「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2002/03/05 20:50

第53回配信
ハーグの強い北西風


オランダ・ハーグ市中心部
   時間に正確で快適な点で、オランダ国鉄はJRにひけを取りません。アムステルダム・スキポール空港駅から首都に背を向け南西へ。運河が平原を縦横に走り、国内全体で約1000基が今も文化財として保存されているという風車が遠くに現れる、そんな景色を眺めていると、ちょうど30分でハーグ駅に到着します。
   ハーグ市はアムステルダム、ロッテルダムに次ぐオランダ第3の都市で、人口は約60万。近代的な建物が多く、商都アムステルダムの喧騒とは無縁の落ち着いた町です。オランダ王宮や国会、首相官邸や各国大使館など、政治的な意味での首都機能はほぼ全てハーグに集中していて、中にはハーグが首都である(憲法に首都がアムステルダムであるとは明記されていない)という説を唱える政治学者もいるそうです。
   1899年に開催された第1回ハーグ平和会議は、国際平和、軍縮、毒ガスなど一部戦争手段の禁止をテーマとし、後の国際連盟の先駆けとなりました。1913年にはカーネギーの寄付により平和宮が建てられ、現在は国際司法裁判所になっています。将来発足が予定されている国際刑事裁判所もハーグに設けられます。この町こそはヨーロッパ、そして世界の司法の中心地なのです。
   旧ユーゴ国際戦犯法廷略称ICTY。旧ユーゴ国際刑事裁判所とも通称されるが、正式名称は「1991年以降旧ユーゴスラヴィア領内で行われた国際人道法上の重大違反の責任[を有するとみなされる]者に対する訴追のための国際裁判所」。*)をハーグに設置すべく国連安保理決議827が下されたのは93年5月でした。事務的な問題をクリアするまで時間が掛かり、ボスニアのセルビア人D・タディッチを最初の被告として裁判が始められたのはやっと96年5月になってからのことでしたが、以来31被告に一審判決が下され(15人が控訴審の途中、5人は無罪判決)、44人が法廷から5キロほど離れたスヘヴェニンゲン拘置所に勾留中、30人が未逮捕となっています(以上の数字は2月12日現在)。
   しかし地味に実績を重ねてきた同法廷が世界の注目を浴びるようになったのは、昨年6月末のミロシェヴィッチ前大統領 移送(第48回配信参照)からでした。7月3日以降罪状認否など予備審議が5回にわたって行われ、「法廷そのものを認めない」とするミロシェヴィッチ被告は弁護士なしの単身で裁判に臨んでいます。このため法廷側は、被告の利益代表ではないが公正な裁判を実施するための発言権のある監視団と言うべき「法廷友人(Amici Curiae)」として、ベオグラードの法曹家タプシュコヴィッチ氏ら3名を指定しました。
旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)
またユーゴ大統領時代から被告の弁護士を務め、現在も傍聴を続けるZ・トマノヴィッチ氏は、法廷外から被告と接触し裁判戦術のアドヴァイスを与えていると推測される他、記者団の前にしばしば現れて発言するなど、ミロシェヴィッチ被告側広報の役割を果たしています。本審議直前にはコソヴォ(人道上の罪など5件)、クロアチア(同、32件)ボスニア(大量虐殺など29件)について合同の裁判を行う旨の決定が下り、3つの起訴状はセルビア語版で160ページを越える大部なものに合冊されました。デルポンテ主任検察官は「300人を越える証人が出廷することになるだろう。(一審)判決が下るまで2年程度」との見通しを語っています。

* 法廷の正式名称は、ともに公用語である英語と仏語ではわずかな点で異なります。英語では International Tribunal for the Prosecution of Persons Responsable for Serious Violations of International Humanitarian Law Committed in the Territory of the former Yugoslavia since 1991 となっていますが、「(国際人道法上の重大違反の)責任者」の部分が仏語ではles Personnes Presumees Responsables すなわち「責任を有するとみなされる者」となっていて、より法廷設立の精神に近いニュアンスを含んだ名称です(V・ラキッチ=ヴォディネリッチの指摘による。下線はいずれも筆者)。マニアックな話になりましたが、「どんなに評判の悪い人でも有罪判決が出るまでは無罪」(推定無罪原則)というのは、裁判当事者だけでなく、それを報道する側にとっても前提だと考えます。次の段落からミロシェヴィッチ公判について書きますが、私も予断を出来るだけ避けて話を進めたいと思います。

   2月12日、「ニュルンベルク以来」「世紀の裁判」と各国マスコミが銘打ったミロシェヴィッチ公判本審議が始まりました。私も日本のテレビ局スタッフの一人として、この裁判の様子をウォッチして来ました。傍聴席にはカメラ、テレコ等の持ち込みが一切禁じられ、映像・画像メディアなどに対しては法廷が共通映像を提供しています。これがモニター出来るプレスセンターも世界から集まった数百人(一説には1000人を超えるとも言われていますが、今回公判では傍聴を許される約90の記者以外は登録が必要なく、実数は不明です)の報道関係者で超満員でした。
ミロシェヴィッチの「個人的犯罪」を明かそうと冒頭陳述に当たるデルポンテ主任検察官(前列左)とナイス検察官(前列右、起立)(ICTY提供共通映像から)
   「この法廷の開設以来、最も重要な裁判が始まろうとしている」。「ここで明らかにされようとしている罪は、ミロシェヴィッチ被告の個人の責任問題であり、それ以上でも以下でもない」。
   検察側冒頭陳述は、C・デルポンテ主任検察官の異例とも言える30分ほどの「基調演説」で始まりました。それは劇的でもありながら、最初の3分の2が英語、残り3分の1は仏語という少し珍妙なものでもありました(スイス・ルガーノ出身の彼女の母国語はイタリア語ではないかと筆者は推測していますが、仏語に較べ彼女の英語はかなりクセがあり、後で原稿が配布され確認するまで、何を言っているのかよく分からない箇所も相当ありました)。ともあれ、これにより(1)ミロシェヴィッチ個人の犯罪が裁かれるのであり、ユーゴ国民、セルビア人への集団責任の追及ではない (2)ミロシェヴィッチ政治の本質は権力の座に座り続けようとすることに過ぎなかった (3)人道上の犯罪は誰も追求を免れ得ない (4)証人として国際機関や国家のハイレベルも出廷を要請し得る、といった検察側方針が明らかにされました。
   これに続いてG・ナイス検察官らの冒頭陳述が2日、8時間以上続きました(朝9時半から90分ごとに2回の休憩を挟んで「3コマ」、計4時間半にわたって行われます。土日休)。80年のティトーの死から話が始まり、この20年ほどの(旧)ユーゴの動きを振り返りながら、大衆扇動政治家ミロシェヴィッチが登場し、彼と彼を取り巻く大セルビア主義者たちが旧ユーゴ連邦を崩壊させ、戦争と難民の悲惨を生んだ、というイメージを浮かび上がらせようとしました。80年代末、コソヴォなどでセルビア人の人気を取った頃の被告の演説、91年のクロアチア紛争の激戦地ヴコヴァルの惨状などがビデオを使って示され、検察側には裁判官(メイ裁判長以下3人)の感情に訴えようという戦術が見て取れます。まあ世界中どこでも、検察というのは「いかに被告がひどい奴か」を分かりやすく示すこと(メロドラマの演出?)が仕事かも知れませんが、我々ウォッチャーが何度も見ている有名な映像が資料として出てくるとは思いませんでした。
「検察側の陳述は矛盾だらけで論理もスキがある」と語るミロシェヴィッチ被告のブレイン、トマノヴィッチ氏
   しかしナイス検事らの陳述が詳細にわたり、長くなればなるほど、最初に明らかにしようとしたミロシェヴィッチの人物像に関して焦点はぼやけて行ったように思えます。検察側はカディエヴィッチ国防相、スタニシッチ内務省公安局長、「セルビア人クライナ共和国」ハジッチ大統領(肩書きはそれぞれミ被告の訴追内容関連当時)、故アルカンこと民兵隊長ラジュナトヴィッチらの名前を挙げながら、ユーゴ軍、セルビア警察や民兵がコソヴォ、クロアチア、ボスニア各地でどのような人道上の犯罪を犯したかをかなり詳細に説明しますが、「実行犯」の数が増えれば増えるほど、上記(1)のミロシェヴィッチ個人の犯罪という印象は薄くなります。また筋金入りの左翼でも右翼でもなく、上記(2)のように大衆扇動政治家であるという定義を最初にしてしまったため、「大セルビア主義」実現のためにこうした犯罪が行われた、という説明もその「主義」そのものの論理的説明があやふやな印象は免れ得ませんでした。逆に検察は被告個人の犯罪ではなく、大セルビア=ミロシェヴィッチ政権を支持していたセルビアの有権者全体を糾弾しようとしているのではないかという疑念さえ感じさせるものでした。休憩時間に報道陣の前に現れたトマノヴィッチ氏は「検察の陳述は矛盾だらけで論理はスカスカだ」と指摘します。
   3日目の14日から始まったミロシェヴィッチ被告の反論は、検察側同様ヴィデオその他の資料を使いながら足掛け3日、12時間に及びました。資料を読む時に老眼鏡を掛ける姿を初めて見せはしたものの、検察官と中継カメラを厳しい眼差しで見据える不敵な表情は、ユーゴ政変直後の退陣表明に現れた弱気のミロシェヴィッチではなく、あの大統領時代のものです。
   「C・ヒル米大使が私に、アルバニアから車でユーゴに入るとディズニーランドに入ったみたいだな、と言う。抑圧されている、などと言っているコソヴォのアルバニア人は繁栄を謳歌していたんだ。それが今ティラナの代わりに大アルバニア主義の中心になっている」。
   クロアチアやボスニアでセルビア人を助けたことは認めるが、それは当地の政権から抑圧され出したからで、非民主的で残虐だったのは向こうの方だ。私は平和をいつも支持していた。また99年の北大西洋条約機構(NATO)によるユーゴ空爆こそが犯罪であり、大アルバニア主義とそれに伴う犯罪を欧米が助けたのだ。
足掛け2日、9時間近い検察冒頭陳述に対し、足掛け3日、12時間掛けて反論したミロシェヴィッチ前ユーゴ大統領(ICTY提供共通映像から)
大セルビア主義などというのは、19世紀末に新興国セルビアの伸張を押さえるためにオーストリア=ハンガリー帝国が考えついたプロパガンダに過ぎない・・・。検察の脆弱な論理構築を崩す形で、ミロシェヴィッチ被告は徹底して自己弁護に務めました。自分が正しいことを証明するためには「クリントン、オルブライト、ホルブルック(以上米前大統領政権)、シラク(仏大統領)、シュレーダー(独首相)、ディーニ(伊前外相)、明石康(元国連事務総長特別代表)らにここに来てもらおう」と強気です。
   冒頭陳述と反論を聞いた限りでは、検察も被告も、世界を驚かせるようなウルトラC的な論理や事実を挙げることは出来ていません。むしろ両者とも「どこかで聞いたような」反ミロシェヴィッチ・反セルビアの言説と、それに対する開き直り気味の反論の対決でしたが、こと筋の通し方に関しては、被告側が「先制点」を取ったようです。
   私の方はベオグラードに帰って来ましたが、2月18日からは証人が登場し、検察側質問と被告側反対質問のやり取りが続いています。法廷は6月末までに証言を終わらせたいという方針で、まだまだ長丁場で続きますが、本稿校了時点までの証人と被告の面白いやり取りを、テレビ中継を見ての筆者のコメントを含め別ページに掲載してみました。多少マニアックな話題なので、ご興味のある方のみこちらをクリックして下さい。
   いや、好きか嫌いかと問われれば、筆者はミロシェヴィッチは嫌いで、別に判官びいきの感情もありませんが、ことは裁判という、感情やメロドラマよりも法形式と論理がモノを言わなくてはならない世界、それも国際法史上によき先例となることが期待されている裁判です。出遅れた感のある検察側が、準備している証人の証言を通して、最大のポイントであるミロシェヴィッチの現場戦犯に対する命令、指令を証明出来るかどうかを見守りたいと思います。

   この法廷は設立当時から様々なレベルでの議論の対象になってきました。
旧ユーゴ国際戦犯法廷の年間予算(国連拠出分のみ、法廷発表資料を基に筆者作成)
国連総会の合意なく、安保理決議がベースになった設立では、主要国の政治意思から独立しているとは言えないのではないか。ミロシェヴィッチ裁判でも「法廷友人」が同様の趣旨の抗議をしていますが、既に昨秋却下されています。現在では、国連憲章第29条(安保理は補足司法機関を設立できる)及び第VII章全体(平和に対する脅威、平和状態の中断、侵略に関する章)が法的基盤である以上、法廷の独立は保証されている、というのが法学者多数の見解になっており、判決の客観性について高い評価を下す学者も少なくありません。しかし前政権時代から反ミロシェヴィッチ系メディアで活躍を続ける、ベオグラードのある政治記者は「ハーグを取材すればするほど法廷の問題性を感じるようになる」と言います。
戦犯法廷はこの人で打ち止め? 潜伏中の元セルビア人共和国大統領カラジッチ被疑者
「私は法学が専門ではないので、裁判の基盤のアングロサクソン法について詳しいわけではないが、判事と検察が近過ぎ、被告だけが情報がなく孤立するようなケースがあった。クロアチア内のセルビア人地域(クライナ)から95年、ザグレブ空港を狙ってクラスター弾が撃たれたが標的を外し、ザグレブ市内で死傷者が出た件でクライナのトップが訴追されている。しかし99年のユーゴ空爆で北大西洋条約機構(NATO)軍がニシュ空港を当て損ねて、やはりクラスター爆弾で市民に死傷者が出たのは裁判の対象にならないのはおかしい。アズブール前主任検察官は欧米の政治家と接触が多かったし、デルポンテ現主任は越権発言が多い」。
   しかし最大の問題は、同法廷が「金食い虫」になっている点です。上のグラフに示したように、昨年の予算(国連からの拠出分のみ)は1億ドル強で、具体的に裁判が動き出した96年の3倍弱に膨れています。ベオグラードにある西欧系非政府組織(NGO)に勤める筆者の知人は「ハーグ法廷職員の月収は欧州連合(EU)人道委員会の同レベル職員よりも数倍上」と、多少の羨望混じりに批判します。それでも法廷捜査機関は検察チームだけで強力とは言えず、ボスニアやコソヴォに展開する多国籍軍(SFOR、KFOR)の他には、旧ユーゴ各国の司法当局の協力を前提にしないと被疑者逮捕もままならない状態が続いています。先進国、特に米政界では予算と裁判進行の効率が問題になっているようです。週刊「ヴレーメ」誌は米政府筋の非公式情報として、ボスニアの「A級戦犯」カラジッチまたはムラディッチ(ともに未逮捕)を最後に、2008年程度をメドに同法廷の閉鎖の噂が出ていることを伝えています。検察はこの噂には否定的ですが、やはり現在までの起訴方針を見直し、大臣・将官レベルの大物戦犯被疑者以外は手配の数を減らして行く方向、つまり事実上の活動規模縮小を示唆しています(2月7日号、同14日号)。


   ミロシェヴィッチ公判本審議が始まる直前の2月9日、ベオグラード最中心部・共和国広場でセルビア社会党の集会が開かれました。ハーグに勾留中のミロシェヴィッチ党首に代わって社会党の顔になりつつあるアンジェルコヴィッチ総書記、マリヤノヴィッチ前セルビア共和国首相ら幹部は、党首釈放やハーグ法廷廃止などを声高に要求しました。この集会を取材した邦人ジャーナリストの吉田正則さんは「昨年6月末のハーグ移送抗議集会の当時ほどはエネルギーは感じられなかったが、共和国広場の半分以上が参加者で埋まっていた」と言います。コシュトゥニツァ+ジンジッチ政権を脅かすまでは行かないにしても、復活をめざし健在なり、を印象付けたようです。
2月9日アンジェルコヴィッチ総書記(右上)らの演説で盛り上がる社会党の戦犯法廷反対集会(写真提供両葉とも:吉田正則氏 合成は筆者)
   前回配信のデリムスタフィッチ事件でも触れたように、ユーゴ政変の主役でDOS(政変で与党になって1年半も経つのに、未だに「セルビア野党連合」を名乗っているのがマスコミ泣かせですね)の両輪となったコシュトゥニツァ連邦大統領とジンジッチ共和国首相の対立が顕在化し、空中分解寸前の状態が続いていますが、亀裂の一因はハーグでした。
   コシュトゥニツァ大統領は政変直後から「ミロシェヴィッチの処遇は優先度の低い問題」と逮捕・ハーグ移送に消極論を展開し(第38回配信参照)、まず「ハーグ協力法案」の議会通過が望ましいという態度を表明していました。しかし昨年6月、連邦議会での法案通過が困難とみたジンジッチ共和国首相、ミハイロヴィッチ内相らは共和国レベルで臨時閣議を開き政令をにわか可決し、数時間後にミロシェヴィッチの身柄(3月末に共和国警察が逮捕)をベオグラードの拘置所からハーグへ送ってしまいました(第48回配信参照)。これによりDOS内両派の対立は決定的となりましたが、追い打ちを掛けるような事件が昨秋に発生しました。
   11月8日、セルビア中部オブレノヴァッツで共和国警察特殊工作部隊はハーグ戦犯法廷から訴追されていたバノヴィッチ兄弟を逮捕しました。ところが後で明らかになったところでは、ミハイロヴィッチ内相ら警察幹部は特殊工作部隊に対し、被疑者は国内刑法の違反者であるから、と逮捕命令を出し、ハーグ戦犯である旨は知らせていませんでした。「ハーグ協力法」が成立していない現在この命令は不当だった、とする特殊工作部隊は、同月10日から11日にかけて高速・主要道などを封鎖して内相らに抗議の姿勢を示しました。一時はクーデターか、と騒がれた一件は警察幹部の処分で事無きを得ましたが、「合法的にやりたい」コシュトゥニツァ派と「多少無理してでも」のジンジッチ・ミハイロヴィッチ派の政治対立は修復が難しいところまで来てしまいました。このような情勢を受けてミロシェヴィッチのセルビア社会党支持率はDOSの対立する2派にじりじり接近しているとも言われ、コシュトゥニッツァ派を切り落としたいのが本音のジンジッチ派ですが、うかつに選挙に踏み切れない政治状況です。

ミロシェヴィッチなどが勾留されているスヘフェニンゲン拘置所
   ハーグ協力法が既に存在しているはずのクロアチアも戦犯移送で揺れました。一昨年警察に逮捕されたM・ノラツ元将軍のハーグ移送が検討された時は、故トゥジュマン前大統領が党首を務めていたクロアチア民主連合(HDZ)のシンパや退役軍人会が、ザグレブやノラツの地元スプリットの道路を封鎖するなど抗議行動。ハーグ法廷当局とクロアチア政府の取引により移送は見送られました。しかし昨年7月、クロアチア軍のA・ゴトヴィナ(元)、R・アデミ(現)将軍が戦犯法廷から訴追された際にはハーグ側の圧力が強く、政府は移送を閣議決定せざるを得ませんでした。これに対しラーチャン首相(社民党)の連立パートナー社会自由党(HSLS)ブディシャ党首が強く反対。彼の政党出身の4閣僚が閣議で移送賛成に回り、一応問題はHSLS内部の問題に帰することになりました
ボスニア連邦もまた
前回配信で書いたように、2年前の秋にはボスニア(連邦)でも選挙で民族主義が退潮しラグムジヤ新政権が誕生しました。戦争中からボスニアの政治をリードしてきたイゼトベゴヴィッチ元幹部会議長は民主行動党党首の座を退き病気療養中です。ボスニア3民族の中では最も戦争被害の大きかったボスニア人勢力ですが、やはり戦争当事者が天使ということはあり得ませんので、ボスニア人側の戦争犯罪が話題となっています。昨秋にはボスニア人の大物としては初めて軍初代参謀総長S・ハリロヴィッチが自発的にハーグに出頭しましたが、他の将官とともに仮の勾留解除決定が出たため、自分の裁判の時だけボスニアとハーグを行き来する形になりそうです。S・クリューイッチ(クロアチア人枠)など開戦当時の幹部会員は、「憲法上は幹部会が軍の司令に当たることになっていたが、全くそのような話し合いはなく、実際にはイゼトベゴヴィッチとその側近筋が現場をコントロールしていたようだ」と話しています(週刊BHダーニ誌昨年8月17日号など)。イゼトベゴヴィッチ氏にも何らかの形で出廷要請が出るのではないかと予想されていますが、今のところ本人は、心臓病を理由に証人としても出廷出来ない、としています。
(ブディシャが党首を辞任し連立政権は維持、アデミは自発的にハーグに出頭したが、ゴトヴィナは逃走し現在も行方不明)。
   しかしノラツ、アデミ、ゴトヴィナらはいずれもクロアチア人の「仇敵」セルビア人住民に対する戦争犯罪(91〜95年)を問われており、HDZシンパや退役軍人会など民族主義右翼にとっては「英雄」です。10月20日にはザグレブでこうした右翼が大集会を開き、メシッチ・ラーチャン現政権に対する抗議の意思を表示しました。昨年からHDZはハト派のサナデル氏を党首に「スマートな右派への変身」に努力しており、地方選でも予想外の大健闘を見せました。一方与党2+3党連合(4党連合のうちイストラ民主会議が離脱、閣外協力に転じた)ではセルビア同様内部対立が深刻化しており、単独の政党では現在でも最大のHDZが支持率でラーチャン首相の社民党をかなりリードしているとも言われています。トゥジュマンの死と選挙で「清算」されたと思いきや、戦犯騒動をバックに右派シンパはまだまだ力を失っていません。これを受けて元HDZハト派のM・グラニッチ前外相(現在は民主中道党)らと、最近HSLS党首に返り咲いたブディシャらの中道右派連合構想が浮上、さらにパシャリッチ議員らHDZタカ派も党内で主流に戻った上でHSLSと右派大連合、というシナリオを画策するなど、クロアチアは早ければ年内に公示が予想されている議会選を前提に、政界再編へ動き出しています(週刊グローブス誌昨年12月7日号、ナツィオナル誌今年2月21日号などによる)。


   ダテに風車を発明した国ではありません。筆者の滞在中、オランダ全土で強い北西風が吹いており、法廷の前の国連旗もポールが時折大きく揺れるほどでした。戦争犯罪や人道上の罪に時効はないのですから、戦犯法廷には2008年と言わず頑張って欲しいと思います。しかし戦犯狩りの北西風はタイミングと吹き方を間違えると、せっかく2000年にクロアチア、ユーゴ、ボスニアで誕生した西向き政権に強い逆風になりかねません。倒したはずの民族主義が、ハーグのせいでまた息を吹き返すことがないといいのですが。

(2002年3月上旬)

本稿出稿直前の2月28日、ボスニアに展開する多国籍軍SFORはカラジッチ被疑者逮捕作戦を行いました。作戦は失敗に終わりましたが、遠からずカラジッチかムラディッチが逮捕されハーグに移送される可能性が現在囁かれています。またユーゴ当局は連邦議会で3月中にハーグ協力法案を通過させたいという方針を明らかにしており、この結果次第ではミロシェヴィッチ被告の側近が逮捕・移送される可能性も出ています。

社会党集会の写真を提供して頂いた吉田正則氏に謝意を表します。「ICTY提供共通映像」と表記した画像は、旧ユーゴ国際戦犯法廷が報道機関に提供している映像を筆者がモニターから撮影したものですが、他の画像及び本文同様、本ページからの無断転載はご遠慮下さい。画像の一部は2002年2月に日本のテレビ局の取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文の一部にも、この取材のスタッフとして業務上知り得た内容が含まれています。これらの本ページへの掲載に関しては関係者の承諾を得ています。

プロフィール> <最新レター> <バックナンバー> <(旧)ユーゴ大地図
落書き帳(掲示板)> <関連リンク集> <平和問題ゼミナール> <管理者のページ


当サイトは、リンクフリーです(事後でもいいので連絡ください! →筆者メール )。
必ずカバーページ(http://www.pluto.dti.ne.jp/~katu-jun/yugo/)にリンクをはってください。

CopyRight(C)2002,M.Otsuka. All rights reserved.
Supported by Katsuyoshi Kawano & Kimura Peace Seminar
更新記録 大塚真彦プロフィール 最新のレター レターバックナンバー 旧ユーゴ大地図 落書き帳 関連リンク集 平和問題ゼミナール 管理者のページへ