「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

必見! 「関連リンク集」大幅リニューアル!!
最終更新 2000/01/09 21:50

第29回配信
分断の町の現状


丘に囲まれた町モスタルとネレトヴァ川遠景
   停戦から6年が経とうとしている今も、激しい破壊の痕が目立つボスニア南部の町モスタル。TV取材班の通訳・コーディネーターとして私は、例えば運転手(まず市西部でも東部でも平気で行き来できる運転手を見つけるのが大変ですが)にこんな指示を出します。「じゃあルカ橋の先のシャンティッチ記念碑の脇で降ろしてくれ、1時間ぐらい撮影してくるから、ヒット百貨店の所で落ち合おう」。ごく普通の会話のように思われるかも知れませんが、考えようによっては不気味、というかブラックユーモアのようでもあるのです。なぜならルカ橋はその残骸をネレトヴァ川にさらしており、シャンティッチの記念碑は壊れて今はなく、ヒット百貨店は土台だけになっているからです・・・。
   10月から11月にかけて、日本のTV番組取材班に同行してボスニアのモスタルに滞在しました。番組は日本を代表するドキュメンタリーですので、1月上旬の放送をご覧になった方も多いかも知れませんね。長期取材のため番組からこぼれた話題も多く、この配信ではそれを中心にモスタルの現状を再構成してみようと思います。放送とは違った印象、あるいは結論を導くことになるかも知れませんが、あくまでも私個人の目で見たモスタルだと思って下さい。もちろんこのページへの掲載に関しては取材関係者の許諾を得ています。

東西分断の町モスタル

   モスタルはかつて旧ユーゴ、そしてボスニアの多民族共存を象徴していた町でした。しかし93年春からは連合を組んでセルビア人勢力に対抗していたボスニア人、クロアチア人両勢力が同士討ちを始め、東西に二分された町では激しい砲撃と他民族(東のクロアチア人、西のボスニア人など)の組織的追放が続きました。94年のワシントン協定により停戦と両勢力の「ボスニア連邦」成立が実現しましたが、現在でも東部ではボスニア人、西部ではクロアチア人がそれぞれ圧倒的多数を占め、事実上の分断が続いています。東モスタルに帰れないクロアチア人、西モスタルに帰れないボスニア人、といった「市内難民」が何万人にものぼります。ボスニア和平履行会議上級代表事務所(OHR)をはじめとする国際社会は、共通制度の実施や難民帰還を進めてモスタル統一を実施しようとしていますが、地元当局(特にクロアチア人側)は協力的な態度を示していません。11月末には「難民帰還を遅らせている」ことを理由にモスタル南西区の実力者、S・マリッチ区長(西モスタル、クロアチア人)がOHRから解任を宣告されたりもしています。「ボスニア(デイトン)和平とボスニア連邦は紙の上でうたわれているに過ぎない」と言われる時、まず引き合いに出されるのがこの町です。残念ながら、かつて多民族共存を実現していた町は現在民族分断と相互不信の象徴になったままなのです。
   上では普段使っている地図のボスニア連邦のうち、クロアチア人の支配地域を濃い黄緑色で塗ってみました。皆さんもご存知のように94年のワシントン協定、95年のデイトン包括和平によりボスニア人(深緑)とクロアチア人はボスニア連邦を構成し、セルビア人共和国(薄緑)との2つの「部分(エンティティ)」でボスニア全体が作られるという政治的な枠組みが出来たわけですが、実際のボスニアは今でもこの地図のように2つではなく3つに「色分け」されているのが現状なのです。クロアチア人、特にモスタル以西の西ヘルツェゴヴィナ地域の人々は、本国に直接隣接することもあり「第3のエンティティ」建設による民族権益の擁護を強硬に主張しています。第27回配信でも触れたようにクロア チア本国の故トゥジュマン政権タカ派がこれを支持して和平履行(ボスニア統一)を遅らせている、と国際社会は指摘しています。本国に「くっついていたい」クロアチア人地域と、「ボスニアは一つ」を掲げるボスニア人地域の利益が衝突しているところがまさにモスタルなのです。

屋根も窓もなく、壁という壁は蜂の巣のように穴が開いている。いまだに破壊の痕がすさまじい停戦ライン上の家々
   確かに停戦から6年近くの月日が流れた現在では、インフラなど最低限の復興は進み、東モスタル、西モスタルともそれなりに別々の町として機能はしています。その意味で左のような写真を出して「これがモスタルです」というのは住民に対して失礼かも知れません。しかし、停戦ライン付近の荒廃ぶりはまだ目を覆いたくなるものがあります。ところが町の再建復興さえも東西がそれぞれの道を進んでいるような空気です。  
   このページの第6回配信「水がつなぐ分断の町」で 東西再統合への希望を語ってくれたジェリコ・ロジッチさん(モスタル西部水道局、クロアチア人)と再会しました。「相変わらず東は東、西は西で水道局が二つあって別々に機能している。下水道に関しては日本政府の援助で共通下水道網を建設しようという話も出ているが、上水道は水道橋は出来ているのに西の水が東に流れるところまで行っていないんだ。全ては政治だね」。
ジェリコ・ロジッチさん:「まだ水道の東西交流もない」
   水道だけではなく、郵便、電話からテレビ、大学に至るまで全ての制度が東西別々です。西モスタルのホテルから電話番号案内にかけて東モスタルの人の住所、名前を言っても「登録されていません」の一言だけ。西モスタルではクロアチア本国と共通の携帯電話ネットが使われており、東モスタルからこれにかける場合はクロアチアの国番号をダイヤルして「国際通話」しなければなりません。もちろんボスニア側とのローミング(携帯ネット乗り入れ)協定は、なし。逆に西モスタルからは市外番号だけでザグレブにかけられると言うのも変な話です。ドイツマルク、ボスニアマルクはどちらでも流通していますが、西ではクロアチアの通貨クーナも「第3の通貨」として使われています。店の価格表示はマルクだったり、クーナだったり、で慣れないと大変です。もちろん東モスタルではクーナは受け取ってもらえません。
   確かに東西の行き来は停戦直後に比べれば増えている感じですが、ノーマルと言うにはほど遠い状況です。一昨年からナンバープレートが共通化され、自動車は東西どちらか外見では分からなくなり、移動の自由には大きく貢献しているように思われます。けれども西モスタルで拾ったタクシー運転手に東モスタルのある役所の前で10分ほど待っていてもらおうと思った時には、「ここは東だからなあ」と渋られてしまいました。国際赤十字に勤めるダリオ・テルジッチさんは東西の行き来を続ける数少ない一人ですが、このような状態を評して「ここでは確かに戦争は止まったけれど、平和とはとても言える状態じゃない。まだ停戦状態なんだ」と言います。
バリッチ五輪委員:「スポーツが統一できれば」
   モスタルのスポーツクラブと言えばヴェレージュが有名でした(昨年までサッカーJリーグで活躍していたN・マスロヴァルも一時在籍していました)が、西にある同チームの本拠地だったサッカースタジアムはクロアチア人のクラブ「ズリンスキ」が、他のクロアチア人支配地域のチームとの試合などに使っており、ヴェレージュを名乗る東のチームはモスタル北部の寂しいグラウンドでサライェヴォやトゥズラのチームと試合を続けています。同じ国なのに、ボスニアではセルビア人共和国、ボスニア人地域、クロアチア人地域がそれぞれ自分たちのリーグを作っていてその交流は全くない状態なのです。ボスニア五輪委員会のエミール・バリッチ委員(東モスタル、ボスニア人)はこう話します。「一昨年の長野五輪に参加したのはボスニア人地域の選手だけだった。シドニー五輪には何とか共同代表団を出したいと思っている。また各種目で、共通リーグとまでは行かなくても各3リーグの優勝チームどうしがプレーオフ(「ボスニアシリーズ」?)を実施出来ればそれだけでも大きな進歩なのだが」。

   国際社会はあらゆる分野でボスニアを統一しようとしていますが、建て前は連邦を形成しているはずの2勢力でもこの状態ですから、まだまだ厳しい道のりが続くと言わざるを得ないでしょう。いやモスタルが一つの町になるかどうか、こそがボスニアが統一できるかの試金石であるはずなのですが、表面をなぞっただけでもこの分断のありさまです。まして教育などの問題はより深刻です。東モスタルの学校ではサライェヴォの指導要領と教科書が使われていますが、西モスタルではザグレブのものが使われています。歴史、地理、国語など、民族の本質に関わる科目では東西で全く別の教育が行われていると言っても過言ではありません。東モスタルの市立第7小学校ヤケロヴィッチ校長は、「東モスタルではクロアチア人勢力によって大変な物理的な被害が出ただけでなく、何万人ものボスニア人住民が収容所に連行されるなどした。それなのに西モスタルではそれを隠蔽して、蛮行を正当化するような教育が平気で行われている」と不満を隠しません。「戦闘状態は確かに終わったが、政治、文化、教育とあらゆる面でまだ戦争は続いているのだ」。
アントゥン=ブランコ・シミッチ
(1898−1925)

20世紀初期のクロアチア文学を代表する早熟・夭逝の詩人。1898年、西ヘルツェゴヴィナのクロアチア国境に近いドリノフツィ生まれ。モスタルの普通科高校に編入を図るが貧農の子だったため果たせず、現クロアチア本国のザグレブへ。10代で発表していた詩が既に注目されていたが、唯一の詩集「変容」(1920)により評価は決定的なものになる。健康を害し25年、27才の若さで死亡。ヘルツェゴヴィナの農村風景や自然と対峙する自己をうたった詩は表現主義の枠を超えた境地に達しているとされる。彼の詩2編を仮訳出してみましたのでご興味のある方はこちらをクリックしてみて下さい。

アレクサ・シャンティッチ
(1868−1924)

クロアチア人、ボスニア人勢力の激戦の最前線、現在の停戦ラインがモスタル生まれのセルビア人の詩人シャンティッチの名を冠した通りだという事実に、歴史の皮肉を感じます。1868年生まれのシャンティッチは多作の人で、コソヴォなどをうたった明らかな「セルビア民族詩」も数多くありますが、本質は抒情詩の人です。モスタルの詩を1編仮訳出してみましたのでご興味のある方はこちらをクリックしてみて下さい。
   しかし西モスタルの教育者で文化センターに勤務するマルコ・ロジッチ氏はこう反論します。「ボスニアのクロアチア人がボスニア人とは別の文化をはぐくんできたことは事実なのだから、その歴史や文学を教えるのは当然だ。国際社会やボスニア人側がこれに反対する方がおかしい。例えばA=B・シミッチはヘルツェゴヴィナを代表するクロアチア人の詩人だが、サライェヴォの教科書では不当に小さく扱われている」。
   ロジッチ氏とは文学と政治をめぐって突っ込んだ話をしたのですが、彼の話はなかなか難しい問題をはらんでいます。例えばA・カミュやJ・デリダは20世紀フランスを代表する文学者と哲学者ですが、ともに仏植民地時代のアルジェリアの生まれです。フランス人の彼らをアルジェリア文学・哲学に位置付ける人はいないと思います。同様にシミッチもクロアチア人である以上クロアチア文学の中で論じられることはあれ、ボスニア文学に入れるべきかどうかは議論が分かれるところでしょう。もし「生まれた国」の文学者だということになるならば、1868年モスタル生まれの詩人シャンティッチ(セルビア人)は「トルコ文学」で、1898年生まれのシミッチは「オーストリア文学」でしょうか?

   11月はじめ、停戦ライン上(クロアチア人地域側)にある第一普通科高校で騒動が起こりました。この学校はオーストリア=ハンガリー時代に出来たバロックの美しい建物でしたが、前線上に位置するため激しく破壊されました。西モスタルのクロアチア人当局は独自に修復作業を行い、1階に関しては授業に使えるようになっていました。OHRや東モスタル当局は、学校が両サイドの中立地帯と言っていい地域にあることもあり、戦前同様に「多民族」の学校にすべきだ、と主張していましたが、11月9日西モスタル側はこれを無視して名前も「D・マンディッチ師高校」と、クロアチア人聖職者の名前を冠した名前に改名し、クロアチア人中心の教員・生徒により授業を強行再開してしまいました。
   テレビモスタル(東、ボスニア人)のセナド・エフィッツァ副主幹は「この学校でボスニア人とクロアチア人がまた戦前のように一緒に学べるようになるかどうかが、今後モスタルがまた統一できるかどうかの試金石なのだが」と渋い表情でした。「停戦ライン上には見えない壁がある。高校の『クロアチア化』でその壁が高くなってしまうことになる」。また東モスタルの市広報局ズラトコ・セルダレヴィッチ記者はオーストリア=ハンガリー当局がこの高校を作った時、地元住民がウィーン当局に送った感謝状の複製を見せてくれました。これには「この学校は民族、宗教に関係なくモスタル市民未来永劫大切にいたします」と書いてあります。「そういう歴史が無視され、モスタルは2つの町になろうとしている」とセルダレヴィッチ記者。

クロアチア人側の授業強行再開で騒動になった第一普通科高校(左)は、創立時に「多民族の学校にする」とモスタル市民がオーストリア帝国政府に宣誓した文書が残っている(右、モスタル市博物館蔵)
   しかし、確かに当局による行き過ぎがあるにしても、西モスタルのクロアチア人だけを「悪者扱い」していいものかどうか。ボスニアの3民族のうち、クロアチア人は数では一番少なく(約19%)、連邦やボスニア全体で多数決を取っても勝つ見込みはありません。一方ボスニア人=サライェヴォ中央にも「ボスニアは一つ」という美名の下に隠された「拡大主義」がありますし、クロアチア人にとっては本国の助けを借りながら「クロアチア的なもの」を守らなければならない、ボスニア人にいい顔をしても自分たちが潰されるだけだ、という被害者意識があるわけです。結局、ボスニアがボスニア人だけの「民族国家」ではなく、クロアチア人やセルビア人もボスニアの国民である、というコンセンサスが出来ない限り、このような問題に終わりはないのでしょう。しかしそこに達する道は、モスタルを見る限り遠い、遠いものに思われるのです。
   西モスタルのクロアチア体制寄りメディア、エロテルTVのゾラン・クレシッチ記者は西モスタルの気分を代弁してこう言います。「国際社会は性急に統一を進めようとしているが、あれだけの激しい戦いをした後で、すぐには無理だ。私たちは20代後半や30代前半の、ある意味で人生の一番いい時期を銃をかついで過ごさなければならなかったし、それが今また敵と一緒になれ、と言われても・・・。結局分断状態はまだ続かざるを得ないだろうし、無理な『共存』よりも時間を掛けて『よき隣人』になって行くのを目指すしかないだろう」。
先進諸国マネー流入が「一段落」してしまった現在、復興はやや勢いを失っているように見える(東モスタル)
   東モスタルの前出バリッチ五輪委員は逆に東西統一への希望を捨てない人ですが、やはり「経済が『落としどころ』なのかなあ」、と洩らしました。「日本人だって第2次大戦ではあれだけの被害を受けたけど、今ではアメリカと経済ベースで持ちつ持たれずやっているわけだし、時間を掛けてそういう関係を作っていくことなのではないか」。
   残念ながらサライェヴォを見ても一昨年くらいまで見られた復興景気は一段落してしまっている感があり、東モスタルではまだまだボロボロの建物が目立ちます。東よりは状態のいい西モスタルにしても、頼りのクロアチア本国の経済状況はきわめて芳しくない現状(第27回配信参照)です。西モスタルの県建設省イヴァン・ブンティッチ顧問官は「欧米諸国の復興マネーはサライェヴォとバニャルーカ(セルビア人共和国首都)にばかり流れてしまい、モスタルには全然来ていないと言っていい。このトレンドが変わればモスタルはもっと良くなるのだが」と言います。
   クロアチアでは故トゥジュマン政権によりボスニア=モスタル分断を支持する政策が続けられていましたが、本稿執筆中に行われている議会選、今月24日に予定されている大統領選を経て政権交代も予想されています。その結果次第ではクロアチア本国の政治・経済状況が好転することが考えられ、西モスタルの状況に好影響が波及するのではないかと言う見方がありますが、さてどうなることやら。
   「経済」と呼ぶにはあまりにも小さな、東西統合への希望。東モスタルで買った地図には東西両方の店(レストランやレンタカー屋、旅行代理店)の宣伝がありました。

ネウム小旅行

   出張中にはベオグラードからわがJことイェレナ(今年から本名でいきましょう)が陣中見舞にモスタルまで来てくれました。で取材班からちょっと休暇をもらい、1泊2日で「ボスニアの海」ネウムまで行く機会を得ました。
   
と言ってもこれが日本人がひょいと行くように簡単ではないのです。まず彼女の「足」。ベオグラードからサライェヴォまではセルビア人、サライェヴォからモスタルまではボスニア人、モスタルからネウムまではクロアチア人の運転。それにクロアチアのヴィザをイェレナが取るのは今のところ至難ですから、クロアチア国境を越える幹線が通れません。山道を通ってモスタルから約100キロ、幹線経由より20キロ以上遠回りしてやっとネウムに到着です。まあそれでも苦労して行った甲斐は十分ありました。観光客の誰もいない静かな秋の海と、アドリア海の魚料理を楽しむことが出来ました。ここも西モスタル同様クロアチア人支配地域で、町にはクロアチアの旗が見られこそすれボスニアの旗はありません。というよりもここの10キロほどの海岸だけがボスニア領で、両側がクロアチア海岸だという方が信じられないような話(実際には歴史的な理由があるのですが、詳細は省略します)です。イェレナにとってはモンテネグロ以外のアドリア海は10年ぶりです。写真に見える最初の岬はボスニア領ですが、2番目の岬はクロアチア領で一緒に行くことが出来ません。いつかはヴィザを取って、彼女と一緒にクロアチアに行きたいと思っていますが、ユーゴとクロアチアの関係が変わらないうちは「またネウムに来よう」で意気投合、クロアチア海岸最高の赤ワイン「ディンガッチ」で乾杯!

(2000年1月中旬)


本ページの掲載内容及び画像は、私が日本のTVドキュメンタリー取材に同行した際に通訳の業務上知り得た内容を基に構成しています。掲載に関しては取材関係者の同意を得ていますが、無断転載はご遠慮下さいますようお願いいたします。

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