彰男両会員らをサポートに、鈴木、安久両会員によって初踏破されました。

 この年の9月、関西在住の齋藤正明岡部勇大渡武紀、正野、瀬山和雄の5会員によって関西支部が設立されました。

 そして、関西支部の成長発展とともに、38年の夏季合宿からは、合同合宿が組まれるようになりました。

 昭和39年の冬季合同合宿は奥穂高集中5ルートが参加者20名によって達成されました。

 海外登山の分野では、それまでの日本山岳会を中心とした遠征が、社会人団体にも可能となり、昭和36年第2次全岳連ヒマラヤ登山隊ビッグホワイトピークに中野会員が副隊長として参加、頂上直下200メートルで悪天により無念の敗退、翌年を期し、翌37年第3次全岳連隊に登攀隊長に中野、隊員に高島誠、安久の3会員が参加、ビッグホワイトピーク登頂に見事成功しました。

 昭和39年には長野岳連隊のギャチュンカンに安久会員が登頂を果たし、昭和44年には九州支部の鶴田清二石崎史郎両会員が福岡岳連隊に参加し、ティリチミールを目指しましたが、悪天に阻まれ、残念ながら頂上を落とすことはできませんでした。

 この時期の主な記録としては、昭和41年7月黒部別山大タテガビン南東壁が前年からの2度にわたる試登を経て完登、10月穂高下又白谷の初トレース、42年5月関西支部による赤沢岳西面のルート開拓、43年冬季合同合宿に於ける屏風岩東稜、前穂四峰東南壁、前穂右岩稜連続登攀、5月赤沢山周辺の開拓、10月九州支部による阿蘇根子岳天狗峰地獄谷正面壁登攀、9月八海山西面屏風岩の初登攀など、各地に鵬翔ルートが刻まれました。

 一方、遭難事故も避けられませんでした。

 昭和39年5月鈴木会員は谷川岳一ノ倉沢衝立岩正面にて転落遭難、44年11月富士雪上訓練合宿において吉岡重廣会員が滑落遭難、合宿中に於ける遭難発生に会員は衝撃を受けました。

 そして、12月穂高屏風岩東稜において西田正彦会員が核心部登攀後、ザイルを解いた直後転落するという事故が発生、ひと月余りの内に続いた遭難事故は、その原因の究明の過程で判明した無届け山行の責任者処分という問題とともに、今後の会組織のあり方、指導方針の見直しという問題に発展して行くことは避けられませんでした。


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