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Pieces / 破片(かけら) #4

Contents:

  1. 虚像 / Person in the mirror
  2. 再醒 / Re-birth(Reprise)

虚像 / Person in the mirror

 夜に沈んだ街の底をペトコフは駆けていた。
 明かりはほとんどなかった。周囲を囲む高層建築群の灯す光がかろうじて届くだけ。星も月も見えなかった。そもそも空自体が密集した建物やそびえたつ建築群によって奪われていた。
 ごみ捨て場と言ったほうが正しい人一人通るのがやっとの細い路地をペトコフは縫うように走っていた。
 闇は障害とはならなかった。さすがに時には補正処理がうまく働かずノイズがかったゴーストが重なってあらわれることもある。だがそれは名も知らぬ小動物が集団で逃げていく姿を捉えたときなどに瞬間的に生じるだけだった。ペトコフの人工眼はその機能を充分に発揮していた。
 こうした状況では圧倒的に有利なはずのその能力が、しかしいまそれほどの優位を自分にもたらしていないことをペトコフは敏感に察知していた。
 ――まちがいなく、包囲されている。
 十何度目かの角を曲がりながらペトコフは思考を明確にした。
 勘に過ぎなかった。普通に考えればペトコフと同じ速さで動ける能力を持つ者がこの下層民の吹きだまりに存在するはずがなかった。だが感じるプレッシャーは疑いようがなかった。それは数人の追手に追われるときのような生やさしいものではなかった。
 感覚こそが自分を正しく導くことをペトコフは無数の任務を通じて学んでいた。理性的で正確な判断を求めて立ち止まった瞬間に隙は生じることを――ペトコフが持って生まれた顔面をすっかり失ったときのように。
 だからペトコフは必死で駆けた。己の感覚を信じて。
 だが包囲の感覚はなくならなかった。
 ペトコフは疑いを捨てた。相手が同程度の能力を持った数人などではないことはもはやあきらかだった。ペトコフを囲んでいるのはある種の組織に違いなかった。
 それはペトコフを追うことを愉しんでいた。
 息が乱れはじめていた。このままではいずれ袋小路で蜂の巣にされるのは避けられそうになかった。
 ――どうする?
 包囲する者たちの悪意は疑いようがなかった。輪を狭めればすぐにでも捕らえることができるだろうにそうはしないでペトコフを泳がせていた。突破を試みればすぐにでも息の根を止めようとするだろう、かといっていつまでもこうして遊ばされているわけにはいかなかった――
 どこかから金属を叩いた高い音が響いた。
 その一瞬でペトコフは決意を固めた。次の角を思っていたのとは逆に曲がって低い壁を乗り越える。いままでと違って最短距離をペトコフは目指した。人々が行き交う照明のある場所を。
 包囲網は急速に狭まっていた。ペトコフは銃を抜いていつでも撃てるように高い位置で保持した。
 わずかに余裕のある空間に飛びだした瞬間、斜め上から自分を見おろす存在に気づいた。
 銃を乱射して走りぬけるべきだった。だがペトコフは反射的に足を止めふりむいて銃を向けていた。視野の端にとらえた顔がそうさせたのかもしれなかった。
 人工眼があらためて視野の中央に結んだ像にペトコフは我が目を疑った。
 驚きに息を飲んだ瞬間、銃弾がペトコフの開いた口から後頭部を貫いた。

 穴の空いた標的が音もなく倒れた。
 Bは空になった弾倉を引き抜き一息で次の弾倉をセットした。銃口をあたらしく起きあがった標的に向ける。その瞬間には標的はすでに撃ちぬかれていた。銃声は途切れることなく続きそのたびに標的にあらたな穴が空いた。
 最後の一発を撃つとBは頭の横に銃をあげた。右手をグリップに添え息を殺して身がまえる。まるで潜む敵と本当に対峙しているかのように。
 長く尾を引いた最後の銃声が消え、薄暗い射撃訓練室に静寂が戻った。
 やがてBは詰めていた息を吐きだした。ゆっくりと銃をおろして脇のテーブルに置く。耳に詰めていたサウンド・キャンセラーを取りだすと豆粒大のそれをポケットにつっこんだ。
 まばらな拍手が室内に響いた。
「……お見事」
 乾いた音にBは動きを止めてふりむいた。入口のすぐ脇で壁に背をあずけていたフキはその視線に手を叩くのをやめて腕を組んだ。
「あきれるほど精確だな。どうやったらただの生身でそんなにうまく撃てるんだ? 俺たちの中でも五本の指に入るぜ、きっと」
 フキは頭三つ高い位置からBを見おろす。Bは視線を戻してまわりの整理をはじめた。
「やっぱり才能かな? もちろん君が人並み以上の訓練をこなしているのは知ってるが、それだけではないよな、やっぱり。正直言ってうらやましいよ。君ほどの腕があれば俺ももうすこしひかえめに任務を遂行できるんだが」
 フキが一人で話すあいだにBはあとかたづけを終えた。荷物を詰めたバッグを肩にかけ、左手に銃を持ち体をひねってドアへと歩きだす。フキは口を閉じて近づくBを見つめた。Bの視線はドアだけに向けられていた。
 ドアの前で立ちどまるとBは銃を右手に持ちかえた。その隙に差しこむようにフキは言葉を発した。
「ペトコフのこと、聞いたか?」
「知らない」
 高い声はコミュニケーションを断ち切るように響いた。Bは壁面のスイッチに手を伸ばす。その指をフキのおおきな手が包むようにさえぎった。
「待てよ。生きてる連中のことはどう思ってたってかまわないが、死んだ奴のことはすこしくらい気にかけたっていいんじゃないか?」
 Bは動きを止めてフキを見あげた。
 伸ばした手を引くとフキは視線をそらして頭をかいた。
「……初耳だったみたいだな」
「……何処で?」
「ニェレデでだ。作戦中に消息を断ち、現在行方不明。生きてるはずがない。奴が活動しているあいだは常に送信されているはずの視覚情報がぷっつりとだえちまったってんだからな。もっとも奴は君に勝るとも劣らない腕利きだったわけだから信じがたい話ではある。
 それについて、ちょっと気になる話を聞いた」
 フキは目だけを動かしてBに向けた。Bは表情のない顔でフキを見ていた。フキは息を吸いこんで体を反らした。
「この先はじかに確かめたわけじゃない。だから真偽のほどは不明だ。あくまで聞いた話にすぎん。が、中身が中身でね。捨て置くわけにもいかない気がしたんで、こうして話をしにきた」
 体を折り曲げBの耳元に口を近づけるとフキは声をひそめて言った。
「送信が途絶える前のペトコフの目には、ルビー、君の姿が映っていたそうだ」
 フキは上体を引いてBを見つめた。Bはわずかに眉をひそめていた。あらわれた変化はそれだけだった。
 フキはわずかに首を傾げた。
「もちろんその時間その場所に君がいなかったことは行動記録が証明している。俺も君が殺ったなんて思っちゃいない。0課の人間なら誰だってそうだ。“カラーズ”だろうがそうでなかろうが。だがそうするとわからないことがひとつ残るわけだ。
 ペトコフが最後に見たのは、いったい誰なんだ?」
 フキはBをまっすぐ見つめた。
 Bは視線をまったく動かさなかった。まばたきさえしていないように思える表情からはどんな感情もうかがい知ることはできなかった。
 しばらく二人は互いを見すえあった。
 やがて足元に視線を落とすとフキは詰めていた息を吐きだした。
「……すまない。君に聞いても、しかたのないことだった」
 上目づかいにBを見る。Bの視線はもうフキには向いていなかった。伸ばした手が壁面に触れ、ドアが音もなく壁に引きこまれる。Bは静かに訓練室を出ていった。
 そのうしろ姿を追いかけるフキの視線を閉まるドアがさえぎった。

 差しこんだ光にコロシニエフは肩越しにふりかえった。
 コロシニエフには目もくれずに大股で室内に入るとイーセスは部屋の隅に置かれた椅子にどかっと腰をおろした。腕を組み、憮然とした表情ですこし離れた床のあたりをじっと見つめる。いくらか興奮しているらしいことは心拍数を計るまでもなく表情で察せられた。
 コロシニエフは軽い驚きの表情を浮かべて体をイーセスに向きなおらせた。背中で組んでいた手を解きすこし横に広げてみせる。
「これはこれは、イーセス、君がここに来るとは意外だな。いったいどういう――」
「消してくれ。影と話をしに来たんじゃない」
 イーセスはぶっきらぼうに言い放った。
 コロシニエフはあっけにとられた表情を浮かべた。すぐにそれはいぶかしむ顔に変わる。イーセスは目だけをぎろりと上に向けてコロシニエフをにらみつけた。異様な迫力が目元のあたりにただよっていた。
 コロシニエフの姿が一瞬完全に静止し、次の瞬間かき消えた。部屋の中がほんのすこしだけ暗くなった。
「……機嫌が悪いようだな。わざわざここまで来たのはそのせいか?」
 声は部屋全体にまんべんなく響いた。イーセスはドアの正面の位置にあるおおきな机、影ではない本物のそれに視線を定めた。
「モニターするのをやめてくれ。記録もだ。情報的に完全に遮断された状態で話がしたい」
「おいおい、どうしたんだ? まったく。無理を言わないでくれ。そんなことできるわけがないだろう。だいたい私と君のあいだにそんなふうにして話すようなことが――」
「わかっているはずだ」
 机をまるでコロシニエフ自身であるかのように見すえたままイーセスは言った。言葉は硬く強かった。
 静寂がしばらく続いた。
 やがてコロシニエフの深い声が響いた。
「……すべての回線を切断したよ」
 イーセスはいくらか警戒をゆるめたようにすこし肩を落として組んでいた腕を解いた。白衣のポケットに両手をつっこみ両足を無造作に投げだす。それでも視線はこゆるぎもしなかった。
 その口が開くまでしばらくかかった。
「……何故、彼女なんだ?」
 答が返るまで間があいた。
「何故、彼女ではいけない?」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
 イーセスは顎をあげた。「あの任務の担当が彼女でなければならない理由はない。むしろすみやかな遂行のためには向かないことは資料からも明白だ。最初ペトコフを選んだのはそのためだろう? なのに今度は彼女を選んだ。あきらかに、特別に。どういうことだ? コロシニエフ、あんたいったい何を企んでいる?」
 唇を引き結ぶとイーセスは仮想のコロシニエフをきっとにらみつけた。
「それは上司および管理者としての疑問か? それとも別の理由によるものか?」
 イーセスの顔に怒りが浮かんだ。半ば腰を浮かしかけ、思いとどまって背もたれに深く体をあずける。
「失礼な詮索をしないでくれ」
「ではなぜ?」
 コロシニエフの問いにイーセスは視線を横にそらした。怒りは消え、かわりに不安があらわれていた。
「……得がたい貴重な被検体を、失いたくはない」
「それだけか?」
 イーセスは横目でぎろりと机をにらみつけた。だが何も言わなかった。
「わかってるよ。あの話を聞いたんだろう?」
 長い間をおいてからようやくイーセスはちいさくうなずいた。
「君が不安に思うのも無理はない。私も同じだ」
 深い声には憂うような響きがあった。イーセスははっとしてまばたいた。
「お互い彼女と親しくなりすぎたようだな」
 イーセスの表情に理解の色が広がった。それはすぐに怒りにとってかわられた。イーセスはポケットの中で拳を握りしめた。
「――はじめからそのつもりだったんだな?」
 イーセスの声はすこし震えていた。
「まさか。わたしたちは神ではない。なにもかもを思いどおりにすることなどできんよ。ただあらゆる可能性を想定しているにすぎない」
「今度のこともか?」
「答える義務はない」
 イーセスは跳ねるように立ちあがった。固めた拳を床に向けて突きだす。そのまま歯をくいしばって机をにらみつけた。長いあいだずっと。
 だが何も言わなかった。
 やがてイーセスは視線を机からそむけた。
「……この次からはこんなことはないようにしてくれ。ぼくは彼女の上司だ。彼女に関する方針の決定に際してはぼくにも参加する権利があるはずだ」
 答はなかった。イーセスも答など期待していないとでもいうようにさっさとドアへと歩き部屋を出ていった。
 ふたたびあらわれたコロシニエフの像が閉じたドアを見つめた。

          *

「――やれやれだぜ、ったくよおっ」
 暗い路地から出るなり血のついた右手をふりながらダルスはいまいましげにつぶやいた。足元に転がるゴミ箱を蹴とばし、ふりむいて出てきた路地の奥に向かって吠える。
「おとなしくしてりゃあこんなことにはならなかったんだ、わかったか!」
 答はなかった。倒れた娼夫の顔をダルスは思い浮かべた。
 ――あれじゃあ一月は商売できねえな。
 大事な商品なんだから手荒に扱うなよ、という姉貴の言葉が脳裡をよぎった。
「しかたねえさ、やっちまったもんはよおっ」
 自分を鼓舞するようにダルスは声をあげる。思いきり人を殴った興奮がまだ体の芯に残っていた。ダルスはもう一度地面に転がる空の容器を蹴とばした。
 ――さて、どうする?
 まっすぐ戻るには気分が昂ぶりすぎていた。こういうときは酒か薬を手に入れ誰かをひっかけよろしくやるのがお決まりのパターンだった。幸い夜はまだ早かった。
 歩きだそうとして、ふととらわれた奇妙な感覚にダルスは動きを止めた。
 目線をあげてあたりを見まわした。だが人影はどこにもなかった。表通りから奥の奥へと引きずりこんだのだからそれは当然のことだった。
 にもかかわらず、ダルスは誰かに存在を把握されていると感じていた。
 ――ヤクが残ってんのかな?
 ダルスは首をひねる。333をはじめてやったときにこんな感じになったことがあった。ちょっと鼻で吸いこんだだけで全身の感覚がひどく鋭くなり、それが体におさまらずに広がるような感じ。だが相性が悪かったのかその後猛烈な吐き気に襲われたためダルスはそれ以来333には手を出していなかった。それに今日は目が覚めてからはずっと素面だった。昨日の薬も意識するかぎりでは残っていなかった。
 頭をひねるダルスの横に突然おおきな影が降りた。
「――わあっ!」
 ダルスは叫び声をあげてその場から飛び退いた。汚れた建物の壁に背中をぴったりとあわせて降りてきたものに目を向ける。ダルスの声は複雑に谺しながら遠ざかっていった。静寂をふさぐようにダルスは声をあげた。
「だ、だれだてめえっ! いったいいつからおれのことを見張ってやがったっ!?」
 降りてきた影は背筋を伸ばして半身をダルスに向けた。
 全身が黒で包まれていた。髪は帽子で隠され目も濃い色のサングラスで覆われている。無表情は顔はまっすぐダルスに向いていた。
 小柄なその体躯は圧倒的な威圧感を放っていた。
 気圧されてダルスは何度も唾を飲みこんだ。
 ようやく絞りだした言葉はかすれていた。
「……何の用だ?」
 黒ずくめはスイッチを入れられたように左手をあげた。サングラスに手をかけ、ゆっくりと顔から取り去る。
「この顔を知ってるか?」
 高い女の声とまっすぐな視線がダルスを刺した。
 見覚えのある顔だった。ありえない事実に感情の堰を切られ、ダルスは恐怖に声にならない悲鳴をあげた。
 それはすぐに途切れた。

 ふと足を止め、ウェイロは階段の踊り場から空を見あげた。
 透過壁越しに仰ぎ見る夜空は低い位置にたれこめた雲に埋めつくされていた。地上の光で白く照らしだされた雲はいまにも雨を落としそうだ。そう言えば夜空を見あげたことなど久しくなかったな――そんな考えがウェイロの脳裡をよぎった。
 しばらくウェイロはそのまま動かなかった。
 そしてちいさく息をついた。
 ――空耳か。
 眼を閉じ顔をすこし伏せてウェイロはわずかに首を横に振った。
 もちろん人の声など聞こえるはずがなかった。買い占めた高層五階のうち上の二階には誰も入れないようにしている。空から来るか壁を這い登ってでもこないかぎりここまで来ることは不可能なはずだった。
 誰かが導きでもしないかぎり。
 考えたくもない事態をつい想像してしまいウェイロは思わず体を震わせた。
 長い時間をかけてようやく心を落ちつけてからふたたび階段を登りはじめた。
 ――何を不安に思うことがある?
 それはここしばらくウェイロがくりかえしている自問だった。根回しも警備の強化も、なすべきことはすべて行っていた。危害が及ぶことなど普通に考えればまずありえなかった。
 にもかかわらず、ウェイロはまさにそれを怖れていた。
 理由はわかっていた。たった一人の女の影にふりまわされる自分が滑稽だとも思っていた。だがこの世のものではない存在と直接対峙したような、異様な、そして底のない恐怖はウェイロを捕らえて離さなかった。
 今夜も寝苦しい夜になりそうだ――そんなことを思いながらウェイロは階段の最後の一段を昇った。
 人の気配に背筋が凍った。
 ウェイロは身動きできなかった。すこしでも動いたらその瞬間に命を失うような気がして。オフィスであの女を目にしたときと同じ種類の恐怖がいまウェイロの体を縛りつけていた。
 無限に思える刻が過ぎた。
 静止に耐えられなくなった肉体が意志に反して動いた。視線がゆっくりとまっすぐ続く廊下の奥に向く。
 夜を裂いた雷が黒ずくめのうしろ姿を浮かびあがらせた。
 黒ずくめは肩越しにふりむいた。
 ウェイロは声をなくして両目をおおきく見開いた。

         *

 野太い声が煙をかき乱した。
「同じ顔だと?」
「そう。ムレエゴの通りを歩いているのを見たの」
 応えたのはか細く高い声だった。息に吹かれた煙が薄暗い部屋の中央でゆっくり渦を巻く。薄く伸びる光が渦を縦に切る。
「ガセじゃねえだろうな?」
 野太い声は部屋の低い位置から響いた。のんびりしたリズムと声の調子がうまくあっていなかった。
「ぼくの眼が信じられないって言うの?」
 高い声の主はすねたように唇をとがらせた。腕を組んで体重を片方の足に移す。痩せ細った体がすぐうしろのドアから射しこむ光をさえぎった。
「まあ待てセナギ。おまえさんご自慢の眼を疑うわけじゃねえ。ただ話があんまり信じがたいもんでな」
 ボードクフはカウチに寝そべっていた体をすこしだけ起こした。左斜め前、ドアのほうに顔を向けて目を細める。セナギも同じように顔をボードクフに向けていた。だがその目が何を見ているかをうかがうことはできなかった。
「ぼくだってそうだよ。だから、よく見てみた。そしたら骨格までほとんどおんなじだったんだ。なんならデータをダンプして比較してみる?」
 セナギは挑発するように顎を突きだした。眼窩のない顔がわずかに上を向く。なめらかな肌に覆われたその奥でセナギの“眼”は可視帯域とそれ以外の波長を合成して色鮮やかな幻視を創りだしていた。
「……骨までねえ。そいつはただごとじゃないな」
 ボードクフは眠たげにゆっくりまばたいた。中途半端に起こした体をひねって右手側の奥に顔を向ける。
「どう思う?」
 返事はなかった。かわりに爪を研ぐかすかな音が聞こえた。
「ふむ」
 脂肪を揺らしながら体を起こしてボードクフはカウチに座りなおした。前を向いたまま頭を左右にぐっと倒す。そのたびに乾いた音が鳴った。
「実物を見てみたいな。連れてこい」
「簡単に言わないでよ」
 セナギはすこし首を傾げて息をついた。ボードクフはきょとんとした目をセナギに向けた。
「強いのか?」
「言ったでしょ? 見たのはムレエゴでだって。普通ならあの雑踏の中の顔を見わけるなんていくらぼくだってできないよ。あいつに気がついたのは誰もできるかぎり近寄ろうとしなかったからなの。それも誰一人それを意識しないでね」
「そんなところまで似てるのか」
 感嘆もあらわに言い、ボードクフはおおきくあくびした。煙が開いた口いっぱいに吸いこまれる。
「ますます見てみたくなったぞ。どうだ、気にならないか?」
 ボードクフは言葉を右手奥に投げた。
 爪を研ぐ音が止まった。
「……最近、妙なことが多い気がする」
 つぶやくようなその声は空から降ってきたかと思うほどに高かった。
 声の主は部屋の隅にある小振りなデスクに座っていた。膝を折り曲げ足をデスクの縁にかけ、小柄な体を椅子の背もたれにあずけている。無表情な瞳は顔のすぐ前にかざした右手の指先を見つめていた。
 指先を動かして子細に観察するとすぼめた口で煙とともに爪を吹いた。
「このあいだしとめた奴の身元は結局わからなかった」
 言いながら左手に持つ細身のやすりを右手の爪に近づける。「クズたちのこぜりあいは心なしか増えている。リヒェルトグループは逆に表立った動きを何も見せない。すこしうわついた感じになるのは予測していたが街全体がこれほど微妙に貌を変えるとは思っていなかった。不確定要素が多すぎる。
 333は普及期に入ったばかりだ。いまはいちばん慎重でなければならない。完全に浸透するまではあらゆる障害を排除する必要がある。かかわりがすこしでもありそうなものなら、すべて」
 言葉は途切れ、正確なリズムを刻む爪を研ぐ音だけが残った。
「決まりだな」
 のっそり立ちあがるとボードクフは両手を上に伸ばして軽く伸びをした。
「誰かにいまのことを話したか?」
 言いながら前におおきくでっぱった腹を揺らしてドアへと歩く。目の前で立ち止まった巨体をセナギは見あげた。
「誰にも。まっさきに知らせなくちゃと思って」
「……いい子だ。これからも、誰にも話すなよ」
 ボードクフの右手がすばやく動いた。
 セナギの口から頬にかけてがぱっくりと真横に裂けた。飛び散った鮮血をセナギの“眼”は鮮明にとらえた。
「おめめと同じくらい立派な口をつけるんだな」
 何事もなかったように平然と言ってボードクフは部屋を出た。高い声の主は手の届く範囲より外には世界がないような顔で爪を研ぎ続けた。

         *

“いるか?”
(まだ。見つからない)
(痕跡を残しすぎ。すぐに見つかる)
(わざと? 誘われてる?)
“推測はいい。探せ”
(探してる)(捜してる)(さがしてる)(サガシテル)……
(見つけた。同じ顔)
(近くにいる。一人。座ってる)
“どこの店だ? 集まれ”
(待って。出る)
“追いかけろ。集まるまで見失うな。急げ”
(遠い)(遠い)(近い)(見つけた。歩いてる)(遠い)(見つけた)(見つけた)
(角を曲がった。人込みを離れてく)
(奥に入っていく。どんどん奥に――)
(足が速まっている)
(暗い路地を歩いている。姿が闇に溶けこんでいく)
(他所者じゃない? この街を知ってる?)
(誘われてる? 人目のつかないところに?)
“考えるな。考えるのは俺の役目だ。おまえたちはただ追いかけろ。追いつめろ。捕らえろ。ただし殺すな”
(追っている)(追っている)(追っている)――
(囲んだ)
(! 気づいている!?)
“逃がすな!”
((苦痛の感覚))
(撃たれた。危険。反撃――(意識の喪失))
“正面から相手にするな。近づきすぎたものはいったん下がれ。急いで別の手段を用意しろ”
(速い)(間にあわない)
((苦痛の感覚))((苦痛の感覚))((意識の喪失))((苦痛の感覚))
(強い)(強い)(かなわない)(強い)
“怖れるな。離れろ。用意が整うまで待て”
(逃げられな――(意識の喪失))
(持たない、早く――(苦痛の感覚))
“何人残っている?”
(わからない)
(少ない)
“減りすぎたか? 確かめろ”
(ガスが来た。散布する)
(待て、早い――(意識の喪失))((意識の喪失))((意識の喪失))
“――どうした?”
(……捕まえた)
(麻痺している)
(女だ)
(同じ顔をしている……)
“……連れてこい……”

         *

 かすかにきしんだ音にボードクフはすこしだけ頭をあげた。
 射しこむ光がすこしのあいだだけ充満する煙を浮かびあがらせた。光はさえぎられる前に小柄な人影の輪郭を描きだす。うしろ手にドアを閉めた人影はその場でカウチにあおむけに寝そべるボードクフをじっと見つめた。
「……遅かったじゃないか。飛んで来るとばかり思ってたけどな」
 ボードクフは頭を元に戻した。体の芯から疲れきっているような物憂い態度だった。
 静寂がしばらく続いた。
 やがて高い声が天から降った。
「ずいぶん派手にやったようだな」
「責めないでくれよ、ガーネット」
 ボードクフは深く息を吐きだした。野太い声はややかすれていた。
「あれほどとは思わなかった。まさに化物だ。十人以上がやられたよ――素人ばかりってわけじゃないのに、だぜ? しかも向こうはガスを吸うまで傷ひとつ負わなかった。かなわねえよ」
「おまえが直接出れば」
「駄目だったな。真っ先にやられて、あとはスレイブどもが右往左往しただけだ。そんな事態は避けてほしかっただろう? あんたみたいにはうまくやれんさ」
 目を閉じ、ボードクフはふたたび息をついた。
 束の間、静寂が戻った。
 煙の流れが乱れた。
「……何処に?」
「いちばん奥のつきあたりだ。そろそろ意識を回復していてもいいころだな。手足は拘束してあるが、なにしろただ者じゃない。油断するな」
 ふたたび室内に光が射しこんだ。
「ああ、もうひとつ」
 ボードクフは目を開いて頭をあげる。ガーネットは足を止めて肩越しにふりかえった。冷ややかな瞳がボードクフにまっすぐ向いた。
「本当に、瓜二つだぜ。俺でさえ何も知らなかったら見分けがつかないかもしれん。見て驚くなよ」
 すこしのあいだガーネットは何も言わずにボードクフを見つめた。それから何事もなかったように部屋を出た。ドアがかすかにきしんで閉じる。ボードクフは頭をカウチにあずけて目を閉じた。

 光が床にくさびを打った。
 その先でうずくまっていた者が顔をあげた。
 部屋に入りドアを閉めるとガーネットはちいさなライトが照らしだすその姿を見おろした。
 男とも女ともつかない顔をしていた。肌が露出しているわずかな部分を除いて全身が黒で覆われている。両手両足を縛られうしろに回された両手首はさらに机の脚に結びつけられていたがそのことを気にしている様子はなかった。
 無表情な赤い瞳がガーネットを見つめていた。
 二人は鏡に対したときのように自分の顔と向かいあっていた。
 先に言葉を発したのはガーネットだった。
「“カラーズ”か?」
 Bは唇だけを動かして声を発した。
「何故、そう思う?」
「持っていた印象に近い」
 Bは応えなかった。
 Bの声はガーネットのそれよりいくらか低かった。違いはそれだけだった。感情のない乾いた口調まで似ていた。
 しばらく沈黙が続いた。
 破ったのはガーネットだった。
「俺のことを知っていたな?」
 断定だった。Bは何も言わずただガーネットを見つめた。
「俺はおまえを知らなかった。同じ顔をした人間がいるなんてことは。どうしたら“カラーズ”なんてものになれるのかもわからない。
 逆の立場なら知っているはずだ。なぜ同じ顔がニェレデの裏街で闇を支配しようとしているのかを。
 話せ」
 従わずにはいられないような高圧的な命令の口調だった。だがBはまったく身動きしなかった。
「333のことを聞きつけて来たのか?」
 Bは微動だにしなかった。
「もう一度、答えやすいように訊こう。何故、俺の前に姿をあらわした?」
 Bは応えなかった。視線は二人が対峙したときからずっとまっすぐガーネットに向いていた。
 ガーネットは背にしていたドアから離れBに近づいた。そのすぐ前で足を止め自分と同じ顔を真下に見おろす。Bは自分と同じ顔をまっすぐ見あげた。
 ガーネットの左足が素速く動いた。
 足の甲がBの右の頬を的確にとらえた。Bは側頭部をつながれた机の脚に打ちつける。鈍い音が静まりかえった室内にやけにおおげさに響いた。
 蹴りを放つ前と同じ姿勢に戻ってガーネットは言った。
「答えろ」
 Bはねじれた首を元に戻した。
「暴力は好きか?」
 唇の端が切れて血が流れだしていた。変化はそれだけだった。口調も表情のない顔も元のままだった。
 ガーネットの表情も変わらなかった。
「質問をしているのは俺だ。おまえではない」
「好きか?」
 ガーネットは同じ場所を蹴った。鈍い音が前よりおおきく響く。今度はBはすぐには姿勢を戻さなかった。
 戻ってきた静寂に印をつけるようにガーネットはつぶやいた。
「……すくなくとも、絶対ではある」
 Bは瞳だけを動かして視線をガーネットに戻した。
「私にとっては違う」
 ガーネットは右目をほんのすこし細めた。
「痛覚がないのか?」
「痛みはある。私にとって唯一確実なものだ。だがそれによって期待される感情は私には縁がない」
 Bはゆっくりと顔をあげた。右目の縁から頬のあたりが赤黒く腫れあがりはじめていた。それでもその赤い瞳に表情はあらわれなかった。
 その顔をガーネットは冷ややかに見おろした。
「死ぬのが怖くないようだな」
「……いや、恐ろしい。おそらくは他の誰よりも。だがそれは他の誰とも違う意味でだ」
 ガーネットはわずかに眉をひそめた。
「……どういうことだ?」
 Bは一度ゆっくりとまばたいた。
「私はクローン体としての生存を義務づけられている。全身に埋めこまれたモニターがすべて送信を中絶したとき、連邦警察本部は私の死を知ってただちに次の私を用意するだろう。これまで記録してきた情報とそこから抽出した各種経験関数によって再構成された、あたらしい、しかしまぎれもなくそれまでの人生を引き継いだ私を。
 私は何度でもあなたの前に姿をあらわすだろう」
 言葉を切るとすこし疲れたように目を閉じた。
 沈黙が部屋を支配した。
 やがてガーネットの唇が薄く開いた。
「……おまえは、何者だ?」
 Bは瞼を開いた。視線はガーネットの瞳をまっすぐ射抜いた。
「あなたの双子の妹だ」
 ガーネットは顔をあおむかせて目を閉じた。
「信じろと?」
「事実だ」
 ガーネットはBのみぞおちを蹴った。Bは上体を前のめりに倒して咳と苦悶を吐きだす。めりこんだ爪先にもう一息力をこめてからガーネットは足を引いた。
「俺に肉親はいない」
 あえぎながらBは声を絞りだした。
「私もそう思っていた。あなたが333を使いはじめるまでは」
 ガーネットはBの額を蹴りあげた。腰を落として片膝をつき、左手で短い髪をつかんでBの顔を引きあげる。正面にむりやり持ってきたその目をガーネットは見すえた。
 呼吸を乱しながら、しかしBは視線を逸らさなかった。
 かすれた声がガーネットの喉から漏れた。
「……何を知っている?」
 Bの頬がわずかに歪んだ。
「かつて、あなたと同じように333に手を出した男がこの街にいたことを」
 冷たい静寂が二人のあいだを満たした。
「……その男は333の効果にはじめて気づいた人間だった。自らの発見を最大限に利用してさらに力を得るために彼は333の普及を試みた。もくろみは予想以上の成功を収めた。依存性が強く、それでいて精製に特殊な装置を必要とする333は流通を容易に支配することができたからだ。競合相手はすべてスレイブで始末した。彼自身がマスターとなって。そうして彼はこの街のすべての闇を握った。
 連邦は事態を見逃さなかった。
 最大の問題は333の効果が本質的に制御不能だという点にあった。使用量と使用頻度の相関関数がある閾値を超えると333は常用者の抑制機構を破壊する。多くの場合それは攻撃衝動の増大を伴う。つまりその人間はひどく危険な存在となるのだ。そうなるとマスターの支配も及ばない。厄介なことにそうなっても意識の残骸はいくらか張りついているため禁断症状に襲われると彼または彼女は333を手に入れるためならどんなことでもためらわずに実行しようとする――たとえそれが自らの命を奪いかねない危険な行為であったとしても。
 情報0課がもっとも早くその事実を知ったときにはニェレデの危険指数は臨界に達しようとしていた。
 四人が派遣された。手段を考慮する時間的余裕はなかった。ニェレデは完全に浄化された。
 ただひとつの例外を除いて。
 例外は産まれたばかりの双子だった」
 Bは苦しげに息を吐きだした。腫れた右目は半ばふさがれてしまっていたが視線は小揺るぎもしなかった。
「……双子はここよりもっとひどいアパートメントで産まれていた。彼の女の独りが誰の助けも借りずに独りで産み落したのだった。彼女自身も中毒者だった。発見した捜査員は即座に彼女を射殺した。
 続けて双子も殺そうとして、その捜査員はひとつの事実に気づいた――目の前の存在がきわめて貴重な実験体になりうるということに。333中毒の胎児に与える影響の研究がないことをその捜査員は任務にあたっての予備知識として知っていた。
 0課は担当捜査員の提案を認可した。一人はその手で連れ帰られた。影響を詳細に調査するため、またあらゆる治療法を試すために。もう一人は街の人間に預けて置き去りにされた。そのような胎児が劣悪な環境下で生き残るかどうかを観察するために。
 連れ帰られた一人にはあらゆる実験が行なわれた。その結果胎児段階での影響は遺伝子レベルにおよび事後に取り除くことは不可能だということが判明した。それを証明するために研究グループは連邦の承認を得て元の胎児の遺伝子から複製した被験体と浄化した遺伝子から生成した被験体の比較調査を試みた。クローン体としての承認を有効に活用するため0課は被験体の遺伝子を捜査員として登録した。
 もう一人は、予想に反して、生き残った。何の機能不全も見せずに。すくなくとも外部からの観察では情緒の偏向以上の異常は見られなかった。0課は五回定期的に観察を行ないその後関心を失った。症状を示さない対象には価値がなかったから。
 だが対象はふたたび0課の関心の内に入りこんできた――父親と同じように、333の供給者として」
 Bは唇を閉じた。
 ガーネットはBを見つめた。見つめつづけた。だが何も言わなかった。微動だにしなかった。
 静寂だけが過ぎた。
 やがてガーネットの唇が開いた。
「――おまえは狂ってる。すべてを知ってなお俺の前に現われ、眉ひとつ動かさずに話すおまえは、狂ってる。
 俺も狂ってる。到底信じられない話を信じようとする俺も、狂ってる。
 存在するはずのなかった魂だ。狂っていてもどうということはあるまい」
 ガーネットはつかんでいた髪を放して立ちあがった。うつむいたBの体を冷ややかに見おろす。
「何度でも姿をあらわすがいい。何度でも、殺してやる」
 背を向けドアへと大股に歩いた。そのすぐ前で気が変わったように足を足を止める。
「……その前に、スレイブとして役にたってもらうことにしよう」
 つぶやきを残してガーネットは部屋を出た。
 静寂が部屋に沈んだ。

         *

《333》
 78+2386(主薬)と78+2053(属薬)との併用による薬理作用の俗称。どちらも神経刺激系。主薬服用者が属薬服用者の行動を完全に操作することのできる一種のテレパシー状態を生みだす点が最大の特徴。属薬には幻覚作用もあり、被操作中の感覚および記憶は一切残らない。影響範囲は主薬と属薬それぞれの投与量によって決定される。主薬服用者の影響力は複数の属薬服用者に対して及ぼされるが、影響範囲内に主薬服用者が複数いる場合は指数的に影響力を減ずる。(後略)
(『連邦麻薬辞典』より抜粋)

         *

 薄汚れ古びた街の一角を太い光の筋が横切った。
 ハードトップは交差点を曲がると音もなく進んで通りの中ほどにある年代物のアパートメントの前で静止した。ただちにドアが開いて中から数人が飛びだす。手にした銃器を胸の高さに持ち直すと飛びだした者たちはハードトップを囲むようにして立ち油断なくあたりの様子をうかがった。
 夜の通りは不自然な沈黙を守っていた。人影はなく、立ち並ぶ背の低い建物の並びに明かりの灯る窓もひとつもなかった。訪問を昼間のあいだに充分に通達した成果だった。
 やがて飛びだした者のうちの一人が厳しい目のままうなずいて指輪のひとつをそっとなでた。
 ヘッドライトが通りを照らした。同じ角を曲がって一台のリムジンが通りに入る。リムジンはゆっくりと進んでハードトップのすぐうしろで停車した。指輪を撫でたのとは別の一人が後部座席に近寄ってドアに手をかけた。
 姿をあらわしたのは痩身で背の高い初老の男だった。
 ハードトップを囲んでいた者たちが素速く動いて男を中心にして立った。男は背筋をぴんと伸ばすとアパートメントを見つめた。細めた厳しい目にはまるで他に何も映っていないかのようだった。
 リヒェルトが月に一度その警戒厳重な屋敷からぬけだして一人の男に会いに出かけることは周知の事実だった。親代わりでもありかつては恋人でもあったその男に会うとき彼は最小限の護衛しかともなわなかった。誰もがそれを肉親以上に大事な、しかし現在の自分とはほとんど関係のない男を訪問する際の礼儀だと考えていた。故に訪問中のリヒェルトを襲撃しようとする者は一人もいなかった。それはニェレデの闇の暗黙の仁義だった。
 無意味な黙契だった。
 アパートメントの三階の窓が割れた。
 続いて背後から響いたたわんだ音にリヒェルトは何事かとふりむいた。瞳が淡い光を発して伸びる伸縮剣をとらえた。
 次の瞬間にはリヒェルトの首から上は剣の刃代わりであるレーザーによって斬りおとされていた。
 リムジンの近くにいた二人が同じひと振りで斬られていた。残りはあわててリムジンの屋根の上にかがんだ姿に対して銃を向ける。リムジンの中から出てきた数人も同じように銃口を屋根の上に向けた。
 ふりむきざまに剣を払ってさらに一人を斬るとBは道路へと跳んだ。その軌跡を追って銃が乱射される。同時に重く低い音をたててリムジンがひしゃげた。
 リムジンは轟音をたてて爆発した。
 ふくらんだ火球は残っていた護衛全員を巻きこんだ。続いてハードトップも同じように爆発する。二つの巨大な炎が街と沸きあがる黒煙を煌々と照らしだした。
 その光景をガーネットは車が入ってきたのとは反対側の交差点の角で見ていた。
 やがてすこしうしろにさがって立つ迫撃砲を肩に乗せた男に目を向けた。
「去れ」
 短い言葉に男は何か言おうとして口を開きかけた。だがガーネットの視線はそれを許さなかった。言葉を飲みこんで背を向けると男は離れた場所に停めておいた車へと戻った。
 車が走り去るのをたしかめてからガーネットはアパートメントの前の通りに足を踏みいれた。静かに歩を進めて炎上する車の前で足を止める。しばらくそれを見つめ、ふりむいてアパートメントの向かい側の建物へと視線を転じた。
「出てこい」
 Bは建物のあいだから姿をあらわした。
 ガーネットはショルダーホルスターから銃を抜くと左腕を伸ばしてBの胸に狙いを定めた。
 炎が二人の影をゆらめかせた。
「……爆風を利用して逃れるとはな」
 ガーネットは淡々と言った。Bは何も言わずただガーネットを見つめた。
「撃たれることは知らなかったはずだ」
 Bは応えなかった。ガーネットは右目を細めた。
「……はじめから、スレイブではなかったのか?」
 Bはゆっくりとまばたいた。
「違う。投与量が多かったため、解毒作用が効果をあらわすまで時間がかかった」
 Bの口調には何の変化も見られなかった。
 ガーネットは息をついた。感嘆とも畏れともつかない吐息だった。
「予定していたということか」
 ガーネットは引金を引いた。
 Bははじかれるようにして背中から倒れた。ガーネットは続けて銃を撃つ。Bは横に転がって避けた。跳弾が火花を散らした。
 戻らなくなったスライドにガーネットは弾倉を引きぬいた。Bはうつぶせの体を起こしかける。傷ひとつついていない全身と得物を失って素手になった左手をガーネットは認めた。
 あたらしい弾倉を銃に叩きこむとガーネットは確実にしとめるために狙いを定める時間を一瞬伸ばした。
 Bはかがんだ状態から後方へと跳んだ。
 ガーネットはあわてずに撃った。Bのひねった体の左肩口から血しぶきが飛ぶ。ガーネットは銃口をわずかに動かして狙いを修正した。
 その手が意図しない方向に泳いだ。
 路面に落ちた銃が不細工な音をたてた。ガーネットは息を飲んで痛みに襲われた手首を見る。驚きの浮かんだ顔はすぐにBのほうへと戻された。
 膝をついてかがんだBは握った右手をガーネットにまっすぐ伸ばしていた。
 細く鋭い痛みがガーネットの下腹部を貫いた。
 呆然とした表情でガーネットは両手を腹に重ねた。そのまま膝から崩れてうつぶせに倒れこむ。呼吸が乱れていた。傷からは予想できない熱い激痛に顔を歪めた。
 Bは右手に握っていたニードルパックを投げ捨てて立ちあがった。
 ゆっくりとした足取りでガーネットに近づいた。途中落ちた銃を拾いあげてガーネットの頭のすぐ近くで足を止める。
 ガーネットは思うように動かない頭を無理にひねってBを見あげた。
 Bはガーネットを無表情に見おろしていた。その顔はガーネットがはじめて対したときと変わっていなかった。
 銃口がガーネットの背中を指した。
 ガーネットは視線を銃の先に転じた。すぐに視線をBの顔に戻す。
 そして顔に激しい恐怖をあらわした。
「――撃つな!」
 叫び声は通りにおおきく響いた。
 Bは引金を引いた。

 心臓を撃ちぬかれたガーネットは一回だけおおきく体をけいれんさせてそのまま動かなくなった。
 右手はBの足首をつかもうと伸ばされていた。顔からは恐怖は消え、かわりに怒りと執念がグロテスクなほどはっきりと歪んであらわれていた。
 自分と同じ顔をした死体の自分では浮かべたことのない表情をBはしばらく見つめた。
 それから死体に背を向けて歩きだした。
 乾いた銃声が響いた。
 Bは横殴りされたようにその場に倒れた。うつぶせの体が二、三度ひきつって動かなくなる。右の肩のあたりから流れだした血が服に染みを急速に広げた。
 ボードクフは建物の角から出た。
 ガムを噛みリラックスした様子で腹を揺らしながら、それでも腰だめで銃をかまえたままガーネットに近づいた。横たわるその体をたいして興味もないような目で一瞥し、無造作に頭に銃を向けて引金を引く。破片かけらとしぶきがあたりに飛んだ。ボードクフは同じように道路に寝そべったBへと視線を転じた。
「……愛してるよ、ベイビー。あんたのおかげでこの街は労せずして俺のものだ」
 ボードクフはガムを吐き捨て同じように無造作に頭に銃口を向けた。
 乾いた銃声が響いた。
 ボードクフは驚きに目を見開いた。
 そのままうしろに二、三歩よろめき、ぺたんとしりもちをついた。視線はBに吸い寄せられたままだった。腰にあいた傷口には目もくれなかった。
 Bの体の下からのぞいた銃口が狙いを修正するようにちいさく動いた。
 声になりそこねた息を吐きだした瞬間、二発目の銃弾がボードクフの喉を撃ち抜いた。
 口から血を派手に吐きだしながらボードクフはあおむけに倒れた。太った体が力なく何度もひきつる。動きはしだいにちいさくなり、やがてボードクフはぴくりとも動かなくなった。
 Bもしばらく倒れたまま微動だにしなかった。
 やがて銃を握る手の力を抜いて息をついた。
 息を吸いこんだとたん口の中になまあたたかいものがあふれだした。Bはむせて血を吐きだす。わき出る血は永遠に続くのではないかと思えるほどとめどもなく口から流れた。
 それでもいつか咳はおさまった。Bは浅く息をしながら目を閉じた。
 脳裡にガーネットと同じように歪んだ自分の顔が浮かんだ。
 ――もう、止めよう。
 混濁してきた意識の中でいつかそんなことを想っていた。
 クローンとして何度でも再生することもこの手で殺したたった一人の肉親のこともいまは頭になかった。ただひどく疲れていた。終わらせたかった。
 このままでいればいずれ死は訪れるはずだった。
 Bの意思はみずからの体を放棄した。
 なのに体は動きだした。
 うつぶせに寝そべった体の腰を持ちあげ肩と膝を支えにして起きあがろうともがいた。力がこもらずに崩れるとふたたび腰を持ちあげそのまま思うように動かない全身を波打たせてすこしずつすこしずつ前に這い進んだ。意志とも理性とも感情とも無縁の動作だった。
 Bは両目をおおきく見開いた。
 薄れゆく意識に逆らうように叫んだ。
 心の奥底からの叫びだった。まちがいなく生涯最大の叫びだった。だがそれはもはや声にさえならなかった。意に従わない体を止めることもできなかった。
 しだいに動作が鈍くなりながらもBの体は前へと進みつづけた。
 叫びながらBはあらゆる感覚から遠く離れた深みへと沈んでいった。

 一台のセダンが音もなく通りに進入した。
 角を曲がってすぐのところで止まった。開いたドアから巨体が姿をあらわす。巨体は悠然と歩を進めてBのすぐ前で足を止めた。
 その足に頭をぶつけ、Bの体は動かなくなった。
 フキはその顔を静かに見おろした。
 やがてその口が薄く開いた。
「……生きたいか?」
 答はなかった。

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再醒 / Re-birth(Reprise)

 落ちていた。
 ただそれだけを感じていた。
 何も見えない。何も聞こえない。いや、視覚や聴覚といった感覚そのものが、ない。救けを求めて伸ばす手もない。身体もない。空間もない。
 ただ落下しているという感覚だけがあった。
(まるで果てのない奈落に沈んでいるよう――)
 以前にもあった。そんな想いがかすめた。それは、けれど未知の出来事ではないという安心よりもまた同じことがくりかえされているという恐怖を呼びおこした。
(私が私でなくなっていく――)
 そう想起した瞬間、支えていたなにかが消えた。理性が失せて原初的な恐れに支配される。
 声にならない悲鳴をあげた。落ちるあいだ続く、長い、長い悲鳴を――

          *

 広げようとした両手がなにかにさえぎられている。
 開いているはずの目に闇しか映らず、一瞬恐怖におちいりそうになった。吐きだす息がまわりで泡立つ。心臓の鼓動が感情をあおるように昂ぶる。
 ほかならぬその感覚が理性を呼びもどした。
 ――生きている?
 単純な想いがすべてを理解させた。
 鼓動はしだいに静まっていった。次に何が起きるのかはわかっていた。ゆっくりと呼吸をくりかえしながら一連のプロセスがはじまるのを待った。
 やがて全身を包んでいた液体が減りはじめた。
 体の半分ほどが空気に触れたところで頭の向こうから光が射しこんだ。足の先を支点にしてキャノピーがゆっくりと開く。ひさしぶりに/はじめて見る光に、思わず目を細めた。
 光に目が慣れるまで待った。それから呼吸のためのマスクをはずし、縁に手をかけて上体を起こす。足まで伸びたプラチナブロンドの髪が体にまとわりついた。なめらかな、まだ色素で染められていない白い肌の上を水滴が流れ落ちた。
「気分はどうだ? ルビー」
 低い声にBは顔をあげて赤い瞳を横に向けた。
 壁面に組みこまれた機器類とコンソールを背にして男が椅子に座っていた。白衣をまとった細い長身を背もたれにあずけて無表情にBを見つめている。Bは何も言わずに男の顔を見かえした。これもまた見覚えのある光景にすぎなかった。
 Bの直接の上司であるイーセスは視線を背後に転じると伸ばした手でコンソールを数回叩いた。
「また、目覚める直前に心拍数の上昇を記録した。レム睡眠時に緊張が生じるようだな。悪夢でも見るのか?」
 眼窩をすべった瞳がBに向く。Bは応えず自分の体に視線を戻して濡れて光る左の肩に触れた。
 たしかに銃で撃たれたはずのそこには、しかし傷を感じさせるようなものは何一つ残っていなかった。
 Bはたしかめるように手を下にすべらせた。刻まれていた傷痕はすべてなくなっていた。そうでなければならなかった。彼女はいま生まれたばかりだった。
 伏せた目でひととおり体を調べ終えるとBはカプセルから出て立ちあがった。
「任務はフキが後の処理をした」
 後を追うように立ちあがるとイーセスはコンソールを一度軽く叩いた。
「報告書はいつものところに置いてある。それを参考にして君の報告書を作成・提出してくれ。以後は命令があるまで待機。以上」
 決まり文句を口にするとイーセスは白衣の裾をひらめかせて蘇生室の出入口へと歩いた。その軌跡をBは目で追った。
「……どれだけ、経った?」
 イーセスはドアの前で立ち止まった。
「六連邦週だ」
 ふりむきもせずに言い、壁面に手を伸ばす。ドアは音をたてて開閉し、Bは静かな室内に一人残された。

 ドアが開くと自動的に照明が灯った。
 物の少ない、殺風景な自分の部屋にBは足を踏みいれた。首をめぐらして壁に造りつけの棚に目をやる。
 いちばん上の段にキューブ・フォトが並んでいた。写っているのはすべてBだった。それぞれの自分の残された最後の顔が無表情にあたらしいBを見つめていた。
 その右端に、Bはあたらしいキューブ・フォトを置いた。

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