「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2004/04/10

第78回配信
大統領機はどこだ


 

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故トライコフスキ・マケドニア大統領
(1956−2004)
   2月26日朝8時過ぎ、対ボスニア投資国際会議に出席のためボスニア南部・モスタル空港に向かうトライコフスキ・マケドニア大統領一行を乗せた政府専用機(ビーチキングエアB200型プロペラ機)がモスタル南東方のフスコヴィッチ地区に墜落。大統領と乗員を含む9人全員が死亡しました。翌27日に発見された大統領の遺体は身元同定と司法解剖手続きの後首都スコピエに戻され、3月5日国葬に付されました。マケドニアは26日から3日間国喪に服し、墜落当事国のボスニアも27日までは国喪状態。各国のマケドニア大使館には半旗が掲げられ、弔問記帳も行われました。ヨルダノフスキ国会議長が憲法に従い大統領代行を務め、4月14日に大統領選挙第1回投票を行う旨公示。本稿執筆現在は選挙戦の最中です。ちょうど2月26日は、ツルヴェンコフスキ・マケドニア首相が欧州連合(EU)加盟の正式申請を議長国アイルランドで行う予定(大統領自身も投資会議後の午後にダブリンへ向かう予定だったとの説もあり)でしたが、この事故のため同首相はアイルランドから急遽帰国。申請はひと月遅れの3月22日になされました。
   今回の「旧ユーゴ便り」は、不幸な契機ではあり、またスコピエ現地での取材も不可能ではあったのですが第46回配信以来(一昨年の選挙結果などについては第62回配信で扱っています)久しぶりにマケドニアの状況を取り上げることにします。まず事故そのものの話題から。

   「ヘルツェゴヴィナでマケドニア大統領機が落ちたらしいです」。実は大統領機が墜落した2月26日、筆者はボスニアを扱った前回配信でも触れているように、ある公的業務の通訳としてボスニアにいました。同行している現地協力者に入った第一報を筆者が訳すと、その日モスタルで各国首脳が参加する国際会議があることを承知していた邦人代表団もびっくり。業務に影響を及ぼすような予期せぬ混乱が起こらぬとも限らないので、その日はサライェヴォでニュースのフォローです。思わぬタイミングで報道企業コーディネーターのような仕事になってしまいました。しかしテレビニュースなどで伝えられる情報は錯綜し二転三転。
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事故関連地図。緑の一点鎖線は両エンティティ境界線(CIAのパブリックドメインから借用した地図を原版に筆者が加工し本HP内の地図と合成)
翌日以降のボスニア地元各紙誌によると、実際に事故取材を担当した報道関係者は大変な苦労をしたようです。

   ボスニアに展開する北大西洋条約機構(NATO)主導の多国籍軍・平和安定化部隊(SFOR)は、モスタル空港の管制に当たるフランス隊の情報として、8時15分に機影がレーダーから消えたことを国際会議のホストであるチョーヴィッチ・ボスニア幹部会議長(当時)にすぐ伝え、午後早くの段階で9人のうち4人の遺体が発見されたと発表。墜落推定場所はストラツ市東方の旧停戦ライン(現在ボスニアを二分するセルビア人共和国、ボスニア連邦の両エンティティの境界線)付近としました。国際会議の場でチョーヴィッチ議長は哀悼の意を表し、関係者との協議の末、翌日まで予定されている同会議は「トライコフスキのために中止することも考えたが、敢えて最後まで会議を予定通り実施するのもまた故人の望みではないだろうか」と述べて続行を決定しました。ところが、そのホトボリも醒めぬうちにSFORは遺体発見の当初発表を撤回する声明を出したのです。夕刻になってチョーヴィッチ議長自身も「朝機影が消えたこと以外は何も確実な情報がない」と不満の意を表する異例の事態になってしまいました。
   この頃SFORを中心にセルビア人共和国、ボ連邦双方の警察、消防、医療関係者が出動し、報道関係者もこれらを追い、みなが消えた大統領機を捜索していました。最初のSFOR発表を受けてストラツ東方フルグード丘陵付近を迷走しましたが、折りからの雨と霧に加え旧停戦ラインの地雷原に当たることから現場捜索が難航しました。SFORと地元捜索当局のコーディネートがうまく進まず、ボスニアとマケドニアの責任分担、さらにエンティティ側警察とボスニア中央治安省の齟齬もあって、結局夕刻に地元当局の対策本部が結成されたにとどまり、この日は結局機体、遺体とも発見されませんでした。
   機体、遺体が発見されたのは翌27日、それも当初発表とは大きく異なり、連邦側のストラツ市北西、むしろモスタル空港に約15キロとかなり近いフスコヴィッチで、地雷はほとんどない地域でした。
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事故から10日後に筆者が通った際もモスタル空港付近は霧と雨の悪天候。南南東には丘陵が広がる

   SFORは事故後捜索活動上の連絡体制、マスコミ対応など発表体制のまずさが批判されたのみならず、事故原因について様々な憶測の余地を残しました。
(1)旧ユーゴ時代からモスタル空港への着陸進路は平地上空の真南(360度の方向)だったが、SFORが同空港を管制するようになってから丘陵地帯で着陸の難しい326度の南南東方向のコースを設定した。墜落地点は空港から336度の方向で、326よりもさらに丘陵に「引っかかりやすい」角度だった(実際筆者も事故から10日後にモスタル空港付近を通る機会がありましたが、確かに真南の国道モスタル〜チャプリナ線に沿って平地になっているのに対し、南東〜南南東方向は丘と山が続いていました)。
(2)事故後マスコミにリークされた交信記録によれば、事故機がモスタル管制管区に入ってから事故までは25分。8時8分に最後の交信後、機影が消える直前の8時15分(「低すぎる、高度を修正しろ」「了解」)まで7分間何も交信がなかったという。着陸15キロ手前ならば高度1280メートルを確保していなければならない地点だが、この7分間に角度・高度修正は管制側で出来なかったのか。
(3)フランス隊の事故当時の管制担当は若者だったという情報があるが、英語能力は大丈夫だったのか(この点については後にSFOR側が肯定の声明を発表)。またきちんとした管制ライセンスを持っていたのか。事故直後フランスに「懲戒帰国」させられたという噂が流れたが、この若者の現在身柄はどこにあるのか。
(4)事故直後には墜落現場近くをSFORのジープなどが走っていた、というフスコヴィッチ村民の証言が出た[3月5日付ネザヴィスネ・ノヴィネ紙=ボスニア]が、なぜ実際の発見までは1日遅れが生じたのか。
   マケドニア政府所有の事故機は以前にも不調があり、故トライコフスキ大統領自身があまり乗りたがらなかったという話題もあるにはありましたが、同国政府がすぐに「整備は十分だった」と発表しています。上記(1)〜(4)のような文脈から「管制ミスをもみ消す時間稼ぎのため、事故直後の情報を故意に錯綜させたのではないか」と勘ぐる報道陣は、責任問題をSFORサリヴァン広報官にぶつけました。すると返って来た答えが「われわれは過去に生きているのではなく未来を目指しているのだ」という半ば意味不明のものだったそうです。これではボスニアのみならずマケドニアに対しても失礼ではないか、と週刊ダーニ誌[=ボスニア]3月5日号はコメントしています。
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半旗が掲げられた在セルビア=モンテネグロ・マケドニア大使館に弔問記帳に訪れた人も少なくなかった(3月上旬ベオグラードにて、写真提供両葉とも:吉田正則氏)
死亡したマルコ・マルコフスキ操縦士は元ユーゴ連邦空軍パイロットで、訓練を当のモスタル空港で受けていました。同操縦士の息子でスコピエ空港に勤務するゾラン・マルコフスキ管制官は「もし私の父が操縦をミスしていたらイヴァノフスキ副操縦士のミスでもある。着陸態勢に入っているからには管制側で何とか出来たのではないか」と語っています。ツルヴェンコフスキ・マケドニア首相は29日墜落現場を訪れましたが、「マケドニアとしては国際的な力を借りてでも事故原因のもみ消しを防ぎ、徹底究明を待ちたい」と、もうSFORに責任ありを言外に匂わせるような怒りの記者会見でした。
    ブラックボックスはボスニア当局が回収、墜落原因についての調査委員会が結成されました。古いタイプのブラックボックスでボスニア国内では解析が出来ないため、ドイツに委託されました。これは問題のSFOR管制隊の出身国フランスと、事故機を製造したキングエアー社のあるアメリカを避けたものです。3月28日、ベギッチ調査委員会委員長は「原因についてはほぼ判明したが、結果報告書をマケドニア政府及びキングエアー社に提示し見解を得てから公表したい」としたため、原因について私たちが知るのは本稿発表後のこととなりました。      

   99年秋の大統領選で、前年の議会選で第一党となった右派政党の内部マケドニア革命組織・統一民主党(VMRO−DPMNE)はトライコフスキ外務次官を候補としました。第一回投票では野に転じたマ社民連合のペトコフスキ候補がトップ得票。しかしアルバニア人有力政党の協力を得て決選投票で逆転し、第2代大統領の座に就きました。01年春、西部で多数を占めるアルバニア人住民の権利拡大を要求するゲリラ組織「アルバニア民族軍」は政府軍と武力闘争に突入(掃討作戦が続いた頃の状況とその詳しい背景については第46回配信参照)、本格的な戦争の危機も取り沙汰されます。しかし国際社会の強い圧力で7月に停戦し、ア民族軍の自主解散、少数民族の権限を強める憲法改正及び法律・制度の制定(地方自治法、地方分権法の他アルバニア語の公用化、国営テレビでのアルバニア語放送一定枠保証など)などで合意(オフリット協定、01年8月)に至りました。
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01年3月、西部テトヴォ市でアルバニア民族軍と銃撃戦を続けるマケドニア警察・軍合同勢力(写真提供:Nova Makedonija) 
紛争期間中の4月にEUは、政府が穏健な事態解決を進める活力剤ないし褒賞として、将来加盟候補国との準備ステータスである「EUとの安定協力連合」を締結しています。マケドニアは紛争を奇貨としてEU加盟への第一段階をクリアすることに成功したわけです。
   一昨年秋の選挙でVMRO−DPMNEは大敗。ツルヴェンコフスキ率いる中道左派のマ社民連合が政権に返り咲き、大統領とはコアビタシオン(与野共存)状態になっていました(第62回配信参照)。昨年のイラク武力介入を巡って東欧諸国が「英米派」「独仏派」に二分された時期には、故大統領は国際刑事裁判所での米兵訴追免除協定に賛同するなど、ルーマニアほど極端な形ではないもののかなり明瞭な親米路線を選択しました。この秋の任期満了により予定されていた大統領選を前にVMRO−DPMNE内部では派閥抗争が表面化。党としては独自候補を擁立し、非主流派に転じたトライコフスキを推薦しないことが内定されていました。一方トライコフスキは単独で出馬するものの、支持母体はアメリカだけ。議会選以後大きな失敗のないマ社民連合が擁立する候補が有利だろうと言われていました。
   というわけで秋の大統領選での再選は「?」マークだった故トライコフスキですが、事故後の新聞記事などでは「任期中に紛争が始まり激化した」ことへの言及はゼロ。「オフリット協定で紛争を収めて少数民族との和解を進め、EUへの加盟レースでも(事故の当日に予定していた正式加盟申請に至るまで)大きく前進した」と概ねベタボメに近い評価でした。まあ経過よりも結果が勝負というのが政治の世界なのかも知れませんけれども。

   ともあれ、現在のマケドニアの最大の国家目標がEU及びNATO加盟にあることは間違いありません。3月31日、欧州委員会キアリーニ・マケドニア常駐代表はスコピエで「EUとの安定協力連合」の年次報告を発表、「4月1日をもって具体的に安定協力協定が実効を始める。警察改革、国境管理で大きな前進があった。また市場経済の発展に関しても、まだ努力の余地は多いものの進展が評価される」など好意的なトーンで終始しました。これを受けたセケリンスカ副首相も「国家の責任がいよいよ重くなることを自覚している。これからもEU側との密なコンタクトを続けながら、将来加盟に向けてさらに法・制度改革など努力を続けたい」と優等生発言。マケドニアは真剣にEU入りへ努力していることをアピールしました。
   一方安全保障に関しては、3月にマケドニアと国境を接するセルビア=モンテネグロのコソヴォ州で危機的な状況が発生しています。

コソヴォ州全土で騒乱

   3月17日から19日にかけ、セルビア=モンテネグロのコソヴォ州全域で騒乱状態が発生しました。
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半焼したベオグラードのバイラクリ・モスク(右側の建物、下部壁面が黒くなっている)
北部のセルビア人、南部のアルバニア人がイバル川を境界線として住み分けているコソフスカ=ミトロヴィッツァ(州中北部)で、17日昼アルバニア人の「近隣の村でアルバニア人の子どもがセルビア人に追われて川で溺死したことに抗議する」集会の参加者が橋を渡って北部セルビア人地域に突入したことがきっかけでした。またたく間に騒乱は州都プリシュティナなど広域に拡大し、多国籍軍コソヴォ展開部隊(KFOR)や国連警察勢力との衝突の結果28人が死亡、800人以上の負傷者を出す事態になりました(同月21日国連発表による)。各地に点在する少数セルビア人居住地の住宅や歴史的価値の高いプリズレン(州中南部)のリェヴィシュカ聖母教会などの正教会も破壊されました。この結果セルビア人住民約4000が州北部などに国内難民化しています。同時多発性があまりにも高かったため、上記の抗議集会は表向きの契機に過ぎず、州全域での騒乱を「仕掛けた」勢力があるのではないかとの疑いも出ており、現在も国連警察当局などが捜査を続けています。
   一方ミトロヴィッツァ緊張、の報をテレビが緊急特番を組んで放送し始めたセルビア本国のベオグラード、ニシュ、ノヴィサドなど主要都市では17日午後から抗議集会が開かれました。が、参加者の一部がやはり暴徒化しベオグラード唯一のモスクであるバイラクリ・モスクが半焼(筆者撮影による左写真では壁面が多少焦げただけのように見えますが、実際には内部の木造部分は全焼しています)、ニシュのイスラムアガ・モスクも全焼に近い被害を受けました。コソヴォのアルバニア人はアルバニア本国に比べ圧倒的にイスラム教徒が多いことは事実ですが、ベオグラードのバイラクリ・モスクは決してアルバニア人(だけ)の本拠地ではなく、ボスニア人など全ての少数イスラム教徒の信心の拠り所でした。しかし暴徒には「アルバニア人=イスラム教徒=標的」と映ってしまったようです。共和国警察の対応の甘さが良識派から批判され、ベオグラード市警察のトップが更迭されました。
   こうして99年ユーゴ空爆以降も火種だったコソヴォの民族/宗教対立が一気に爆発してしまいました。
   事態を重く見た国際社会の政治的介入により、本稿執筆現在州内の状況は小康状態(セルビア本国はほぼ平穏)に至ってはいますが、なおも高い緊張が続いています。ホルケリ事務総長特別代表ら国連コソヴォ暫定統治機構は3月31日包括的な問題解決案を発表。本HP第75回配信で触れた実務協議の対話路線を支持し、州の地位問題話し合いが始まるまでの平和的暫定行政実施の枠組みなどを提案しています。しかしこれについてベオグラード側はチョーヴィッチ・コソヴォ連絡協議センター所長が「コソヴォ独立への一歩であり受け入れ難い」としています。逆にセルビア本国コシュトゥニツァ新首相のコソヴォ分権化案には、州政府レジェピ首相が強い抵抗を示すなど、まだ政治的に本質的な解決までの道のりは遠いままです。

   マケドニアにはすぐにこの騒乱が飛び火することはなく、コソヴォ州と接する国境付近での緊張が伝えられた程度で現在は推移しています。しかし、西部に多くのアルバニア人が集中し、コソヴォと似た構造を持つマケドニアも紛争状態を経験したのはわずか3年前の話です。セルビアのシンクタンク、ベオグラード欧州統合センターのテオカレヴィッチ所長は、セルビアのコソヴォに関しては何らかの形での分割を支持し 、中長期的に民族紛争の危険が残るのはセルビアよりもむしろマケドニアだろうと指摘します。
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NATO正式加入書をパウエル米国務長官に寄託するロップ・スロヴェニア首相。旧ユーゴ圏からNATO正式加盟国が出て、次(07年?)はマケドニアの番だと国内の期待も高まる(写真提供:スロヴェニア政府広報局 撮影:BOBO)
「オフリット協定には『民族対立は領土問題では解決できない』という文言がある。理論的にはともかく、現実には民族問題と領土は密接に関係しているのだからこれは非現実的で、本質的な解決とは呼べない。多数のマケドニア人があくまでも現在の国境線でのマケドニアを主張し続け、アルバニア人がさらに権利拡大を要求して対立が続く可能性は高い」。
   マケドニア人としてはアルバニア人の「領土要求」が出てくる前にNATOという強い国際的枠組みに入ってしまいたいのが本音です。コソヴォ騒乱の後、NATO加盟への論議も活発化しています。3月29日にはブルガリアなどとともに旧ユーゴから初めてスロヴェニアがNATOへの正式加盟を果たしており、加盟レースでは遅れを取っているボスニア(前回配信参照)、セルビア=モンテネグロについても正式加盟前段階の「平和のためのパートナーシップ(PFP)」参加が6月のイスタンブールNATOサミットで取り沙汰されようかという段階に至ったことも背景となっています。マケドニアは既にアルバニア、クロアチアとともに次期候補国として「加盟に向けての行動計画」を採択、ボスニアやセルビア=モンテネグロよりこの意味でも一歩先を進んでいます。いよいよ次の正式加盟はウチ、というわけです。在マケドニアNATOビグマン常駐代表は「イスタンブールサミットでマケドニアが期待すべきことは何もない」と、性急な加盟推進論、期待論をけん制する発言をしています。しかし米下院は3月30日マケドニア、アルバニア、クロアチアの2007年NATO加盟を支持する宣言を採択、イスタンブールでもこれら諸国の次期加盟が具体的に検討されるよう米側から働きかけていくことになりそうです。マケドニアの場合は、政策的にNATO加盟が最大目標であるEU加盟の前段階と明確に位置づけられていますが、現在は親米(EUよりアメリカ優先)路線がNATO加盟を、そしてそれによって結局はEU加盟を促進する面白い例になっています。

   秋に行われるはずが不幸な事故によって前倒しになった大統領選ですが、与党マ社民連合が現役首相ツルヴェンコフスキ自身の立候補を決めたことで、波乱なき選挙になる公算が大きくなりました。最大野党VMRO−DPMNEは、前述のように事故前の段階でトライコフスキ擁立せず、を決めるなど内部分裂が表面化、結局政治家としての実績が少ないケデフ議員しか立てられなかったためです。そこそこに人気のあるボシュコフスキ前内相も同党内の派閥抗争の結果非主流に転じ、独自に出馬を表明しましたが「10年マケドニアに在住していなくてはならない」規定に引っかかり、立候補は取り消しになりました(欧州人権裁判所に提訴し係争中)。
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強力対抗馬がなく、現役首相任務と並行して余裕の選挙戦を進めるツルヴェンコフスキ候補だが「経済失政の責任逃れ」との批判も(写真提供:Nova Makedonija)
ツルヴェンコフスキ候補はNATO新規加盟国の式典に同席するなど首相の任務と並行しながら余裕の選挙戦で、現政府の路線追認と継続を強調する「現状肯定型」アピールを続けています。「選挙から15ヶ月で、マケドニアは紛争後のボスニアが10年、コソヴォが5年かけて達成できないレベルに達した。『紛争後』状態だった問題国が欧米先進国から優等生とみなされるまでになったのだ」(4月5日ストゥルミツァ市での選挙演説)。一方ケデフ候補も「NATO、EUへの加盟がマケドニアの将来だ。栄えある欧州の一員として誇れるマケドニアに」と選挙戦を展開しますが、どうもこれでは現政権側と争点の違いが見えず苦戦は免れ得ないように思います。4月14日の第一回投票で50%を得るのは難しいものの、二週間後の第二回投票で(常にマケドニア人の右左どちらかを支持する形を取るアルバニア人側に「波乱」が起こらなければ)順当にツルヴェンコフスキ大統領誕生ではないか、と大方のウォッチャーは予測しています。
   むしろ面白かったのはツルヴェンコフスキが立候補すること自体についての批判があったことです。もし現役首相が大統領に当選すれば、当然首相なき政府は総辞職することになります。与党連合内で次の首班候補を選出、新政府が議会の承認を受けるまで1〜2ヶ月は政治空白が生じてしまう。秋の地方選までにオフリット協定に基づく分権化法案も通過せねばならないが、EUやNATOに「本気で向かう」国がそんなノンビリしたペースでいいのか、という声がマ社民連合内部からさえ出ています。また野党側は、紛争で落ち込んだ成長は翌02年から再びプラスに転じているものの、依然として失業率は30%を越え経済不振が続いている。そんな中「無策」の責任逃れで首相が大統領の座を狙っている、と批判しています。「独立12年のうちツルヴェンコフスキが首相だった92年から98年、そして02年以降も実質的に経済の伸びはほとんど記録していない。一国の大統領職は失敗した政治家の逃げ込むポストであってはならない」(VMRO−DPMNEギョルチェフ広報)。
   筆者のように、総選挙後政府がひと月もふた月も選出できない(第76回配信参照)のが半ば当然(セルビア)、あるいは自分の右腕と二人で大統領・首相を交互に務める専横がまかり通る(モンテネグロ)、というような国に住んでいると、EUやNATO加盟レースで一歩先を行く国は数ヶ月の政治空白も許されないほど大変なのか、とも時には思ってしまいます。が、マケドニアがセルビア=モンテネグロより特別に「大人の国」というわけではありません。この若い国マケドニアも政治(特に民族問題)、経済の双方でさらに「西へ」向かうために努力すべき課題を多く抱えています。選挙後もこの国の進む道を、隣国の首都ベオグラードからきちんとウォッチし続けて行こうと思っています。

(2004年4月上旬)


本稿の執筆に当たっては数多くの紙誌、インターネット資料を参考としました。煩雑さを避けるため、日付等の詳細は省略し以下に参考紙誌及びサイト名を列挙します:[スロヴェニア]スロヴェニア共和国政府広報局 [ボスニア]日刊オスロボジェーニェ、日刊ドゥネヴニ・アヴァズ、日刊ネザヴィスネ・ノヴィネ、週刊ダーニ、公共放送システム(PBS) [セルビア]日刊ポリティカ、週刊レポルテル、週刊ヴレーメ、共和国営セルビアテレビ(RTS)、RTV−B92、ベオグラード欧州統合センター [マケドニア]マケドニア情報局(MIA)、日刊ノヴァ・マケドニア、日刊ウトリンスキ・ヴェスニク、週刊プルス [旧ユーゴ圏以外]日本国外務省、IWPR、CSEES
画像を提供して頂いた吉田正則氏、日刊ノヴァ・マケドニア紙編集部、スロヴェニア共和国政府情報局に謝意を表します。写真の一部は2004年2〜3月に筆者が公的業務の団員としてボスニアに滞在した際撮影したものです。また本文内容にもこの業務上知り得た内容が含まれています。これらの本ページへの掲載に当たっては関係者の許諾を得ています。写真、本文とも無断転載をかたくお断りいたします。Zahvaljujem se za sodelovanje / Blagodalam na sorabotka: g.Masanori Yoshida, Nova Makedonija, Urad RS za informiranje. Prepovedna je vsaka uporaba teksta in slik brez dovoljenja. / Site prava zadrzani.

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