「平和問題ゼミナール」
旧ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)
   
最終更新 2003/07/06

第71回配信
ペンキ真珠の感情と勘定


ドゥブロヴニク・旧市街市壁
   モノの本によれば、俳句の世界には「ペンキ富士」という不思議な言葉があって、銭湯の壁にペンキで描かれているような、快晴の美しい富士山の意味だそうです(小林恭二「俳句という遊び − 句会の空間」岩波新書新赤本169、1991)。伝統的に渋いテーマを扱うのが本筋という古典・保守系俳句では、誰が見ても美しい絵葉書のような富士とか、あまりにも観光地然とした現在の金閣寺のような風景は、揶揄の対象にこそなりすれ、あまり正面から勝負を挑む対象にはなり得ない、というのがこの言葉のココロのようです。
   そのデンで行くと、「アドリア海の真珠」と呼ばれるクロアチア第一の、いや旧ユーゴ第一の観光地ドゥブロヴニクは、なかなか書きにくい対象であることは確かです。皆さんがお泊りになるホテルに置いてある観光雑誌などで世界中の有名人のこの町への賛歌が毎年、いや毎月のように量産(?)されていますし、クロアチアの観光関連の本やネット情報でまず出てくるのは、あの青い海に浮かぶ市壁の中に赤い屋根が並ぶ旧市街。「アドリア海の真珠」のペンキ絵のような定番写真です。因みにこの町の歴史を少し詳しく攻めたい向きには日本語でも「中世都市ドゥブロヴニク − アドリア海の東西交易」(B・クレキッチ著、田中一生訳、彩流社東欧叢書2、1990)のような書籍が出ています。まさに絵のようなこの町の美しさは褒めて当たり前、ケナセば単なる揚げ足取りとして書く側の品位を疑われてしまうでしょう。筆者は別に俳句をたしなむわけではなく、また自分がここで書き殴っている(?)HPの文章を言語芸術だとか気取るつもりは毛頭ありませんが、各地の様々なテーマを扱いながら70回を越えた「旧ユーゴ便り」で、まだ第47回配信で長束恭行さん(「クロアチアに行こう!!」主宰)の貴重な情報を掲げた以外にはドゥブロヴニクに言及さえしていないのは、筆者が前回ここを訪れたのがこのHPの執筆開始より前の96年だったからというだけでなく、結局何を書いても、どんな写真を出しても「ペンキ真珠」的定番に負けてしまうのではないかという尻込みがあるわけです。しかし去る6月上旬に仕事で7年ぶりに訪れる機会にも恵まれましたから、賛歌でも揚げ足取りでもない筆者なりの下手なドゥブロヴニク・レポートを練ってみることにしましょう。

   筆者も含めてどんな写真の素人でも、天気にさえ恵まれれば絵葉書のようなショットが撮れてしまうのがドゥブロヴニクです。一種の観光番組の仕事だった7年前に調べた定番「ペンキ真珠」アングル撮影ポイントを皆さんにお教えしましょう。
筆者も北東側から定番アングルに挑戦。天気が良ければ誰でもこのくらいの写真は撮れてしまう
ヘリでの空撮や船から、という特殊なケースを除けば、南側の海にせり出した旧市街を収めるのはどうしても北から、ということになりますが、北の守りを固めるミンチェッタ塔を中心に北西側は市壁が高く、旧市街内部に並ぶ赤い瓦がよく見えませんので北西はアウトです。また真北、旧市街中央を構図の真ん中に入れて上から狙うのもいいポイントが少なく、また意外に長細く平べったい形に見えてしまうのでこれも今ひとつ。というわけで北東から押えるのが一番ということになります。旧市街に歩いて行ける距離のホテル・エクセルシオール付近でも構いませんが、どうせならもう少し高さがほしいところ。市東部の空港側からバイパスとして西のスラノ、ネウム方面へ抜ける主要道の旧市街北東寄り、またはここから旧市街方面へ降りて行く道に入りかけた付近に、手前の木や建築物が気にならないポイントがいくつかあります(右写真もその辺で撮りました)。逆光での撮影が苦手なインスタントカメラの場合は当然午前中から真昼がベストになります。ただし主要道ですから自動車にはくれぐれもご注意。

   7年前は筆者にとって91年の戦争後初めてのドゥブロヴニクでした。ディレクター氏と一緒に国営クロアチアTVに資料映像の買い付けに行き、戦争で旧市街が攻撃される様子をモニターで眺めました。筆者の住んでいるミロシェヴィッチ政権当時のセルビアでは絶対に放送されることのなかったドゥブロヴニク攻撃の映像は、もちろん仕事柄何度か先進国のTVで見てはいました。しかし港に黒煙が立ち上り、砲弾が何発も打ち込まれるというシーンを、旧市街が一番旧市街らしく見える北東からの固定アングルで繰り返し見せられると本当に心が痛みました。
   既にこの96年の時点では、攻撃から5年が経ち被害の跡は不注意な旅行者には気付かれない程度にまで修復していましたが、それから7年が経った現在はさらに修復が進み、こと旧市街に関しては、フランシスコ会修道院内部など一部を除きほとんど分からないと言っていい状態です。筆者は不幸にして大砲クラスや迫撃砲クラスの砲弾が舗石やアスファルトにどんな形の痕を付けるかだいたい承知していますので、必ずしも完全復旧していないことは見て取れるのですが、もう戦争から12年。せっかくドゥブロヴニクに戻ってきた観光客にそれを喚起するのは無粋というものでしょう。
   こうした復興に努力したドゥブロヴニク復興公団は現在も活動を続けています。
ドゥブロヴニク沖に停泊中の大型客船コスタ・アトランティカは2500人以上を一度に旧市街観光に連れてくる
この公団は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産への指定が決まった79年から活動していますが、93年以降はユネスコと協力関係を強めながらアクション・プランを進めました。今年は司教館の復旧(第1期40万ユーロ)、住宅の屋根瓦の新調(50万ユーロ)、耐震対策(99万ユーロ、地震ベルト上にあるこの町は歴史上何度か大きな地震による崩壊を経験しています)などをクロアチア文化省、県、市などの拠出を集めて実施する予定です。

   クロアチアはやはり南北問題のある国、というよりもマクロ経済の統計数値を底上げしているのは首都ザグレブだけ、というのが実態です。ドゥブロヴニク=ネレトヴァ県も、人口でクロアチア全体の2・6%を占めながら経済的収入は国全体の1・7%しかなく、先進地域とはとても呼べません。ホテル専属運転手のニコさんは「オリーヴ油工場などが昔はいくつかあったが、社会主義時代の古いシステムで海を汚すため今では一つになってしまった。ドゥブロヴニクで産業と呼べるものは観光だけ」と言います。実際に統計を見てみると、県の収入全体の40%、さらに他の名目に属しながら何らかの形で観光に関わっている部門も合わせれば実に70%弱が観光収入とのことです。
   01年9月11日以来、読者の皆さんもご存知の通り、観光業界は世界的な不況に入りましたがクロアチアに関しては訪問者数がこの2年も前年比10%、5%と増加を続けています。クロアチアの国内総生産(GDP)に占める観光収入の率は96年の10・1%から01年には16・3%に拡大しています。
オノフリオ大噴水、フランシスコ会修道院付近に砲弾が降ってから12年。その痕は観光客に気付かれない程度になっている
さすがにイラク紛争と新型肺炎(SARS)の影響を受けた今年最初の5ヶ月はクロアチア各地ともジリ貧気味ですが、ドゥブロヴニク地方だけは今季絶好調、前年同期比19%という驚異的な伸びを記録しています(統計はク商工会議所ク国家統計局各HP、6月10日付HINA通信などによる)。
   欧米の新しいトレンドは豪華客船によるクルーズのようです。筆者が滞在した時もロクルム島沖にはイタリアのコスタ・クルーズ社が運行する大型客船コスタ・アトランティカ丸が停泊しており、旧市街はイタリア人の団体であふれていました。コスタ・アトランティカは2000年夏に就航したばかり、船員920、乗客定員2680、船内にはカジノ、プール、ジョギングトラック、エステサロンなどを完備した豪華客船です。8万4000積載トンは先日9万1000トンの米ミレニアム丸が寄航するまでドゥブロヴニクに寄航した船の記録でした(ひと昔前までは5万トンで「超大型」の肩書きがついていたように思いますが、技術は進歩しているのですね)。こうした大型船は当地で「ホテル船」または一つの町がそのまま動くという意味で「シティ=シップ」と呼ばれています。昨年は約27万人がこうしたクルーズで市を訪れ(今年は40万人が予想されています)、停泊日数が少なくとも、あるいは下表の「1泊以上の観光客」統計に入らないような数時間の滞在であっても一度にたくさんの外貨がドゥブロヴニクに落ちるという意味で地元関係者の期待を受けています。因みにイギリスの旅行会社のサイトが紹介する「コスタ・アトランティカで東地中海7泊8日の旅」、一番安いキャビンで出発日により639英ポンド(約12・7万円)〜759ポンド(15万円)。あまりムチャな額ではありませんが、お金に余裕のある方がうらやましいです。

海岸7県観光客国別内訳(2002年年間)
ドイツ24・0%
スロヴェニア11・6%
ク国内11・1%
イタリア10・9%
チェコ10・4%
オーストリア  7・9%
ドゥブロヴニク市観光客数(2002年年間、カッコ内は前年比)
観光客(1泊以上)計249686(+4%)
延べ泊数計1101459(+2%)
  うちク国内客174084(-3%)
  うち外国人客927375(+3%)
出典:ク国家統計局、ク商工会議所
   増大する観光客に対応すべく、地元では建築ラッシュです。ラパド半島のホテル・ウヴァラは間もなく全面改装予定、プローチェ門に近いホテル・インペリアルは戦争被害で閉じたままでしたが、世界的高級ホテルチェーン、ヒルトンの資本により改築が進められ来年開業が見込まれています。5月28日ジュパン=ルスコヴィッチ観光相出席のもと、県のホテル業界代表者の会合が開かれました。「他の地域に比べわが県は先進国の観光客が多く、民泊よりもホテルの利用率が高いのが特徴だ。しかし戦前の89年に比較しホテルのキャパシティは58%に過ぎない」と関係者は指摘。これを受けて政府は翌日の閣議で当地ホテルの民営化のさらなる推進を了承した模様です(週刊ドゥブロヴァチュキ=ヴィエスニク紙5月31日号)。旧市街を眼下に見下ろすスルジュ山のロープウェーも戦争で破壊されて以来止まっていましたが、カルロヴァッツ・ビールの元オーナーで現在は旅行代理店コンパスを所有する富豪ルクシッチ氏が来夏メドの復旧計画を発表し期待されています。
   またグルージュ港のキャパシティはすでに飽和状態に近づいており、市内のACIマリーナの他ツァヴタット地区、ムリェット島などでマリーナの増設が真剣に検討されています。もちろん観光客が入ってくるのは海からだけではありません。昨年夏にはドゥブロヴニクの新しい顔、F・トゥジュマン橋が市の西の入り口に建設され、従来ドゥブロヴニク川河口地区を迂回していた主要道は12キロ短縮されることになりました。
   ただしこの斜張橋に民族主義政権時代の前大統領の名前を付けたのは、故トゥジュマンが党首を務めていたクロアチア民主連合(HDZ、現在国会レベルでは野党)が多数を占める市当局。ラーチャン首相率いるク社民党(SDP)のシンパらが「ただのドゥブロヴニク橋でいいではないか」と反対し、現在のところ橋の両側で違う名前の看板が立っています。
   高速道路ザグレブ〜スプリット線建設計画(05年完全開通予定)については、クロアチア経済を扱った第57回配信で触れました。7月末にはザダル第2〜ゴルニャ・プローチャ(内陸部ウドビナ近郊)間が開通予定で、短い区間ながら従来の難所だったヴェレビット山地がトンネルですぐに越えられることになります。クロアチア海岸東端の当地でも、経済的に他の海岸地域に遅れを取りたくないドゥブロヴニク地方の思惑から高速(autocesta)ないし高速に準ずる「快速道路(brza cesta)」の建設を、の声が上がりホットな話題となっています。
トゥジュマン橋(中央右手の斜張橋)が昨夏開通。手前のグルージュ港に替わるマリーナ増開設など、観光客の増大に陸海双方でのアクセス整備が急務となっている
シュプルリェ県知事らがドゥブロヴァチュキ=ヴィエスニク紙5月31日号に明らかにした内容によれば、スプリットからほぼ海岸沿いに通り、トゥジュマン橋手前までが高速。旧市街への悪影響を避けるため橋から東はスルジュ山中腹の高いところを通る「快速道」が空港(ツァフタット地区)まで、となっており、将来的にはモンテネグロ方面へ伸ばす可能性も持たせるようです。しかし一つ問題があります。海岸沿いに通るとドゥブロヴニクの西手前で十数キロ分だけボスニア領ネウムを通さなければならない点です(地図は下囲み参照)。ボスニアも高速整備の話は上がっていますが、まだクロアチアと国家間乗り入れ協定が成立するところまでは進んでいません。このため現在のところクロアチア領の海岸と半島を通る橋を建設してボスニア領を迂回する仮計画になっていますが、橋建築の財源も未確定。詳細は宙に浮いているところです。
   まだ計画案が政府を仮通過したというだけで工事開始年月などは全くの白紙ですが、シュイツァ・ドゥブロヴニク市長は「市内だけでなく県全体に入り組んだ地形のため孤立している地域が多い。その経済的統合には重要な意味を持つ計画だ」と評価します。しかしドゥブロヴニクの交通量が増え、現在でも混乱気味の市内交通の状況がさらに悪化するのではないかという声も既に出ています。またネウムなどクロアチア人同胞が多数を占めるボスニア南部を迂回し、旧敵国モンテネグロとの交通を増やす可能性を持たせることについては、民族感情から賛否双方の議論を呼んでいます。「歴史的に自治を貫いてきた(から旧敵国との交流は拒否してもやっていける)」 一方で、「クロアチアナンバー1の観光地(で、観光しかないのだから隣国も視野に入れてさらなる発展を)」というドゥブロヴニクの人々の二つの感情/勘定から来る論議はしばらく続きそうです。

安売り天国ネウムの「沈没」

 第29回配信末尾で言及した「ボスニアの海」
ネウムは、実は2000年初めの同配信執筆当時「安売り商店」天国でした。プローチェ、ドゥブロヴニクなど近隣海岸地域のクロアチア人がこの町にクロアチア製品を買出しに来るのです。ボスニアの購買力が低く、またネウム前後での国境・関税管理がずさん(ネウム近辺はクロアチア人勢力支配地域に属します)だったため、慢性物価高のクロアチア本国に比べ同じ製品がかなり安値で買えたことが理由です。しかしその後ボスニア民政当局(OHR)による国境・関税管理と密輸取締りが徹底され、この数年はネウム・ショッピングにもかげりが見えていました。プローチェ方面から陸路ドゥブロヴニクに向かうとネウムの前後で簡単な国境審査があります。
 郊外型ハイパーマーケットは現在東欧全体でトレンドとなっていますが、5月29日ドゥブロヴニク郊外のチバチャ地区にも総敷地面積9300平米という大型マーケット、ゲトロがオープン。開業10日で延べ5万人を越える消費客が訪れました。国内系ながら欧州復興開発銀行(EBRD)を株主とする同社は近年成長めざましく、既にクロアチア全土に9つの店舗を構えていますが、これによりドゥブロヴニクでも他地域同様旧来型店舗との値下げ競争が起こることは必至で、「買出しに行く必要はもう全くなくなった」(あるドゥブロヴニク市民)というネウムの「没落」はほぼ確定のようです。
 なおネウムとドゥブロヴニク地域に関しては「世界飛び地領土研究会」(「ドゥブロヴニク」の項)という日本発の面白いサイトが触れていますのでご興味のある方はご参照下さい。

   6月6日、ローマ法王ヨハネ=パウロ2世がドゥブロヴニクを訪れました。78年に法王の座に就いて以来、積極的に外国での活動を続ける同法王にとって記念すべき100回目の外遊先として選ばれたクロアチア滞在(6月5〜9日)の一部です。30度を越え6月にしては暑すぎる日でしたが、グルージュ港に設けられた会場は5〜6万の人々で埋まりました。
専用特殊車両ポープモービルで旧市街の目抜き通りプラッツァを行く法王ヨハネ=パウロ2世
83才の高齢に加え、持病のパーキンソン病の悪化により一時は退位説(法王が生前に引退した例は過去400年ないそうです)も囁かれていましたが、多くの市民の歓迎を受けてミサの後は専用車(ポープモービル)で旧市街のメインストリート・ストラドゥン(プラッツァ通り)をパレード。健在な姿を見せました。ミサ途中の説教で法王は述べます。
   「この伝統と栄光の町ドゥブロヴニクに来たことを嬉しく思います。この町こそは 自らの歴史に、また自由と正義、全体の善を深めてきたという遺産に誇りをもっています。それは聖ロヴリェナッツ砦の入り口の石に刻まれた『いかなる黄金をもってしても自由を売るは正しからず』、総督邸大評議会の扉に刻まれた『私事を忘れ公共の善に務めよ』が示すものです」。

   この法王訪問取材の準備段階では、筆者は本拠地のベオグラードにいました。テロ全盛(?)の昨今、報道陣の取材用登録もなかなか大変で、法王滞在中のドゥブロヴニクは許可車両以外は全面通行止めになるので、記者の他に自動車の登録をしなければならないとのこと。7年前のテレビの仕事の時、運転手として活躍してくれたダリオの名刺を埃まみれの箱から取り出して連絡しました。大塚:「と言うわけなんでナンバーを教えてよ」。ダリオ:「DU−XXX−BVだよ」。クロアチアのナンバープレートは地域の略号(ドゥブロヴニクはDU、ザグレブはZG、など)と3桁の数字、その後にアルファベット2文字という組み合わせです。
全面交通規制の中での法王取材に地元ダリオ運転手は欠かせない存在だった
電話でのやり取りでベーヴェー(BV)がべーべー(BB)やヴェーベー(VB)ではないことを確認するために、「ビエロヴァルのB、ヴコヴァルのVだね?(いずれもクロアチアの地名)」と聞いたら、筆者が旧敵国の首都に住んでいることを知っているダリオは「ベオグラードのB、ヴァリェヴォのVだよ(いずれもセルビアの地名)」とやり返してきました。お互い苦笑。
   「法王の100回記念の外遊でクロアチアが選ばれ、その中でドゥブロヴニク訪問が実現したのは町にとっていいことだと思うね。何より観光しかないドゥブロヴニクのいい観光宣伝だし、クロアチアの欧州連合(EU)加盟への、目立たないけれども意味のある一押しになりそうな気がするよ」とダリオは言います。
   実はこの法王訪問と前後する6月上旬、セルビア=モンテネグロ外務省はEU加盟国、加盟準備国のほかクロアチア国民などに一方的査証免除措置を発表、対抗措置としてクロアチア外務省もセルビア=モンテネグロ国民への査証免除を年末までの時限付きながら紛争後初めて実施し始めました。距離はともかく、理論的にはベオグラードで筆者が懇意にしているセルビア=モンテネグロ国籍のカメラマン・運転手などのスタッフと一緒に、ヴィザを取る面倒なしにドゥブロヴニク取材も可能になったのです。もちろんベオグラードに筆者が帰って「ドゥブロヴニクに行ってきた」と言えば、周囲の10人中9人からは羨望を集めるわけで、セルビア人にとって近くて遠くなってしまっていた「アドリア海の真珠」は今でも特別な場所だと言えます。すぐにセルビアの観光客が殺到するとは思いませんが、徐々に戻ってくることは間違いないでしょう(注:日本国籍保持者にはクロアチアもセルビア=モンテネグロも観光査証は不要です)。
   第69回配信に書いたような(将来のEU入りのための前提条件である)善隣関係の醸成、地域協力は少しずつ具体化しているわけですが、ドゥブロヴニクの人々の間にはセルビア人、モンテネグロ人に対する感情的な抵抗がまだまだあります。前出のニコさんは「セルビア人全体を恨んでいるわけではない。だが査証免除でセルビアやモンテネグロの観光客がどんどん来る、というには時期尚早だ。まず政治家が公式謝罪するなどの形式を踏む必要があると思う」と言います。これが市民の声を代表しているようにも筆者には思えますが、一方でダリオは「もちろんあの攻撃は許せるなんてものじゃない。でもドゥブロヴニクは観光の町なんだから、モンテネグロ海岸の観光地と組み合わせて、ドゥブロヴニクにもコトル(モンテネグロのユネスコ世界遺産)にも寄る、というスタイルが復活すればいいと思う」と実利的です。
   いかなる黄金をもってしても自由を売らぬことを是としてきた誇り高きドゥブロヴニクの人々に砲撃するという、犯してはならない蛮行をユーゴ連邦軍が犯してから12年。建物や道から傷跡が消えたほどには人々の心に残した傷はいえ切っていません。しかし高快速道路建設計画や査証免除の例にみられる地域協力・隣国との相互発展は今やEU入りを目指すクロアチアの国家的命題です。その試金石として、セルビア=モンテネグロまでわずか35キロしかない地点にある「アドリア海の真珠」は微妙に揺れています。

(追記)緊張緩和は進んでいるが・・・

握手するスヴィラノヴィッチ(左)、ピツラ両国外相(昨年4月ベオグラードにて撮影)
   このHPでは何度か扱っているテーマなので読者の皆さんには改めて強調するまでもないと思いますが、先日の査証免除に至るこの1、2年のクロアチア・セルビア=モンテネグロ間の政治家レベルでの緊張緩和は、何もなかったも同然だった2000年以前と較べると目覚しいと言っていいほどのものがあります。しかしなかなか一般市民レベルでの敵対感情には影響し切れていないことも確かです。
   6月15日にスロヴェニアのクラーニで行われた水球の欧州選手権決勝はクロアチアとセルビア=モンテネグロの顔合わせとなり、延長の大接戦の末9−8でセルビア=モンテネグロが優勝、96アトランタ五輪準々決勝で敗れた(クロアチアが金メダル)借りを返しました。しかし敗れたクロアチア側応援団が暴徒と化し、スロヴェニア警察の介入の不手際もあって試合後の会場は大混乱(選手二人が軽傷)、表彰式は中断され、メダル授与なしでの終幕となりました。一方祝勝ムードのセルビアのファンも大暴れで、在ベオグラード・クロアチア大使館敷地内に乱入した暴徒が建物に投石、クロアチア国旗を外しセルビア共和国旗を掲げるなどの騒乱状態になりました。外交問題だとしてピツラ・クロアチア外相は翌16日に予定されていたモンテネグロ訪問を見合わせ。二国間関係の大勢に今後大きな悪影響を及ぼすものではないと見られていますが、ラーチャン・クロアチア首相、スヴィラノヴィッチ・セルビア=モンテネグロ外相がともに自国選手を讃え自国のファンを叱るという恥ずかしい一幕でした。お粗末&嘆息。

(2003年7月上旬)


写真(囲みを除く)は2003年6月に筆者が日本のテレビ局取材に同行した際撮影したものです。また本文の一部にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの本ページへの掲載に当たってはクライアントの承諾を得ています。本文、画像とも無断転載はご遠慮下さい。

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