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退屈しのぎや時間潰しと言ったものを人生から排除してみたら、どんな生き方になるだろうか。これも線引きの難しい問題である。使命を帯びて生まれてきたわけではない、などと高校生の頃に考えていた諸々を思い出す。
大人になった今、大人らしい、大人のような回答を持ち合わせてはいる。使命や目標は自分で見つけ出し、設定するものである、と言うものだ。異論を挟む余地はないが、高校生の疑問を全面解決するには至らない。高校生は物理法則のような動かしがたい真理を求めていた。物理法則としてみる場合、あるいは数学的にトポロジーで見る場合、自分で設定した使命や目標は時間潰しの範疇に含まれてしまうのだ。
柳沢桂子さんの解釈による般若心経の絶対的実存主義は重要な一つの答えだろうと思う。それから、八木重吉の「うつくしいもの」も併せて考えるべきであろう。
大人の回答もそれなりに重要な考え方ではある。意味があって生まれてきたのではないとしても、人生に意味がない訳ではない。生まれてきた人生の時間はひとつの作品を作り上げていく時間でもある。画用紙に絵を描いていくようなものだ。トポロジー的には時間潰しの画用紙、面白い表現に思えてきた。そうか、ぼくたちはいま絵を描いているのか。
ところで、それはそれとして、なのである。明確な線引きの出来る時間潰しの問題があるのです。とりあえず英語の勉強でもするか、と言って本をめくっていること。そういう生活がしばらく続いている。自転車に乗るべきだ。自転車は意味付けや解釈を必要としない、生きることそのものである、と言っておこう。
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