「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

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最終更新 2001/05/27 15:52

第46回配信
オアシス危機回避?


 

紛争で野党から批判が集中したゲオルギエフスキ首相だが、挙国一致内閣を成立させ危機乗り越えを図る(写真提供:Nova Makedonija)
   3月以降武力闘争による危機的状況が続いていたマケドニアで、5月13日に新内閣が発足しました。98年に政権の座についたゲオルギエフスキ首相は、比較的短期間に内閣改造を繰り返していましたが、今回の第6次内閣は野党やアルバニア人政党をほぼ全て政府に取り込んだ「挙国一致内閣」です。同首相はこれにより3月に発生した紛争危機を一気に乗り越えたい、とし、アルバニア人武装勢力との対決姿勢を改めて鮮明に打ち出しました。大団円が近いのか、新たな本格的な戦争の危機か。ウォッチャーの見方も半々に分かれたまま、先行きの見通しが不透明な状況が続いています。筆者は残念ながら今春以降現地にまだ行く機会を得ていませんが、「(旧)ユーゴ便り」で本格的にマケドニアを取り上げるのは初めてですので、背景説明も含めて今回配信でまとめてみたいと思います。

   第43回配信でも触れたように、マケドニアでアルバニア人武装勢力の活動が活発化したのは2月末のことでした。3月中旬からマケドニア警察・軍は北部・西部で大掃討作戦を展開し、4月のマケドニアは静穏が保たれていました。このため一部のマスコミは「解放軍はやはりコソヴォから来ているだけで、山岳地域を越えてコソヴォに戻った」としたほどです。しかし、4月28日午後、テトヴォ近郊でパトロール中の警察・軍合同隊が奇襲を受け、8人が死亡、6人が重軽傷を負いました。被害を受けた警察官らに南部のビトラ市出身者が多かったことから、メーデー休暇に紛争地域からは遠く、アルバニア人ともあまり縁のないはずのビトラで数少ないアルバニア人経営の店などが市民によって破壊され、首都スコピエではアルバニア大使館も破壊されました。政府は市民に対し「報復を止めるよう」異例の呼びかけを行いましたが、これにより再び紛争が本格化してしまいました。3月同様、再びトライコフスキ大統領は戦争宣言発表を検討、先進国の圧力で見送られましたが、「パンやタバコなどに行列が出来、旅券の発行に人々が殺到した」(ウトリンスキ・ヴェスニク紙のゲオルギエフスキ記者談)パニック状態がスコピエでも繰り返されたと言います。
政府側勢力の攻撃で解放軍拠点の家などが煙を上げる(写真提供:Nova Makedonija)
   3月危機の中心はスコピエ西方のテトヴォ市近辺でしたが、今度は東方、セルビア本国国境から近いクマノヴォ市周辺部で銃撃戦が始まりました。3月には出足の悪さを見せた政府軍・警察ですが、5月はすぐに掃討作戦を開始。2週間ほどの激戦が続いた後、今回の新内閣発足を機に一旦停戦が実現しました。
   「国家を安定させ、みなで団結してテロから国民を守ろう。民族間の対話を強化させる。来年1月末には民主的な選挙を実施する。」挙国一致内閣の発足に当たり、ゲオルギエフスキ首相は議会でこのように述べました。しかし、これに対し副首相などを出し新たに閣内に入ったアルバニア人政党・民主繁栄党のジベリ議員は「アルバニア人は不当に抑圧されている自民族の権利を勝ち取るために蜂起しているのであって、テロリスト呼ばわりは不服だ」と主張し議会はいきなり紛糾。先行きの難しさを予感させています。マケドニア政府軍・警察勢力はアルバニア人武装組織「民族解放軍」に対し17日正午までにクマノヴォやテトヴォなど紛争地域から撤退しない場合は停戦を打ち切り総攻撃を掛ける、と最後通告を発しました。しかし政府側の攻撃は、一般市民が(自らの意思によるものか、強制的なものかは不明ながら)解放軍兵士とともに同地域に残留しているため攻撃ができない、という理由で解放軍の挑発に対する反撃にとどまっている模様です。
ゲオルギエフスキ第6次内閣主要閣僚
首相LJ・ゲオルギエフスキ(VMRO-DPMNE)
副首相C・ナスフィ(ア人民主党)
副首相C・ムスリウ(民主繁栄党)
副首相Z・クルステフスキ(自由党)
副首相I・フィリポフスキ(マ社民党)
大蔵N・グルエフスキ(VMRO-DPMNE)
国防V・ブチコフスキ(マ社民党)
内務LJ・ボシュコフスキ(VMRO-DPMNE)
外務I・ミトレヴァ(マ社民党)
地元赤十字によれば、クマノヴォ市付近のマケドニア人、セルビア人など2500人が既に国内・国外難民になって流出している模様ですが、アルバニア人に関しては、クマノヴォ近郊スルプチャネ村の3000の住民のうち脱出したのは数百のみとのこと(ロイター電ネット版18日)。解放軍は西部テトヴォ市近郊のシャール・プラニナ地域で22日未明、警察の展開ポイントを攻撃、警察官7人が負傷しました。また発電施設が攻撃対象となっていることから、経済的にも政府側に損害をもたらすような活動に移ってきたようだ、とユーゴの日刊紙ポリティカは指摘しています。こうした事態を受けて同日国家治安委員会は「状況は悪化している」と発表、本稿執筆現在も依然緊張が続いています。

   マケドニアは旧ユーゴで唯一流血なしで独立を果たした国です。それがどうしてこんな状況になってしまったのか。少し「最近史」を振り返って見ましょう。マケドニアが独立を宣言したのはクロアチア紛争が泥沼化し、旧ユーゴ連邦の解体がほぼ避けられない見通しとなっていた91年の9月(日本の独立承認は93年)です。既に3ヶ月前にクロアチアは独立を一方的に宣言し、戦火が同国全土に拡大。紛争を止めるためにも国際承認すべきかどうかが話題となっていました。
独立後険悪だったギリシアとの関係は近年改善され、スコピエ市内にはギリシア領事館が置かれている
その後旧ユーゴ地域ではボスニア紛争、コソヴォ紛争とユーゴ空爆など、読者の皆さんもよくご存知の出来事が起こりましたが、マケドニアだけは今まで戦争の影響を直接受けることがなく、グリゴロフ前大統領は「火薬庫バルカンの中にあってマケドニアこそ平和のオアシスなのだ」と自画自賛していました。
   しかしこの「平和のオアシス」は四面楚歌、グリゴロフ政権はかなり危ない橋を渡ってきました。東の隣国ブルガリアは歴史的にマケドニアを領有していた時期も長く、マケドニア語は言語学的に見てもブルガリア語と近い、あるいは一方言と言ってもいい程度の差しかありません。このためブルガリア内部では「マケドニア民族などというのはティトーが作った架空の民族だ」とする考え方も強く残っています。またマケドニアの右派もブルガリアを兄貴分と慕う傾向があります。しかし独立を勝ち取ったグリゴロフ中道左派政権にとっては「大ブルガリア」主義の介入は避けたいところ。何とか現在のマケドニアは「共存共栄で行きましょう」と、この国とは着き過ぎず離れ過ぎずの関係を保っています。
マケドニアの人口と民族比は?

  A民族が多数を占める国で人口比20%から30%程度のB少数民族が「A民族の圧迫を受け追い出されている」ことを強調したい場合には、「昔は30%以上だったのに、今は15%になってしまった」とB民族の人口を少なめに言った方が得ですし、逆に権利を主張したい場合には「40%はいるのに、少数民族だと差別されている」と言って過大申告する手もあるわけです。もちろん支配者のA民族がB民族の人口を操作する可能性も生じます。
  バルカンでは人口までもが時として民族主義政治の道具になり得ることは、コソヴォに関して第9回配信(囲み)で書きました。旧ユーゴでは国勢調査は10年に1回実施されますが、連邦解体直前に行われた91年の調査ではコソヴォのアルバニア人が集団でこれをボイコットしました。マケドニアのアルバニア人の大半もこれに同調しています。独立後のマケドニアでは99年に調査がありましたが、やはり非協力的なアルバニア人が少なくなかったため、マケドニアの総人口と民族比については81年までのデータ以外に信頼できる数字がないのが実状です。
(単位:万)総人口マケド人アルバ人
1971164114(69%)28(17%)
1981191128(67%)38(20%)
CIA204134(66%)46(23%)
試算A221143(65%)51(23%)
試算B257160(63%)69(27%)

  コソヴォでもマケドニアでも、アルバニア人が「子だくさん」でスラヴ系民族に比べ人口増加率が高いことは自他共に認めているところです。さてアルバニア人は現在マケドニアの人口の何割を占めるのか(自称では3分の1)。
  上表のCIAは99年の政府発表(総人口196万)を基にCIAがインターネットで発表している2000年の推定値です。先進国のニュースもこれに近い数字を引用することが多いようです。しかし61年以降10年ごとに17%、16%と順調に(?)伸びてきた総人口が、この19年で7%と急に先進地域並みの増加率に落ち着くというのは考えにくいことだと思いませんか?人口増加率が急激にダウンする原因は(1)急激な経済成長や「一人っ子奨励政策」などの要因で社会のノルマが変化する(2)出産可能な女性の人口が激減する(3)戦争などで人口の大流出が起こる、などが考えられますが、いずれも「無血独立」を果たしたマケドニアには当てはまらないと思われます。
  そこで71年から81年までの増加率(総人口は16%、マケドニア人12%、アルバニア人35%)を81年のデータに(20年ですから)2回掛けて得た数字が一番下の試算Bです。今度は総人口が政府発表と60万もズレてしまいました。これではいくら何でも極端かも知れない、ということで、この半分の増加率(または試算Bの増加率で得た91年の値)を適用して一つ上の試算Aとしてみました。試算Aでは総人口はともかく、民族比はCIA推定値に近くなります。
  ちょっと考えにくい数字ですが、アルバニア人の多さを主張する人々の肩を持って(?)、アルバニア人が試算Bの数字、マケドニア人が試算Aの数字(143万)だとすると、他民族が総人口の10%として総人口235万。アルバニア人69万はこの推定でもその29%で、やはり「3分の1」を主張するには無理がありそうです。
  数学、統計学に強い方は違う計算をされるかも知れませんが(ご教唆をお待ちします)、取りあえず私の素人計算からは「マケドニア人6割強、アルバニア人約4分の1と言っていればバチは当たらないだろう、アルバニア人の3分の1はやや誇張」と結論しておきます。
   ギリシア人にとってマケドニアとは、アテネに次ぐ第二の都市セサロニキを中心とするギリシア北部の地域名であり、何よりアレクサンダー大王ゆかりの名。その栄えある名を何百年も後になって来たスラヴ人が国と民族の名として僭称するのは「何とか猛々しい」もいいところではないか。欧州連合(EU)の中で唯一ギリシアが「名称問題」をタテに独立承認を拒否、93年EUほか先進各国はマケドニアを「旧ユーゴ・マケドニア共和国(FYROM)」という名で承認し、一応ギリシアの顔も立てました。マケドニアはこの名前で国連にも加盟しました。中道左派シミティス政権が成立してからはこの冷え切った関係も緩和。現在はスコピエに領事館が置かれ、マケドニアの貿易相手国としても重要な位置を占めています。
   グリゴロフ大統領、ツルヴェンコフスキ首相ら前政権が一番警戒していたのはセルビアでした。確かにセルビア民族主義者の間にはブルガリア同様、「マケドニアなんて国はセルビアの一部」と言い切る人々がいることも確かですし、かのミロシェヴィッチ政権が軍事力の優位をもって何をするか分からない、という考え方は政府筋だけでなく、かなり一般的に広まっていました。もっとも経済制裁下ながらセルビアはマケドニアの重要な貿易相手国(6位)ですし、クロアチアやボスニア連邦に比べれば「セルビア人が嫌われていない国」でもありました。この辺が四方どの国とも着き過ぎず離れ過ぎず、のマケドニアの巧みさだったとも言えるでしょう。
   総人口の約4分の1を占めるアルバニア人が西のアルバニア本国に隣接する地域に集中し、コソヴォ紛争が拡大すればマケドニアに飛び火しかねない、という懸念は最初からありました。そのためツルヴェンコフスキ前首相はアルバニア人民主繁栄党と連立を組み、閣僚ポストも与える懐柔策を取りました。93年にはスコピエで一度アルバニア人の暴動が起こっていますし、テトヴォでアルバニア語による高等教育実施への要求は数次にわたって続いていました。このようにアルバニア人の権利要求が強まる「芽」はありましたが、コソヴォなどに比べマケドニアのアルバニア人は穏健である、という評価が定着し、その後はアルバニア本国内戦やコソヴォ紛争の激化の影響を大きく受けることなく推移していました。国連が初めて紛争予防を目的としてコソヴォ国境地域監視に派遣した予防展開軍(UNPREDEP)がニラミを利かせていたことも小さくはないと思われます。
スコピエ中心部の石橋とヴァルダル川。大アルバニア主義過激派は首都でもヴァルダル左岸(写真右側)まではアルバニア人の土地、と主張している
   と言うわけで、順風満帆にはほど遠いものの、4隣接国全てと利害の対立する文字通りの「四面楚歌」の中、何とか戦争や深刻な対立を抑えてきたことはグリゴロフ前政権の実績として評価できると思います。

   98年のマケドニア議会選で中道左派政権が倒れ、右派のリーダー、ゲオルギエフスキが首相に就任しました。彼が率いる政党は、その長ったらしい党名「内部マケドニア革命組織・民族統一民主党(VMRO−DPMNE)」からも想像できる通り、、19世紀末に有力だったVMROの後継政党を自認、中には「ギリシアやブルガリアで少数民族の扱いを受けているマケドニア人の統合を目指す」、などという危険分子もいることで知られた民族主義政党です。中道の民主選択党との連立、民主繁栄党とは政敵関係にあったA・ジャフェリのアルバニア人民主党の選挙協力を得て過半数の62議席(定数120)を抑えました。ツルヴェンコフスキ前政権のやり方を継承して、アルバニア人民主党(11議席)も連立与党に取り込み安定を図りました。ゲオルギエフスキ第5次内閣の副首相、国防・内務の各副大臣はアルバニア人です。99年暮れの大統領選では、やはりジャフェリが協力を宣言することで、苦戦を予想されたトライコフスキ候補が逆転勝利した経緯があります。
   上の段落でアルバニア人の政党名を二つ挙げましたが、現与党連合内の民主党は前政権党の民主繁栄党よりも「右寄り」で、ジャフェリ党首はより多くのアルバニア人から「ボス」として認められている存在だとのこと。先日まで続いた第5次内閣は、マケドニア右派のゲオルギエフスキと、アルバニア人右派のジャフェリという利害が全く対立する2勢力の連立政権というわけです。現ユーゴ連邦ではセルビアの反ミロシェヴィッチ派と旧親ミロシェヴィッチ派のモンテネグロの政党が連立を組むという「ねじれ」が生じていますが、これはそれ以上のねじれではなかったかという気がします。
   ベオグラードの日刊紙ダナスのトロフ論説主幹は、現在の紛争はこの政権の構造的弱点をアルバニア人過激派に突かれた結果ではないか、と分析します(3月17日付)。「連立政権はグリゴロフ前大統領が10年を掛けて築いてきたもの全てを叩き売りしてしまった。トライコフスキ・ゲオルギエフスキ政権にはジャフェリと妥協するしか道はないが、彼らの要求はマケドニアの連邦化であり、その先にある目標は独立だ」。
マケドニア西部地図。灰色の点線は「大アルバニア」主義者が固有の領土と主張している境界線
   背景にはもちろん、コソヴォ・セルビア本国南部問題があることは間違いありません。コソヴォが事実上ユーゴから「独立」し、抑圧していた敵セルビア人との対立がほぼ解消されました。一方セルビア本国南部(プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ地域)での戦闘は昨秋以降続いていましたが、先進国から受けのよくなった現ユーゴ政権が政治的勝利を重ね、コソヴォに隣接する地域にユーゴ軍・警察の段階的展開が許されました。24日からその最終段階としてプレシェヴォ周辺にもユーゴ軍が再展開を始めました。コソヴォほどではないにしても少数民族としての言語・教育などの権利に問題を抱える背景があり、さらにコソヴォ・セルビア南部問題でのアルバニア人独立要求が手詰まり状況に陥る中、マケドニアでのみ事態が「噴出」している、簡単に言えばそのように見ることが出来ると思います。マケドニア人当局側は「我々は出来るだけ少数民族の権利を保障している。もし至らないところがあれば話し合いはするが、武力闘争はもっての他だ」。アルバニア人側は「完全に抑圧されている。権利を拡張するための闘争が政治的にうまく行かないなら武力に訴えるしかない。目標は憲法改正・連邦化だ」。旧ユーゴの他の地域で起こった「強者の(弱者に耳を傾けない)論理」で「弱者の(少しムチャな)要求」を押さえ込む、という図式が、大アルバニア主義の流れと合同して今回の事態に陥ったわけです。セルビア南部地域と併せ、欧米のアルバニア人ロビーからは年間200万ドルにも上る資金が流入して武器マネーになっている可能性が高い、と指摘する声もあり、アメリカでは解放軍をテロリスト組織として指定し送金を禁ずる可能性も出ています(ユーゴの日刊紙ダナス22日付による)。
   民主繁栄党、ア民主党などのアルバニア人政党が、それでは解放軍とどのくらい「連動」しているのか、が謎です。ミテフスカ新外相は「あくまでも政党代表者と民族の権利については話し合って行くが、テロリストとの話合いには応じない」としています。また解放軍側は上記両政党が入った挙国一致内閣の正当性を認めない、と発表しています。筆者は、少なくとも政党上層部は解放軍の現場での出方を指示する立場にはないが、アルバニア人有権者は「党にも解放軍にもシンパシーを感じる」という現状から、あまり解放軍に対して冷淡な態度を取れないのだと推測しています。
政府側の歩み寄りはある程度やむを得ないが、経済状態からみると紛争をやっている場合ではない、と言う宮崎さん
   ベオグラード大学大学院で南東欧の政治経済を研究する宮崎泰徳さんは、「結局マケドニア政府もある程度はアルバニア人の権利拡張に歩み寄らざるを得ないと思うが、大アルバニア要求はとても成功の芽がない」と言います。「紛争がなくてもバルカン地域の民主化・経済援助は欧州連合(EU)や国際諸機関の予算を圧迫している。本来ウマの合わないはずのゲオルギエフスキ右派政権にアルバニア人も参加しているのは、そう言った国際社会の強い圧力があるからだと考えられる。西側には政治的に少数民族問題を解決させ、武装組織には妥協せずに何とか紛争を終わらせたい考えが見える」。
   実際、リンドEU議長国(スウェーデン)外相、ソラナEU上級代表(共通外交安保政策担当)らが3月危機以降スコピエに「日参」と言っていいほど通っては政府要人やジャフェリらアルバニア人指導者と会談しています。紛争解決の折には早期EU入りの可能性、もちらつかせながら、4月には他バルカン諸国に先立ち「EUとの安定協力連合」にマケドニアを引き入れました。ソラナ代表は「武装組織との話合いは論外だが、政府軍にはあまり派手な掃討作戦をしないよう」呼びかけ、穏健に事態を解決させようと苦心しているようです。
   マケドニアの一人当たり国内総生産(GDP)は99年の実績で1690ドル(アトラス=世銀方式)で、アルバニア、ユーゴよりは上というものの、旧東欧平均を大きく下回ります。宮崎さんは「バルカンの中央に位置する『地の利』はあるのだから、政治的に落ち着けば外資が導入されて輸出入の拠点になり得る。紛争状態はマケドニアにとっても、先進国の援助戦略にとっても大きなマイナスだ」と指摘します。

テトヴォで解放軍と銃撃戦を展開するマケドニア警察・軍合同勢力(写真提供:Nova Makedonija)
   3月危機時にテトヴォのマケドニア警察勢力を取材したある邦人ジャーナリストから話を聞きました。「全然戦争をしたことがなかった国らしく、警察の治安部隊ものんびりしたものです。スーパーの近くにポイントを設けてあって、ある程度銃撃をやって一段落すると、そのスーパーの酒で酒盛りなんかやっているんですよ。でコソヴォ展開部隊(KFOR)のドイツ隊の基地が近くにあるんですが、それがたまに通りかかったりすると慌てて酒を隠したりしていました。『戦争慣れ』しているセルビア治安部隊に比べるとだいぶ弱そうですね。そう簡単に解放軍をせん滅できる実力ではないと思いますし、長期化するかも知れません」。マケドニアの軍備は常時兵力2万、戦車(T−55など)98台、装甲車両約120台で、空軍兵力はなし。3月に慌てて攻撃用ヘリをウクライナ、ギリシアなどからレンタルしました。まあお世辞にも強い軍ではありません。一方の解放軍は自称兵力1・7万で、迫撃砲、多弾装ロケット弾発射装置などを持っていますが、力では劣る分山岳地域でゲリラ戦を得意にしているのが強みです。
   最初にも述べたように、マケドニアの状況についてウォッチャーの意見はニ分されています。セルビア南部問題の解決とともにマケドニアでも掃討が行われ、事態は挙国一致内閣内部での政治的解決に向かう、とする見方。一方この後で本格的な対立に至り、さらなる流血は免れ得ない、とする見方。かつての「平和のオアシス」は「戦争と平和の間」(AFPネット版18日)で不透明によどんでいます。

(2001年5月下旬)


画像の転載を許可して頂いたノヴァ・マケドニア紙編集部に謝意を表します。写真の一部は2000年9月に日本のテレビ取材に通訳として同行した際筆者が撮影したものです。その掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。


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