前年末の相次ぐ遭難事故により、昭和45年3月緊急開催された臨時総会に大幅な組織改革が提案され、本部の下に東京在住会員をもって東京支部を新たに結成し、東京、上越、関西、九州の4支部体制として再出発することになりました。 時間がありませんので、詳しい説明は省きますが、この時代区分以降にについては、お配りした年表を見ていただけば一目瞭然で、光と影が交錯した時代だと思います。 各支部会員によるヒマラヤ、ヨーロッパアルプス、カナディアンロッキーなど海外登山が頻繁に行われるという明るく輝く光の部分の中には、暗い影の部分が綯い交ぜになっていることは否めません。 創立以来順調に発展を続けていた関西支部もついに悲劇に見舞われます。 昭和45年9月、中橋邦夫会員の大峰山系弥山川溯行中の転落遭難事故は鵬翔受難の時代のプロローグとなりました。 深い谷底に横たわっている中橋会員の黄色のヤッケに呼びかける叫びは空しく谷間にこだまするばかりでした。 ふもと川合の駐在所に安置された遺体に取りすがって号泣していた父親の姿を、いまでもまざまざと思い出し、胸が痛むのを覚えます。 昭和46年11月には谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢中央稜にて高村盛信、三浦健成両会員が力尽きて遭難、翌47年4月には韓国隊に参加の安久一成会員がマナスルの雪崩の犠牲になりました。 昭和50年1月には一ノ倉沢滝沢リッジで、稜線まであと一歩というところで雪崩に巻き込まれ、石川文男、今城正男、関根保夫の3会員はAルンゼの谷深く埋没し、9月まで遺体を発見収容することは叶いませんでした。 昭和55年5月にはチョモランマで宇部明会員を失います。 そして、昭和57年8月、黒部峡谷の奔流の中に宮下勝彦、田代昇、小池廣行、成田嘉治、二上耕次、山口峰人、添田伸二の7会員を失うという大量遭難事故は当会に致命的な打撃となったことは否定できません。 その後、遺族の心情を省みない当時の東京支部長の行動は鵬翔山岳会になじまないものとして、除名処分の結果、多くの若手会員が会を離脱するという結果になりましたが、鵬翔の理念を守るためにはやむを得ないことでした。 この年の12月にはヒマラヤ登山に精力を傾けた小林利明会員がチョモランマの雲の中に消えていきました。 |