旧ユーゴスラビアのサッカー事情
(00年11月8日更新)
クロアチアやユーゴ、スロベニアのサッカー事情について紹介しています。サッカーのことを、クロアチアとスロベニアでは「ノゴメットnogomet」、ユーゴやボスニアなどでは「フッドバルfudbal」といいます(ボスニアは最近、ノゴメットに変わってきました)。表題の"HAJ'MO NA UTAKMICU!"とは、試合に行こうぜ、というような意味です。ただ「試合に」というと「サッカーの試合」という意味になるのが普通です。(千田)
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ユーゴのホームゲームはギリシャで(5月11日)
UEFAが5月10日、ユーゴスラビアのユーロ2000予選への参加を引き続き認めると決定したことを受けて、ユーゴ・サッカー連盟(FSJ)は11日、6月9日に予定されているマルタとの試合をギリシャのテッサロニキで開催することを決定。これをUEFAに通知した。試合会場はギリシャ1部リーグのPAOKのスタジアムで収容人員50000人。同スタジアムでは4月下旬、ギリシャ内でプレーするユーゴ人プレーヤー(ギリシャ内ユーゴ代表)とテッサロニキ選抜(ギリシャ1部リーグのイラクリス、PAOK、ARISの3チーム)の親善試合がおこなわれている。テッサロニキでの試合計画は5月26日のUEFA理事会で承認されて後、正式決定となる。なお、6月5日のアイルランド対ユーゴは、当初の日程どおりダブリンで開催される予定。 [このページの最初に戻る]
【ニヨン(スイス)10日DPA=時事】欧州サッカー連盟(UEFA)は10日、コソボ紛争で揺れるユーゴスラビアが2000年の欧州選手権予選には予定通り参加できると発表した。ただ、北大西洋条約機構(NATO)軍による空爆が続いていることから、来月9月にユーゴ国内で予定されていたマルタ戦は、中立国で行うこととし、12日までに代替開催地を見つけるよう、ユーゴ側に要請した。 [1999-05-11-16:28]
出場決定に沸くユーゴ サッカー欧州選手権予選(5月10日)
【ベオグラード11日共同】欧州サッカー連盟(UEFA)がユーゴスラビアの二○○○年欧州選手権予選への出場を認めたことについて、ユーゴ・サッカー界関係者は十日「政治を介入させない、スポーツマンらしい決定だ」と喜びをあらわにした。
NATO軍の空爆で3月下旬から中断しているユーゴ・サッカーリーグのレギュラーシーズンは、1部リーグが10試合(10節)、2部が13試合が未消化となっている。各チームとも、空爆の被害にたいするチャリティーマッチなどを精力的におこなっているが、正規のリーグ再開の見通しは立っていない。来年度のヨーロッパ・チャンピオンズリーグ、UEFAカップなどへの参加チームのしめ切りが6月1日に迫っているため、ユーゴサッカー連盟は5月14日頃をめどに、残りの試合をどのようにするか、リーグ戦の再開ができない場合の優勝チームの決定方法などについて、決定をおこなう予定。
NATOの空爆に対し、ユーゴサッカー連盟のミリャン・ミリャニッチ会長は3月29日、世界の著名なサッカー関係者に、NATOの空爆をやめさせるための救援のアピールを送った。アピールは、FIFAのブラッター会長、UEFAのヨハンソン会長らのほか、ミリャニッチ氏が長いキャリアの中で親しくしている元プレーヤー、コーチらにも送られた。プースカシュ、ディステファノ、コパ、エウゼビオ、ペレ、チャールトン兄弟、ベッケンバウアー、プラティニ、クライフ、ザガロ、ロブソン、カマチョ、ネッツァー、ブライトナー、カルロス・アルベルト、メノッティ、ジャケ、カペッロ、マラドーナ、キーガン、サッキ、ジーコ、リヴェラ、トラパットーニ、パサレラなどなど、そうそうたるメンバーに対して、空爆反対の「声を上げてくれるよう」要請している。 [このページの最初に戻る]
ユーゴの予選参加OK=サッカー欧州選手権(5月10日)
ユーゴ国営タンユグ通信によると、同日記者会見したユーゴ代表のジバディノビッチ・コーチはこの決定を歓迎。「スポーツに政治を関与させない決定をしてくれたことはうれしい」と語り「ユーゴは(欧州予選での)決勝進出に値する魅力的な試合を展開するだろう」と、自信を率直に表した。
日本でもプレーするストイコビッチを擁し、昨年のワールドカップ(W杯)フランス大会では戦前「影の優勝候補」とも評されたユーゴは、これまでW杯九回の出場を誇る欧州の強豪。だがボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でのセルビア人勢力支援を理由に一九九四年W杯米国大会、九六年欧州選手権では参加資格をはく奪されていた。
UEFAの今回の決定は、ユーゴ国内でのホームゲーム開催を禁止したが、空爆で沈滞気味の国内のムードと、参加すらできなかった前回の無念を晴らそうと、チームは意欲を燃やしている。 [1999-05-11-09:48] [このページの最初に戻る]
ユーゴ1部リーグは空爆で中断、プレーヤーも犠牲に(5月6日)
この間の空爆によって、サッカー選手も犠牲になっている。現役の選手で死亡したのは、クラリェヴォ市の「スローガ」に所属していたアレクサンダル・ヴーコヴィッチ(通称アツァ)。ユーゴ軍に徴兵され、勤務していたところ、4月13日に空爆で死亡。1979年3月3日生まれ。20歳だった。クラリェヴォでの葬儀には7000人の市民が参列した。
ミリャニッチ会長が救援のアピール(3月29日)
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見ました? パルマ対ペルージャ。試合は3:1でパルマの勝ち(中田クンは残念でした)。もう一つの見所が、クロアチア代表レギュラーMFのマリオ・スタニッチ(パルマ)と、最近代表入りしたミラン・ラパイッチ(ペルージャ)の激突でした。
スタニッチが右サイド、ラパイッチが左サイドにポジションを取ることが多く、たびたび競り合っていました。前半も何度かぶつかり、スタニッチが貫禄を見せましたが、後半40分過ぎのパルマ陣内ペナルティエリア近くの攻防も見事でした。ラパイッチのドリブルを、スタニッチが体を入れて阻止(ひじも使ったようには見えたけれど)。
ラパイッチは「ファールだ」と、自分からドリブルをやめて、無言でアピール。フリーキックか。しかしフォイッスルはならない。パルマのホームだから反則にならなかったことに、ラパイッチは不満そうな顔を見せたが、いつものように大げさにレフェリーへの不満は表明しない。やられた相手がスタニッチだったからだろう。「まいりました」ということか。びびっていたのか、ラパイッチ?
経歴を見ると、二人は1歳違いなのですね。スタニッチはサラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)生まれ。ボスニア国籍も持っているはず(二重国籍)だが、クロアチア代表になったので、ボスニア代表にはなれない(なりたくない?)。16歳で旧ユーゴ1部リーグのジェレズニチャルからデビューしていますね。天才ですね。でも、ボスニアで戦争がはじまったところでザグレブに移籍(ボスニアはサッカーどころではなかったですからね)、以後、ヨーロッパを渡り歩いて、現在パルマ。故郷を捨てた(戦争で追われた)男。
ラパイッチはハイドゥック出身(代表入りが遅く、プレイヤーとしては遅咲きの印象があるが、ハイドゥックでは18歳からプレー)なので、これまでスプリット生まれかと思っていたら、違いました。彼の出身地、クロアチア中部のノバ・グラディシュカも、91年のクロアチア戦争では戦場になりましたし、95年夏まではセルビア人の「クライナ」に隣接し、ボスニアに近いこともあり、戦争のにおいが立ちこめていたところです。
グランドで何を話しているのでしょうね。
「レギュラーポジションは渡さないぞ」とスタニッチ。
「あ、でも、サイドが違うから、代表では仲良くやりましょうよ」とラパイッチ。
「でも、タバコをやめないと、ブラジェビッチ監督に嫌われるぞ」
「そうなんですよ、ボシュコフ新監督からも同じことを・・でも、運動量は他人に負けない、あ、パスが来た」
「いただき!」とスタニッチ・・・
(2人の会話はフィクションです。念のため)
Milan RAPAJIC(ミラン・ラパイッチ)
所属: PERUGIA
シーズン Team (所属/リーグ) 試合(ゴール)
1991-92 Hajduk(ハイドゥック=スプリット/ クロアチア1部) 2 (-)
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Mario STANIC(マリオ・スタニッチ)
所属: PARMA
シーズン Team (所属/リーグ) 試合(ゴール)
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カズが移籍したディナモ・ザグレブ(正式名称は「クロアツィア・ザグレブ」=現地ではイタリア語風に「クロアツィア」と発音する。クロアチアという国名をクロアチア語でいうと「フルヴァツカ」)のホームページがクロアチア語だった(注)ので、今回は特別に、翻訳して上げます(実は、ブラジェビッチ代表監督のコメントが面白かったもので、つい・・)。ここにはカズのホームページもできています。
(注=99年1月20日現在、英語でも掲載されていました。)
ディナモのホームページから
<ニュース>
99/1/10 一軍のトレーニング開始。
ヴェリミール・ザイェツ監督は、最初のトレーニングを指導。ミウラとリトアニア人ミクレナスを除く全員が集合。(ミウラとミクレナスは11日に合流予定)。
ティームを2つに分け、メイングランドで30分ハーフ2本のゲーム。気候は寒く、グランドの一部は凍っていた。
99/1/9 一軍のトレーニング日程発表
1/10 14時30分集合。ティームを3つに分け、30分のゲームを合計3試合の予定。
1/11 キャンプ地のポレチ(クロアチア西部海岸地方)に出発
1/16 夕方、ポレチからザグレブに戻る。
1/17 オフ
1/18,19,20 トレーニング
1/21 マドリードに出発。地中海岸の保養地アリカンテでキャンプ。ホテル・ハイアット・リージェンシーに滞在。スペイン1部リーグのヴィジャ・レアルおよび、ノルウェーのヴァイキング、ほか1ティーム(ノルウェー)の計3ティームと試合予定。
2/7 スペインからザグレブに戻る。
2/17 12月に大雪で中止になったクロアチア・リーグ戦のムラードスト127と対戦。
2/21 春期(後期)リーグ開幕。スラヴェン・ベルーポと対戦(第18節)。
98/12/29 カズ・ミウラが契約
日本人のカズ・ミウラが1年半の契約に調印。調印式には双方の代理人、日本から約10人の記者、クロアチアの約20人の記者が同席。きっかり午前9時にサイン。ミウラはその後、こんなに多くの記者がきて、感謝していると挨拶。これより先、ミウラはツァニュガ会長に次のようにのべている。
「このティームとクロアチア代表は世界中にその価値を示している。そんなところでプレーできるのは、自分にとっても誇りだ。まず、ティームメイトとよく知り合い、その助けを借りながら自分の力を発揮したい。ティームのために全力を尽くし、リーグ優勝して、秋にはヨーロッパ(チャンピオンズリーグ)を舞台に、重要な役割を果たしたい」
ズラトコ・ツァニュガ会長
「これは、サッカーだけにとどまらない、クロアチアと日本との新しい関係の始まりだ」
ミロスラフ・ブラジェビッチ代表監督(ディナモとはいまは関係ない。けど、会見にでてきた)
「ミウラのことは、昨年(97年)のキリン・カップでの2得点をよく覚えている。結果は4対3で日本がクロアチアに勝ったのだが、ミウラはその試合のベストプレーヤーだった。それが、ミウラをここに連れてきたもっとも大きな理由だ。(GK)ラディッチから90分のうちに2点も取れる選手というのは、特別の注目に値する選手だ。これははじまりに過ぎない。ミウラの後には、まず、東京市長(都知事)を、そしてその後は、アキヒト天皇陛下ご自身をクロアチアに連れてこようではないか。」
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