U.成長期 戦後の再発足から「鵬翔」を確立するまでの時代
昭和21年から30年まで(1946−55)

 戦火を生き延びたわれらの鵬翔の先輩たちが、敗戦の虚脱状態から脱するのに、それほど多くの時間は掛かりませんでした。

 むしろ自由に山を登ることのできる時代の到来を喜んだことは間違いありません。

 敗戦直後の昭和20年9月、7名の会員が集まり、戦後第1回の集会が開かれ、12月に開かれた総会には30名余りが集まり、鵬翔復活が高らかに宣言されました。

 そして、翌年3月には会員23名が集まって今後の鵬翔のあり方について真剣な論議が交わされました。

 有力会員が次々に復員してくるとともに、再び活動が活発化していきました。

 戦時中に中断していた一ノ倉ルート開拓にいち早く入るようになり、昭和21年7月には20名が参加して、一ノ倉沢を中心にした谷川合宿が、そして10月には一ノ倉沢奥壁放射状登攀7ルートが行われました。

 昭和22年23年は一ノ倉沢を中心とした岩壁登攀に精力を傾けるとともに、並行して他山域の未踏ルートに挑戦するようになります。

 昭和22年8月に行われた森田、関根、半田峯二戸田廣の4会員による越後の御神楽岳本谷奥壁初登攀は、やがて森田会員を中心に進められる荒沢岳開拓に繋がっていきます。

 谷川岳の開拓が一段落すると徐々に北アルプスが視野に入ってきます。

 昭和22年8月には中野、窪谷達一野々村薫多畑茂の4会員によって穂高滝谷ドーム中央稜が初登攀されました。

 それまでのともすれば三人寄れば山岳会と揶揄された個人中心の町の山岳会から、戦前すでに冬の北アルプスで極地法登山を実践していた、早稲田や慶応などの大学山岳部に比肩する組織的登山を目指すようになっていきます。

昭和23年になると冬山登山実践へ確信が強固なものとなっていき、昭和23年1月初めての冬山合宿が八ガ岳で行われ、続く昭和24年1月には遠見合宿生活が行われました。

当時の会報を見ますと、昭和24年から山行先が劇的に変化していることに気付きます。

 山行先が丹沢や谷川岳から、南アルプスから穂高へ展開していきました。

 そして、究極の目標はヒマラヤ登山に向けられ、年間の目標が北アルプスの冬山登山に置かれ、冬季合宿、夏季合宿という合宿形式が定着し、すべての山行が冬季合宿へのステップとして位置づけされるようになり、年間のスケジュールが確立されていきました。

昭和27年10月、上越支部が半田会員を中心に設立されました。


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