「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2002/10/20

第62回配信
選挙なんてこんなモンさ


ベオグラードでのコシュトゥニツァ候補支持集会にて。同候補は対抗馬に「圧勝」したが、投票率が50%に満たずセルビア大統領選は不成立に(画像提供:吉田正則氏)
   第59回配信で表でまとめたように、この秋は旧ユーゴ各地で選挙が続き、ウォッチャーにも多忙な季節になっています。日本ではあまり詳説されることがない各選挙の主な結果についても筆者のコメントとともに示しますが、今回配信のもう一つのテーマは、選挙ニュースをフォローしていて時々気になる監視団やら世論調査やら、「選挙に付き物だけど選挙そのものではない」もろもろを巡る話題です。
   日本の報道でも伝えられている通り、10月13日に第2回(決選)投票が行われたセルビア共和国大統領選は、コシュトゥニツァ・ユーゴ連邦大統領がラブス連邦副首相に得票数で倍以上の大差を付けましたが、投票率が50%に満たなかったため選挙そのものが無効、もう一度最初からやり直しになってしまいました。
   11人の候補による第1回投票を直前にした9月19日、ストラテジックマーケティング社が発表した事前予測が物議をかもしました。選挙戦がラストスパートに入る時期で、各社の調査発表が続いていましたが、いずれもコシュトゥニツァ候補の有利(ただし第2回投票持ち越しは確実)という数字を出す中、ス社のボゴサヴリェヴィッチ社長は「ラブス候補が再逆転、あと2%伸びれば第1回投票で決まる可能性も」としたのです。同社は他の各社に比べ調査母集団が多く、従来信用度が高いとみなされてきたこと、また後述の非政府系選挙監視団体でやはり信用度の高い自由選挙民主化センター(CeSID)と提携関係にあることから注目されました。統計学の専門的な観点からの批判もありましたが、政治的なコメントも相次ぎました。ボゴサヴリェヴィッチ氏がラブス候補を推薦する市民団体G17(実際は共和国政府ジンジッチ首相のブレイン団体)に近い人物であることが知られていたからです。
セルビア共和国大統領選
第1回投票(9月29日=投票率56・2%)
V・コシュトゥニツァ(セ民主党)30・9%(約112万票)穏健右派
M・ラブス(市民団体)27・4%(約100万票)中道左派
V・シェシェリ(セ急進党)23・2%(約85万票)右派・極右
4位〜11位得票者省略。単独で50%を越える得票者がなかったため上位2名による第2回投票に持ち越し。
第2回投票(10月13日=投票率45・5%)
V・コシュトゥニツァ(セ民主党)66・9%(約199万票)穏健右派
M・ラブス(市民団体)30・9%(約92万票)中道左派
投票率が50%に満たなかったため規定により選挙無効、不成立。
   マスコミや調査会社の事前予測が、不利とされた候補への「判官びいき」を助長するという「アナウンス効果」は、当地でも専門家や報道関係者などではよく知られています。このため日曜日が投票日の場合、金曜以降は報道その他公の場で選挙宣伝のみならず事前予測も発表が禁止されています。今回はラブス候補が翌20日の選挙集会から「あのストラテジックマーケティングもあと一歩だと言っている、皆さんの応援を」と利用。むしろ不利が分かっていたラブスに有権者の「勝者に付きたい」心理をくすぐるためのネタを提供する「逆アナウンス効果」だったのではないか、という疑惑がウォッチャーの間では囁かれました。結果は表に示した通りラブス2位通過で、他の各社の予測の方がより正しかったことが分かりました。意図したものか否かはともかく、ボゴサヴリェヴィッチ氏の「読み違い」によりストラテジックマーケティング社の評判に傷が少し付いた格好になりました。
   一方、同社が提携する選挙監視団体CeSIDは、独自集計結果の速さと正確さでむしろ信用性を高めることになりました。
13日20時の記者会見で選挙成立困難の見通しを発表する自由選挙民主化センター(CeSID)関係者。発表の速さと正確さには脱帽
この団体はミロシェヴィッチ政権時代、選挙不正疑惑から反体制デモがうねりを見せた翌年の97年に認可されています。しかし選挙立会いが正式に認められるようになったのは一昨年のユーゴ政変以降。それまではいわゆる出口調査だけしか許されず、それでも正確かつ敏速な結果発表をモットーとして活動を続けてきました。今回選挙では15000人を越える監視団でコソヴォを含むセルビア全体をカバー、立会人として違反・遺漏をチェックするのみならず、並行して結果調査を行い敏速に集計結果を届けています。もちろん正確な数字は共和国選管の発表を待たなければなりませんが、公式発表はある程度まとまった数字が出るまで時間が掛かるため、マスコミからより多く引用され高い信用を得ているのはこの非政府団体なのです。
   投票率50%に達するかどうかが注目された13日の第2回投票の場合、20時の投票所締め切り直後には同団体が「19時の時点で推定投票率41・7%、成立は難しくなった」との見通しを発表。1時間後には「コシュトゥニツァ候補が66・5%の得票で31・3%のラブス候補に大差を付けたが最終投票率は45・5%」と発表し、すぐに世界中に「セルビア大統領選不成立」のニュースが流れました。上表の公式発表と比較して頂ければお分かりのように、3つの数字とも誤差は0・5%以内でした。CeSIDにはまさに脱帽です。

   天下の悪役ミロシェヴィッチは不在、ラブスもコシュトゥニツァも急速・緩速の違いはあるものの改革論者であることには間違いなし。争点が見えにくい選挙となった上、第2回投票では圧倒的な不利を予想されたラブスの支持者が「死に票による選挙成立」を嫌って棄権したこと、当日は最高気温9度前後とこの時期にしては寒く、しかも雨が続いたことなどが低い投票率の原因として挙げられています。
帝王のように振舞ってきた(?)ジンジッチ首相だが対立するコシュトゥニツァの勢いは止め難く窮地に
結果的にコシュトゥニツァと対立を深めているジンジッチ・セルビア共和国首相らには恵みの雨となり、態勢立て直しの時間が与えられた わけですが、政局の混乱は既に深刻化しています。
   第1回投票を前に、ジンジッチ率いる与党・セルビア民主野党連合(DOS)の中道派有力2党(チョーヴィッチ共和国副首相、ミチューノヴィッチ連邦下院議長ら)がコシュトゥニツァ支持を発表。それまで「ラブスは市民団体の候補だから第1回投票は静観」の構えだったジンジッチ派を慌てさせました。第1回投票日直前の9月26日、ベオグラードでのラブス支持集会にはジンジッチ自らが登場し応援演説をしましたが、これでDOSの分裂はもはや誰の目にも明らかなものとなってしまいました。
   ジンジッチ派の一部は今回の不成立を受けて12月上旬にやり直し選挙を実施すべく動き出しました。全欧安保協力機構(OSCE)など国際社会は「50%条項を定めた現行選挙法の改正」を求める声明を発表。これを受けてコシュトゥニツァ派、さらにはジンジッチ派内部からも共和国議会の開催の要求が上がっています。しかし、議会はコシュトゥニツァが党首を務めるセルビア民主党を今夏ジンジッチらがDOSから除名、さらに議会議席を剥奪したことから議席数不明という異常な事態になっています(18日ユーゴ連邦憲法裁は、議席剥奪決定の仮差し止め命令を下しました)。元はと言えばジンジッチのワガママがこの状態を招き、それがまたジンジッチ派人気急落の原因になったと考えられますが、今後議会が平常化できるかどうかが注目されています。選挙法改正論議だけでなく、新国家セルビア=モンテネグロの憲法草案も11月8日までに批准しないと欧州評議会への加盟がまた先送りになってしまうからです。ジンジッチ派にとっては、たとえ変則状態でもこのまま現状維持を続けるのが一番有利なわけですが、今回選挙で勢いに乗った政敵コシュトゥニツァ派は議会を平常化した上で、チョーヴィッチらと提携し解散・選挙に持ち込んでの勢力逆転を狙っています。ジンジッチ派がやり直し大統領選でラブス以上の得票力のある候補を擁立することは難しく、さらにこのまま議会選になった場合は敗色が濃厚です。セルビアの混乱がどこまで続くかは、窮地に立たされたジンジッチの決断次第だと言えます。

   10月5日の総選挙の時期にボスニアに滞在する機会がありました。この国では95年のデートン包括和平協定成立後、
10月上旬のボスニア・サライェヴォ中心部。ミリャツカ川沿いの電信柱には選挙ポスターがどこまでも並ぶ
96年を皮切りに99年と昨年を除く毎年、何らかのレベルで選挙が行われて来ました(外国人には分かりにくい複雑な議会・地方自治制度が包括和平で出来上がってしまったからですが、その善し悪しについては今回は論じません)。今回は初めて国際社会のテコ入れではなくボスニア国民が自力で実施する選挙である点が注目されました。とは言え前回まで選挙を仕切ってきた全欧安保協力機構(OSCE)は民主制度・人権問題事務局から280人の監視団を派遣しました。この中の短期監視団員2名から現地で話を聞く機会があったのですが、どうもOSCEの「お役所ぶり」というのが私のような者にはちょっと理解し難いところがあるようです。
   短期監視団は10月1日に現地入り、サライェヴォで2人一組のチームが編成され、各任務地に振り分けられて5日の選挙当日に備えるわけですが、長期監視団と中央チーム計30名は9月4日、つまり選挙の1ヶ月以上も前にサライェヴォ入りしています。短期監視団員でOSCEに勤める東欧某国の女性は言います。「長期監視団は監視する国の憲法、選挙法を読んだり、地元報道、政党の動向、選挙委員会の作業などをフォローし、選挙直前に来る短期監視団にブリーフィングをする、というのが任務です。でも実際はこれは建前で、長期監視団はOSCE内部の人がほとんどなのですが、基本給に1ヶ月分の出張日当が付くオイシイ仕事なんですよ。だいいち憲法や選挙法も現地語で読める人は少ないですから、現地に来なくても済むはずですよね。実際、短期監視団に入る外部の人の中には現地の事情に詳しい学者なども多く、そんな人たちにとっては自分より詳しいわけがないOSCEの人のブリーフィングなんて聞きたくもない、というのが本音だと思います。また現地当局にしてみれば監視団から『この選挙は民主的だった』と言われることが国際政治上重要な点数稼ぎになるわけですが、そういうコメントを発するOSCE議会や欧州評議会の代表が入っているのも実は短期監視団なのです」。
OSCEは今秋旧ユーゴ各地の選挙に監視団を派遣するが、その意義は?(セルビア大統領選前日ベオグラード市内のホテルにて)
   あれあれ、長期監視団は1ヶ月も何をやっているんでしょうねえ。短期監視団の現場業務というのもかなり形式的な作業です。ひとつの投票所に30分、という目安が指定されていますが、そこで調査時間までの投票総数、重要な選挙手続き上の遺漏がないかなどをチェックし、30分間の調査時間で何人が投票したかを数える、という、あまり選挙全体には意味の感じられない手続きです。夫婦、家族などで一つの記入ボックスを複数の有権者が同時に利用するのは違反ですが、例えばそういう行為が短期監視団の眼前で行われてもチェックリストに記入するだけで、立会人などに発言することは許されないとのことです。「真面目にやろうとする監視団員には30分では短いと思いますね。逆に残念ですが『やっつけ仕事』のいい加減な監視団員もいるのではないでしょうか」と前述の女性。
   この女性とチームを組む男性はG8先進国の元英語教師です。定年で隠退してから時間を持て余していたのですが、知人から「いろいろな国の現地の人々と交流が出来るし面白い仕事だ」と勧められてOSCEに応募したそうです。そういう人々を送り込める某先進国の余裕、そして彼自身の余裕ある隠退生活ぶりには感心しましたが、この人もボスニア、旧ユーゴに関しては全くの素人で、話を聞くはずだった筆者の方がなぜか質問されて「旧クロアチア人支配地域というのはですねぇ・・・」などと説明しなければならなかったりしました。
   OSCEはモンテネグロ、セルビアなど今秋旧ユーゴ各地の選挙にボスニア同様の監視団を派遣します。彼らに「民主的だった」と言われることが大事、というのが国際政治なのかも知れませんが、内部事情を聞いた限りでは、この「監視任務」は形式的なお役所仕事の面が強すぎるのではないかという疑問も覚えざるを得ませんでした。
ボスニア総選挙の主な暫定結果(不在者投票分を除く10月9日発表分=10月5日実施、投票率55%)
幹部会員ボスニア人枠幹部会員クロアチア人枠幹部会員セルビア人枠
当S・ティヒッチ(民主行動党)当D・チョヴィッチ(ク民主同盟他)当M・シャロヴィッチ(SDS)
次H・シライジッチ(SBH)次M・イヴァンコヴィッチ(HDU)次N・ラドマノヴィッチ(独立社民連)
 
中央議会ボスニア連邦枠ボスニア連邦議会下院セルビア人共和国大統領
民主行動党32%民主行動党33%当D・チャヴィッチ(SDS)
SBH16%ク民主同盟他16%次M・イェリッチ(独立社民連)
社民党16%社民党16%D・ミケレヴィッチ(民主進歩党)
   初のボスニア独自実施となった今回選挙のうち政党を選ぶ選挙では、非拘束方式(オープンリスト)が導入されました。日本でも昨年から参院選で実施されていますが、ボスニアの場合は政党と候補者のリストが有権者に渡され、(1)政党にマルを付けても(2)1人ないし複数の候補者にマルを付けても(3)政党とその1人ないし複数の候補者にマルを付けても有効。ただし(4)マルを付けた政党と異なる政党の候補者にマルが付いている場合や(5)複数の政党(にまたがって複数の候補者)にマルを付けたものは無効票、というルールでした。非拘束方式導入により、候補者の順位を政党が恣意的に決める(あるいは候補者がカネで順位を買う)のを排除する、という基本的な考え方は分かるのですが、日本でも「タレント議員の得票を助長する」「開票集計に時間が掛かる」と評判が芳しくないこの方式は、何より「有権者に分かりにくい」というのが難なようです。昨年の参院選に参加しなかった筆者は、今回ボスニア総選挙の説明を3回読み直してようやく理解出来ました。どれが一番正しい選挙方法か、という議論に終わりがないのはいずこも同じ、という感です。

   ボスニア(ここではボスニア人地域)の「再右傾化」はある程度事前に予測されていました。
2年前大きな期待とともに政権に就いた社民党政権だが今回選挙では完敗。ラグムジヤ党首の責任問題が浮上している
2000年にラグムジヤ外相率いる社民党を中心とする非民族主義連立政権が誕生し大きな期待を寄せられました。同政権は外交でこそ欧州評議会加盟など点を稼いだものの、経済問題で有権者に実感を伴う実績が挙げられず、ラグムジヤ自身の評判も「自己中心的でキザ」と2年前に比べ著しく落ちています。そんな中で躍進が確実視されていたのは、同じく連立政権内ながら社民党より保守色の強いシライジッチ党首率いる「ボスニアのための政党(SBH)」で、社民党の人気幹部ドゥラコヴィッチ議員も同党に移ったことから勢いを得ており、もちろん幹部会員(ボスニア人枠)に立候補したシライジッチ自らも当選するものと思われていました。
   ところがフタを開けてみると、どのレベルでも旧政権党でイスラム保守勢力を代表し、SBHより右寄りの民主行動党がリード。幹部会員選ではイゼトベゴヴィッチの後継党首ティヒッチがシライジッチを押さえ当選、各議会では社民党だけでなくSBHも伸び悩むという意外や意外、の結果に終わりました。クロアチア人地区では保守民族勢力のクロアチア民主同盟(HDZ BH)を中心とする連合が圧勝、連立政権内の小政党・新クロアチアイニシアチブは惨敗を喫しました。一方セルビア人共和国でも中道左派に相当する独立社民連合が第2党の位置を確実にしましたが、勝ったのは保守民族勢力のセルビア民主党(SDS、隣国ユーゴのコシュトゥニツァが党首を務める政党DSSと邦訳上は同じだが無関係)でした。まだ各レベル議会内で多数を占めるための連立工作は続いていますが、少なくとも数の上では戦争遂行「悪のトリオ」とさえ言われた民主行動党・ク民主同盟・SDSの旧政権民族主義政党が軒並み復活してしまったのです。
退潮したはずの民主行動党は今回予想以上の大躍進、ティヒッチ党首自らも幹部会員に当選した(画像提供:民主行動党)
   民主行動党復活の一因については、ベオグラードの週刊「ヴレーメ」誌(10月10日号)が面白い指摘をしています。昨年9月11日の米同時多発テロ事件以来、連立政権はテロリスト狩りに協力姿勢を示しました。戦争中アラブ・イスラム諸国から当地に渡りボスニア国籍を得た人々や一部のイスラム教系宗教機関がテロ活動支持の疑いを持たれ、逮捕者も出しました。野に下っていた民主行動党はこうした動きを、表立った反米言動は控えながらも「国益に反し、また反イスラム的である」と政権攻撃の材料に上手に使ったのだ、というのです。
   民族主義トリオ復活で、ボスニアはまた戦争時代に後戻りしてしまうのでしょうか?「90年に同じ3党が勝った時も、イゼトベゴヴィッチは『ボスニアで戦争は起こらない』と言っていた」(週刊BHダーニ10月11日号)という一定の危機感はあるものの、10年前とは文脈が異なるというのが主なウォッチャーの意見です。国際社会を代表して民生部門を管理するデートン和平会議履行上級代表事務所(OHR)が実際には各政治家の「生殺与奪の権」を握っており、メチャクチャな(とOHRが判断した)決定を下せばクビになる仕組みが出来上がっています。また今春の憲法改正により、セルビア人共和国、ボスニア連邦とも意思決定に主要3民族のうち最低2民族の同意を必要とする枠組みが定められています。大型援助を得ての戦後復興が一段落し、今度は自力で経済発展へ向かう方向が定められたばかりのボスニア。どんな政党であれ、この方向へ向けて動き出さざるを得ない状況なのです。

   ボスニアでは右に振れましたが、マケドニアは左に振れました。
マケドニア議会選(定数120、9月15日=投票率73%)
マ社民党他11党連合60中道左派他旧野党
VMRO−DPMNE+自由党33旧与党連合
統合民主連合(BDI)16アルバニア人政党
アルバニア人民主党ア人政党、旧与党連合
諸派計----- 
政府軍とアルバニア人勢力の間で激しく続いた昨春の紛争(第46回配信参照)が昨秋オフリット協定で鎮静化した後の状況を受けての議会選です。ゲオルギエフスキ首相率いる右派VMRO−DPMNE(内部マケドニア革命組織・民族統一民主党)政権に対し、有権者は予想以上に厳しい判断を下しました。マケドニア社民党を中心とする野党11党連合が大躍進し、過半数には1議席足りなかったものの、ちょうど半数に当たる60議席を獲得。VMROは33議席にとどまりました。
意外にアッサリと(?)敗北を認め社民党の勝利を讃えたVMRO党首ゲオルギエフスキ首相(画像提供:Nova Makedonija)
アルバニア人政党では与党連合の一角アルバニア人民主党が不振、代わって票を伸ばしたのは昨年の紛争の片方の主役、民族解放軍を率いていたA・アフメッティ氏の統合民主連合(BDI)でした。VMROの党首、ゲオルギエフスキ首相は選挙当日夜には敗北を宣言しました。副党首ボシュコフスキ内相はやや往生際の悪いところを見せ、公式発表直前に国家選管に押し入り「重大な違反があった模様なので発表を止めるよう」選管委員長と掛け合い、にらみ合いになる一幕もありましたが大事には至らず。マケドニア政局は選挙を経て新しい力関係を確認することになりました。
   4年ぶりに政権に返り咲いた社民勢力はツルヴェンコフスキ前首相を首班とし、BDIとの連立組閣工作を進めています。マケドニアの政権党は常にアルバニア人のいずれかの政党を取り込まないと政局を安定させられないという運命にありますが、今回はマケドニア人穏健左派と、少数民族の元武闘勢力という組み合わせになりました。難航が伝えられた組閣工作は本稿送稿直前の18日にようやく両者間での申し合わせが成立、14の閣僚ポストのうちBDIが法務、交通通信、厚生、教育の4を占めることになった模様です。社民党側は元民族解放軍の司令官クラスの入閣を嫌っているため、まだ人事には多少の曲折もあり得ますが、早ければこのページがネット上にアップされる頃に新政府が成立することになりました。いずれにしても昨年のオフリット和平により、今後は国家と民族のステータスに関係する重要な決定はアルバニア人の同意なくして一方的にマケドニア人が下すことは不可能になっています。また議会はアルバニア語との2ヶ国語で開かれます。ボスニア同様、国際社会の圧力あって初めて、ではあるものの、(相対的)少数民族の声を無視した独走が出来ないような制度的枠組みが、「紛争直後」のマケドニアでも作り上げられつつあります。

   共産党が崩壊し戦後初の複数政党制選挙が各地で行われたのが90年。旧ユーゴ解体、悪夢の紛争の契機となったのがこの一連の選挙ならば、一昨年各国で反民族主義政変を起こしたのも選挙でした。右に揺れる国あれば左に揺れ戻す国あり、各国それぞれの歩みが始まっていますが、もうそろそろ武力紛争への「先祖返り」を心配しなくてもよくなったのではないでしょうか。次はモンテネグロ議会選(10月20日)、コソヴォ地方選(10月26日)、そしてスロヴェニア大統領選(11月10日)と続きます。モンテネグロ大統領選も12月22日に行われるべく公示されました。

(2002年10月中旬)


画像を提供して頂いた吉田正則氏、民主行動党ノヴァ・マケドニア紙編集部に謝意を表します。写真の一部は2002年9〜10月に筆者が通訳業務の前後に撮影したものです。その掲載に当たっては、各クライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。
Zahvaljujem se na saradnji: g.M.Yoshida, Stranka Demokratske Akcije, Redakcija "Nove Makedonije". Zabranjena je svaka upotreba bez ovlascenja.


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