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「論座」98年9月号 特集・ワールドカップをわたしはこう見た
「3・27欧州選手権予選で会おう、わがクロアチアとユーゴのたたかい」
              千田 善

 八〇年代初めから旧ユーゴスラビア地域を観察してきた筆者にとって、のべ十年ほど生活したその土地は「職場」であり、「青春の場所」である。だから、旧ユーゴからクロアチアと新ユーゴという二つのチーム(注)が出場したワールドカップ・フランス大会は複雑な余韻が残っている。
 念のためややこしい「ユーゴ」の名前について説明しておく。現在のユーゴは九二年建国、セルビアとモンテネグロの二共和国で構成される。故チトー大統領時代のユーゴ(六共和国二自治州で構成)と区別するために「新ユーゴ」「旧ユーゴ」と呼ぶことが多い。旧ユーゴは、新ユーゴとクロアチアのほか、ボスニア、スロベニア、マケドニアと合計五つに分裂し、その「継承権」は現在も交渉が続いている。ただし、ユーゴ・サッカー連盟(FSJ)は国際サッカー連盟(FIFA)から継続加盟を認められた。この文章では「ユーゴ」といえば「新ユーゴ」を指す。
 日本とも対戦したクロアチアは九一年に独立宣言した新しい国だ。旧ユーゴ時代の代表もおり「初出場」とはいえない実力があると知ってはいたが、三位とは、ダボール・シューケル(シュケルやスーケルではない)の得点王とあわせ予想外の快挙だった。
 クロアチアはとくに、日本と同じH組に入ったことで注目された。筆者のところにも、これまでまったく縁のなかった分野のマスコミから何件もの問い合わせがあったが、その大半が「日本在住のクロアチア人が集まってサッカーを見るような場所を知らないか」という内容だったので閉口した。
 日本にはクロアチア人は二十数人しか住んでいない。クロアチア料理店もない。たまり場があるとしたら、クロアチア大使館以外ない。「東京の大使館におたずね下さい」と答えておいたら、大使館にも同じ問い合わせが数十件もあったそうだ。やれやれ。
 日本が出場するときだけ集中豪雨的に取り上げ、よく取材もせず「内戦の傷を乗り越えたクロアチア」などと書くマスコミ。「内戦」と聞いたらクロアチア人は怒りますよ。彼らにとっては「侵略」なのだ。ボスニア戦争もサラエボ政府にとっては「内戦」ではない。「戦争」と書けばいいのに、耳触りのいい「内戦」で分かった気になる(させる)のは無責任じゃないか。どうせワールドカップが終われば、また無関心に戻るのだろうが、まあ、四年に一度のお祭りだ。
 一方、ボスニア戦争の制裁で九二年以降、国際大会から追放されていたユーゴは、ベスト16にとどまった。予選の成績などから、実力はクロアチアより上と見ていたが、負傷者が続出した上、オウンゴール(ドイツ戦)やPK失敗(オランダ戦)などツキにも見放された。
 キャプテンのドラガン・ストイコビッチは、これらに加え、集中力も欠けていたと反省しながら、「クロアチアの活躍は祝福に値するが、われわれの方が強い。来年三月の、欧州選手権予選(の直接対決)で証明したい」と、負け惜しみも忘れていない。
 ユーゴのワールドカップ出場は八年ぶりだが、制裁を受けてから国際社会に復帰するまでの道のりはつらいものだった。
 九二年の欧州選手権では、優勝候補だったユーゴ。戦火がすでにボスニアに拡大していたが、代表チームには、すでに独立宣言していたボスニアやマケドニア、スロベニア人の選手も参加していた(クロアチア人は不参加)。当時の彼らは、まだ、旧ユーゴの解体を防ぐ可能性があると考えていた。政治的無知と笑うことは、わたしにはできない。選手たちは欧州選手権での活躍が平和に役立つと、少なくとも、そう信じたがっていた。
 結果的に、国連安保理がスポーツを含む制裁を決議したため、選手たちは開会式直前にストックホルムから追い返された。優勝したのは代理出場したデンマークだった。
 ユーゴは親善試合を含むいっさいの国際試合を禁止された。ストイコビッチがフランスから名古屋に移籍したのは、それが主な理由だった。そこでベンゲル監督という指導者と出会い、全盛期のフォームを取り戻せたのは、彼個人としては幸運だったが、ユーゴのサッカー界の状況は深刻だった。
 「わたしの給料は三〇ドイツ・マルク(二千円強)にまで減った」とユーゴサッカー連盟のミリャニッチ会長は当時を振り返る。代表チームや有力クラブの国際試合が禁止された上、制裁で国内経済が大混乱し、収入が途絶えたためだった。
 トップクラスの選手は移籍という形で、それ以下の選手も一般の出稼ぎ労働者として、次々に国外に流出した。サッカー連盟登録選手で出国したものはアマチュアも含め二五〇〇人にのぼったという。
 国内リーグの質は低下し、サポーターも自分の生活に追われ、観客は激減した。一部のクラブにはマフィアが経営参加し、選手を外国のクラブに放出することで、移籍金を荒稼ぎする「サッカー投機」なども横行した。
 そんな中でもサッカー連盟は、サッカースクールで千人の新しい選手の加入、千人のコーチの養成、百カ所のグランド建設などを目標に、長期的強化計画をすすめた。
 国際大会復帰の見通しはなかったが、ユースなど各年代の代表合宿を予定通り続けた(その当時に発掘されたのが今回代表入りしたコバチェビッチやミロシェビッチ)。国外でプレーする選手たちは、合宿のたびに国内の選手の分も用具を買い、交通費も自腹を切って帰国しながら、復活を夢見ていた。
 九四年十二月、スポーツへの制裁が解除され、初の国際試合はワールドカップ・アメリカ大会優勝国のブラジルと組まれた。ミリャニッチ会長は「どうせやるなら、チャンピオンとやろうと考えた」と語っている。
 ブラジルには2ー0で敗れたが、続いて前チャンピオンのアルゼンチンとも対戦。しかし、二年後(九六年)の欧州選手権予選はすでにエントリーが締め切られていた。フランス・ワールドカップが、待ちに待った国際大会への復帰となった。

 いうまでもなく、旧ユーゴは多民族国家だった。九〇年のイタリア大会準々決勝でマラドーナのアルゼンチンと激突、PK戦で惜しくも敗れた(ベスト8、公式には五位)代表チームは、翌年に独立宣言するクロアチア、スロベニアを含む各民族出身の選手で構成されていた。本大会には出なかったが、予選では少数民族のアルバニア人FWファディル・ボクリも活躍した。彼の出身地コソボ自治州は現在、事実上の戦争状態にあるが、スキラッチに似たタイプの爆発的シュートは今でも覚えている。
 システムは「4・4・2」。ボスニアの鉄壁DFファルク・ハジベギッチ(ムスリム人)、ベテランMFサフェト・スーシッチ(同)、スロベニアからはヘディングが強い守備的MFスレチコ・カタネツ、マケドニアからはミスが多いが時々奇跡を起こすダルコ・パンチェフーー多国籍軍ならぬ「多民族軍」にふさわしい、多彩な顔ぶれだった。
 しかし当時の旧ユーゴは、すでに民族主義の嵐が吹き荒れていた。連邦を構成する共和国には民族主義政府が成立、連邦国家は機能マヒ、崩壊寸前。そうした雰囲気の中で、現クロアチア主将のズボニミール・ボバンが代表メンバーからはずされる事件が起こった。
 連邦一部リーグも最終盤の九〇年五月十三日、クロアチアの首都ザグレブで、ディナモ・ザグレブ(現クロアチア・ザグレブ)対レッドスター・ベオグラードの「伝統の一戦」が予定されていた。
 クロアチアではこの数日前、戦後初の自由選挙でトゥジマン現大統領が率いる民族主義政党「クロアチア民主連盟(HDZ)」が圧勝していた。試合当日時点では新政府は未成立で、官僚機構は共産党時代のまま、警察官の過半数はセルビア人が占めていた。
 キックオフ前に、北側観客席でレッドスターとディナモのサポーターが衝突。サポーターの一部がグランドに乱入し、機動隊と放水車が導入された。いったん騒ぎはおさまったが、しばらくして再びサポーターがグランドに下り、投石をはじめた。再度導入された機動隊は、警棒を使って排除行動に出た。このとき、近くにいたディナモの主将ボバンも殴られ、ボバンも飛び蹴りなどで応戦した。
 警官を「ノックアウトした」(当時の新聞の表現)ことで、九カ月間の出場停止処分が下り、ボバンはイタリア大会の代表からはずされた。事件は後に、「サポーターを救おうとして、セルビア人警官と闘ったボバン」として美化され、伝説になった。
 ボバンは優れた選手だが、グランドの外でも話題が多い。今回もフランスに「クロアチア二千年史の文学アンソロジー」を携行し、準決勝の前にはそれを読んで集中力を高める、などと「愛国者」ぶりを強調していた。
 その準決勝のフランス戦。後半立ち上がりの先制点直後の失点は、主将ボバンのドリブルが奪われたのがきっかけだった。クロアチアがリードしたあの瞬間、ボバンの脳裏に「歴史的」決勝進出、という邪念がちらついたのではないか、それがミスの原因に思えてならない。先制点に舞い上がったボバンは俗にいう「色気」を出して、得意のドリブルを、してはならない自陣ゴール前で思わずしてしまった(のだとすると、いかにもボバンらしい)。近くにいたDFシュティマッツは「早く、クリアーだ、と叫んだが、聞こえないようだった」と語っている。
 ボバンの名誉のためにいえば、地元では負傷と「監督の采配ミス」説が有力だ。ボバンは痛み止めを打って出場し、ハーフタイムに自分から交代を申し出たが、監督が続行を命じたという。ボバンも「あれが大きな間違いだった」と監督の責任を強調している。
 ブラジェビッチ監督は、トゥジマン大統領のお気に入りで「チームの精神的支柱」のボバンをはずす決断ができなかった。今回の決勝でも、ブラジルのザガロ監督がロナウドをはずせなかったが、監督にしろ選手にしろ、ワールドカップにはやはり正常心を狂わせる魔物がいるらしい。

 わたしはつねづね、「サッカーはその国の現状を映し出す鏡だ。観客をふくめたスタジアムの内外を観察すれば、国民のメンタリティや社会構造が見えてくる」といっている。個々の選手たちのプレーは、「人生としてのサッカー」が昇華したもの。サッカーには、その国や地域の社会・文化・習慣などが、濃密に反映している。
 旧ユーゴ以外にも、フランスやオランダが多民族(多人種)国家であると再認識した方も多いだろう。そういう目で見ると「ワインとシャンソン」「チューリップと運河」などの画一的イメージから脱却できる。
 ワールドカップ期間中、六月二十一日が「フェアプレー・デー」とされたことは、サッカーと国際政治のかかわりを象徴している。
 この日、一次リーグF組では、ドイツ対ユーゴ、アメリカ対イランという「因縁の国」同士の試合が予定されていた。外交的には緊張している両チームの選手たちは、キックオフ前、通常はチームごとに分かれる写真撮影で仲良く肩を組んでカメラにおさまった。
 ドイツは、九一年にクロアチアの独立承認をごり押しし、旧ユーゴ崩壊と紛争泥沼化の原因の一端を作った。ドイツにとって新ユーゴ(セルビア)は「友人(クロアチア)の敵」であり、逆からいえば、ドイツは「今世紀三回目の侵略」をしかけてきた国だ。
 試合後、組織委の期待を裏切るように、ドイツのネオナチが暴動を起こした。事前に計画していたとみられるが、九十六人が拘束され、フランス憲兵隊員一人が重体を負ったことで、一時はドイツが非公式ながら出場辞退を打診するなど深刻な問題に発展した。
 ドイツ(西)は九〇年イタリア大会の優勝直後、東ドイツを吸収する形で国家統一に成功した。「世界に冠たる」ドイツ統一の陶酔感が覚めないまま、旧ユーゴの紛争に介入し、クロアチアの独立を強引に支援した。ところが政府の「民族自決」論は、外国人労働者排斥などを要求するネオナチ運動(とくに旧東独地域)に弾みをつける結果になった。
 コール首相は暴動を「ドイツの恥だ」と批判したが、あれは自分がすすめた強引な東西ドイツ統一、なりふり構わぬクロアチア支援の後遺症だ。(ドイツ社民党は、秋の政権交代をめざし、選手交代ボードに「コール」と首相の名を掲示したワールドカップにあやかった写真をポスターに採用している。)
 そのドイツが準々決勝でクロアチアに敗れたのは皮肉だった。試合前日にドイツのフォクツ監督が、クロアチアを「小国」と呼んだことが、クロアチア選手を発奮させた。たしかにクロアチアの人口(四七〇万人)はドイツ・サッカー連盟登録選手数(六二〇万人)より少ないが、フォクツ監督を含め、ドイツ国民が普通に持っている潜在的な大国意識が思わぬ形で裏目にでた結果になった。
 一方、同じ日におこなわれたアメリカ対イランの試合では、イラン側がアメリカ選手たちとの合同写真撮影に非常に協力的だったという。アメリカはこれをポジティブなサインとして、関係正常化の動きを加速させているようだ。七〇年前後の米中ピンポン外交にならった、イランとのサッカー外交が展開していくかもしれない。
 ところで、昨年のアジア地区予選終盤でイラン代表チームが不調に陥った際、スポーツ担当のハシェミタバ副大統領の解任要求が取りざたされた。イランではサッカーが「国事行為」である証明だが、政治的には、旧ホメイニ路線に戻れと主張する保守派が、サッカーに名を借りて穏健派に対する巻き返しの揺さぶり攻撃をかけた、と考えるべきだ。
 穏健派とされるハタミ現大統領は昨年八月の就任以来、アメリカとの関係正常化も模索してきた。仮に、ジョホールバルで日本に負けたイランが、オーストラリアとのプレーオフでも破れ、フランスに行けなかったら、現在水面下で続くアメリカとイランの非公式接触はなかったかもしれない。

 旧ユーゴのサッカーは「東欧のブラジル」と呼ばれ、高い個人技を基礎に、中盤でのショートパスの交換と大胆なサイドチェンジ、それにドリブルによる局面打開を組み合わせた華麗なスタイルが伝統だ。
 複数のポジションをこなす器用な選手が多い(クロアチアのスタニッチ、ソルド、ユーゴのペトロビッチ、ミハイロビッチなど)反面、「強い相手には強いが、弱い相手には弱い」ことや、集中力を九〇分間維持できないなどのメンタルな特徴も共通している。
 セルビア人とクロアチア人は兄弟民族だ。話す言葉もかつてはセルビア・クロアチア語と呼ばれた同じ言葉で、通訳なしで通じる。見栄っ張りのもてなし好き、友人関係(コネ)を大事にするメンタリティも似ている。
 選手たちの大半は、旧ユーゴの民族主義政治家たちとは対照的に、国境や民族の壁を越え、スポーツマンらしい友情を築いている。
 ユーゴのキャプテン、ストイコビッチは、クロアチアのボクシッチ(今回は負傷欠場)と親友だ。旧ユーゴ代表チームのほか、フランスのマルセイユで一緒にプレーした。
 今年のヨーロッパ・チャンピオン、スペインのレアル・マドリードでは、ユーゴのミヤトビッチと、フランス大会得点王のシューケルが同僚だ。二人は仲が良く、マドリードでは家も近い。こんなエピソードもある。
 ミヤトビッチがある晩、風邪気味でノドが痛くなった。こんな時は、ローザ(白ブドウの焼酎)で湿布しておけば翌朝には治るのだが、あいにく切らしている。たまたま電話してきたシューケルが、「それならうちにあるよ。ボクの田舎のだけど」と深夜にもかかわらず届けてくれたという。
 国は違えど、地酒は同じ、民間療法も同じ。ちなみに、シューケルの故郷はクロアチア東部のオシエクという地方都市で、九一年秋の戦争では砲撃を受けている。もちろん、ミヤトビッチに戦争責任はないが、そうしたいきさつを越えた友情なのだ。
 シューケルはクロアチアの御用マスコミから、ミヤトビッチと親しくしているのを批判されたことがある。シューケルは「ページャ(ミヤトビッチの名前プレドラグの愛称)は偉大なサッカー選手であり、人間としても優れている」と反論した。政府ががっちりマスコミを握っているクロアチアでは、わずかに残っている独立系新聞への弾圧やテロも珍しくない。そうした風土でこういう反論ができるシューケルは勇気がある。得点王になったことより偉い、と思う。
 両国の選手たちはそれぞれ、さまざまな形で国の崩壊や戦争にかかわっている。
 中には志願して兵役についたものもいる。名前は挙げないが、クロアチアのある選手は九一年に短期間だが軍に志願し、その後、国外のチームでプレーしていた。今回の予選で代表に呼ばれなかったため、一部のマスコミは「兵役を志願した愛国者を代表に」とキャンペーンを張った。本大会の代表に選ばれたのはそのおかげかどうか、試合でのプレーは堅実だったので、政治的「ひいき」ではなく、実力で代表入りしたと考えたい。
 父がクロアチア人、母がセルビア人のプロシネチキは、国籍の選択で悩んだ。ボバンと同じディナモ出身だが、レッドスター・ベオグラードに移籍して才能が開花。九〇年イタリア大会にも旧ユーゴ代表として出場した。紛争勃発後、クロアチア・セルビア双方の民族主義者から向こうに行くなと脅迫されたが、結局、当時は国際試合を禁止されていたユーゴでなく、クロアチアを選択した。
 ユーゴのミハイロビッチは、現在のクロアチア領で生まれた。故郷は激戦地として有名なブコバルの隣町ボロボで、九一年以来セルビア人勢力の支配地域だった。今ではクロアチアに再統合されている。九一年当時、すでにプロとして生まれ故郷を離れていたが、停戦後に一度だけ、ボロボに帰った。
 「停戦から二年近くたっていたのに、廃墟のままだった。オレが通った学校も、住んでいた家も、友だちとよく行った喫茶店も、壊れていた。見に帰らなければよかった。そうすればボロボは、心の中に残った美しい思い出のままだったのに」
 
 両国は共通点が多いが、チームカラーは対照的だった。「4・4・2」のユーゴは、中盤のビルドアップを軸にした伝統的な戦術を採用した。筆者の好みでもある。これに対しクロアチアは「3・5・2」で、堅い守りからのカウンターを基本戦術とした。
 クロアチアは日本と同じ「3・5・2」だったが、大きな違いは、選手たちがテクニックとともに「駆け引き」のワザを身につけていること、前線にシューケルという大砲、中盤にボバン、アサノビッチ、プロシネチキという「三人の中田」がいたことだ。
 しかし、昔のディナモやハイドゥク・スプリットの華麗な攻撃的スタイルを知る者としては、不満が残った。旧ユーゴ時代はベオグラードのレッドスターとパルティザン、そしてディナモ、ハイドゥックが「四強」で、それぞれ攻撃的サッカーで楽しませてくれたものだ。守備をまず固め、相手がすきを見せるのを待つリアクション・サッカーは、本来自由奔放な選手たちの個性を抑制し、無理に型にはめたようで感心しなかった。「東欧のブラジル」の看板が泣く。(カテナチオに戻したイタリアも同じ)
 とはいえ、それぞれのカラーの違いは、両国の「国のなりたち」も反映していた。
 クロアチアのトゥジマン大統領は、現地での観戦はもちろん、ロッカールームまで押しかけて選手を激励した。
 トゥジマンは自他ともに認めるサッカー好きで、名門ディナモ・ザグレブの名前を「ディナモ(発電機のダイナモ)は共産主義の象徴」と、第二次大戦前の「HASK(クロアチア・アカデミック・スポーツクラブ)グラジャンスキー」に強制的に改名させた。サポーターから非常に評判が悪く、「クロアチア・ザグレブ」に再改名させたが、要するに、代表チームの人事も含めてサッカーを私物化し、最大限に政治利用してきたのだ。
 クロアチア関係者は好んで「歴史的」という表現を使うが、それはクロアチアが歴史の浅い国ということだけでなく、大統領のトゥジマンが歴史学博士で、何でも「歴史的」と呼ぶのが口癖だ、という事情もある。
 トゥジマン自身は、準々決勝のドイツ戦の「歴史的勝利」の後、クロアチア国営テレビに「クロアチアの名声は疑いなく高まった。勝利は美しいことだが・・祖国戦争(九一年の戦争のこと)で勝利者になったからこそ、今がある。われわれを攻撃した連中(ユーゴのこと)は、これからはスポーツの分野でも用心するようになるだろう」と語っている。
 歴史的、歴史的といいながら結局はセルビア(ユーゴ)への敵意でしめくくる。トゥジマン博士の歴史観はその程度のものらしい。
 そもそも赤白チェックのユニフォームは、第二次大戦中のナチスの傀儡国家「クロアチア独立国(NDH)」当時と同じ(とくに欧州予選で使用した全身赤白のモデルに近い)で、国際人権団体がデザイン変更を申し入れるなど論議を呼んだものだ。
 NDHはいわば「バルカンの満州国」で、ナチス占領下でユダヤ人やセルビア人など数十万人を虐殺した。トゥジマンはこれを「数万人」と過少推計する論文で博士号をとったのだが、現在のクロアチア通貨(クーナ)もNDH時代と同じ呼称。国旗も酷似している。(クロアチアサッカー連盟はNDH時代のものも正規代表の試合としている。)
 トゥジマンの「クロアチア化(脱セルビア化)」政策は徹底している。六月二十日の日本戦の後の記者会見では、同席していたクロアチア外交官が突然、会見を中断させ、通訳の交換を要求した。いわく、大会組織委から派遣されたフランス在住の女性ボランティアはセルビア人で、クロアチア語を話さない、これは侮辱だ、と声を荒げたという。
 前述の通り、クロアチア語とセルビア語はかつては同一言語とみなされ、今も方言の差しかない(関西・関東弁より近い)。クロアチア政府は独立後、セルビア語と共通する単語を排除した「純粋クロアチア語」を普及する「言語浄化」を進めているが、外交官の記者会見妨害には、ブラジェビッチ監督さえ、あ然としたという。
 一方、ユーゴのミロシェビッチ大統領はスポーツに関心がないことで知られる。まあ、仮にサッカーが好きだったとしても、南部のコソボ自治州のアルバニア系住民の独立運動が激化したため(これもワールドカップと無関係ではない)、アルバニア人武装組織鎮圧の強硬作戦決定や、仲介に訪れたホルブルック米国連大使などの応対に忙しく、ワールドカップどころではなかっただろう。
 ユーゴの政治状況を思いだしたのは、キックオフ前の国歌斉唱だ。たとえば一次リーグのドイツ戦。テレビで見た限り、国歌を歌っているユーゴ選手はいなかった(サントラッチ監督は歌っていた)。それどころかユーゴ応援団は、自分たちの国歌にブーイングをあびせた。これには事情がある。
 国歌「おい、スラブ人たちよ」は旧ユーゴ国歌を引き継いだもの。メロディーはポーランド国歌と同じ、一九世紀末の汎スラブ主義の歌だが、今のユーゴは「スラブ人の団結」どころではない。国歌へのブーイングは、当局に対する精いっぱいの抵抗なのだ。
 旧ユーゴを解体に導く戦争をはじめたミロシェビッチ大統領はいまだに政権に居座っている。国際制裁で経済はめちゃめちゃ。若者は希望が持てず、外国への出稼ぎばかり夢見る。その上、国民の意識の深いところでは、戦争や民族主義について総括されていない。悪かったのは戦争を始めたことか、それとも勝てなかったことかーーアイデンティティにもかかわる深刻な倫理の危機だ。
 ワールドカップ期間中、コソボ問題でEUは新たな制裁を発動した。国際的孤立を招いたミロシェビッチ政権の強権政治には、モンテネグロ共和国が反発を強めている。新ユーゴが、再分裂しかねないのだ。
 新ユーゴが「ユーゴ」を名乗れるのは、人口約一〇〇〇万人の一割にも満たないモンテネグロ(約六〇万人)が、セルビア共和国と連邦を組んでいるおかげである。モンテネグロが連邦を離脱すれば、ユーゴはセルビア単独になり、国名も「セルビア」になるだろう。(余談だが、代表の二十二人中、副主将のサビチェビッチ、エースのミヤトビッチ、GKのクラリら、モンテネグロ人は九人もいる。ユーゴが再分裂したら、また新たなサッカーの強豪が誕生することになる。)

 フランス・ワールドカップではクロアチアの活躍が目立ったが、もし、ユーゴに一次リーグ・ドイツ戦の不運なオウンゴールがなければ、準々決勝でクロアチアと対戦していたかもしれない。実力は伯仲している。
 うれしいことに、西暦二〇〇〇年の欧州選手権予選ではクロアチアとユーゴが同じグループに入ってしまった。つまり、両国が戦争ではなく、サッカーで決着を付ける機会がやってきたのだ。
 ホームとアウェイで二試合ある。初戦は来年三月二十七日、第二戦は十日十日。その両日を欧州サッカー連盟が「フェアプレー・デー」に指定すればいい。キックオフ前、両国選手が肩を組んで記念写真におさまるーー戦争なんか最初からしなければ良かったのに、と、両国の国民が心から思えるような、そんなゲームになればいい。   (終わり)

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