「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2004/03/15

第77回配信
ひとつの国への転回点


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難民帰還、民族再共存の模範として復興が進むブルチュコ特別市中心部。ザグレブ銀行、サライェヴォビールなど各国企業の店舗が並ぶ
   ボスニア紛争中、そこを押さえるセルビア人勢力から「ブルチュコ回廊」と呼ばれた道を久しぶりに自動車で通りました。10年前、サヴァ川沿いは北岸の「敵」クロアチア本国から丸見えになっていて、大砲や迫撃砲で穴ぼこだらけの道路を、いつ撃ってくるか分からない狙撃手に戦きながらスキーのアルペン競技のように高速で蛇行したものです。が、今はすっかり舗装され、穏やかなスピードで車は進んで行きました。あるいは南の「敵」ボスニア人勢力と対峙する前線で日本のテレビ取材班と塹壕を駆け抜けた辺りは、多国籍軍平和安定化部隊(SFOR)のキャンプになっていました。陰惨な民族浄化の舞台となったブルチュコ市内にもモスクが再建されてアッザーンが響きわたり、今回2〜3月に通訳を務めた仕事では、ヴァフデット、アドミル、イスメットなど多くのイスラム名前の「戻ってきたブルチュコっ子」と知り合うことが出来ました。2000年以降ボスニア連邦、セルビア人共和国とは別の特別地域として民族再共存を先進国が多少ごり押し気味に進めているブルチュコだけではありません。ボ連邦側にセルビア人が、セルビア人共和国側にボスニア人が戻っているケースは少しずつですが目に付くようになって来ています。
   「民族間の恨み、しがらみ、境界線の向こうへの恐怖を各地で耳にした和平直後の数年とは違いますね。ひとつの国として動き出しているような気がします」。何度か戦後のボスニアを見ている筆者のクライアントも言います。先進国が望んだペースではないにしても、徐々に普通の国の姿に戻りつつあるボスニア。当然と言えば当然です。筆者が防弾チョッキを着た頃からは10年が、和平からも8年以上が経つのですから。いやむしろ、今までが遅すぎたのでしょう。

   95年暮れのデートン包括和平は、3年以上続いた悲惨な戦争を終わらせました。しかし紛争時の敵対勢力支配地域を基盤とした2つの「部分(エンティティ=ボスニア連邦、セルビア人共和国)」によって一つの国を(無理やり外枠だけ)作り上げるのが本質だったに過ぎないことは認めざるを得ません。エンティティと言えば何か聞こえは良いようですが、実際は国家内国家。
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(左)サライェヴォのボスニア連邦議会、(右)バニャルーカのセルビア人共和国政府・議会。和平後ボスニアは2つの「国家内国家」の連合体で、今まで一つの国としての機能は最小限だった
元首に当たる3民族代表の幹部会と最小限の省庁による中央政府という形は整えられたものの、実際には現在に至るまで、ひとつの国家としてはほとんど機能していませんでした。また第52回配信第73回配信にも書いたように、ボスニア経済は戦後復興バブル期を過ぎてトンネルの中を暗中模索しています。しかし安全保障の面では北大西洋条約機構(NATO)へ、民政・経済面では欧州連合(EU)へ、旧東欧の全ての国で正式加盟に、つまり「西ヘ向かう」レースがトレンドとなっている現在、ボスニアヘルツェゴヴィナも、ひとつの国として機能しながら西へ向かえるかどうかを巡る重大な転回点に入りつつあります。

   キーポイントの一つは、NATO主導による多国籍軍SFORが今年末で任期を終えることです。これを睨んで国際社会ではいくつかの思惑が交錯、ボスニア内部でも様々な議論が活発化しています。
   現在のボスニアを旅すると、数年前に比べSFORのプレゼンスが俄然減っていることに気が付きます。95年和平成立とともに展開した多国籍軍(当初名称は平和実施部隊IFOR)は6万。それが99年には3万、昨年時点で1万、今年6月末時点では7000にまで削減される予定で、ちょうどボスニア国内の緊張緩和を示す良い指標になっています。戦車、装甲車などはほとんど姿を消し、たまに見かけるSFORマークの車両は(少なくとも幹線道路沿いでは)ジープかトラックというのが現状です。既に昨年のNATOサミットで、SFOR任期切れ後には事実上のEU軍(EUFOR)が展開することが内定していますが、2月23日付日刊ドゥネヴニ・アヴァズ紙などによれば、その活動規模(同紙によれば約5000)と内容(テロ・民族主義極右対策など)がブリュッセルで検討されている模様です。
   EUFORは、俗な言い方をするならばNATO内部で米英の目がイラク・アフガンに向いているドサクサの間に、米(英)離れを図る独仏が中心となって欧州だけの軍事実績を作ってしまおうという試みです。既にマケドニア、コンゴで展開していますが、兵力5000となればEU独自の軍事行動としては最大規模のものになります。
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SFORポーランド隊の兵士たち。休暇でサライェヴォ中心部のお土産ショップ散策中
   3月中旬にサライェヴォで行われる準備会議を経て、6月末イスタンブールのNATOサミットでSFOR以後のボスニア軍事に関し正式な決定がもたらされる予定です。が、これに向けてNATO、米軍内部では、このままEUだけにボスニアの仕事を任せ他加盟国が全撤退してしまうのは得策ではない、と考える動きも出ています。デートン和平の生みの親で、米民主党を代表する声でもあるホルブルック米前国連大使は、ブッシュ共和党政権を暗に批判しながら「ボスニアをEU軍に任せるのは誤りだ。少なくとも有力戦犯容疑者カラジッチ、ムラディッチ(両者とも逃走・潜伏中)を逮捕するまでは、現在も兵力1200を残している米軍はボスニアから撤退すべきではない」と米外交アカデミーで2月中旬に明言しました。また2月10日サライェヴォを訪れた英議会代表団関係者は、SFORが全てEU軍に衣替えする可能性を否定し、司令部など、何らかの形でNATOはボスニアに残ることになるだろうと述べ、3月3日にはNATO欧州方面軍ガーネット長官もこの方針を追認しています(2月11日付日刊ユータルニェ・ノヴィネ紙、3月4日付日刊ネザヴィスネ・ノヴィネ[バニャルーカ]紙ほか)。

   このような国際社会の思惑の中で、両エンティティの二つの軍を統合出来なかったボスニアにも共同軍が創設されることになりました。和平後のボスニア軍事は、旧敵対勢力を中心とするセルビア人共和国軍、ボスニア連邦軍が欧米主導の軍縮協定に従いながらそれぞれのエンティティ防衛を担当。しかしボスニア連邦軍にしても、当初は旧クロアチア人勢力軍(HVO)と旧ボスニア人勢力軍(ABH)の各コンポーネントが組織上一緒になったというだけで、実際はふたつの軍が戦争時代と同じようにバラバラに駐屯していました。2000年後半になってようやく連邦軍の司令体制が共同となり、徐々に旧HVO、ABH両勢力のシャッフルが進められていたところです。
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ボスニアをNATOへ、EUへ。アッシュダウン上級代表の声掛けで共同軍設立への動きが進められている
一方セルビア人共和国軍は関連機関がイラクへの武器密輸や先進国でのスパイ活動に関与していたことが一昨年暮れに発覚。秋の選挙で選出されたばかりのシャロヴィッチ幹部会員が引責辞任する騒動を起こしました。このような現状と改革の遅さにしびれを切らしたか、先進国を代表してボスニアの民政部門を統括する和平履行会議上級代表事務所(OHR、上級代表=P・アッシュダウン元英下院議員)は昨年4月9日、軍事改革委員会の設立を決定。セルビア人共和国軍も含めた共同司令体制を作り上げ、平和のためのパートナーシップ(PFP=NATOが域外諸国と提携する広範な協力枠組み)に加盟することが目標として掲げられました。
   ボスニアの最大の国家目標はEU加盟です。しかし東欧諸国の「ゴー・ウェスト」レースでは、ポーランド、チェコなどの先例に明らかなように、NATO加盟がEU加盟の前段階であることが暗黙の了解となっています。NATO加盟にはやはりEU加盟同様にしかるべき準備手続きが必要。その一つがPFP加盟(ボスニアは02年正式加盟申請済み)というわけですが、国際社会はボスニアの加盟条件として共同司令による「ひとつの軍」の創設を要請。OHRと軍事改革委員会が、共同軍発足のため中央レベルで新たなボスニア防衛法を制定するよう指示しました。
   ボスニア防衛法案はまず11月末の中央議会で審議されましたが、賛成は約3分の1。ちょうどNATOロバートソン長官(当時)がボスニアを訪問するタイミングでしたが、セルビア人共和国側の議員は、まずセ共和国憲法を改正する必要があるとし議会を退場。アッシュダウン上級代表とセルビア人与党の実力者カリニッチ共和国議会議長の会談が持たれたのち、バニャルーカの共和国議会で何とか憲法改正にこぎ付けました。再びボスニア中央議会に舞台が戻され、マラソン討議の末の12月1日に法律が成立しました。これにより今までは「不可侵の聖域」扱いだったデートン協定の根幹部分が初めて改められるという歴史的な一歩が踏み出されました。

(ボスニア防衛法概要)
共同軍と共同参謀本部、国防省を設ける。文民統制の最高司令は3人体制の中央幹部会がコンセンサス(合意)に基づき行う。
予算は中央、両エンティティの3サイドから拠出する。
共通の軍服を着用、ボスニアヘルツェゴヴィナ国家への宣誓に基づき一つの国旗、国章の下に活動する。
徴兵期間は6ヶ月から4ヶ月に短縮する(将来的には廃止の方向)。

   本稿執筆中は初代国防相人事が大変な問題となっていました。
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ボスニア連邦軍の兵士たち。間もなく共同(ボスニア)軍がスタートし軍服・紋章も変わることになる
共同軍設立に及び腰だったセルビア人共和国側に「花を持たせ」る合意が成立。2月13日にパラヴァッツ幹部会員から共和国与党セルビア民主党の幹部、ステヴィッチ・ビエリーナ(北東部)副市長を初代国防相とする提案があり、テルジッチ中央首相も一旦はこれを受諾しました。しかしそれから数日経らずのうちにステヴィッチ氏の地元ビエリーナから、「ステヴィッチがビエリーナ市の警察トップに赴任した92年秋以後も、同市のボスニア人に対する民族浄化が続いた。軍や民兵だけではなく警察勢力もこれに関与していた可能性が高く、国防相どころか戦争犯罪を疑われるべき人物だ」という指摘がありました。これを受けてテルジッチ首相は提案受諾を撤回。この騒動から2週間以上経った3月1日にセルビア人側の提示する二人目として、同じビエリーナ市の弁護士、ドゥミッチ氏が候補とされましたが、今度は「和平成立の頃、ビエリーナに残っていた少数ボスニア人に住居交換を強要、静かな民族浄化の片棒を担いだ」などの告発が出て、同氏自身が8日に候補を辞退すると表明。本稿送稿直前の11日、この新制度を準備した当の軍事改革委員会メンバーで、国際社会からのウケも良いラドヴァノヴィッチ元少佐でようやく内定、OHRの正式承認を待つばかりになりました。最初からこのような人物を推薦していればもっと早く物事が進んだとは思うのですが、どうもセ民主党内部の派閥対立が人選難航の背景だったようです。
   このような混乱もあったため、参謀総長など軍上層部が任命され、共同軍が実際に形になるのはまだ少し先になりそうです。が、幹部会は10日、まだ発足していないはずの共同(ボスニア)軍36人から成る地雷除去部隊を9月1日イラク(米軍指揮下)に派遣すると早くも決定しました。ティヒッチ幹部会議長(ボスニア人枠選出)は、6月のNATOサミットでPFP正式加盟を決め、さらにイラク派兵でNATO加盟への点数を稼ぎたいという積極論者です。筆者自身はイラク派兵は少々時期尚早だと考えますが、「もはやボスニアは多国籍軍の大々的展開がなければ戦争に逆行してしまう危険な国ではなく、国際平和にさえ貢献し得る同盟国である」という主張が登場するほどまで国内の緊張緩和が進んでいると言うことは出来ると思います。

   PFP正式加盟、EU加盟へ前進する条件の重要な一つとして、オランダ・ハーグの旧ユーゴ戦犯国際法廷(ICTY)への協力体制強化も課題に挙げられています。紛争時セルビア人勢力の指導者だったカラジッチ(元「大統領」)、
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国際戦犯法廷から訴追され現在も行方をくらましている元セルビア人勢力「大統領」カラジッチ容疑者
ムラディッチ大将(元参謀総長)の両大物戦犯容疑者は、今も行方をくらましたままです。
   ミロシェヴィッチ裁判が始まった時の第53回配信でも詳説したように、金食い虫のICTYは告発対象を大物戦犯容疑者だけに絞り込み、2008年をもって裁判終了、その2年後には閉廷の方針を打ち出しています。しかしミロシェヴィッチ裁判は2年が経ってようやく先日一審の検察側審議を終えたばかりです。逆算すれば今年末くらいまでにはカラジッチ、ムラディッチを逮捕しなければ2010年には間に合わないことになります。上のホルブルック発言にもある通り、SFORの主力であるNATO、なかんずく米軍としては衣替えする前に両大物を逮捕しなければ国際的な沽券に関わりますし、逆にEUとしては米軍に「実力」で劣るEUFORが重大責任を単独で負いたくないという計算もあるでしょう。「ハーグに近い所からNATOを統括する立場になったからには、戦犯逮捕問題をきちんとフォローして行きたい」とオランダ人のデホーフスヘッフェルNATO新長官も述べています。
   そうしたわけで、ここに来て各機関のカラジッチ狩りへの動きが活発化しています。OHRは2月9日、戦犯容疑者への金銭的支援をしているとしてシャロヴィッチ・セルビア民主党副党首(上述の通り一昨年秋に幹部会員に選出されながらほどなく辞任を余儀なくされた人物)の副党首辞任、公職追放を命令、もともとカラジッチに近いと見られていた彼の政治生命は剥奪されました。1月10日と28日SFORはカラジッチ容疑者の二人の元ボディガードを、3月3日には同容疑者の側近だった元将軍を相次いで逮捕。この間も同容疑者自身の自宅、バニャルーカやパレの郵便電話局、娘ソーニャ女史が主幹を務めるラジオ局などを捜索し大量の物件を押収しています。大物戦犯逮捕問題については、これまで何度も捕物劇(?)があっては「取り逃がし」発表、の繰り返しでした。しかしサライェヴォのある事情通は「今年に入ってからのSFORは本気になっているようだ。NATOサミット前の4月か5月までにカラジッチ容疑者の発見、逮捕があり得る」と筆者に対して述べています。3月4日突然サライェヴォとバニャルーカを訪れたプロスペル米戦犯問題特使は、「ボスニアがPFP、NATO加盟を望むならば、大物戦犯逮捕にさらなる協力・努力を示さなければならない」と述べ、アメリカがカラジッチ逮捕へ断固たる決意であることを改めて強調しています。

   比較的敷居の低いPFP加盟についてソラナEU上級代表(共通外交政策・安保担当=事実上の「EU外相」)は
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投資会議を成功させ、ボスニア経済の活性化とEUへの前進をアピールしたかったチョーヴィッチ幹部会議長(当時)だが・・・
、「ボスニアは1年以内にPFPに加盟しているだろう」(2月22日付日刊オスロボジェーニェ紙)と楽観的です。しかし民政部門での諸改革はかなり立ち遅れ、EU加盟への道ははるかに遠いと言わざるを得ません。EU正式加盟交渉開始の前提となるのが安定協力プロセスへの参加。同プロセスへの参加を検討するそのまた出発点としてEU側(欧州委員会)は、ハーグICTYへの協力体制強化、司法制度整備、高等教育、税制改革などボスニアの満たすべき条件16項目を昨年11月に示しました。中央政府は5月末までの16項目実現を目標に法・制度整備の実行計画を発表しましたが、2月中旬にボスニアを訪れた欧州委員会側代表は「ほぼ進展ゼロに近い不合格点」との評価。一例として司法制度改革を挙げると、裁判所などボスニア中央の司法制度を設ける法律は通ったものの、まだ人事は完全には決まらず、予定されている両エンティティ警察の統合ないし中央共同警察の設置には動き出せないままです。現実的に見て、5月末ないし6月のEUサミットまでの16項目実施は無理でしょう。セルビア人側ではイヴァニッチ中央外相が、ボスニア人側ではハジパシッチ連邦首相が異口同音に「09年にはEU入りが可能」と強気の発言を続けていますが・・・。

   むろんEU加盟への前進は、低迷する経済の活性化と相互に深く関わる問題です。2月26日からモスタル(中南部)で開かれた対ボスニア投資国際会議は、チョーヴィッチ幹部会議長(当時=クロアチア人枠選出、憲法により2月末から議長はティヒッチ幹部会員に交替)をホストに先進国実業人だけでなくサナデル・クロアチア首相、シメオン・ブルガリア首相ら政界要人までが参加し、「復興援助ではなくEUを目指す国とのビジネス」をアピールする一大政治+経済ショーになるはずでした。が、トライコフスキ・マケドニア大統領の不幸な飛行機事故(囲み参照)のため国賓級が相次いで出席をキャンセル。会議自体のニュースの扱いも小さなものになってしまったことは、ボスニアという国にとって大変な不運だったと思います。

マケドニア大統領事故死

   2月26日朝8時過ぎ、対ボスニア投資国際会議に出席のためモスタル空港に向かったトライコフスキ・マケドニア大統領一行を乗せた政府専用機(ビーチキングエアB200型プロペラ機)がモスタル南東方のフスコヴィッチ地区に墜落。大統領と乗員を含む9人全員が死亡しました。当初SFORは墜落推定場所がストラツ市東方の両エンティティ境界付近と発表。SFORを中心にセ人共和国、ボ連邦双方の警察、消防、医療関係者が出動しましたが、折りからの雨と霧に加え旧停戦ラインの地雷原に当たることから現場捜索が難航しました。機体、遺体が発見されたのは翌27日、それも当初発表とは大きく異なり、連邦側のストラツ市北西でした。国際会議のホストであるチョーヴィッチ幹部会議長(当時)は死亡確認が出来ないうちに哀悼の意を発表せざるを得ないなど、情報が錯綜し会議は混乱、SFORの対応のまずさが批判されました。ブラックボックスはボスニア連邦当局が回収し現在も墜落原因について調査が行われていますが、航空機自体の整備に手落ちがあったのではないかという説の他に、当日航空管制を担当していたSFORフランス隊の管制ミス説も出ています。ちょうど26日はツルヴェンコフスキ・マケドニア首相がEU加盟の正式申請をする予定でしたが、この事故のため同首相はEU議長国首都ダブリンから急遽帰国。申請は先送りとなりました。マケドニアの首都スコピエに大統領の遺体が戻され、3月5日国葬が行われました。ヨルダノフスキ国会議長が憲法に従い大統領代行を務め、4月14日に大統領選挙第1回投票を行う旨発表しています。本稿執筆現在マケドニア現地の治安上の問題は発生していません。が、折りしも同国では今秋に大統領選が予定されており、99年故大統領選出時の推薦母体だった右派政党が、再出馬を表明した故大統領を支持せず独自候補擁立に動くなど「熱い秋」が予想されていただけに、期せずして前倒しになった選挙前後の政局動向が注目されます。

   ボスニア防衛法により共同軍発足が一応定まり、和平協定の基盤部分が改められたことで、「ひとつのボスニア」のあり方を巡る改憲・護憲論争が盛んになってきました。2月末から幹部会議長(3民族枠選出幹部会員による8ヶ月交替の輪番制)となったボスニア人右派政党・民主行動党ティヒッチ党首は、「EU加盟に向けて国家的大改革を進めたくてもデートン和平協定そのものが足かせになっている」、という意味の発言をことある毎に繰り返し、和平協定に基づいて制定された現行憲法の改正を求めています(週刊スロボドナ・ボスナ2月19日号ほか)。一方セルビア人共和国では、カリニッチ共和国議会議長らから「連邦側から出ているデートン見直し要求に反対、われわれセルビア人こそがデートン体制を守る砦だ」という発言が相次いでいます。和平成立直後の「連邦がデートン履行を推進、セルビア人が非協力的」という図式がまるで逆になってしまったようです。旧紛争地域での公正な報道の普及に努める非営利団体、国際戦争&平和報告研(IWPR、本拠=英)のサライェヴォ支所プロジェクトマネージャー、イェラチッチさんはこう分析します。
   
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ティヒッチ幹部会議長は「ボスニアを一つにするためデートン和平改革見直しを」唱える改憲積極論者だ(写真提供:民主行動党)
「国内で最大民族であるボスニア人は戦争当初から『ボスニアは一つ』という美名の覇権主義を指向する傾向があり、それが現在も続いている。しかしデートン協定は、ボスニア人中心主義に抵抗してセルビア人が『自分たちの支配地域=セルビア人共和国』を力づくで作ってしまった事実を公認した。デートン見直しで同共和国が廃止になれば既得権益を失うことになるから、セルビア人は改憲には断固反対。これを『デートンを守れ』という美名で語っているわけだ」。
   2月16日、コンラート・アデナウアー財団などドイツの複数の非政府組織が主催した会議は、デートン体制を見直し、ボスニアの新しい体制と行政区分を作る試みを非公式ながら戦後初めて本格的に提案したことで注目されました。この案は独本拠の国際シンクタンク「欧州安定イニシアティヴ(ESI)」が発表したものです。
   イェラチッチさんの言う通り、ボスニア人は中央指向ですが、クロアチア人勢力の主張を受ける形で現在のボスニア連邦は実際には10の県による分権化が進められています。このため形骸化しかけているボスニア連邦を廃止し、ブルチュコ特別市、現在のセルビア人共和国と併せた12の州からなるスイス型の新しい連邦に改組する、というのがESI案の骨子です。
   同案について報道陣から感想を求められた政治家はそれぞれの立場から不満を表しています。ボスニア人「覇権主義」を代表するティヒッチは「まずセルビア人共和国廃止が前提でない限りボスニア連邦廃止は無理」。セルビア人「守旧主義」を代表してカリニッチは「改憲はパンドラの箱を開けるようなもので話にならない」。クロアチア人「分権推進主義」のボスニア・クロアチア民主連合だけは党声明として「現在の連邦権限を県レベルに委譲するESI案は大賛成」という調子でした。
   前出のイェラチッチさんは「この案そのものは失敗だった。(現行ボスニア連邦内の)クロアチア人多数の県や、セルビア人共和国が現在の形を残している限り、多数民族を基盤にした土地支配体制は変わらないからだ」と言います。しかしこれが改憲の試みの最初のものに過ぎないこと、やがてはデートン体制が変わって行かなければならないことはイェラチッチさんも否定しません。

   それぞれの民族の対立や思惑を抱える中、戦後ボスニアは国際社会とOHRが与える宿題を辛うじてこなしながら「普通の国」に育ってきました。一昨年秋の総選挙で戦争開始当初の3民族政党が復活してしまい、改革のスピードは上がりませんが、もはや逆行は許されません。去年そして今年は「ひとつの国として西に向かう」大目標をめざす、より本質的でより困難な宿題が課せられています。この国家は今、大きなうねりを迎えつつあるところです。

(2004年3月中旬)


多数の新聞・雑誌を参考にしているため、出典の表示は一部にとどめました。写真を提供して頂いた民主行動党に謝意を表します。写真の一部は2003年10月、2004年2〜3月に筆者が日本の報道取材及び公的業務に同行した際撮影したものです。これらの本ページへの掲載に当たってはクライアントの承諾を得ています。本文、画像とも無断転載はご遠慮下さい。

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