「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2005/08/10
落書き帳」再開。「関連リンク集」更新!!

第83回配信
サソリと二千の墓〔前編〕


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かつてスレブレニッツァ報道「定番」と言えば老人か年配の女性だったが、今や遺族第二世代も青年層になりかけている(7月11日虐殺メモリアルセンターにて)

   去る7月11日、ボスニア紛争のスレブレニッツァ大量殺害事件10年の追悼式典が、同市郊外ポトチャリ地区にある虐殺メモリアルセンターで行われました。
   10年と言えば旧ユーゴ圏の人々にとっても「ひと昔」、節目です。そして今秋にはボスニア包括(デートン)和平成立から10年を迎えます。この10年でボスニアと周辺国の政治経済の流れは大きく変わりました。果たしてボスニアと旧ユーゴの「戦後」は終わった、あるいは新しい段階に入ったのか。実はこのスレブレニッツァ10年式典前後、ボスニア、セルビア、さらにはクロアチアでも様々な議論が沸き起こり、これら議論と式典をフォローすることになった筆者にも考える機会が与えられました。
   無論筆者には「ボスニア戦後を検証する」などと大上段に構える勇気も能力もありませんし、「旧ユーゴ便り」ごときが「もはや戦後ではない」「いやまだ戦後だ」と審判を下しても何にもならないことは承知しています。しかし少なくとも、戦後10年の今聞こえてくる声を記録しておくことはまったく意味のないことではないだろうと思います。今回と次回配信は2回連続で、スレブレニッツァを起点にみる和平10年後のボスニアと旧ユーゴをテーマとします。

(この配信の後半では、ボスニア紛争中に撮影された映像で、銃を持った民兵が捕虜数名を実際にビデオカメラの前で連続的に殺害する場面がデジタル静止画像として数枚掲載されています。予めご了承下さい。)

   メモリアルセンターは、戦争中には国連保護軍オランダ隊の本拠地だった場所に2年前オープンしました。中央慰霊堂の横は殺害され身元が確認された約1800体の広大な墓地となっています。事件での死者、行方不明者数はボスニア側発表で約8100(国際赤十字発表で7400)、現在も集団墓地などの発掘、身元同定作業が続けられており、この日も、先ごろスレブレニッツァ近郊で発見された610体の集団葬儀が式典の終わりにとり行われました。

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7月11日は早朝から墓参に駆けつける多くの遺族の姿があった。手前の墓には新たに発見された遺体がこの日埋葬された
   スレブレニッツァはボスニア包括和平でセルビア人共和国に帰属、現在も事件で同市を追われたボスニア人の多くがボスニア連邦各地、あるいは第三国に住んでいます。事実上二つの構成体(セルビア人共和国とボスニア連邦、本HP「旧ユーゴ地図」参照)に分かれたままのこの国の、緊張緩和と統一国家作りへの動きについては「便り」でもしばしば取り上げてきました(最近では第73回配信第77回配信など)。過去に行われた選挙では出身自治体に帰っての集団投票が行われ、ボスニア人マルキッチ市長が選出されていますし、この日10年ぶりにスレブレニッツァに初めて戻ったという人は少数です。難民帰還は遅々としてではあるものの後述のように市広域では4000を数えています。和平後数年のようにボスニア人がセルビア人共和国に行くことを(過度に)恐れる状況ではなくなっています。
   しかし早朝から墓を訪れる遺族の表情は、いくら近い身内のこととは言え10年経ったとはとても思えないほど深刻な悲しみに彩られていました。筆者は日本のTVニュース取材に同行しました。事件で父を失ったトゥズラ市(ボスニア連邦東部)在住の18才の若者は、他の親戚とともに叔父の墓参に訪れたところでした。「事件当時8才だったが、父のことも事件当時のこともよく覚えている。まだ父の墓はここにはない。最近の集団墓地発掘で父ではないかという遺体が出てきたが、こちらが届けた確認用資料と整合していないところもあり、自分と姉のDNA鑑定の結果を待っているところだ。はっきりしないのは辛いが、父がまだどこかで生きているかも知れないという希望を失うのも怖い」と涙目ながらに語りました。
   セルビア人勢力が大量殺害を隠蔽するため、多くの集団墓地を掘り返して移動していたことが遺体の身元同定を困難にしています。
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筆者が2年前に撮影したスレブレニッツァ市街。モスクも再建されているが、難民帰還は中心部では遅れている
ブルドーザーなどで機械的に掘り返された遺体がバラバラになってしまうのです。現在もトゥズラ市には、発見された部分的遺体の収容施設があり、カナダの法医学専門家の協力のもと身元確認作業が進められています。2000年からは高級機材を使った血液・DNA鑑定などがボスニア国内でも可能になり、能率はかなり上昇しました。しかし国家行方不明者捜索委員会マショヴィッチ委員長は「手だけが見つかって『あなたの息子さんが発見されました』と言うのはわれわれにも辛いことだ。遺族団体とは『遺体の少なくとも50%が揃った時点で発見同定された一遺体とみなす』という申し合わせが成立した」と述べています(この段落は国際戦争&平和報告研=IWPR7月6日付による)。 
   政治家レベルでのデタント(緊張緩和)は進む、しかし身内を失った一般の人々の感情の強さはまだ生々しいまま。そんな中、民族対立のしこりを意図的に軽視し建設的な、しかし人工的ではある再共存を価値観としてこの「便り」を書き続けることが妥当なのか。重い気持ちと疑問にとらわれてしまいました。

   検索エンジンGoogleでスレブレニッツァまたはスレブレニツァで535件、Srebrenicaを掛けると何と世界171万件ものサイトが引っ掛かり(本稿執筆時現在)、この「寒村」と呼ばれてもおかしくはないボスニア東部の小さな町が、悲惨な紛争の象徴、いやあまりにも特殊な名前となってしまったことが改めて分かります。大量殺害事件については、インターネットの大海の中で筆者よりはるかに優れた記述を読者の皆さんも発見されることと思いますが、筆者なりに95年前後の状況は別ページ(こちらをクリック)にまとめておきます。
   
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ボスニアのうち濃い緑がボスニア連邦、薄緑がセルビア人共和国(現在の行政区分)。ポトチャリ地区はスレブレニッツァとブラトゥナッツの中間にある
この数年のボスニア国内の緊張緩和を受け、包括和平でセルビア人住民多数となったスレブレニッツァへの難民帰還も少しずつ進められています。現在まで広域スレブレニッツァに老年層を中心に約4000人が帰還、市街部への帰還はまだ遅れています(IWPR7月6日付)。しかし筆者には青年層の帰還が進まない主因は、和平直後のような政治=民族的な理由から、山間の経済後進地域であるという経済的理由に移行しつつあるように思われます。
   筆者がスレブレニッツァを訪れた2年前には、既に新たなモスクが再建されていましたし、この日の式典に先立つ6月27日には、スレブレニッツァを睨むセルビア人勢力の拠点だった隣町のブラトゥナッツでもモスクの落成式が行われました。正教会のある町にモスクが並存するようになっただけを見て平和と和解の象徴だと言うつもりはありませんが、凄惨な民族浄化の舞台になった東部の小都市でも、政治=民族的な緊張は少しずつ減少しています。
   しかし戦争孤児としてトゥズラ市に暮らしている遺族の若者は「兄はサライェヴォ大学で勉強を続けているし、自分もトゥズラ大学に進学したいと思う。もちろん生まれた町を忘れるわけはない。でもスレブレニッツァに暮らして何になるだろうか。死んだ親たちのカゲだけしか感じられないんじゃないだろうか」と言います。サライェヴォ市近郊ヴォゴシュチャ地区やトゥズラ市など、より発展し進学・就職機会の多い都市部に定着しつつある遺族第二世代たちの思いは複雑なようです。

   正午から始まった追悼式典は元首級の出席こそメシッチ・
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ティヒッチ幹部会員「遺体をすべて捜し出すことと戦犯を罰すること」(画像提供:民主行動党)
クロアチア大統領のみ(モイシウ・アルバニア大統領の出席も予告されていましたが筆者は確認できず)でしたが、ストロー(英)、ボット(オランダ)両外相など外相級8名、アッシュダウン・ボスニア和平履行会議上級代表兼欧州連合(EU)特別代表、ウォルフォヴィッツ世銀総裁など各国要人が集う一大政治イベントとなりました。
   式典6日前の7月5日にはメモリアルセンター至近の地点で爆発物が発見され、元ボスニア軍司令官オリッチ被告(旧ユーゴ国際戦犯法廷で裁判進行中)の友人でトゥズラ市在住のS・S容疑者が逮捕されますが証拠不十分で釈放。7日には世界的ニュースとなったロンドンの同時多発テロが発生。セルビア人共和国警察は数千人を幹線路上、式典現場付近などに展開し、緊張した雰囲気の中での当日となりました。
   「皆さんの経験した悲劇と苦しみに言葉もありません。私たちが出来ることは、行方不明者の遺体をすべて捜し出して手厚く葬儀をすることと、戦犯、なかんずくカラジッチとムラディッチ(大塚注:両者ともセルビア人勢力の主要戦犯容疑者。国際法廷から訴追されているが潜伏を続ける)を罰することだけです」とティヒッチ幹部会員(ボスニア人枠選出)が挨拶する頃も、続々とメモリアルセンターには人々がやって来ていました(新聞発表5万)。
   国際社会を代表した来賓たちは異口同音に、スレブレニッツァ事件を許したことは国際社会(ヨーロッパ)の責任であると強調しました。
   アッシュダウン・ボスニア和平履行会議上級代表は述べます。「20世紀後半、欧州で最悪の犯罪がここで為された。世界が人々を守れなかったことは最大の恥だ。しかし10年が経ちボスニアはEU加盟交渉開始直前の段階までたどり着いた。われわれが犠牲者たちに出来ることは、この課題を最後まで成し遂げ、国の明るい将来を作ることだ」。

   マスコミから大きな注目を集めたのは、セルビア本国のタディッチ大統領でした。式典会場での爆発物摘発やロンドンのテロ事件で、直前にも某先進国在ベオグラード外交ルートから出席を見合わせるよう働きかけがあったと言います。しかし「出席し謝罪をすることこそが今のセルビアの意思を示す」として現地入り。どのような形で謝罪するのか、また遺族ら5万の人々がどのような反応を見せるのかに興味が持たれました。
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「スレブレニッツァを守れなかったことは世界の恥」とアッシュダウン上級代表(左上)が挨拶する頃には数万の人々が詰めかけていた
「タディッチの安全は絶対に保証する、ぜひ式典に出席を」と呼びかけたのはティヒッチ幹部会員だったと報じられています。
   しかし、大統領とは言えセルビア=モンテネグロの一構成国(つまり国際法上の主体としての国ではない)セルビアのトップに過ぎないタディッチの扱いは低く、目立たない位置に座った彼が行ったのは献花のみ。挨拶と謝罪の機会は与えられませんでした。有力遺族団体スレブレニッツァ女性連合(本拠地トゥズラ市)関係者は、筆者ら取材班に対して「団体の代表が挨拶をするべく政府から打診があったが、タディッチの出席に対する抗議の意味で拒否することにした」と明らかにしています。遺族の大半に言わせれば、大物戦犯であるムラディッチ、カラジッチを捕まえようともしていない今のセルビアから、謝罪に来るなどという方がおこがましいとの論理。現地マスコミとしては謝罪がなく少々裏切られた感、メシッチ・クロアチア大統領も同様のコメントを残しています。翌日の日刊オスロボジェーニェ紙[ボスニア]はタディッチに関しては無視。日刊ユータルニー・リストなどクロアチア各紙は謝罪がなかったことを非難するトーンで終始したようです。が、特にタディッチに対するブーイングなどもなく、むしろ淡々と式典は進行し、新たに発見された610体の埋葬で結ばれました。

   「ナチ以後」のドイツでも、「戦後」が確実に精神的に乗り越えられるには68年五月革命世代が登場するまで20年以上待たなければならなかった、と言われます。その意味でボスニア「10年後」の今、タディッチが謝罪こそなかったものの出席し、つつがなく式典が行われただけでも評価すべきではないか、と英BBCなどは好意的な取り上げ方はしていたようです。
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セルビア共和国タディッチ大統領は「セルビアの意思を表す」と式典に出席。何らかの謝罪が期待されたが今回は見送られた
週刊ヴレーメ紙[セルビア]7月14日号は、サライェヴォ発の反応として「一般市民の間ではタディッチが出席したこと自体がそれなりに評価されている」と報じています。

   セルビア人共和国内にあるメモリアルセンターでボスニア人民族政党(民主行動党)党首でもあるティヒッチがまずホストとして挨拶をした。その中で大物戦犯らこそ糾弾されたものの、ボスニアのセルビア人共和国、セルビア共和国、セルビア人一般への非難はなかった。タディッチの目立たない出席も問題にはならなかった。5万人のボスニア人を迎え数千人のセルビア人共和国警察がつつがなく警備した(5キロ離れた隣のブラトゥナッツ市で一般住民が「威嚇発砲」をしましたが地元警察の介入が早く大事には至りませんでした)。「やっぱり、ボスニアの当局レベルでのデタントが進んでいることが改めて実感できたな」。そう思いながら式典会場を後にすることにしました。
   そうした近年のボスニア事情があるからこそ、筆者も取材コーディネーターとしてベオグラードの悪友バーネ運転手と彼のBG(ベオグラード)ナンバーの自動車を指名していたのです。この組み合わせで近年はサライェヴォ、トゥズラ、モスタルなどボスニア連邦各地で問題なく、いや自信たっぷりに仕事をしてきました。
   ところが万が一のために車に張った「TV JAPAN」という紙を剥がして帰り道に向かい出した途端、大混雑の中を歩行する式典参加者たちが、BGナンバーを見て「見ろよ、畜生どもが車に乗ってるぞ」「あれタディッチじゃないのか」など、挑発とも呼べない程度ではあるものの、軽い雑言をさも憎々しげな口調で浴びせて来ました。「政治家と一般の心情が必ずしも同じじゃない、と言うんでしょうか、スレブレニッツァ遺族の感情は特に・・・。いや今日が特別な日なのかも知れませんけれども」と私が今投げつけられた言葉を記者氏に解説付きで訳します。「まだまだボスニアの春は遠いのかも知れませんね」と記者氏。


   セルビア人一般が自民族の側の罪を強く自覚せざるを得なくなった映像が6月2日、旧ユーゴ戦犯国際法廷のミロシェヴィッチ裁判の場で公開されました
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軍服の兵士たちに追い立てられ、平服の男5、6人が草地を歩いて行かされる
(かの「世紀の裁判」開始に当たっては第53回配信で扱っていますが、3年半近くが経過した現在も一審の検察側証人質問終了を受けて被告側証人質問=それもまだコソヴォ関連の証人ばかりが呼ばれており、ボスニア、クロアチアに関しては始まっていません=を続けている途中で、ミロシェヴィッチ被告としても徹底的に戦うという姿勢が見えます)。これは被告が出廷を要請した証人、セルビア共和国内務省オブラドヴィッチ警視正に対する検察側反対質問の中で突然ナイス検事が発表したものです。
   検察側によれば全体で2時間ほどのビデオテープのうち7分ほどですが、セルビア本国の民兵組織「サソリ」部隊がスレブレニッツァの男6人をトラックでサライェヴォ近郊トゥルノヴォ地区に連行し次々に射殺するという映像です。すぐに同じ映像がベオグラードのテレビB92、国営セルビア放送(RTS)でも放送され大きな反響を呼びました。筆者がチェックした部分では主に次のような内容が映されています。

(1)   後ろ手に縛られた平服の6人の男が山岳地帯と思しき道路端で仰向けに並べられている。これを監視する軍服の武装した男たち。6人のうちの一人に罵りの言葉が投げられ、その頭上の路肩部分に威嚇発砲が行われる。トラックが映されるが、今6人が運ばれてきたのか、これから移送されていくのかこの「場面」だけではよく分からない。撮影している男のものと思しき声「バッテリーが上がっちまう、早くしろ」。
(2)   「早くせい!」の怒号とともに4、5人が後ろ手で縛られたまま軍服組に追い立てられ歩いていく後ろ姿。草地を進んで行く。
(3)   草地の途中で全員が歩みを止めており、ほぼ一列に並んだ平服の一人目がカメラの前に立つ軍服の男に後ろから射殺される。数発が連射されるので自動小銃だと分かる。二人目は敢えてカメラ側に180度向き直るがすぐに射殺される。同様に三人目、四人目も背中から射殺される。撃つ側、撃たれる側双方無言だが銃声は聞こえるので録音ミスではないことが分かる。
(4)   別の「場面」、別の場所でコンクリ建ての小屋(?)の扉が開いている。中に死体があるのかどうかは分からないが、「まだ生きてる奴がいるぞ」の声があり、カメラの前で一人が扉の中に向けて銃撃する。

   旧ユーゴ紛争を通して
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軍服の男が青い服の男の背に数発の銃弾を撃ち込み射殺する
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同様にして計4人が射殺され続ける。撃つ方も撃たれる方も無言のまま銃声だけが聞こえる
筆者は残酷な映像は何度も眼にしていますが、実際に生きている人間が明らかに射殺されるという映像は初めてでした。無言のまま機械的に殺す側も殺すし、これから撃たれると分かっている人間も叫んだり走って逃げたり、何らの抵抗もしていません。敢えて言えば二人目の男が撃つ軍服男に振り向くのが(撃つ人間は標的の人間の顔を見ると恐怖を感じる、とはよく言われることですので)、せめてもの抵抗のように見えます。言うまでもありませんが何とも不気味な映像でした。
   ハーグ戦犯法廷検察側はこの映像の出所は明らかにしていませんが、セルビアの非政府団体、人権ファンド(N・カンディッチ代表)が同法廷にリークしたというのが現在のところウォッチャーの間での定説になっています。
   サソリ部隊は91年ヴコヴァル(クロアチア)戦線の混乱期にボッツァことスロボダン・メディッチをトップに結成された民兵集団です。最大時160名のグループで、セルビア本国の警察の司令にほぼ従いながらクライナ地方(クロアチア)、ボスニア、コソヴォ各戦地で暗躍していたことがベオグラードの週刊ヴレーメ誌(6月9日号)の調べなどで判明していました。同誌によれば「サソリ skorpionはサソリの尾のようにグリップを折り畳めることから付いたチェコ製自動ピストルの通称。サイレンサーも装着可能。射程が短いため本格的戦闘にはほとんど役立たないが、一般家庭に押し入る泥棒部隊の名を示唆しているとも言える」。クライナ地方では石油関連施設の護衛を担当、
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「生きてる奴がいるぞ」。死体置き場らしき小屋の中に「とどめ」を撃ち込む(以上4葉は全てICTY共通映像、静止画化協力:FRAME社)
経済制裁期の原油、木材などの密輸に絡んでいた可能性が高いとのことです。
   しかし同部隊のスレブレニッツァ大量殺害への関与が明らかになったのはこの映像が初めてでした。検察発表直後こそスレブレニッツァとトゥルノヴォが離れ過ぎている、とこれに疑義を唱える声もありましたが、95年夏当時サソリ部隊がトゥルノヴォを本拠地としていたこと、ボスニアで映像を見た女性が「撃たれているのは自分の息子である」と名乗り出るなどで発表の信憑性が高まりました。

   セルビア本国の反応は早いものでした。内務省は映像発表から数日でメディッチ容疑者以下サソリ部隊に所属していた数名を逮捕しました。コシュトゥニッツァ首相ら与党連合幹部はもちろん、ミロシェヴィッチ社会党の退潮を受けて守旧民族派の代表格となった極右のセ急進党ニコリッチ党首代行さえも、異口同音に「スレブレニッツァで許しがたい罪が行われた」と認めました。こうした中、タディッチ共和国大統領は7月11日の追悼式典に出席し謝罪の意を表したいと発表。セルビアの主要テレビは各局が政治トーク番組を放送していますが、6月から7月上旬はスレブレニッツァ一色で左派右派、親欧派から守旧民族派まで議論が百出することになりました。次回配信は、時系列としては逆になりますが、今回扱ったスレブレニッツァ追悼式典を前にしたセルビアでの戦争責任論などに注目して行きます。9月上旬発表の予定です。

(2005年8月中旬)


多数の新聞・雑誌、インターネット資料を参考にしているため、出典の表示は直接本文で引用したもののみにとどめました。サソリ部隊の画像はICTY=旧ユーゴ国際戦犯法廷が各報道機関に対し共通映像として提供しているもので、筆者は在ベオグラードFRAME社の協力により静止画化しました。この映像の版権は国際戦犯法廷のみに存します。FRAME社及びティヒッチ幹部会員の画像を提供して頂いた民主行動党に謝意を表します。一部の写真は2003年5月、2005年7月に筆者が日本のテレビ取材に同行した際撮影したものです。また本文にも筆者がこれらの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれており、本ページへの掲載に当たっては各クライアントの承諾を得ています。本文(サブページdata.htmlを含む)、画像とも無断転載は固くお断りいたします。
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