「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2003/09/17

第73回配信
平和の時代のトンネル


 

サライェヴォ中心部・ティトー通り
   筆者のサライェヴォの友人シャチル(仮名、ボスニア人男性、40代)は、性格はいいのですが定職がなく、運送会社のトラック運転手をやっていたかと思えばボスマル社シティセンター(後述)の建設工事でパワーショベルを動かしていたり、と今ひとつ身が落ち着かない男です。その彼が今春会った時は「オレ、セルビア国籍を取ろうかと思っているんだ」とこぼしました。筆者は国籍などというものは愛国心とは無関係に生活上の打算や利害で取ったり捨てたりし得る(少なくとも申請し得る)ものであることは百も承知です。が、だからと言ってセルビアがボスニアより大きな経済的な魅力がある国だとは、当のセルビアに暮らす私にはとても思えないのでちょっと驚きました。するとシャチルは「子どもの頃にサライェヴォに引っ越してここの育ちなんだけど、実はノヴィ・パザール(セルビア南部サンジャック地方)生まれで国籍申請の資格はあるんだよ。ノヴィ・パザールはボスニアとの結びつきも強いし、バスのノヴィ・パザール〜サライェヴォ線の運転手をやらないかという話があるんだ。幸いセルビアとボスニアは二重国籍を認める協定があるからね。ここにいても定職は見つからないし、ラチが空かないままでいるよりは何か手を打たないと」と言うのです。
   シャチルがたまたまラチが空いていないのか、この国の経済状況がラチが空いていないのか。今年はここまでボスニアでの仕事が何回かあり、サライェヴォ、バニャルーカほか主要都市をだいたい周って現状を見る機会がありました。このHPでも昨年前半、第52回配信で復興ペースの止まってしまったボスニアの実情を書きましたが、その後ニュースを追っていても現地を見ても、どうも冴えない話にぶつかることはあっても、「冴えた」話にはなかなか出会えません。今回配信では復興景気以降のボスニア経済を中心に、サライェヴォ発の話題に絞って報告します。

   復興は確かに続いています。第52回配信にも書いたサライェヴォ市郊外の「空港団地」はさらに修復が進み、現在では3分の2以上が新しい装いとなりました。議会・政府合同庁舎ビルはギリシア政府のテコ入れで今春から再建工事が始まりましたが、この建物とともに戦争被害の象徴だった日刊オスロボジェーニェ紙の本社ビルもやはり再建が始まっているのを知って取材に行ってみました。
   「ヒロシマには原爆ドームってのがあって、廃墟のまま保存してあるそうじゃないか。このビルもそうすればいいんだよ」。
失業率は30%を越える。一般庶民には慢性物価高。ボスニア経済は将来へのヴィジョンを欠いたまま立ちすくんでいるように見える(サライェヴォ・マルカレ市場にて)
「いや、オスロボジェーニェ社側は再建したいんだろうけどカネがないから手を着けてないだけさ」。包括和平成立から何年経ってもそのままの状態にされていたこのビルに関しては、新聞社の経営難とともにサライェヴォっ子の間でも話題になっていましたが、工事現場に立っている看板を見て驚きました。何と商敵の日刊ドゥネヴニ・アヴァズ(以下アヴァズ)社ビルとして再建工事が始まっているのです。オスロボジェーニェに仕事の用事があったので、自動車で破壊された高層部分を迂回するように上がってみると、アヴァズ社に御用の方は2階、オスロボジェーニェ社に御用の方は3階、と看板が出ていて、アヴァズが既にビルの破壊されていない下層部分に事務局も構えていることが分かりました。
   旧ユーゴ時代ボスニアを代表する新聞だったオスロボジェーニェは戦争中もクロアチアやスロヴェニアから週刊新聞の体裁で発行を続けた気骨の新聞ですが、戦後は民主行動党ほか民族主義政権に距離を置こうとするあまりアヴァズに部数をかなり奪われ、系列週刊誌スヴィエートも廃刊を余儀なくされるなど、この数年は経営難が伝えられていました。一方アヴァズは、与党・民主行動党に近くイスラム色が強い日刊紙として戦争末期に創刊されました。99年には問題のビルから遠くない地区に総ガラス張りの本社社屋が落成していますが、さらにオスロボジェーニェや大手印刷会社などの買収などを着々と進め、F・ラドンチッチ会長は「ボスニアのメディア王」の地位を築きつつあります。民主行動党が野に下った社民党政権時代の2000〜01年、ビチャクチッチ前首相の汚職を攻撃する論を張り、アヴァズが「民主行動党離れ」か、と言われた時代もありました。
戦争中、社屋も新聞そのものも抵抗のよき象徴だったオスロボジェーニェだが、経営は風前の灯。同業商売仇のアヴァズ社屋として再建される
しかし昨秋の選挙前後には社民党ラグムジヤ党首(当時外相)攻撃キャンペーンで民主行動党のカムバックを事実上支援する形になり、今ではラドンチッチ会長は政府内、民主行動党内での影響力を強めるためには自分の新聞に何でも書かせる男、と言われています。
   平和の時代は、資本主義の時代。オスロボジェーニェのように戦前のノスタルジーを呼び起こす名前、あるいは戦争中の抵抗の象徴であっても、カネがない会社は買収され潰される、というのは、ある程度は仕方がないルールであることは間違いありません。しかしアヴァズの強引なノシ上がり方とバッシング戦法にはあまりいい噂が聞こえてきません。
   今春アヴァズの新たな攻撃の対象になったのはサライェヴォビールの筆頭株主H・セリモヴィッチ氏でした。「ビール泥棒」「マフィアのボス」「セルビア秘密警察の回し者」「ビール工場での従業員の謎の死に関与か」など、何と52回にもわたってアヴァズ紙は同氏を排撃する内容の記事を掲載。たまらずセリモヴィッチ氏が4月7日にサライェヴォ県地裁に提訴、去る8月15日に同地裁がアヴァズ紙に同氏関連の記事掲載差し止めの仮処分を命令しました。現在は提訴通り名誉毀損で50万ボスニアマルク(約3250万円)の損害賠償が通るかどうかが注目されています。
   ところがこの仮処分と前後する8月6日、首都中心部に近いセリモヴィッチ氏の邸宅がロケット砲と思しき武器で攻撃される事件が起こりました(セ氏本人は無事)。背後関係などについては現在当局が捜査中ですが、アヴァズのラドンチッチ会長も取り調べは免れ得ないだろう、と一般市民は取り沙汰しています。他紙誌は「アヴァズとラドンチッチこそ(自分と)マフィアの関連を当局に説明せねばならないだろう」(週刊スロボドナ・ボスナ誌8月15日号)などとし、また野党も「このモラルのない新聞はボスニア・ジャーナリスムの恥」(社民党トゥズラ市本部声明)と、かなり攻撃的な調子の発表を続け溜飲を下げようとしています。

   ボスマル社はBOSとMALという微笑ましいほど単純なネーミングからもお察しの通り、ボスニア・マレーシア資本の合弁による総合土木・建設企業です。現在サライェヴォ郊外のフラスノ地区に高層住宅兼オフィスビル「ボスマル・シティセンター」を建設中。同社サイトによれば約5000万ドルはボスニア史上最大のグリーンフィールド投資で、下請企業60社、2500人により工事が進められています。
建設中のボスマル・シティセンター(団地奥)は巨大総合ビルとしてサライェヴォの新たな顔になる
98年創立という「新顔」ですが、こちらはアヴァズ社のような「悪い噂」は聞こえていません。しかし同社がシティセンターとともに力を入れようとしていたボスニア縦断高速道(通称第5C回廊、ブダペスト〜オシエク〜プローチェ線のうちボスニア領約330キロ)建設計画が、クロアチア・ボスニア間の政治的問題で突然宙に浮いてしまいました。
   隣国クロアチアで進められている高速建設は、地理的な関係から言えば本来ボスニアと並行して建設されるのが望ましい姿なはずですが、両国間の協定がまだ成立していないため両国はそれぞれ独自に建設計画を進めている(進めていた)ことを先日この「便り」でも第71回配信で取り上げたばかりです。ボスニア側は「去る7月に開通したサライェヴォ近郊11キロ分で4000人の臨時雇用が確保できたのだから、330キロの建設事業には失業対策面で大きな好影響が期待できる」(ヘーチョ連邦交通通信省顧問官、8月18日付日刊オスロボジェーニェ紙)と、ボスマル社による建設を推していました。政府が建設権を委託する形で同社に任せようというわけです。ところが21日クロアチア政府は急遽「むろん国際入札を通してクロアチアの土木企業が参加できることを期待しているが、政府としても出来るだけの援助をしたい」という内容の文書をボスニア政府に送り、事実上ボスマル独走にストップを掛けました。国際入札を行わないのはアンフェアだ、という言い分です。政府文書の方は美辞麗句が並んでいますが、既にクロアチアの各紙はボスニア政府とボスマル社の「不明朗な結託」に関しバッシングに近い調子で記事を書き始めています。今まで国家間協定が成立せず、「お互いに勝手に進めよう」とやっていたのが掌を返して急に「利権がありそうだ、やっぱり協力させろ」と言うクロアチアもどうかとは思いますが、これをうまく処理できないで大問題にしてしまうボスニアの政治家の実行力も疑問に付されて仕方がないところではないでしょうか。

   オスロボジェーニェ社屋とともに戦争中有名になったマリイン・ドゥヴォル地区のウニス社(現在はウニティック社所有)のツインタワーは右下写真のようにガラスがきれいに入り、ビル上方には独・オーストリアの銀行大手HVBグループやスロヴェニアの石油企業ペトロール社のネオンが付いています。そしてそのすぐ向かいにあるホテル・ホリデイ=インも96年に戦前と同じツートーンに再改装してから久しく、サライェヴォ最高級ホテルとしての活気を見せています。
ツインタワー(右)を手放さざるを得なかったウニスはグループごと壊滅的不振。ホリデイ=イン(手前黄色)の民営化見通しもバラ色ではないという
しかしこの地区からもパッとしない話が出ているのが実情でした。
   戦争中もジャーナリストなどを相手に営業を続けた、かのホテル・ホリデイ=インは旧社会主義系企業として登記されていましたが、3年前国有資本51%分の民営化が試みられました。しかしこの時は合札者テルオプティック社(サライェヴォ国内資本)が不正があったとして失格、入札そのものが流れてしまったいきさつがあります。国際入札として改めてやり直しの今回は、ホリデイ側は売却額数千万マルクを期待しています。しかし同ホテルの向かいのツインタワーを買収したウニティック社(クウェート=ボスニア資本)のクルトヴィッチ総裁は「今回も不正などで入札が不成立に終わるのではないか。そういうことを繰り返していると評価額も下がってしまうが」と懐疑的です(一時はホリデイも買収して一大ビジネスセンター建設の話も打ち上げたウニティック社は入札参加を見送った模様です)。果たしてホリデイ側が期待する通りの売却額になるのかどうか、今秋の国際入札の成り行きが関係者の注目を集めています。
   一方ウニティック社にツインタワーを譲った総合企業ウニス社グループはもっと悲惨です。社会主義特有の巨大企業から88の小企業が民営化され「のれん分け」して生き残っていますが、業務の柱となっていた金属・軍需部門はまったく機能せず、何十ヶ月もまともに給料を手にしていない従業員も少なくありません。同グループ軍需部門(ウニス・プレティス社)のピラリッチ社長は「オーストリアのパートナーと仕事をしているが、2ヶ月働いてひと月分カネが入る程度のペース」だと言います。また グループのルチュキン会長は「世界と競争しなければならない時代だが、金属や軍需の世界市場で相手にされるのは大企業ばかりで、民営化して生き残った部門も含めて見通しは暗い」と言います。ボスニアの金属工業が旧ユーゴで最強を誇り、世界の大企業と提携していたのは昔の話。戦争とその後の民営化の手際の悪さがたたり、今やボスニアの金属工業は一部を除いて壊滅的な危機を迎えています(以上の部分はラジオ・自由ヨーロッパ=RFEをポータルサイト
市場経済移行へ苦しむ中で問われるのは政治家の指導力だが、昨年選出されたチョーヴィッチ幹部会員周辺も汚職の噂が持ち上がっている
「サイバーボスナ」が転載した5月27日、6月1日の記事から再引用
)。

   こうした瀕死の自主管理系国営企業や病院など公共セクターの賃上げ闘争はもちろんですが、民営化された企業でも労働条件の改善を求めるなど、この夏はボスニア全土でストが頻発しました。援助マネーによる復興バブルが終わり、市場経済の美名のもとに競争原理の荒波が入り込み、社会全体で葛藤が起こっているのです。今は先を行くスロヴェニアもハンガリーもチェコも、みな一度は通っている難所なのですからボスニアにも頑張ってほしいとは思いますが、和平成立後、大型復興援助に少しあぐらをかいて民営化などの諸方策で後手を踏んだツケが来ているとは言うことが出来ると思います。
   ボスニア経済に関して楽観的でないのは筆者だけではありません。国際社会を代表して民生部門を仕切る和平履行会議上級代表事務所(OHR)のサリヴァン広報官は8月29日、入超傾向の拡大する貿易に焦点を当て、「この国は稼いだ額の4倍も出費しているが、これでは国家が破産してしまう」と指摘。地元政府に対し(1)経済改革(2)民営化(3)行政の効率化(4)汚職対策の徹底、の続行を要求しました。経済が自力蘇生できる状態にはほど遠い以上、政府の指導力が要求されているわけですが、「改革にブレーキを掛ける政治家は結局失業率を増やしていることになる」(同広報官)とOHRが政治家の基本的な意識向上を呼びかけなければならないのが今のボスニアの現状なのです。

   イーゾことイズディン・バイロヴィッチは今年40才、国立劇場の中堅看板俳優です。直接面識が出来る前に、筆者はニ度ほど彼が主役を務める芝居を見ていますが、実際「看板」の評に恥じない素晴らしい演技でした。戦争中は兵士として前線と劇場を往復する生活を過ごしたこともあります。米の高名な劇評家S・ソンタグが戦時下サライェヴォで演出して注目された「ゴドーを待ちながら」でも主役級を演じています。
ボスニア演劇界の中堅を代表する俳優イズディン・バイロヴィッチ
そんな彼と今はビールを飲み交わすことが出来る仲になって聞いた話では、国立劇場(実際はサライェヴォ県の管轄)での月収は600マルク(約4万円弱)とのこと。ボスニアの平均以下ではありませんが、国で一番有名な劇場の中堅役者にはちょっとかわいそうな額であることは確かです。そんなわけで副業とは分かっているけれども「どうしてもテレビの仕事に力を入れざるを得ないね」とイーゾは言います。
   イーゾが現在出演を続けているTVドラマは「未来へのヴィザ」というボスニア連邦テレビ(FTV)の製作によるシリーズです。戦争中セルビアに逃げていて、またサライェヴォに戻ろうとするセルビア人と、このセルビア人が住んでいた家の所有権で対立するボスニア人一家、さらに脇役でクロアチア人も絡んで、というシリアスでリアルなボスニアの現況をコメディータッチで綴っています。主な配役はサライェヴォの役者陣ですが、主役のセルビア人にベオグラードのベテラン、Lj.サマルジッチ(第32回配信囲み参照)、他にセルビア人共和国バニャルーカの国立劇場のZ・スティエパノヴィッチなども出演、内容だけでなく配役でも多民族構成になっています。このドラマは筆者の住むベオグラードでも、旧ユーゴから独立した国の制作するドラマとしては紛争以降初めて8月からセルビア国営TV(RTS)でオンエアされています。
   「もうモンテネグロとは協力が始まっているし、もっとベオグラードとの協力提携が進んでほしいと思うよ」とイーゾ。もう戦争のしがらみをとやかく言う時代でなくなったことは確かですし、またボスニアだけでは経済的に見通しが明るくない以上は、クロアチアやセルビア=モンテネグロと提携の道を探っていかなければならないという事情もあるでしょう。これから各分野で旧ユーゴ圏各国の協働がトレンドになってくる、いやならざるを得ないことは、演劇界をかいま見ただけでも分かります。

太陽は輝いているか

  戦争中のサライェヴォで演劇が盛んに行われていたことは世界のマスコミから注目されましたが、
実力派歌手A・グラモチャク
「ゴドーを待ちながら」と並んで有名になったのは反戦ミュージカル「ヘアー」でした。サライェヴォに残った演劇、バレエ、ミュージックシーンの一流どころと若手が競演し、銃砲撃をかいくぐって劇場まで来る観客を熱狂させた舞台は今でも語り草になっています。
  7〜8月、筆者はこの「ヘアー」を取り扱った日本のテレビの音楽関連ドキュメンタリーの仕事をしました。バラード歌手で後にアメリカに渡ったS・イェヴジェヴィッチ(ジーノ・バナナ)、ポップとジャズの中間路線で活躍を続けるA・グラモチャク、元アイドルバンド「プラーヴィ・オルケストラ」のベーシスト  S・チェラミダら、現在は別々の道を進むミュージシャンが集まり、この有名なミュージカルのフィナーレを飾るナンバー、「レット・ザ・サンシャイン・イン」でその熱気を再現した模様を中心に、9月最終週末に全国放送の番組で放送される予定です。音楽が中心ですから通訳としては大した仕事はしませんでしたが、夏休み中も忙しい芸能人のコーディネートなどに筆者は精力的に頑張ったつもりですので、読者の皆さんもお時間がありましたら見てみて頂けると幸いです。
  (この囲み以外の本ページ内容も番組と一部重複する可能性があります。放送前の番組内容にここで言及することについては、この番組の取材責任者から完全な同意を得ています。)


   戦争中、サライェヴォ空港は国連管理による中立地帯でした。92年開戦当初、サライェヴォと東部のボスニア人勢力支配地域はここで行き来が途絶えてしまっていました。事実上包囲されたサライェヴォを脱出するため滑走路を走り抜けようとして、市民が敵セルビア人勢力の銃砲弾に倒れるというケースが続きました。ボスニア軍は翌93年前半から空港地下のトンネル掘削を開始。7月末に貫通した全長800メートルのこのトンネルは当初軍事目的で使われていましたが、すぐに東部ボスニア人勢力支配地域とサライェヴォ市民の生命線となりました。兵士の他、毎日数千の市民がこのトンネルを通ったといいます。
   戦後、空港滑走路の保安などを理由にトンネルは閉鎖されましたが、その東側出口に当たる
(左)トンネル博物館を運営するエディス・コラルさん(右)コラル家地下に保存されるトンネル。戦争中はこの先800メートル、空港の下を通って反対側のドブリーニャ地区まで続いていた。高さは約1・6メートル以下で、多くの人が前かがみにならなくては進めなかった
ドーニー・コトラツ地区のコラル家は自宅を「トンネル博物館」に改装し新たな「観光名所」になりつつあります(筆者の手元には最新版「地球のXX方」ほか日本のガイドがないので、どの程度この博物館が取り上げられているかが分かりませんが、英語圏発行の有名ガイドブックを片手に持った旅行者には会いました)。自宅敷地内のトンネル25メートル分を当時のまま保存、まだ完全に修復できていない家の内部ではトンネル関連のビデオを見ることが出来ますし、被害状況の写真、軍服などコラル家が集めることの出来た戦争関連の品物をたくさん展示しています。共同通信が扱った同博物館の記事(掲載:秋田魁新報2000年10月19日付)もあります。
   家主の父バイロ・コラル氏に代わって博物館の運営を任されているエディス青年は28才。戦争後半、自宅はトンネル出口として接収され、エディスさん本人は軍事警察で危険な前線付近を動き回っていたと言います。戦争中のサライェヴォの勇気ある抵抗を旅行者に説明する彼の誇り、同博物館発行のパンフレットの激しいトーンとは対照的に、サシで話す時のエディスさんはごく普通のサライェヴォの若者でした。私がベオグラードから来ていることは彼も承知ですし、運転手として連れて来ている私のベオグラードの悪友バーネにも冗談交じりで屈託なく戦争中の苦労話を語ってくれます。「何百人も行列して一方通行のトンネルが通れる時間を待つのだけど、みんな50キロもする重い袋を一つか二つかついでいた。
トンネル博物館はサライェヴォ空港滑走路の東の真裏に当たるDonji Kotorac 地区、Tuneli 通り1番地(未舗装道ですが自家用車はすぐ前まで乗りつけることが可能)。残念ながら一般交通は非常に不便で、市電3、4、6の終点イリジャ地区からバス32番しかなく、停留所も比較的遠いので、イリジャからタクシーをエディスさんはお薦めしています。毎日9〜17時(夏季18ないし19時)、電話 033-628-591。入場料5マルク。
物資を詰め込んでサライェヴォに帰るんだよ。でも何時間も掛けてトンネルを出た途端に安心してしまって、スナイパーに撃たれた人も何人もいた。そこにある土嚢がちょうど50キロだから持ち上げてみなよ」。非力な私にはとても持ち上げられませんでした。
   「軍服を着て活躍した仲間で今はひどい貧乏暮らしをしている奴もいるよ。退役軍人年金なんかは形式的な額だからね。オレも他に大した収入はないし、一人5マルク(約320円)の入場料でこの博物館ももう少し見栄えのいいものにしていかないといけないんだ。戦争が時間的に遠くなっていくのはいいことだけど、オスロボジェーニェの修復も始まったし、誰かがあの時代のものを保存しておくことは意味があると思うから」。
   戦争という極限状況は過ぎましたが、ボスニアの人々が和平とともに夢見た繁栄はまだまだ手の届かないところにあります。いや戦争時代の記憶としてサライェヴォの人々が語る、厳しい状況下での高貴な振る舞いや助け合いの精神が今は全く役に立たない、エゲツない競争の時代を迎えていると言った方がいいかも知れません。平和な時代の「経済の暗闇」をボスニアはいつか抜けるのか、抜けた先にはどんな世界があるのか。少しへそ曲がりの私は、トンネルを戦争時代ではなく今のこの国に重ねて見てしまうのでした。

(2003年9月上旬)


写真の一部は筆者が2003年5〜8月に日本のテレビ局取材(複数)に同行した際に撮影したものです。また本文内容にもこれらの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの本ページへの掲載に当たっては各クライアントから許諾を得ています。また囲みその他で放送前の番組内容に言及することについては、この番組の取材責任者から完全な合意を得ています。画像・本文とも無断転載はかたくお断りいたします。


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