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深田恭子のテレビドラマから手繰り寄せて、歎異抄の「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」について考えてみた。
まず、善人と悪人に分ける分別とは何なのか。もちろん、この人は善人、この人は悪人、と二つのグループに分けることは出来ない。しかし、善行を積んできた過程や悪行三昧の過程は人それぞれにあるだろう。とりあえず、その過程によって、善人であったり、悪人であったりしてもおかしくはない。
善悪の判断や罪の意識は理屈ではない。心の奥深いところにあるものだ。うまくは言えない。夢の中に現れたり、知らず知らずのうちに自身を方向付けたり、あるいは傷付けたり、そういう罪の無意識があるのだと思う。悪行の業はこのような無意識の罪の意識を伴う。
罪の無意識によって傷つくことは罪の償いになるのか。傷そのものが償いになるとは思えないが、その傷によって気付くものがあるだろう。罪の無意識は比較的容易に罪の意識へつながるのかもしれない。どこまで明確な意識かは分からないが、この意識を持つ者が悪人だとすれば、「いわんや悪人をや」もなんとか理解できる。少し強引だが、とりあえず考えたことのメモである。
罪を償うということ。
罪は償って、マイナス状態から抜け出さなければならない。地獄の業火はそのためにある。ここで焼き尽くされれば帳消しになる、なればいいと思う。地獄の業火の底で仏様が手を差し伸べていてくださる、そう信じて焼かれなければならない。
地獄で焼かれる前に、生きているうちに、焼かれることもあると思う。生前地獄などと言ってみる。焼かれて身奇麗になれると思うのは虫の良い考えだろうか。しかし、そうとでも思わなければ苦しい思いには耐えられない。身奇麗になれる、報われると思って耐えていれば、そこに祈りの気持ちが生まれる。地獄の苦しみによって人は浄化されるのだと思う。
うつくしくなれた気がする白萩の白に呼ばれたやうな気がする
この地獄の業火に焼かれるのではなく、善行を積んで罪を埋め合わせることは可能なのだろうか、などと考えていたら、善行も苦しみを伴うような気がして来た。涼しげな顔をした、いかにも善人らしい善行とはまた別物の、切羽詰った行為としての善行があるように思う。テレビドラマ「サイレントプア」の深田恭子の生き方がまさにそうである。
善悪の判断は無意識の世界にあると先ほど書いた。本能的なものだ。本能とは野性である。善悪の判断は野性的なものと言うことが出来る。これは人間に限ったものではない。群れを作って生活する種が進化の過程で獲得した本能である。殺さないこと、弱いものをいたわること、これは食欲や性欲と同等の本能である。もちろん、後天的な、社会的なものも表面には存在する。しかしそのような大脳的なものはほんの表面に過ぎない。表面の薄皮のようなものである。基本は、先験的であり、意識されないものであり、小脳に支配される本能なのだ。
それでは残虐性や嗜虐性は何処から来るのか、これも本能かもしれない。正確なことは分からないが、何らかの防衛本能と関わるようにも思われる。だが本能の問題は主要なテーマではない。罪の意識が何処から来るのかを考えたいと思っただけである。社会的に経験的に作られたものだけではない、それが明確になれば、それでいい。
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