第83回配信・付録 スレブレニッツァは戦争前の人口約6万、ボスニア人が約6割を占めていました。東部でセルビア人勢力による民族浄化の嵐が吹き荒れたボスニア戦争初期の92年、10キロ離れたスレブレニッツァとブラトゥナッツ双方で大規模な住民移動が起こり、前者がボスニア人多数、セルビア人支配地域に囲まれた「島」状態に、後者はセルビア人多数の町となりました。国連保護軍による安全地域に指定されたスレブレニッツァにはブラトゥナッツのみならず東部のボスニア人難民が流入し、小さな中心部だけで戦争期の人口は一時的には10万を数える印象があった、と証言する人もいます。
ここで12日オランダ隊の面前で婦女子・老人と成年男子が分けられ、婦女子グループはバスなどでトゥズラ方面へ脱出を許されますが、男子グループは大半がそのまま移送され集団で殺害されるか、11日深夜に脱出していたグループと同じく逃走中に山岳地帯で殺害されたと推定されています。13日夕刻までにセルビア人勢力軍はスレブレニッツァを占拠。 セルビア人支配地域の森林を越えてボスニア人支配地域に生きてたどり着くことの出来た男子の実数が約5000、当初1万2000と推定されることから本文の7〜8000という死者・行方不明者数が出されていますが、ボスニア人、セルビア人双方の政治的なプロパガンダの影響もあり、正確な数字は現在も不明のまま遺体捜索が続けられています。現在まで遺体約5000体が発見されていますが、身元確認が出来たのは主にメモリアルセンターに埋葬されている2000強に過ぎません。ムラディッチ大将、当時のボスニア人勢力指導者カラジッチ「大統領」ら大物戦犯は在オランダ旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)から訴追されていますが、依然として行方をくらましたまま現在に至っています。 ムラディッチらセルビア人勢力の前に国連オランダ隊があまりに無力だったのではないかとの声は当初からありましたが、オランダ戦争文書研究所(Nederlands Instituut voor Oorlogsdocumentatie = NIOD)が2002年に膨大な報告書を発表すると、当時のコック首相第二次政権は「国際社会とオランダ政府の対応に不十分なところがあり、事件を招いた一因となった」責任を取って総辞職しました。
むろん戦争中のボスニア人勢力側がみな天使ではありませんでした。ボスニア軍スレブレニッツァ方面オリッチ司令官は、肩書きから想像される活動内容とは異なり、事実上民兵組織のボスであったことが知られています。彼とその「軍隊」が安全地帯を自由に出てブラトゥナッツ、スケラネ市近郊のセルビア人村で略奪、殺人などを繰り返していた容疑で既にICTYで裁判が進行し結審直前の段階です。セルビア人側はオリッチらボスニア人勢力によるスレブレニッツァ地域での被害は非戦闘員の死者960人と主張していますが、これも正確な数字は不明です。 しかし数字の話は止めましょう。例えばセルビア人がボスニア人を7000、ボスニア人がセルビア人を1000殺したことが「確定」したとしても、罪の重さ(軽さ)が7対1に、つまりセルビア人がボスニア人の7倍悪い(または7倍しか悪くない)ことにも、ボスニア人がセルビア人の7分の1しか罪がない(または7分の1も非がある)ことにもなり得ないと筆者は考えるからです。
「報道陣が集中していて、国連の監視もあったサラエボでは、一九九二年十月にパンを買う列への砲撃で七人、一九九四年二月には市場への砲撃で約二百人(中略)などの死者を出す事件が起きた。これらは、サラエボの中でも特筆できる大事件であり、このような事件が頻繁に起こっていたわけではない。これらの数字を全て多めにカウントして加えていっても、一万人に達するかどうかである。
筆者自身は「セルビア人もこれだけ殺されている」と書いて「大塚はやはりセルビア寄りである」というような批判は可能ならば受けたくありませんが、セルビア人側にも少なくはない死傷者が出ている(のに従来外国マスコミの取り上げ方が少なかった)のは事実です。ベオグラードの歴史研究家B・プルパの「罪は罪、スレブレニッツァはスレブレニッツァで議論し、(明らかなセルビア人被害が出ている)ブラトゥナッツはブラトゥナッツで議論すべきだ」という意見(TVスタジオB[セルビア]、7月12日放送)に賛同しています。 (本文のウインドウを閉じてしまった方は)こちらをクリックして第83回配信本文へ
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