夜の記憶 Apr. 1999

1999 / Jan.Feb.Mar.|Apr.|May.Jun.
Jul.Aug.Sep.Oct.Nov.Dec.

return to toppage


99/04/01 (Thu.)−エイプリル・フール!!

 今日はエイプリル・フールだ。いかん、なにか嘘をつかねば。
 えーと、ではまず、今日から日記にタイトルをつけることにした。日記猿人日記圏ReadMe! Japanに日記やサイトの更新を報告する際、ちょっとしたコメントを付けることができる。更新のたびにこのコメントを考えるのだが、このコメントがその日の日記のタイトルにちょうどよいのだった。更新ごとに儚くも消えてしまうコメントを記録するという目的にもちょうどいいだろう。
 うーん、なんだか嘘っぽくないぞ。では『ER』の話をしよう。
 『ER』Emergency Room−緊急救命室。アメリカはシカゴに、カウンティ総合病院がある。これは、カウンティ総合病院のERを舞台にした群像ドラマである。さまざまな家庭、さまざまな過去、そしてさまざまな性格のプロフェッショナルたちと、そこへ運ばれてくる患者たちが織りなす人間模様。生と死のはざま、アメリカ社会の現実、そして家族や恋人、友人との関係に悩み、励まされる登場人物たち。原作に、『アンドロメダ病原体』『コーマ』『ジュラシック・パーク』のマイケル・クライトン。彼自身医大に学び、医学博士の肩書きを持っている。ERに勤務した経験がこのドラマに豊富なエピソードを提供し、またドラマの圧倒的なリアリティに貢献している。『ER』のスピード感のある演出で評価を得、『ピースメーカー』『ディープ・インパクト』の監督に抜擢されたのはミミ・レダー。『バットマン』の主演で、ハリウッドでの名声も手に入れたジョージ・クルーニーは小児科医ダグ・ロスに扮する。現在第5シーズンまで制作されている『ER』、この4月からNHK総合で第3シーズン(毎週日曜23:45〜)が、衛星第2で第4シーズン(毎週月曜23:00〜)が放映開始。特に第4シーズンは日本初放映で、ファンの期待は現在最高潮に達しようとしている。
 とまあ、こんな嘘でどうでしょう。という、この1文が今日の嘘でした。


99/04/03 (Sat.)−衝動買いノートパソコン

 ああ聞いてくれたまえ友よ。わたしはこの日、秋葉原へCeleron(というCPU)を買いに行ったのだ。パソコンを自作しようと考えたのだよ。首尾よくCeleronを手に入れたわたしは、いつものように掘り出し物はないかとあちこちの店を巡っていた。そのときだ。ThinkPad535Xを中古ショップで見つけてしまった。このThinkPadというブランドはあこがれのノートパソコンで、いつかはクラウン…もとい、いつかはThinkPadをと夢見ていたものだ。535Xは中でも一番の気に入りで、それが今。目の前に。付属品も付いて。この値段で。ああ。さっきCeleronを買ったばかりなのに。しかししかしああしかし。
 ああ聞いてくれたまえ友よ。わたしは買ってしまったのだ。ThinkPad535Xを。我が家についにノートパソコンが来てしまった。これでデジカメのデータは楽に移動できるし、GPSをつないでカーナビにもできる。なんとすばらしい世界だ。これこそテクノロジーの勝利だ。見たときが買い時なのだ。衝動買い万歳。


99/04/05 (Mon.)−超気合車内放送

 「毎度JRをご利用いただきありがとうございます。お客様にお願いいたします。車内での携帯電話、PHSのご使用は、周りのお客様のご迷惑となることがあるばかりでなく」
 ここまで聞いて、「この車内放送はなんだか違うな」とは思ったのだ。携帯電話だけでなくPHSも挙げる律儀さ。さらに、ご迷惑となる「ことがある」ときた。よく聞くパターンは「お客様のご迷惑となりますので」で、これはその決めつけ具合が気に入らなかったのだが、今日の車内放送はあくまでソフト、しかし着実に、携帯/PHSオーナーの逃げ道を絶とうとしている。さて続きは、
 「…ご迷惑となることがあるばかりでなく、医療機器の動作に深刻な影響を与えることがございます」
 おお、すごいぞこれは。「医療機器」はたぶん心臓用のペースメーカーのことで、確かに「深刻な影響」があることはわかっているが、そのことを指摘する車内放送は初めて聞いた。かなり周到な「お願い」で、いつも聞いている車内放送と比べて説得力がある。
 さて。ではこの車内放送、普段聞く車内放送と比べてどの程度効果が違うか。結論からいえば、効果に大きな変化はないのではないかと思う。
 そもそもこの車内放送は大きなお世話だ。こんなこと、気を付ける人は車内放送で言われなくても気を付けるし、気にしない人は車内放送で言われても気にしないはず。つまり、この放送は誰に対しても無意味なものなのだ。…と、この放送が始まった当初は思っていた。ところが日がたつにつれて、車内での携帯電話に関する空気が明らかに変わってきた。「電車内での携帯電話は良くないことだ」という雰囲気ができてきたのだ。その結果、気にしない人も気にしないなりに気にするようになったというか、気にしない人の中にも「自分は悪いことをしている」という自覚が生まれてきた。継続は力だ。現在では、堂々と電車内で携帯電話を使う人は確かに減ったといえる。
 だがしかし、これは客が判断し学習した結果として出た結論ではない。
 電車の車内放送はある種「お上」のような権威だ。客は車掌に「言われっぱなし」なのだ。客は毎日同じ事を聞かされ、判断力を失い、権威としての車内放送をなんとなく受け入れてしまう。その結果「誰になぜ迷惑なのか」を考える余地を持たぬまま、誰でもどんな状況でも携帯電話を悪とする雰囲気ができあがってしまった。あまり混んでいない電車内で、携帯電話を使って家の留守電をチェックしていた(=こちらからは声を出さない)人が、携帯電話を使っているという理由で注意されたという話も聞いた。この状況、果たして誰がどんな迷惑をこうむっていたのか知りたいところだ。
 車内放送が、上のような「雰囲気作り」としてしか作用していない限り、実際にどんな言い方をしても五十歩百歩で、客に伝わるのは結論のみ、つまり「電車内での携帯電話はヨクナイらしい」というぼんやりした印象だけであろう。だから注意する側は、その場の状況をよく判断せぬまま、トニカク携帯電話はダメナノダという行動に出てしまうのだ。携帯電話を使う人にも、それを周囲で見守る人にも本当に必要なのは、今その場で携帯電話を使うことが、周囲の迷惑になるかどうかを判断する能力と、判断結果をどうやって相手にわかってもらい、またどうやって相手から譲歩を引き出すかという交渉力のはずなのに。
 と話が進んだところで、最後にアホらしいオチを。携帯電話に関する車内放送が強い調子に変わったのは、利用客から「もっと厳しく規制せい」という声が多かったかららしい。客どうしの問題をJRにねじこむ客も客だし、それを受けて車内放送に反映させてしまうJRもJRだ。学級会で「誰くんは授業中うるさいので良くないと思います」なんて発言していい気になる子供と、それを受けて「授業は静かに聞きましょう」と言わずもがなのことをわざわざ朝礼で話す校長のようである。人に言われることをうのみにして、その受け売りばかりで自分で考えず、その結果自分の考えを相手に伝えるすべを学習しないまま生きていては、人々の交渉力は低下するばかりだ。このままじゃまずいんじゃないかなぁ。


99/04/06 (Tue.)−聞き間違いの素

 コンビニの雑誌売り場。若い女性の2人組が情報誌をチェックしている。
 「ないなぁ…どれだろ」
 「あっもしかしてこれ?『バンディッツ』じゃない?」
 「『バンディッツ』かぁ、確かにそう聞こえるね」
 「『バンディッツ』だよ、たぶんそうだよ」
 彼女らが見つけた『バンディッツ』という映画、渋谷のパルコパート3などで上映中である。刑務所内で結成されたバンド「バンディッツ」のメンバー女4人、機を得て脱獄するもあることから有名人になってしまい、サインなんかしつつ逃げる逃げる、というような話…らしい(未見)。
 気になるのは、『バンディッツ』と聞き違えたもとの言葉がなにかということ。とはいえ声をかけるのもナニだし、とさらに耳をすませたがわからずじまい。バンディッツバンディッツ…気になる気になる減点パパ。


99/04/08 (Thu.)−速いマシンの悩ましさ

 ThinkPad535Xを手に入れて数日。なかなかなかなかいい感じである。なにより、机につかなくてもパソコンを使えるというお手軽さがたまらない。ルータにつながっているLANカードをちょいとThinkPadに差し込めば、布団の中からネットに接続もできちゃう。
 では問題点はあるかといえば…残念ながらあるんです。このThinkPad535X、CPUがMMX Pentium 200MHzなのだが、会社のマシンのCPUはPentium 150MHz。会社のマシンの方が少ーし遅いのだ。今まで会社のマシンを遅いと思ったことはほとんどなかったし、実際これで会社での用途には十分な速さなのだが、これよりも少ーし速いThinkPadを使い始めたら、ちょっとした操作――フォルダを開く、ソフトウェアを起動するなど――のわずかな速度差が気になり始めた。ほんの少しとはいえ、遅いことは遅い。今まで知らなかった速さに触れてしまったために、今まで平気だった速さが平気でなくなってしまったのだった。速さは毒である。
 ときどき、「パソコンを買おうと思うのだが、どんなのがいいか」という相談をもちかけられることがある。一番いいのは、普段使うパソコンの速度に合わせることなのではないかと思う。家と会社でマシンの速度が違いすぎると、遅いほうのマシンを使っていてイヤになってしまうだろう。もちろんパソコンは基本的に速いにこしたことはないから、もしパソコンそのものが初めてなら好きなだけ速いマシンを買えばいいのだが。
 では速いパソコンを買ったらどうすればいいか。それは、SETI@homeのプロジェクトに参加すればよろしい。SETIとはthe Search of ExtraTerrestrial Intelligence−地球外知的生命探査のこと。SETI@homeは、インターネットに接続しているパソコンの余力を宇宙探査に使おうというものである。宇宙から届く電波の解析には、途方もない量の計算が必要になる。そこで、スクリーンセーバーの代わりに動作する計算用のプログラムを配布し、世界中のコンピュータで少しづつ計算された結果を集めて宇宙人からの信号を見つけようというわけだ。チリもつもればヤマトなる。現在のところプログラムの配布は始まっていないようだが、壮大な計画を考えるものである。


99/04/09 (Fri.)−今年の花粉中間報告

 毎年2月半ばごろから、花粉症の症状が出始める。洟、くしゃみ、目のかゆみ。わからない人にはわからないだろうが、これが本当につらいのだ。鼻の奥はひりひり、1つのくしゃみが次のくしゃみを呼び、目はかけばかくほどかゆくなる。そこへ朗報、今年は花粉の量が少ないであろうと言われていた。それはどうやら本当らしい。花粉の季節になると必ず買う花粉目薬、これが毎年花粉が終わるころにはたいてい1本使いきってしまうところが、今年はまだ半分しか減っていないのだ。どうだ。ほかの花粉の皆さんはどうですか。
 あと数週間、花粉の季節は続くからまだ予断を許さない状況ではあるが、このペースなら今シーズンで残りの目薬をすべて差してしまうことはまずないだろう。数週間後、花粉がシーズンオフになったら最終結果を報告しよう。


99/04/10 (Sat.)−ナカッタデスと言わないで

 小さなことでも、気になり出すと止まらない。最近気になるのは「なかったです」という言葉だ。「今まで××したことがなかったですから緊張しました」とか、「そういう様子ではなかったです」といった具合。
 「なかったです」は、きちんと言うなら「ありませんでした」なのだが、最近は会話の中では「なかったです」のほうが多く使われているようだ。自分にはどうにも耳慣れない言葉で、他人の会話や対談などで「なかったです」が出てくるのも気になってしまう。
 「なかったです」という言葉は「なかった」+「です」で、これは「なかった」に丁寧らしきニュアンスを手っ取り早くくっつけようとして「なかったです」になった、ということか。とりあえず「なかった」と言ってしまい、丁寧っぽくしたいなら「です」と続ければよいだけなので、言う側にストレスが少ない言い回しだ。一方、「ありませんでした」と言うには、この言葉の前からもう言い回しの丁寧さを調節しなければならないわけで、発語の先読み能力が求められる。
 面白いのは、「なかったです」が最近多く聞かれるようになった言葉なのに対し、同じ意味で現在形の「ないです」のほうは昔から使われているらしく、とくに耳障りには感じない。「××したことはないです」「そういう様子ではないです」。それぞれ「ありません」にすればよりふさわしいのだろうが、このままでも違和感はない。
 いずれにせよ、「なかったです」には今のところ大いに違和感がある。自分でもたまについ「なかったです」と言ってしまい、どきりとする。「『ありませんでした』と言おう」と思っていても、訓練しておかないとすぐに易きに流れてしまうのだった。


99/04/11 (Sun.)−週末映画『ベンヤメンタ学院』『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』『シン・レッド・ライン』(前編)

 この週末はたくさん映画を観てしまった。クエイ兄弟の短編集、同じクエイ兄弟の長編『ベンヤメンタ学院Institute Benjamenta』、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』、『シン・レッド・ラインthe Thin Red Line』。しかし、「こいつはいいぜ」と手放しで喜べるほどの面白い映画はなかなか見つからないものだ。
 クエイ兄弟は、イギリスで活動している双子の人形アニメ作家。短編集は『レオシュ・ヤナーチェクLeos Janachek: Intimate Excursions』、『ヤン・シュバンクマイヤーの部屋the Cabinet of Jan Svankmajer』『ギルガメッシュ/小さなほうきthe Unnameable Little Broom』、『ストリート・オブ・クロコダイルthe Street of Crocodiles』の4本立て。ヨーロッパ的な意匠の舞台装置の中、妙にキタナイ人形が動き回っている。話はどれもよくわからず(これは、字幕の入れ方や短編どうしの切れ目がわかりにくいのも原因だと思う)、もっぱら動きの面白さを追っていた。なんだかどれも、くらーい雰囲気。でも、あまりちゃんと人間の形をしていない人形たちの造形は独特でいい感じ。鳥とおぼしき動物の頭骨にカタツムリの目玉、鳥の羽根をトサカにつけた人形や、開いた本の頭にカラス口(「からすろ」じゃないよ)の手を持つ人形。ほかにも象徴的なものがいろいろ出てきて、分析するのが楽しそうではあった。
 次の『ベンヤメンタ学院』は、クエイ兄弟だけれど人形は出てこず、人だけが出てくる普通の白黒映画。ソフトフォーカスで、被写界深度(ピントの合う範囲)が極端に狭く、白と黒のコントラストがとても美しい画面。こちらも話はあまり素直ではなく、全体の流れでいえば「ベンヤメンタ学院の静穏が破られていく話」ではあるのだけど、1つ1つのシーンはやっぱりどうもわかりづらい。映像の雰囲気はとても好みで、こういう映像を自分で作れたらと思ったりした。
 あと2本については明日。


99/04/13 (Tue.)−週末映画『ベンヤメンタ学院』『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』『シン・レッド・ライン』(中編)

 さて『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』である。いわゆる「平成ガメラ」シリーズは恐怖!異形!SF!で怪獣映画の王道復活をもくろみ、それはかなり成功してきたとは思うのだが。
 ガメラに限らず、第3作というのはすごく難しいと思う。第2作は前作とどう違っていても、比較対象が1つしかないから違ってさえいればそれが新味になる。しかし第3作となると、前の2作品からどれを継続させどれを停止させるか、取捨選択できるものごとが中途半端に多く、しがらみとなって作り手を悩ませる。これが第4作まできてしまえばシリーズものとしての流れができあがってしまう頃だから、開き直ってその流れに乗ってしまえばよいのだが、第3作ではまだそこまで思い切れないだろう。
 そういった「第3作」的な苦しみがガメラでは、ギャオスの存在について現れていたように思う。第1作『ガメラ 大怪獣空中決戦』で敵役だった怪獣ギャオスは、第2作『ガメラ2 レギオン襲来』には欠席して今回再登場している。同じ怪獣がまた出てくるというのは、「第2作では『欠席』」とつい書いてしまうくらいにギャオスが「ガメラ」の中でポピュラーな怪獣になってしまうわけで、これはどうにも世界の幅をせばめてしまっていると思うのだ。これがもし4作目でもギャオスが出てくるということになれば、そういうものだということになって慣れてしまうのだろうが。
 一方、続きものらしくてうまい道具立てだと思ったのは、今回のヒロインは第1作の東京戦で両親を失い、ガメラに対して強い復讐心を抱いているというところ。いわば「怪獣孤児」である。ガメラが敵の怪獣と街なかで戦うとなれば街が無傷なわけがなく、そうなれば死者がゼロってことはまずないはずで、そのへんの事情をうまく新作のキー要素に仕立てたものである。
 「ガメラ」では犠牲者の発生が多く描かれてきた。『ガメラ 大怪獣空中決戦』ではギャオスが中央線を襲い、高架脇を逃げる人々の上に例の赤い車両が落ちていったり、生物たるギャオスがもっとも手早く得られる肉として人間を選んだり(人間は個体数が多いし、犬猫よりは体長も大きいから自然な選択ではある)。それでも、街レベルの破壊について前2作では「避難がきちんと行われて被害は最小限」という表現になっていたが今回はこのへん容赦がない。渋谷のシーンでは、ガメラはほとんど「災害」である。ただ、「災害としてのガメラ」という仕掛けは物語全体の中でいまいち活用されていないとも思うのだが。
 そう、「仕掛けの活用」という意味において、今回のガメラはだいぶ厳しいものがあった。前2作に引き続いて今回も登場する大迫(元)警部補の姿は印象的ではあるがそれだけで、わかりやすい感情表現しかしてくれない。中途半端な伝奇要素(そういうネタを使うくせに最後にアレがああではね)、その伝奇要素に食われて減ってしまったSFマインド。整理されていない登場人物。この人たちはナニをするためになぜあえてここにいるのか、とかまあいろいろフに落ちない感じ。
 しかし、特撮は頑張っていたのだ。特に渋谷のシーンはテンションの高さがすばらしい。中でも気に入ったのは、普段テレビでよく見かけるカメラアングルの中にズドンと怪獣が現れるカット。こういう、見慣れたものの中に見慣れないものが入り込んでくる映像は大好きだ。「目が驚く」映像を味わえるってのは、まこと映像作品の醍醐味である。
 長くなってしまったので、続きは明日。


99/04/15 (Thu.)−週末映画『ベンヤメンタ学院』『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』『シン・レッド・ライン』(後編)

 もう木曜日で、すっかり「週末」映画じゃなくなってしまったが、しつこく映画の話をするのだ。
 さてさて、『シン・レッド・ラインthe Thin Red Line』。実は『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』を見終わってくさくさした気分のまま映画館を出たところ、『シン・レッド・ライン』がかかっている館の入口から「間もなく開映でーす」という声が聞こえ、ちょうどよいとばかりに飛び込んで席についたというアンバイだったのだ。
 映画館で映画を観るという体験の特異な側面の1つに、「観に行かないと観られない」というものがある。映画を観るには、上映館を調べ、上映時間を調べ、上映館の最寄り駅までの交通を調べ、自分の都合をつけ、駅で切符を買って電車に乗り、電車を降り、ふだん行かない街を映画館に向かって歩き、映画館の窓口で切符を買って席につかなければならない。テレビをつければもう映画が始まっちゃうというわけにはいかないのだ。そのぶん、映画館に行くにはより強い動機づけが必要になるわけで、逆にそのことが、いざ映画を観るとなったときに「映画を見に行く自分」の気分を盛り上げ、「観るぜ観るぜ映画を観るぜ〜ッ!!」(©スタパ斎藤)という非日常的精神状態に連れていってくれるというわけだ。一方、飛び込みで入った『シン・レッド・ライン』。この映画についての心の準備はといえば、そのうち観たいねという程度のものだったから、あまりに唐突な今日の自分の行動に、自分の気分がついていかないような感覚もあったのだった。
 と能書きはそれくらいにして。第2次大戦のガダルカナル島を舞台にした群像劇である。兵士たちはそれぞれなりの背景を抱えつつ、日本軍との不利な戦闘を戦う。頻繁に挿入される、島の美しい風景、島の生き物たちの姿。匍匐前進する兵士の脇を蛇が通り過ぎ、敵の目をのがれようとする兵士がふと見上げるとそこにコウモリがいたりする。さて戦争ってなんでしょう。
 という映画だったのだけれど、うーむ、悪い映画ではなかったのだけど心の準備が足りなかったせいか、残念ながらいまひとつ作品に入り込めなかったんである。「ナニナニを?」という、省略が多い戸田奈津子の字幕にも気をそがれてしまった。この人は「ナニナニを知っていますか」「ナニナニはいかがですか」「ナニナニはナニですか」のあたりを、ぜーんぶいさぎよく「ナニナニを?」の一言ですませてしまうのだ。まさに戸田奈津子節。「ナニナニを?」の字幕が出たら戸田奈津子。いや本当に。


99/04/16 (Fri.)−SFの新連載『暁星記』

 あっ、なんということだ。『モーニング』にまたSFが載っているではないか。しかも新連載。タイトルは『暁星記』。暁星(ぎょうせい)は明けの明星、つまり金星のことで、舞台は金星である。
 金星のテラフォーミング(惑星の環境を人間が居住できるよう改造すること)が完了してから1万年。文明は衰退し、人間は深い深い森の中でほそぼそと狩りなどしながら樹上生活を送っている。それを影で見守る、知性を持った猿のような生き物。なにしろ第1話だからこのくらいしかわからないが、こいつはすっかりSFなのだった。
 実はこの舞台設定、ブライアン・オールディスの『地球の長い午後』(ハヤカワ文庫)によく似ている。こちらは遠未来、森に覆われた地球。人類は知性を失い、進化して動物的な運動能力を得た食肉植物を避けつつ、やはりほそぼそと樹上生活を送っているという話。多彩な植物の描写や豊富なイマジネーションで、魅力的な異世界を作り出していた。
 『暁星記』の作者は、以前に酪農マンガ『牛のおっぱい』を連載していた菅原雅雪。自然の中で生きることに関して自覚的な人のようで、『暁星記』の第1話は、狩りと獲物の解体が話の中心。生きるための細かい描写の「それっぽさ」が、生活感がなく浮ついた異世界ファンタジーとは一線を画している。加えて、スクリーントーンを使わずにひたすらペンで描き込む画風が、ごつごつざらざらした世界の手触りを伝えていていい感じである。
 タイトルの下に「第I部 はじまりの森」と付いているところからすると、そのうち舞台は森を離れることになるのだろう。未来の金星をどんな世界にして見せてくれるか、楽しみなところだ。


99/04/17 (Sat.)−バカモノメときましたか

photo:我流ハリガミ考現学(1)


99/04/19 (Mon.)−ヒジネスチャンスをのがさない ○8点

 Webで「ジネス」という誤字を見つけた。なんだかいい感じである。
 英単語には、形容詞に「-ness」をつけて名詞にするものがいくつもある。「ハッピー」→「ハピネス」「ロンリー」→「ロンリネス」という具合。となれば「ヒジネス」は、「ヒジ」→「ヒジネス」からきているのか?
 I am so hiji. → わたしはとてもヒジだ。
 Thank you for your hijiness. → こりゃまたヒジでどうも。
 Your hijiness makes me hiji. → あなたがヒジならわたしもヒジだ。
 ちなみに辞書によると、「ビジネス:business」は「ビジー:busy」→「ビジネス:busyness」からきているそうだ。忙しくなけりゃ仕事じゃないってことですか?


99/04/25 (Sun.)−パソコンを作ろう

 パソコンをとうとう自作した。なぜ「とうとう」なのかといえば、賢明なる読者諸君は覚えておいでだろう、今月の初めのThinkPad535Xを買ってしまったその日は、本来535Xを買う日ではなく自作パソコンのパーツを買う日のはずだったのだ。このときは535Xをうっかり見つけてしまい、すっかり人生設計が狂ってしまったがそれも今日で是正完了。あれこれ買い揃えたパーツを組み合わせれば、意外なほど簡単にパソコンはでき上がってしまうものなのだった。
 自作がブームと言われ始めて数年たつ。最近はカメラ量販店でもパソコンのパーツを扱っているし、とうとう朝日新聞社からパソコン自作のムック本が出てしまうほどになった。このムック、最初のほうに「こんな人は、(自作は)まだちょっとやめておこう」という部分があって面白い。いわく、

 確かに、いくらなんでもこういう人たちには自作は無理だろう。それに、上の条件を満たすなら誰でもパソコンを自作できるわけではない。ただ、いきなりすべて自作するのは難しくても、拡張カードの増設や交換、メモリの増設、ハードディスクの増設など、今使っているパソコンのケースを開けて内部にアクセスする作業はいくつかある。こういった作業は、パソコンの動作原理についての知識も深めてくれるから、本や詳しい人のアドバイスを参考に挑戦してみるとよいと思う。
 えーでは、メモを兼ねて今回作ったマシンの型番などを。詳しくない人も「ふんふん」なんつって眺めてみれば、わかる単語もあるだろう。

 今回は、知人から譲ってもらったパーツもいくつかあったおかげで、以上を5万円台で揃えることができた。キーボード、マウス、ネットワークカード、サウンドカードは今まで使っていたものを流用。今後の展開予定としては、CD-Rなんかいいねえ。もちろんメインマシンはMacintoshのままですが。
 それにしても、今月になるまで我が家の最速IntelプロセッサはDX2/66(DX2は、今出ているPentiumIIIの前に出たCeleronの前に出たPentiumIIの前に出たMMX Pentiumの前に出たPentium Proの前に出たPentiumの前に出たDX4の前に出たCPU)だったのに、ThinkPadを買ったらいきなりMMX Pentium 200MHz、今回の自作でさらにCeleron 300AMHz(CeleronはPentiumIIの廉価版)までジャンプアップである。Celeronの速さを実感するために、まずはフリーセル。速い、速すぎる。わからない方にはわからない話ですいません。


99/04/26 (Mon.)−理解されない情熱

 なにかに強い思い入れを持っていても、そのことを他人に理解してもらうのは難しい。一方で、自分の情熱が簡単に理解されてしまうのも、何となくいい気がしないものだ。
 というような話の映画かマンガか小説を読みたい気分の今日このごろ。
 ときどき、「こういう話の映画かマンガか小説を読みたい」という気分がむくむくとわいてくることがある。以前は「正しい人が、正しいのに報われない話」を読みたくなったことがある(この時は、そういう話を探しているうちに「読みたい」という気分がしぼんでしまった)。
 こういう欲望って、その時の気の具合を大いに反映しているのだろうが深くは考えないことにして、「情熱が理解されない話」。たくさんありそうな気もするのだが思いつかない。なにかいいものがあったら教えてくださいゲストブックに書き込んでもらってもかまいません。なんとなく、岡崎京子にそういうマンガがありそうなのだが。


 昨日付けの日記から、「日記猿人ボタン」を設置した。「日記猿人」は登録制の日記リンク集で、ここには「投票」というシステムがある。下のようなボタンを誰かが押すと、得票情報を集計してくれるというもの。得票が多くなってもこちらのやる気が出るだけなのだが、よかったら押してくださいな。日記猿人への投票ボタンを初めて押すと、あなたのWWWブラウザに「cookie」という小さな情報が送られます。1つの日記には24時間に1回しか投票できないルールになっており、これを管理するためのcookieです。この登録がちょっと面倒かもしれませんが、最初の1回だけですのでひとつよろしく。

読んだら押してみてください

99/04/29 (Thu.)−本屋と雲

 空腹の時にスーパーへ行くとついついいろいろ買ってしまう。今日は本屋に入る前からやけに気分が高揚していた。本をたくさん買ってしまいそうな気配。こいつはまずいぞと思ったのだ。
 駄菓子菓子。それは杞憂に終わった。本屋の貧弱な品揃えに(少し)救われたのだ。それはそれで、なんだか複雑な気分。
 買った本:とり・みき『御題頂戴』、アフタヌーン6月号、谷甲州『エリコ』
 なかった本:岩波新書『日本語練習帳』、東浩紀『存在論的、郵便的』
 外に出てみると、あやしい夕焼け。

[photo:12.9k]

1999 / Jan.Feb.Mar.|Apr.|May.Jun.
Jul.Aug.Sep.Oct.Nov.Dec.

▲ページの先頭へ

return to toppage