第83回配信・付録
スレブレニッツァ95年夏


   スレブレニッツァは戦争前の人口約6万、ボスニア人が約6割を占めていました。東部でセルビア人勢力による民族浄化の嵐が吹き荒れたボスニア戦争初期の92年、10キロ離れたスレブレニッツァとブラトゥナッツ双方で大規模な住民移動が起こり、前者がボスニア人多数、セルビア人支配地域に囲まれた「島」状態に、後者はセルビア人多数の町となりました。国連保護軍による安全地域に指定されたスレブレニッツァにはブラトゥナッツのみならず東部のボスニア人難民が流入し、小さな中心部だけで戦争期の人口は一時的には10万を数える印象があった、と証言する人もいます。
   ボスニア戦争における94年から95年前半の一進一退状況が95年夏に入り大きく動き出します。国連保護軍をバックアップする形で北大西洋条約機構(NATO)軍の空爆が準備されると、セルビア人勢力は対抗して国連軍兵士を捕らえ「人間の盾」とする戦略が取られ、緊張が高まりました。ムラディッチ大将率いるセルビア人勢力軍は7月2日までに作戦(「クリヴァヤ95」)を準備、6日以降スレブレニッツァ総攻撃に動きます。
   10日、オランダ隊に対してもセルビア人勢力軍が攻撃を加えたため同隊カレマンス司令官からNATOによる空爆要請が出されますが、いったん攻撃が停止されたのを受けて空爆も見送られます。翌11日早朝までにセルビア人勢力が撤収しない際はNATO空爆がある、とカレマンス司令官は住民に説明。
   11日午前、セルビア人勢力はスレブレニッツァ中心部を攻撃。NATOの手違いのため空爆が行われたのは14時を過ぎてからでした。一部のオランダ隊兵士が人質に取られており、これを殺すとセルビア人側が脅迫、空爆は中止されます。陥落は必至の雰囲気の中、11日深夜にスレブレニッツァの男子多数が森を越えて脱出行を始めます。これと前後して住民ほぼ全員がポトチャリ地区のオランダ隊本拠地に集められます(オランダ隊が住民に集合をかけた、との証言もあります)。
srebre95map.gif
95年スレブレニッツァ総攻撃時の支配分布。濃い緑がボスニア人、クロアチア人両勢力支配地域、薄緑がセルビア人勢力支配地域

   ここで12日オランダ隊の面前で婦女子・老人と成年男子が分けられ、婦女子グループはバスなどでトゥズラ方面へ脱出を許されますが、男子グループは大半がそのまま移送され集団で殺害されるか、11日深夜に脱出していたグループと同じく逃走中に山岳地帯で殺害されたと推定されています。13日夕刻までにセルビア人勢力軍はスレブレニッツァを占拠。
   セルビア人支配地域の森林を越えてボスニア人支配地域に生きてたどり着くことの出来た男子の実数が約5000、当初1万2000と推定されることから本文の7〜8000という死者・行方不明者数が出されていますが、ボスニア人、セルビア人双方の政治的なプロパガンダの影響もあり、正確な数字は現在も不明のまま遺体捜索が続けられています。現在まで遺体約5000体が発見されていますが、身元確認が出来たのは主にメモリアルセンターに埋葬されている2000強に過ぎません。ムラディッチ大将、当時のボスニア人勢力指導者カラジッチ「大統領」ら大物戦犯は在オランダ旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)から訴追されていますが、依然として行方をくらましたまま現在に至っています。

   ムラディッチらセルビア人勢力の前に国連オランダ隊があまりに無力だったのではないかとの声は当初からありましたが、オランダ戦争文書研究所(Nederlands Instituut voor Oorlogsdocumentatie = NIOD)が2002年に膨大な報告書を発表すると、当時のコック首相第二次政権は「国際社会とオランダ政府の対応に不十分なところがあり、事件を招いた一因となった」責任を取って総辞職しました。
   同報告書は
(1)平和とは言えず、定義も定かでない「安全地域」でのオランダ隊の任務内容が不明瞭なまま開始された
(2)単独で十分な情報収集が可能な財政力、能力がないにもかかわらず、前任のカナダ隊から情報をほとんど得ようとしておらず、米隊が軍事情報収集機器を提供しようとした際も拒否している
(3)武力行使は当時の国連保護軍には自衛の際にしか認められておらず、国連軍と接近した地点に当事者(セルビア人)勢力が展開した場合は空爆が難しかったにもかかわらず、オランダ隊は空爆を過信していた。ムラディッチは結果的にこれを利用した
(4)大量殺害事件後にオランダ隊側に責任逃れを狙う情報隠匿工作があった、
などの点を指摘しています。

   むろん戦争中のボスニア人勢力側がみな天使ではありませんでした。ボスニア軍スレブレニッツァ方面オリッチ司令官は、肩書きから想像される活動内容とは異なり、事実上民兵組織のボスであったことが知られています。彼とその「軍隊」が安全地帯を自由に出てブラトゥナッツ、スケラネ市近郊のセルビア人村で略奪、殺人などを繰り返していた容疑で既にICTYで裁判が進行し結審直前の段階です。セルビア人側はオリッチらボスニア人勢力によるスレブレニッツァ地域での被害は非戦闘員の死者960人と主張していますが、これも正確な数字は不明です。

   しかし数字の話は止めましょう。例えばセルビア人がボスニア人を7000、ボスニア人がセルビア人を1000殺したことが「確定」したとしても、罪の重さ(軽さ)が7対1に、つまりセルビア人がボスニア人の7倍悪い(または7倍しか悪くない)ことにも、ボスニア人がセルビア人の7分の1しか罪がない(または7分の1も非がある)ことにもなり得ないと筆者は考えるからです。
   なお戦争の中での死者数については、ボスニア戦争での総死者数20万というボスニア連邦側の公式発表に対してという形で、加藤健二郎氏が一般論的な疑義を発しています。

   「報道陣が集中していて、国連の監視もあったサラエボでは、一九九二年十月にパンを買う列への砲撃で七人、一九九四年二月には市場への砲撃で約二百人(中略)などの死者を出す事件が起きた。これらは、サラエボの中でも特筆できる大事件であり、このような事件が頻繁に起こっていたわけではない。これらの数字を全て多めにカウントして加えていっても、一万人に達するかどうかである。
   戦争による死者が水増しされたからといって、特に大きな問題にはならないかもしれない。逆に言えば、問題にならないからこそ、水増しし放題でも許される。近代戦の死者の数は、正確さよりもプロパガンダ性のほうが重要視されていて、実数の十倍はあたりまえで、数十倍から百倍近い数字が唱えられていると感じることもあるのだ。
   死者の数を、後の時代になって少ないほうへ修正しようとすると批判を浴びるケースが多い。しかし、多過ぎる数字を唱えても、それほどの批判には至らない。つまり、死者の数は多めに言っておいたほうが安全なのかもしれない。」(加藤健二郎 『戦場の現在(いま)−戦闘地域の最前線をゆく』 集英社新書0283A、2005年

   筆者自身は「セルビア人もこれだけ殺されている」と書いて「大塚はやはりセルビア寄りである」というような批判は可能ならば受けたくありませんが、セルビア人側にも少なくはない死傷者が出ている(のに従来外国マスコミの取り上げ方が少なかった)のは事実です。ベオグラードの歴史研究家B・プルパの「罪は罪、スレブレニッツァはスレブレニッツァで議論し、(明らかなセルビア人被害が出ている)ブラトゥナッツはブラトゥナッツで議論すべきだ」という意見(TVスタジオB[セルビア]、7月12日放送)に賛同しています。

(本文のウインドウを閉じてしまった方は)こちらをクリックして第83回配信本文へ


このページの主要参考文献(:NIOD報告書英語版リヒテルズ直子のオランダ通信日刊ダナス紙[セルビア]のスレブレニッツァ特集(7月12日付)、フリー百科事典ウィキペディア英語版Srebrenica massacreの項、
加藤健二郎『戦場の現在(いま)−戦闘地域の最前線をゆく』集英社新書0283A、2005年
本文同様、内容の無断転載はご遠慮下さい。