残り一階半の踊り場に達したところでジイリはいったん立ちどまった。
ずっと頼ってきた手すりによりかかるようにもたれた。乱れきった息をなだめようと深呼吸をくりかえす。荒い呼吸音が階段を複雑にこだまして降りていった。
やがてすこし落ちつくとジイリは丸く突き出た腹越しにこわばって感覚が失せた両足を見おろした。
――情けない。
ジイリは顔をしかめた。
必要ならどんなことがあってもこの部屋までたどりついてみせる――そう決意したのは重役室を勝ちとったばかりのころだった。無論専用エレベーターが通じている上層部に歩いて行かなければならないことがあるなどと本気で考えたわけではない。ただそれくらいの覚悟がないと得た地位を守りとおすことはできないと信じたのだ。
それはまちがってはいなかった。長い年月のあいだにジイリは幾多の困難に直面し、そして乗り越えてきた。その点に関してはジイリは絶対の自信を持っていた。
しかしいまこうして実際に非常階段を登ってみて、かつての決意を果たそうとする体の悲鳴を聞くのはつらかった。
――あとすこしだ。
目を閉じおおきく息を吸い、体重を手すりから足へと徐々に戻した。瞼を開いて薄暗いあたりに目をこらす。壁に目指す相手の影が映ったような気がした。
誘われるようにジイリはふたたび歩きはじめた。
踊り場をまわって最初の一段に足をかけた瞬間、背筋が凍った。
予想もしなかった事態に思考が麻痺した。
使う者などいないはずの非常階段でジイリは人の気配を感じていた。
動揺は一瞬で押し隠した。あらゆる可能性を脳裡に描きながらジイリはゆっくりと顔をあげた。
階段のいちばん上に小柄な体が見えた。
たったいま降りてきたばかりのように手すりに右手を添え体を横に向けて立っていた。濃い色のサングラスで目を隠した顔が斜め上を見つめている。全身を覆う黒い服は短く切りつめた髪とともにその姿から性別の印象を奪い去っていた。
自分でも思いがけないことにジイリはその姿にすこしのあいだ見とれた。
その頭が急に動いてジイリを見おろした。
我にかえったジイリは驚きを必死に押し隠した。
気づいたのか気づかなかったのか、相手は唇をちいさく開いた。
「どこへ?」
天から降ってきたかと思うほど高い、女の声だった。
ジイリはあたたかみのこもった笑顔を浮かべた。女の存在感のある声はジイリに現実感覚を取り戻させていた。
「いや、ちょっと自分の部屋にね。忘れ物をしたんだ」
女は眉ひとつ動かさずに問いを重ねた。
「自分の部屋?」
ジイリは表情を変えたりはしなかった。ただ心の中で列挙していた可能性のリストにあたらしい項目をいくつもつけくわえて並べなおした。
「そうさ。知らないかな? 私はもう何年も重役室をひとつ自分のものにしているんだが」
言ってにやりと笑みを浮かべる。女は気配をうかがうように顔をわずかに上に向けた。
ジイリは右手を腰のうしろにまわして汗ばんだ掌を握りしめた。
いままでに会ったことのないタイプだった。それだけならうろたえはしなかっただろう。だが女はジイリの知らない雰囲気を身にまとっていた。他人の接近を許さない剥きだしの刃物のような雰囲気を。
ジイリはぐっと顎を引いた。
しばらくの沈黙ののち、女はぽつりとちいさくつぶやいた。
「あの部屋には、人がいた」
ほとんど反射的にジイリは言葉を返していた。
「私がか?」
にやりと笑う自分をジイリは意識した。
女はサングラスの奥に隠された視線をジイリに戻した。ジイリは手すりから体を離して両腕を軽く広げる。わざとらしく演技的に。経験が思考より速く反応しはじめていた。
「思ったとおりだ。そう、そいつを忘れたんだよ、私は」
女はジイリを見つめた。瞳は見えなくとも気配でわかった。その表情からはどんな感情もうかがうことはできなかった。
やがて女の唇がわずかに動いた。
「ジイリ=カサバがジイリ=カサバを忘れた、と?」
「そうとも」
ジイリは拳を固く握りしめた。この瞬間だけは怒りを抑えることができなかった。
「あれは、私の偽者なんだ」
強い言葉が階段に固く響いた。
戻ってきた静寂にふと我にかえって女を見た。女は変わらぬ無表情のままだった。ジイリはばつの悪さを覚えて視線をそらした。初対面の相手にどうしてこんなことを口走ってしまったのか自分でもわからなかった。
「……偽者にしては、態度が堂々としていた」
女は淡々と言った。口調も表情と同じで変わらなかった。
「そうだろうさ。そうでなければ困る。あれは私自身だったんだから」
ジイリは苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめた。その視界の端に片方の眉をわずかにあげた女の顔が映った。
「偽者ではないのか?」
「偽者だ。いまでは。だがかつては私だった」
「――なるほど」
その言葉にジイリははっとしてふたたび顔をあげた。
女も同じように斜め上を見あげていた。はじめて見たときのように。
「なるほど? ちょっと待て、君は私が言ったことの意味がわかるのか? 私はありえないことを口にしたつもりだが」
ジイリの問いに女は天井を見あげたまま言葉を返した。
「あなたに不可能なことなどあるのか?」
単刀直入な問いにジイリは苦笑せざるを得なかった。
「よしてくれ。連邦主席じゃあるまいし、一介の私企業の重役にできることなどたかが知れている。なってみればわかるがね」
「だが複製を造ることはできた」
何気ないその言葉はジイリの全身を凍りつかせた。
今度はその呪縛をふりはらうことは容易にはできなかった。
長い静寂が過ぎたあと、ようやくかすれた声が問いをかたちづくった。
「……何を、知っている?」
女はジイリを斜めに見おろした。
「あなたが知っている以上のことを」
ジイリは息を飲んだ。
女は右手を手すりにかけたままゆっくりと歩いて階段を一段降りた。
声が喉から勝手にあふれだした。
「――待ってくれ! たしかにアンドロイドを造りはした! それが連邦法に違反することも知っていたさ! だがすべての仕事をこなすためにはあいつはどうしても必要だったんだ! 信じてくれ、私はあいつを使ってどうこうするつもりはなかったんだ!
なのにあいつは――」
ジイリは怒りに顔を歪めた。
「――信じられるか? あいつは、まるで本物のようにふるまいはじめたんだ!」
ジイリはスーツの内ポケットから銃を引き抜いた。
「見てくれ、これを! こんな苦労までしてここまで来たのはなんのためだと思う? あいつを始末するためさ! いまも重役室でのうのうとふんぞりかえっているあいつを――
それでなにもかもおしまいだ!」
絶叫は幾重にも重なって響いた。
ジイリは息をきらして女を見つめた。
興奮が潮のように引くと銃の重さがいやにはっきりと感じられた。そのずっしりとした重さはいままで頭だけで考えていたことに具体性を与えていた。
女は何事もなかったかのようにまた一段階段を降りた。
「向こうも同じことを言っていた」
ジイリは胸を突かれたように息を詰まらせた。
女はサングラスの奥の瞳をジイリに据えた。
「自分が本物だと証明することができるか?」
「――馬鹿なことを! 向こうが造りものに決まってるじゃないか! 俺が奴を造ったんだ――」
「――そうか」
女の左手が素速く動いた。
乾いた破裂音と同時に鋭い痛みが手首を突きぬけた。
「――っ!」
声にならない叫びをあげながらジイリはうしろによろめいてしりもちをついた。
右の手首を左手で押さえ、痛みに顔を歪め荒い息を吐きだして階上の女を見あげた。
女は左手に持つ銃をジイリにまっすぐ向けていた。
「その目でたしかめてみればいい」
変わらぬ調子の女の言葉に引きこまれてジイリは視線を痛む手首に戻した。
色のない血が左手を濡らしていた。
ジイリはおおきく目を見開いた。
左手が意志に反して痛む手首から離れた。
裂けた人工皮膚が無残な傷口をさらしていた。細かく崩れた青白い人工の組織が透明な血を淡く染める。押さえるもののなくなった傷口から血が雫となって床に落ちた。
ジイリは呆けたようにその様子を見つめた。
それから糸が切れたようにのけぞって声をあげた。
その声はもはや怒りとも哀しみともつかなかった。言葉にならない咆哮は反響するごとに変調して形容しがたいノイズとなってうねった。
銃声がその綺想曲をさえぎった。
活動が停止するまでのコンマ数秒のあいだにジイリはひとつの顔を見た。ジイリ自身――アンドロイドの元となった男の歪んだ笑みだった。
ドアが開いたことにバーテンは気づかなかった。
馴染みの客の話にあいづちをうっているときに唐突に黒い姿が視界を横切った。不意をつかれたバーテンがあわてて視線を向けると、客はカウンターのいちばん奥のスツールに座るところだった。腰を落ちつけても客はバーテンに顔を向けようとはしなかった。
急いで話に区切りをつけ、バーテンはあたらしい客に近づいた。
はじめて見る顔だった。すくなくとも帽子から靴までを黒で統一したその特徴的な外見に見覚えはなかった。短く刈った髪の色も黒い。目を覆い隠すこれもまた黒いサングラスをはずそうともしないために特徴はひときわきわだっていた。
バーテンが前に立つと、客ははじめてバーテンに顔を向けた。
「ロックを」
思ったより高い声に、バーテンは客が女だと知った。
それだけ言うと女は顔を伏せた。バーテンは黙ってグラスを出して元の客の前に戻った。
ふたたび客と言葉を交わしながら、バーテンはときおり女を盗み見た。グラスの中身が減った気配はなかった。小柄な体は身じろぎさえしないようだった。何をするでもなく、女は終始無言でただグラスに向きあっていた。
声を発しない客はいないも同然だった。バーテンはいつものように働いた。カクテルを作り、つまみを出し、グラスを洗い、客の話に耳を傾けた。
やがて最後まで残っていた馴染みの客も帰り、気がつくと店の中はバーテンと女の二人だけになっていた。
バーテンはあらためて女を見た。その前にはグラスが出したときと同じように、もしかしたら位置さえ変わらずに、置かれている。氷はすっかり溶けて姿を消してしまっていた。そんなグラスを店内に置いておきたくはなかったが、女があたらしい酒を望んでいるようにも見えなかったのでバーテンは何も言わずにただグラスを拭いた。
突然、静かな女の声がバーテンの耳を刺した。
「ヘーゼルスタインはどこにいる?」
バーテンは無言でグラスを拭き続けた。
女は席を立ってドアへと歩いた。無駄のない動きだった。バーテンは持っていたグラスを置いて女を目で追いかけた。
ドアの前で立ち止まったその背中に、バーテンはカウンターの下に隠していた銃を向けた。
女は動かなかった。ふりむきもせずにただ一言、つぶやくように言った。
「撃てるか?」
バーテンは息を飲んだ。引金にかけた指がこわばった。
そのまま引金を引こうとした。だが指は動かなかった。伸ばした腕が小刻みに震えた。女の姿が瞳の中で微妙にぼやけた。
撃てば、撃つ――女の背中が発するその無言のプレッシャーにバーテンは耐えることができなかった。
ゆっくりとふりむき、女はサングラスをはずしてバーテンをまっすぐ見つめた。赤い瞳がバーテンの意志を射抜いた。
「ヘーゼルスタインはどこにいる?」
だらしなく銃をぶらさげ、うなだれたままバーテンは口を開いた。
アタッシュケースを閉じ、ヘーゼルスタインは窓の外に顔を向けた。
壊れて開け放たれたままの窓の外には暗い雲が低くたれこめていた。瞳に映るその景色に色や輪郭が異なる複数のイメージ――かけた眼鏡に埋めこまれた各種センサーがスキャンして視覚に直接送りこんでくる各周波数帯域の情報が重なる。仕事をこなす際にはなくてはならない情報だったが、陽が沈もうとしていることを知るにはその力を借りるまでもなかった。雨がもうすぐ降りだすだろうと推測するにも。
机の上に転がしておいたスティック型のライトを取りあげスイッチを切ると、ヘーゼルスタインはライトをポケットにつっこみアタッシュケースを下げてドアへと歩いた。
部屋を出る一歩前で立ち止まり、肩越しにふりかえってあらためて中を見まわした。ベッドと机だけがかろうじて生活の痕跡をとどめている、荒れ果てた廃ビルの一室を。ヘーゼルスタインはわずかに目を細めた。だがセンサーも昔の面影をよみがえらせはしなかった。
ヘーゼルスタインは視線を戻して部屋を出た。
ビルの中はもうかなり暗くなっていたが、合成された視覚のおかげでヘーゼルスタインは苦もなく瓦礫の転がる廊下を歩いた。天井が崩れかけた階段を降りてエレベーターの前を曲がり、エントランスホールを横切ってかつてドアであったものの残骸をくぐりぬける。遠くからかすかに響く雷の咆哮に足を止めて遠くの空を見やった。
そして、自分を見ている存在に気づいて顔を向けた。
相手はビルの正面に立っていた。廃墟を背にして、ダッシュしてもすぐにはたどりつけない距離を置いて。小柄な体は全身黒で覆われていた。わずかにのぞく顔の肌の白さとそれは見事な対照をなしていた。
しかしヘーゼルスタインの視線を奪ったのはその特徴的な姿ではなく左手に下に向けて持たれた銃だった。
ヘーゼルスタインがその存在を認識するだけの充分な時間を置いてから、相手は静かに口を開いた。
「ヘーゼルスタインか?」
女の声だった。ヘーゼルスタインはわずかに唇を歪めた。
「ヘーゼルスタインなら?」
ヘーゼルスタインはショルダーホルスターの中の銃を強く意識した。勝ち目があるとは思えなかった。センサーでは決してとらえられない情報をヘーゼルスタインは直感でつかんでいた。
女は鍛えぬかれた存在だった。
しばらく、そのまま二人は黙って向きあった。
先に口を開いたのは沈黙に飽きたヘーゼルスタインだった。
「“カラーズ”か?」
女は答えなかった。ヘーゼルスタインはかまわず言葉を続けた。
「なぜ俺を探す? 俺に何の用があるんだ?」
今度は返事を待った。理由はわかっていたが、たしかめなければならなかった。
答はすぐに返ってきた。
「証言が欲しい」
「証言? 何の?」
ヘーゼルスタインは片方の眉をあげる。女は何も言わずにヘーゼルスタインを見つめた。なんとなくヘーゼルスタインはため息をついた。アタッシュケースがいやに重く感じられた。
「断ったら?」
「殺す。それから、あなたの頭に埋めこまれているメモリユニットを取りだす」
ヘーゼルスタインはちいさく肩をすくめた。
「なるほど。だが、俺も商売柄素直に言うことを聞くわけには――」
耳に忍びこんだ排気音にヘーゼルスタインは言いかけた言葉を切った。
女は顔を横に向けた。ヘーゼルスタインはその視線を追う。転じた視線の先にある廃ビルの一角を強い光が照らしだす。
次の瞬間、街区の角から車が飛びだした。
タイヤを鋭く鳴らしてヘーゼルスタインのほうへと向きを変えた。窓から人が身を乗りだす。ヘーゼルスタインに向けて伸ばした手の内にあるものが短く鋭い光を放った。周囲のどこかではじけた破片がヘーゼルスタインの視界を横切った。
銃を車に向ける女にヘーゼルスタインは背を向けた。ビルの中へと一直線に駆け戻る。急ブレーキとタイヤの滑る音、それに銃声がヘーゼルスタインの背中を押した。
エレベーターの前にたどりつくとパネルのスイッチを拳で叩いた。銃を抜いてふたたび玄関のほうへと向きなおる。背後で非常時のために復旧しておいた電源によって目を覚ましたエレベーターが重い音をたててドアを開いた。
ヘッドライトがヘーゼルスタインを照らした。
網膜が一瞬飽和した。アタッシュケースをエレベーターに投げこみ空いた手で目を覆う。逆光の中に動く影をヘーゼルスタインは認めた。
――女か!?
銃を前につきだしたままうしろ向きにエレベーターに乗りこんだ。パネルに手を伸ばして見もせずに触れる。視線は正面に据えたまま動かさなかった。センサーが輪郭を縁取った光の中で動く姿から目を離さなかった。
女はまっすぐ接近していた。手に持つ銃はうしろではなくこちらに向いていた。
引金を引こうとして、銃口の向きがそれていることにヘーゼルスタインは気づいた。
遠くからの銃声が連続してエントランスホールに響いた。閉まりかけたドアをうまくすりぬけて女はエレベーターの中に飛びこむ。ヘーゼルスタインは反射的にその額に銃口をあてる。
きしみながらエレベーターは上昇をはじめた。
女の帽子が脱げ落ちた。その手に持つ銃はヘーゼルスタインの腹に押しつけられていた。
離れていたときにはわからなかった女の赤い瞳がすべてを見透かすようにヘーゼルスタインを見つめた。
「……撃つなら撃て。私の死に意味はない」
気圧されたように動けずにいるヘーゼルスタインに対して言い放ち、女は銃を引いた。
帽子を拾い、壁際に下がってかぶりなおした。視線はヘーゼルスタインに据えられたままだった。その瞳にはどんな感情も浮かんではいなかった。
女の不可解な行動にとまどいを覚えながら、ヘーゼルスタインもいつか銃口を下げていた。
騒々しい悲鳴をあげてエレベーターが止まった。別種の雑音をたててドアが開く。だが二人は向きあったまま動かなかった。待ちきれないようにドアはふたたび雑音をともなって閉まった。
近づく静寂をさえぎるようにヘーゼルスタインは口を開いた。
「なぜ俺を殺さない? やつらの目的は俺だ。俺の死体を差しだせば交渉の余地はある」
「証言の価値は生者が直接口にしたほうが高い」
ヘーゼルスタインは片方の眉をあげた。同時にエレベーターががたんと揺れて下降しはじめる。ヘーゼルスタインは目も向けずに銃口で階数ボタンを押した。
「つまり、俺を連れて帰ると?」
女は応えなかった。変わらない無表情は肯定の証にヘーゼルスタインには思えた。
「危うい共闘だな」
ヘーゼルスタインは唇を歪めて笑みを浮かべる。ビルを出るまでの利害が一致するというだけで手を組むのはどう考えても賢い選択とは思えなかった。しかしどこか奇妙な女を前にして、ヘーゼルスタインはいつのまにかその気になっていた。
ひっかかるように一度上下におおきく揺れてエレベーターが止まった。
二人は同時にドア脇の壁際に体を押しつけた。意外なほど静かに開いたドアの向こうに暗い廊下がのぞく。女は無駄のない動きで素速く廊下に飛びだし、突きあたりを背にして腰をかがめ腕を伸ばして奥をまっすぐ見つめた。アタッシュケースを拾ってドアに立てかけるとヘーゼルスタインは女のうしろに立って同じように銃をかまえた。
静寂の中、エレベーターの脇に口を開いている階段から靴音がかすかに響いた。二人は息を殺してその靴音が近づくのを待った。
と、ふとヘーゼルスタインの脳裡にある問いが浮かんだ。われながら間が抜けていると思いつつもヘーゼルスタインはそれを口にしてみた。
「名前は?」
一瞬、ためらったような間があいた。
「……B」
驚きに目をみはってヘーゼルスタインは自分の前にいる女をあらためて見つめた。
連邦警察情報部に組織図にあらわれない課が存在することは公然の秘密だった。その課が独立した権限を有し、また属す捜査員が一般の捜査員以上の特権を有していることも。裏の世界にかかわる者たちが情報0課とも呼ばれるその課のことを語るとき、その言葉にはかならず畏怖がこめられていた。
その畏怖を裏付けるように、話にあらわれる情報0課の捜査員たちはみな腕利きだった。
コードネームに色の単語を含むことから情報0課の捜査員は“カラーズ”と呼ばれている。いまヘーゼルスタインの前にいるのはその中でももっとも優秀だと噂される一人だった。R・B。色は青、Rはルビーともローズとも言われていた。
まだ女を見つめているヘーゼルスタインの視界を不意に明るい光がよぎった。
天井近くを照らした光の輪は舐めるように頭のあたりの高さまで下がった。だんだんちいさくなるにしたがって靴音がおおきくなる。光がおおきく揺れるのにあわせて階段からサーチライトを持った男が姿をあらわした。
二人のほうに顔を向けた瞬間にヘーゼルスタインは迷わず撃った。
男ははじかれたようにのけぞり倒れた。サーチライトが床に落ちて硬い音をたてる。Bは階段の前まで駆けると下に向けて銃をかまえ引金を引いた。光が一瞬だけBを包んで消えた。
廊下の奥の突きあたりでなにかが動くのをヘーゼルスタインの眼鏡のセンサーがとらえた。向こう側にはぼろぼろではあるもののまだ使えないこともない非常階段がある。ヘーゼルスタインは人影を確かめもせずに撃った。倍以上の銃声が廊下に響き、あちこちの壁が音をたててはじけた。
Bは床を蹴って階段を登った。
銃を乱射しながらヘーゼルスタインもあとに続いた。踊り場でBを抜いて上の階に出る。登り続けるかとどまるか迷う背中を後押しするように階下から銃声が響いた。ヘーゼルスタインは廊下に飛びだし奥へと走った。
廊下の突きあたりがいきなり開いた。
あわてて立ち止まり、手近のドアを引きあけた。奥に向かって銃を撃ち、ドアで体を隠すようにして部屋に入る。くぐもった呻きと体の倒れる音がかすかに聞こえた。
ふりむくのと同時にBが体を滑りこませた。
ヘーゼルスタインはドアを閉めようとしたが、開けたときと違い微動だにしなかった。数度試みてあきらめ、腰を落として部屋の外の気配をうかがう。廊下は静まりかえっていた。暗い中を動きかねている様子が感じられた。
そっと息をついた瞬間、Bの声がちいさく部屋に響いた。
「車は三台。入口に四人いる。撃った奴を考えに入れれば、残りは十人はいないだろう」
ヘーゼルスタインは視線を部屋の奥に転じる。Bは窓際で外の様子をうかがっていた。あくまで冷静なその態度にヘーゼルスタインをいらだちを覚えた。
「まるでこんなことはめずらしくないとでも言いたげだな」
Bは目だけをヘーゼルスタインに向けた。あいかわらずその表情からはどんな感情もうかがうことができなかった。歯痒さがヘーゼルスタインに言葉を続けさせた。
「撃ちあいの最中だってのに、怖くないのか? 一歩まちがえれば殺されちまうかもしれないってのに、どうしてそんなに落ちついていられる?」
Bは応えずにただヘーゼルスタインを見つめた。その視線をヘーゼルスタインは正面から受けとめる。
ふと、ヘーゼルスタインの脳裡にBの言った言葉がよみがえった。
「……私の死に意味はない、そう言ったな? どういう意味だ? “カラーズ”ともあろう者がその死に意味がないことなどありうるのか?」
Bは視線を窓の外に戻した。
銃声とともに窓枠がはじけた。Bは腰をかがめてヘーゼルスタインに近づく。反対側の壁際に体を押しつけて廊下の様子をうかがった。残響が消えた室内は前よりもずっと静かにヘーゼルスタインには感じられた。
その静寂を傷つけるように、外に目を向けたままBはつぶやいた。
「……ここで私が死んでも、また別の場所で私は目覚めるだろう」
「――なんだと?」
ヘーゼルスタインは思わず聞きかえす。Bの目がいまはすこしだけ伏せられているようにヘーゼルスタインの瞳には映った。
「私は連邦に登録されたクローン体として生存を義務づけられている。いまこうしているあいだも私のすべての経験は全身に張りめぐらされたモニターによってとらえられ発信されて本部の記憶装置に記録されている。もしいま私が死んだとしたら、いままで私が残してきた経験の記録とこれまでの行動パターンなどから導いたさまざまな心理表現関数を組みあわせて再現された“私”があたらしい体を与えられて目覚めるだろう。死など一度も経験したことがないように。
だが――」
わずかに、声が震えた。Bの言葉に感情があらわれるのをヘーゼルスタインははじめて聞いた。
「それは、私ではない。同じ姿をし、同じ記憶を持ち、同じことを考え、同じように行動したとしても、それは、私では、ない――」
声は静けさに吸いこまれるようにして消えた。
ヘーゼルスタインはBの横顔をじっと見つめた。
「……どうしてこの街が廃墟になったか、知ってるか?」
Bはわずかに顔をヘーゼルスタインに向けた。
「シャトルが落っこちたんだ。直撃はまぬがれたが、反応炉の暴走の影響をまともに受けたんじゃあまり違いはない。一万人だかが死んだって話だ。
その中に、いっしょに住んでた奴がいた」
ヘーゼルスタインは視線を上にそらした。
「俺は仕事でこの星を離れていたんだ。事故のことも知らなかった――ニュースなんてろくに目にしやしなかったからな。帰ってきたら、街はなくなっていた。住んでいた建物も全部瓦礫になっていた。
それだけのことだ。そう思っていた。今度の仕事にしくじるまでは。
なのに、おかしなもんさ。追われる身になって逃げるのに疲れたとき、支えになったのはもう一度ここに来るという思いだけだった」
ヘーゼルスタインは瞼を閉じる。Bの瞳がヘーゼルスタインに向いた。
「どうしてそんなことを話す?」
Bの言葉は元の調子に戻っていた。
「そうだな」
ヘーゼルスタインは深く息を吐きだした。
「どうしてだろうな」
明かりが二人を照らしだした。ヘーゼルスタインは両目をおおきく見開く。天井の非常灯が生きかえっていた。たいして明るい光ではなかったが、人の姿を確認するには充分だった。
銃弾がBの右肩をかすめた。
反射的にヘーゼルスタインは廊下に飛びだした。階段のほうへと駆ける。角にいた二人が銃を撃った。無造作に腕をつきだして一人の胸を撃ち、そのまま距離を詰めてもう一人のこめかみをグリップでなぎはらった。
階段の前で急ブレーキをかけるのと同時に背後で銃声が響いた。ふりかえると突きあたりにいくつか動く影が見えた。Bの応射に影は姿を隠す。
「走れ!」
階段の角の壁に体を隠してヘーゼルスタインは叫んだ。腕だけを伸ばしてろくに狙いもせずに引金を引く。Bは銃弾をぬって階段に駆けこんだ。ヘーゼルスタインは身を引いてマガジンを引き抜き予備と入れかえた。
「大丈夫か?」
廊下の気配をうかがいながらヘーゼルスタインは目だけをBに向けた。Bは背筋を伸ばすとヘーゼルスタインに顔を向けずに応えた。
「平気だ」
「しかし――」
「この傷は、私だけのものだ」
Bは銃を持ったままの左手で右肩の傷に触れた。
階下から靴音が響いた。ヘーゼルスタインは舌を打つ。敵方で動ける者はもうそれほど多くはないはずだったが、はさみうちにされるとやっかいだった。
「どうする?」
ヘーゼルスタインは顔をBに向けた。Bは目だけをヘーゼルスタインに向ける。その変わらない無表情にヘーゼルスタインは頬を歪めて笑みを浮かべた。
「――行くぞ!」
体をひるがえしてヘーゼルスタインは階段を駆け降りた。
踊り場を曲がったところで階下から敵が姿をあらわした。三人。立ち止まらずに走り、階段を半分降りたところで跳んだ。
銃弾とともに脇腹を熱いものがかすめた。
一人の顎を蹴った。着地し、勢いのままにもう一人に体当たりする。もつれて床に倒れた。いち早く上半身を起こすと相手の首筋にグリップを叩きこんだ。
銃声と人の倒れる音が重なった。ヘーゼルスタインは肩越しにふりかえる。残っていた女がうずくまっていた。その横をBが駆けぬけた。
立ちあがり、ヘーゼルスタインは左手で脇腹を押さえた。手のひらを顔の前にかざしてついた血をたしかめる。たいした傷じゃない、そう自分に言いきかせてBを追った。
Bは一階の廊下の角に身を隠すようにして立っていた。エントランスホールの気配をうかがっている。ヘーゼルスタインは階段の途中にころがっている男を乗りこえてBに近づいた。
「何人いる?」
抑えた声で訊きながらヘーゼルスタインは上着を脱ぎ捨てた。ショルダーホルスターをはずして床に落とす。Bは微動だにせずに応えた。
「見えるのは四人。車の中にも何人か残っているかもしれない」
「残弾数は?」
「五」
「とっておけ」
Bはふりむいてヘーゼルスタインを見た。額に汗を浮かべながらもヘーゼルスタインは笑みを浮かべてみせた。痛みは呼吸とともに強くなっていた。
「証言と言ったな? つまり、あんたたちはすくなくとも事実の一端をつかんでいるわけだ」
ヘーゼルスタインは言いながら前に出てBと体の位置を入れかえた。壁に背中を押しつけてゆっくりと息を吐きだす。エントランスホールに注意を向けながら言葉を続けた。
「その通りだよ。マルコーニ・グループの会長、ジュヤス・マルコーニはネットワークの中に生きている。奴は自分自身を情報に還元して記録し、死後仮想人格として再生してグループを支配している」
連邦政府は身体を持たない人格の存在を認めていない。ごく小数の例外を除いて。裏の世界に関わりを持つ一コングロマリットの会長がその例外として認められるはずがなかった。
「どんなヒットマンも失敗するはずさ。奴の実体はひとつじゃないんだ。各グループはそれぞれのコンピューター資源をすこしずつ割いて奴の一部を実行している。その総体がいまのジュヤス・マルコーニってわけだ。ひとつを壊したところでたいした影響はない――他の部分が復旧するまで補完するからな。それに、たとえネットを寸断してすべてのコンピューターを破壊したとしてもバックアップが何度でも奴をよみがえらせるだろう。ほんとの不死だよ」
ヘーゼルスタインはわずかにふりむいてBを見た。
「要するに、あんたと同じだ。それでもあんた、奴を“殺す”か?」
「それを決めるのは私ではない」
Bはまっすぐヘーゼルスタインを見つめていた。あくまで冷静なその口調にヘーゼルスタインはすこし苦笑した。
「では、俺は?」
一瞬、沈黙が二人のあいだに横たわった。Bはまばたいてその赤い瞳を一度隠した。
「……おそらく」
ヘーゼルスタインは微笑んでちいさくうなずいた。
エントランスホールに踊り出た。一瞬で玄関をかためている四人の位置をたしかめる。体を低くして走りながら撃った。三人が狙い通りに倒れた。
四人目の弾がこめかみをかすめた。フレームがくだけ、耳のうしろに挿していたコネクタが抜けて眼鏡が落ちる。目を細めて勘で狙い引金を引いた。
胸から血を派手にまき散らして女は倒れた。その脇まで走ったところでヘーゼルスタインは足を止める。枠の残骸をつかんでうつむき息をついた。痛みにいまにもしゃがんでしまいそうになるのを必死になってこらえた。
強い光がヘーゼルスタインを照らしだした。
鋭い痛みが肩と腹を同時に貫いた。衝撃にヘーゼルスタインはあおむけに倒れる。無理に顔を持ちあげると、ぼやけた視界の中車の影から人が二人近づいてくるのが見えた。
銃声とともにその姿が崩れおちた。
緊張の糸が切れたようにヘーゼルスタインは頭を落として目を閉じた。喉に血があふれる。咳きこみながら腹に手をあてるとあたたかいものが流れ出るのがわかった。
足音が耳元で止まった。ヘーゼルスタインは最後の力をふりしぼって目を開いた。
Bはヘーゼルスタインを見下ろしていた。その赤い瞳にはいままでと同じようにどんな感情もあらわれてはいなかった。
「――殺せ」
言葉を絞り出したとたん、喉から血があふれだした。
銃を上着におさめるとBはかがみこんでヘーゼルスタインの肩を起こした。腕を首のうしろにまわし、肩を貸すかたちでヘーゼルスタインを立ちあがらせる。
よせ、無駄だ――ヘーゼルスタインが言おうとした言葉はもう声にはならなかった。
Bはヘーゼルスタインをかつぐようにしてビルを出た。残された車の一台に近づき、助手席のドアを開ける。ヘーゼルスタインを乗せると反対側にまわって自分も乗りこんだ。
遠のく意識の中でヘーゼルスタインはなつかしい人の面影を見たような気がした。
雨が地面を叩きはじめた。Bは目を細めてアクセルを踏みこんだ。
ドアを開くと中から熱気と喧騒があふれだした。
店内は八割がた席がうまっていた。あちこちから陽気な笑い声が起きる。その隙間を縫ってグラスの触れあう音、それに軽快なBGM。夜はこれからだとパブ全体が話しかけてくるような雰囲気だった。
口の端にわずかに笑みを浮かべながらグエンは人々のあいだを店の奥へと進んだ。
「ようグエン、どうした? 今日は早いじゃないか」
ウェイターのケルデのすれ違いざまの言葉にグエンは足を止めてふりかえった。ケルデも足を止め、グエンの顔をしげしげとながめる。
「なんだ、ずいぶん機嫌がよさそうだな」
「あたぼうよ、なんてったってでっかい取り引きをまとめてきたところだからな。今夜の俺はいつもとは違うぜ。けちくさい昔とはおさらばだ。さあ、まずはいつものやつだ。急いで持ってこいよ、早くな」
カウンターに身を寄せて背中からよりかかる。前腕皮膚下の電子刺青がせわしなく明滅した。ケルデはその姿をながめわたすとにやにやと笑った。
「へえ。そんなでっかい財布、どこでカツアゲしてきたんだ?」
グエンは黙ったままにやりと笑いかえした。その不敵な態度にケルデは笑いをひっこめる。それからどうでもいいやとでも言いたげにちいさく肩をすくめるとふと気がついたように視線を店の奥へと向けた。
「そうそう、おまえにお客さんだぜ、グエン」
虚をつかれたような顔をしてグエンはケルデの視線を追った。
「誰だ? どこにいる?」
「見たことのない顔だな。奥のボックスに一人で陣取ってるよ」
ケルデはグエンに顔を近づけ声をひそめて言葉を続けた。
「早く行ってみろよ。また儲け話かもしれないぜ」
グエンがにらみつけたときにはケルデはもう身を引いていた。にやにや笑いを浮かべたまま背を向けて離れていく。そのうしろ姿をグエンは見えなくなるまでずっと冷たい怒りのこもった目でにらみつづけた。
それから視線を店の奥に戻すとカウンターを離れた。
相手はすぐにわかった。近づくグエンをじっと見つめていたから。もっとも視線自体は色の濃いサングラスに隠れていてわからなかった。グエンは表情を引き締めてテーブルの脇に立った。
「あんたかい? おれを待ってたっていうのは」
グエンの問いに相手は唇をわずかに動かした。
「グエン・チャイヨーサ?」
高い、女の声だった。
「ああ」
グエンが答えると女は無言のまま座るようにうながした。向かいの席に腰をおろし、背もたれに体をあずけてグエンは女を見つめる。対してみると女はずいぶん小柄だった。黒ずくめの姿がこの場に似あわない硬い印象を発していた。
「それで? おれに何の用だい?」
ケルデの持ってきたジョッキの中身を一気に半分ほど流しこんでからあらためてグエンは訊いた。目をすこし細めて斜めに女を見つめる。全身が面倒はごめんだとプレッシャーを発していた。
女はまったく意に介さないようだった。
「話を聞いた」
鋭く言って言葉を切った。サングラスに隠された瞳がじっとグエンを見つめる。その気配に危険なものを感じ、思わずグエンはわずかに身を乗りだした。
近づいたその顔に向かって、表情を変えずに女は言った。
「“虎”の力を借りたい」
グエンは体の力を抜いた。いつのまにか詰めていた息をちいさく吐きだしてへへっと声を漏らし、薄笑いを浮かべてジョッキを持ちあげ体をふたたび背もたれにあずける。
「わりいな、その話はもうなしだ。あと半日早きゃよかったんだけどな」
言ってジョッキに口をつけた。目を閉じて心地好い酔いをしばし楽しむ。
「契約したのか?」
女の声はあくまで落ちついていた。かすかないらだちを押し殺してグエンはうなずく。せっかくの上機嫌に水をさされないようにさっさとこのテーブルから離れようとジョッキを口に運んだ。
「その倍を出そう」
口に含んでいたものを吹きだしてグエンはむせかえった。
ようやく落ちつきを取り戻すと、上目づかいに女を見あげた。
「ちょ、ちょっと待てよ、おい。いくらかも聞かないでそんなこと言っていいのか?」
「必要ない。足りないと言うなら、三倍でもいい」
事務的な口調で女は言った。そのまったく変化しない表情をグエンはまじまじと見つめる。感情をうかがうことができないのは瞳が隠れているせいばかりではなかった。
「はっ!」
グエンは自分の顔の前でわざとらしく手を払ってみせた。椅子に斜めに座りなおして背もたれを脇に抱えこむ。
「そんな話が信じられると思うか? 額も聞かずに倍、三倍だと? あんたが払うってのか? 冗談じゃねえ、そんなはした金じゃねえんだ。
とにかく、いくら金を積んだって駄目だ。もう決まっちまったんだからよ。わりいけどなかったことにしてくれ」
われながら強がりにしか聞こえない台詞を吐いてグエンは腰を浮かした。
「待て」
鋭く言い放ち、女はサングラスをはずした。
赤い瞳にグエンは射すくめられた。
女はじっとグエンを見つめた。グエンは身動きできなかった。息ができず、時が止まったように感じられた。
呪縛するようにグエンを見つめたまま女は口を開いた。
「私は使者だ。信用してもらわなくてもかまわない。だが子供の使いではないので成果なしで帰るわけにもいかない。故あって依頼主の名を明かすわけにはいかないのだが、これなら信じてもらえるだろうか」
まばたきとともに左手を懐に入れ、抜きだした一枚の厚いカードをテーブルの上に無造作に落とした。誘われるようにグエンはカードに視線を移す。
そして、驚きに声を失った。
茫然として腰をすとんと椅子に落とした。女の視線ももう気にならなかった。呆けたようにグエンはカードを見つめた。
視線の先にあるのはまぎれもなく連邦発行のΩカードだった。要人中の要人にしか発行されない、連邦全域でも数十枚しかないと噂される、ランク外の特権カード。グエンのようなちんぴらでもその存在は知っていた。こんな場末のパブのような場違いなところでは絶対にお目にかかれるはずのないものだということも。
意志とは無関係に手が動いた。伸ばした指がカードに触れる。瞬間静電気のような刺激が伝わり、我にかえったグエンはあわてて手をひっこめた。
「気をつけろ。火傷するぞ」
女はカードを手にとって表をグエンにかざす。所有者が持ったときに浮き出るとされるシンボルサインはあらわれなかった。だが手にすることができるというそのこと自体が所有者の女に対する信頼をあらわしていた。
グエンはただカードを見つめた。鈍く光るその表面はグエンにもう後戻りはできないと告げていた。駆け引きをするにはグエンは相手とあまりに格が違いすぎた。
女はカードを懐にしまい、かわりに薄いカードを取りだしてグエンの前に置いた。
「前金だ。不足分は後日追加する。
“虎”の引き渡しは明日深夜0時、キンサムヘのハイウェイの途中にある宙港跡で。異存は?」
女は上目づかいにグエンを見る。グエンは力なく首を横にふった。確認するようにちいさくうなずくと女は席を立った。
脇を通り過ぎようとする女をグエンはあわててあおぎ見た。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
女は足を止めてグエンを見おろした。赤い瞳がグエンにまっすぐ向けられる。その視線にさらされたとたんグエンは思ってもいなかった問いを発していた。
「……あんた、名前は?」
女は顔を正面に戻すとサングラスで目を覆った。
「青」
「青……」
つぶやくようにグエンはくりかえす。そのあいだに女はその場から歩み去っていった。
グエンは視線をゆっくりとテーブルに戻した。女が残していったカードを茫然と見つめる。そのカードがいまにもΩに変わるような錯覚にグエンはとらわれた。
ケルデがジョッキを下げに近づいたことにもグエンは気づかなかった。普段とあまりに違う表情にケルデは思わずグエンの顔をのぞきこんだ。
「どうした? グエン。顔色が悪いぜ」
声をかけられたとたん、発作的にグエンは笑いだした。
止まらなかった。おおきくヒステリックな笑い声が意志と無関係に口から出た。ケルデが驚いて身を引き、他の客たちがいぶかしげな視線を向けるのにもかまわずグエンは笑った。
笑いつづけた。
トレーラーは約束の時間のすこし前に草原に囲まれた宙港跡の滑走路に乗りこんだ。
ただひとつだけ点灯している照明が滑走路の荒れた路面の一角をぽつんと照らしだしていた。トレーラーはその光の輪の中央で停止する。ほどなくしてエンジンが止まり、トレーラーは静寂に包まれた。
ドアの開く音が静寂を一瞬だけ破った。
滑走路に降りたつとグエンはすがめた目であたりを見まわした。点灯している照明に目を止めてしばらく見つめる。それから鼻を鳴らすと運転席に戻ってパネルの下のスイッチを手探りで押した。
鈍い音を発してトレーラーの側面が開いた。
闇に光点がひとつともった。続いて横に三つ並ぶ。いつのまにか生じた低いうなりがおおきくなりながらしだいに高まっていく。
きしる音をたてながらそれは闇から姿をあらわした。
一機が重い足音を響かせながらトレーラーを降りて滑走路の上に立った。残りの三機が続いて横に一直線に並ぶ。ノイズを発しながらたたずむその姿はさながら周囲に悪意をまきちらす悪神のようにグエンの瞳には映った。
連邦軍制式外骨格機動装甲・THЧ−4502――通称“虎”。連邦軍の現役主力機動装甲。その攻撃力は一個小隊で惑星政府の主都を壊滅できるとされている。自らが命運を握る戦闘機械をグエンはいまいましげに見つめた。
不意に“虎”の作動音がとぎれた。反響が吸いこまれるように消えてあたりに静寂が戻る。
トレーラーの操縦席に近い側の“虎”の、胸にめりこんだ顔の部分が上に跳ねあがった。隠れていた装甲が左右に開いて中から肌の色の濃い髭面の男の顔がのぞく。男は鋭い目つきでグエンを見おろした。
「本当にここなのか? 場所をまちがえたんじゃないだろうな」
グエンは視線を彼方の地平線にそらした。
「ならなんで照明が生きてんだよ。たしかにここだ、ちがいねえ」
「だが誰もいない」
「知るかい。時間に正確なんだろうさ」
グエンは唾を吐き捨てる。その姿を男は横目で冷ややかに見つめた。
<やはり人選をあやまったのではないでしょうか>
骨伝動イヤフォンが男にタッソーの言葉を直接伝えた。男はグエンに聞こえないよう声をひそめて応える。
「言うな。他にどんな選択肢があった?」
<私のせいです、チーフ・パタゴニエフ。あのとき私が被弾さえしなければ――>
「順調に次の依頼を引き受けることができた、と? 仮定の話はやめよう、パタス。いずれにせよ我々が到着するかしないかのうちにあの紛争は終結していたさ」
<ですが――>
「脱走兵の傭兵としてはいままでがうまくいきすぎていたんだろう。これも仕事を得るためのひとつの経験だ。そう考えよう」
パタゴニエフが言うとイヤフォンは沈黙した。パタスが無念に唇を噛む様子がパタゴニエフは手にとるようにわかった。
<しかしチーフ、警戒は怠らないようにしておいたほうがいいのでは? 今日のあの男の様子には妙なところが多すぎます>
ミラニエーロの言葉にパタゴニエフはあらためてグエンを見た。
グエンは“虎”から顔をそむけるように草原のほうを向いていた。落ちつかなげに足元の石ころを蹴っている。その態度にはある種の感情が色濃くあらわれていた――怯えが。
「グエン、そろそろおれたちの雇い主を教えてくれないか?」
パタゴニエフの問いにもグエンはふりむきもしなかった。
「来りゃあわかるさ。来りゃあな」
吐き捨てるように言って石ころを思いきり蹴る。石は乾いた音をたてて光の輪から出ていった。
「たしかにな。あの無駄口ばかりたたいていたちんぴらがこうまでおとなしいのにはなにか理由があるに違いない」
他人に、というよりは自分自身に言い聞かせるようにパタゴニエフはつぶやいた。
しかしその理由は見当もつかなかった。交渉をすべてまかせざるを得なかったことのつけがいまここにめぐってきていることをパタゴニエフは痛切に感じた。
あらためて状況を検討し、パタゴニエフは決意を固めた。
「よし、全員待機モードに移行しろ。タッソーは宙港周辺をスキャン、他機は万一にそなえること」
言いながら意志を“虎”に伝える。“虎”は即座に開いていた装甲を閉じてパタゴニエフの視神経に自身のセンサーがとらえて合成する映像を流しこんだ。視界の左端にとまどいの表情を浮かべてふりむいたグエンの姿が映った。
うなりが重なる中、タッソーの声がパタゴニエフに届いた。
<チーフ、滑走路の端に車が一台止まっています。生体反応あり、一名。こいつが雇い主でしょうか>
タッソーの“虎”から送られてきたデータが景色に重なって表示される。パタゴニエフはその内容を確認した。
「あるいはな。だがオープントップの乗用車一台とはどういうことだ?」
<熱量がほとんどないところを見るとずいぶん前に来て待っていたようですね。我々が来るのを確認してからキャリアを呼んだのかもしれません>
ミラニエーロの言葉にパタゴニエフは鼻を鳴らした。
「だといい――」
言いかけた瞬間、鈍い音が“虎”の全身を圧した。
「――なっ!?」
突然の出来事にパタゴニエフの着る“虎”はなすすべもなく前のめりに倒れた。伸びたマニピュレーターがグエンの背中を打つ。奇妙な声を吐いてグエンは地面にころがった。
<うわっ!>
<なんだっ!?>
<ちくしょう、はめられたっ!>
「無駄口をたたくなっ!」
三人それぞれの叫びをはねのけるようにどなりながらパタゴニエフは“虎”を稼働モードに移行させた。発するうなりがひときわ高まる。だが機体は容易には起きあがろうとはしなかった。まるで強烈な力で抑えつけられているように。
パタゴニエフは視界の上方に展開されている機体の状態に目を向けた。強力な負荷がかかっていること以外に異常を示す数値はない。思わず身をよじったことでパタゴニエフは生じている事態の原因を知った。
「磁気フィールドだ! 各機ジェネレーターを探せ! それほど離れてはいないはずだ!」
声をあげるとパタゴニエフは唇を噛んで周囲を充分に走査しなかった自分の不用意さを責めた。
四機の“虎”はすべて前のめりに倒れていた。どれも最大出力を発しているというのにじりじりとしか起きあがろうとしなかった。その重さを支える膝や手はどれも滑走路の舗装にめりこんでいた。
<チーフ、関節が――>
飛びこんできたパタスの声にパタゴニエフは顔を横に向ける。カメラがとらえたパタスの着る“虎”は中腰で立っていた。その全身が小刻みに振動していることをパタゴニエフは見逃さなかった。
<――持ちません! このままじゃ――>
「落ちつけ! あとすこし耐えるんだ!」
パタゴニエフの“虎”はかろうじて地面から手を離した。よろめいて前に出した足がグエンの肩口を踏みつぶす。パタゴニエフは“虎”の映しだす映像に可視帯域外の情報を合成させて不自然な点を見いだそうと必死で目を走らせた。
<だめだ、つぶれる!>
悲鳴と同時に、ふんばった両足を残してパタスの着る“虎”の腰部が落ちこんだ。
<パタス!>
タッソーの叫び声とともに大退部がつぶれた。パタスの“虎”はその場に抑えつけられるように崩れおちる。各関節からちいさな爆発が生じて黒い煙を吹きだした。
僚機破壊のサインが“虎”のとらえる映像に重なって明滅した。
<ちくしょう、なめやがって――>
怒りを押し殺したミラニエーロの声がパタゴニエフの耳を打ったときにはもう僚機乗員脱出のサインが点滅していた。
「待て! 早まるな!」
パタゴニエフが声をあげたときにはすでにミラニエーロの着る“虎”の背面装甲は強制排除されていた。軽い破裂音をたてて“虎”は乗員を射出する。ミラニエーロの体はコードを引きちぎりながら宙に舞った。
その頭の上半分がうしろにずれた。
ミラニエーロから切り離された頭の一部が放物線を描いて飛んだ。トレーラーを越えて落下した残りの体をふくらんだクッションが衝撃から守る。分かれた頭部は遠く離れた位置に遅れて落ちる。
「――くそっ!」
パタゴニエフは磁気フィールドジェネレーターの探索に意識を集中した。
スコープの視界を横切る男の頭部が二つに切断された。
男の来た方向に動いたスコープは主を失った“虎”を映しだした。“虎”はその場に無残にくずおれて爆発する。映像は一瞬飽和したように白くなり、すぐに光量調節が働いて炎に包まれた“虎”をあざやかに映しだした。
Bはスコープから目を離すとレーザーライフルを左手に下げてトレーラー周辺を肉眼で見た。
四機の“虎”のうち一機は壊れ一機はぬけがらとなって伏していた。残りの二機は中腰の姿勢で立ったまま動かない。その姿はまるで見えない手に押しつぶされそうなのを懸命にこらえているかのようだった。
Bは右手の時計に視線を移してジェネレーターを作動させてからの時間を計った。ライフルを助手席に置いてシートに体を沈め、手早くエンジンを始動させてヘッドライトを点灯する。
“虎”たちに視線を据えてBはアクセルを踏みこんだ。
ようやくジェネレーターの配置を把握するとパタゴニエフはありとあらゆる罵詈雑言を言葉にせずにグエンに投げつけた。
「タッソー、左前方の裂け目! 狙え!」
叫びながら自分も右前方の穴に意識を集中する。目標に向かって伸ばした右マニピュレーターの前腕部からビームキャノンの砲身が姿をあらわした。視神経に直接伝えられてかたちづくられた照準が右手の動きに連動して移動する。
ジェネレーターは光の輪をさらにもうひとまわりおおきな輪で囲むように四機配置されていた。グエンはよりによって相互干渉によって生みだされる強力な磁場の中央にトレーラーを停車させていたのだった。
<チーフ、さっきの車が! やつがミラニエーロを!>
「かまうな! ジェネレーターが先だ!」
無念を吐きだすように言ってパタゴニエフは引金を引いた。きらめくビームが路面の穴と“虎”を一直線に結ぶ。炎と煙が爆発音とともに穴から吹きだした。その轟音に重なって別の爆発音が響き、とたんにかかっていた負荷がやわらぐのをパタゴニエフは感じた。
パタゴニエフはあらためて視線を接近する車に向けた。タッソーの着る“虎”はすでにビームキャノンを車に向かって突きだしていた。
<なめたまねしやがって――>
「殺すな。事情を説明してもらわなければならん」
言いながら、しかしそれが本心ではないことをパタゴニエフは理解していた。
ビームが車を焼きつくすのを待ちかまえた瞬間、鳴りだした警告音がパタゴニエフの耳を打った。
<――なんだ?>
タッソーのとまどった声が警告音に重なる。続いて視界いっぱいに簡潔な警告メッセージが広がった。
《指令部からの指示により武装解除を実行します》
瞬間、パタゴニエフはすべてを理解した。
残った二機の“虎”の背面装甲が同時に強制排除された。急速に強まった圧力がパタゴニエフを後方へと押し出す。宙に投げだされたパタゴニエフの体から“虎”とパタゴニエフを結びつけるコードが引きちぎれた。
乾いた銃声が響いた。
パタゴニエフは背中から滑走路に落ちた。ふくらんだクッションの中で素速く体を起こそうともがく。
ちぢんだクッションの上で上体を起こしたときにはもう正面に人が立っていた。
左手に持つ銃をまっすぐパタゴニエフに向けていた。銃口は固定されているかのように小揺るぎもしない。そのことに気づいてパタゴニエフは動くのを止め、低い位置から相手をただじっと見つめた。
相手は無表情にパタゴニエフを見おろしていた。全身黒ずくめの服に短い黒髪、白い肌に赤い瞳。一分の隙もなかった。性別の判断はつかなかったがそれは問題ではなかった。
パタゴニエフはタッソーの運命を想った。その運命が自分の目の前に迫っていることも。
「……やられたよ。完敗だ」
パタゴニエフはぼそっとつぶやいた。
磁気フィールドによって行動を制限し、稼働モードに移行するのを待って武装解除命令を衛星経由で送りこむ――“虎”を無力化するのにこれ以上確実な方法は考えられなかった。だからこそパタゴニエフたちは連邦軍に存在を把握されないよう細心の注意を払ってきたのだ。何重にもシールドされたシステムの奥深くに埋めこまれている弱点を常に意識して。その努力があっという間に無駄になってしまったことにパタゴニエフは爽快感さえ覚えていた。
パタゴニエフは目を閉じてすぐにでも迎えに来るだろう死を待った。
だが聞こえてきたのは銃声ではなく女の声だった。
「なぜ脱走した?」
思わぬ問いに瞼を開き、パタゴニエフはあっけにとられて女を見かえした。
Bは変わらぬ無表情でパタゴニエフをまっすぐ見つめていた。
パタゴニエフは思わず笑い声を漏らした。視線をそらして何の気なしに右足を体に引きつける。これは軍のやりかたじゃない、そう思いながら口を開いた。
「どうしてそんなことを聞く?」
Bは応えなかった。パタゴニエフは笑いから変化した吐息をついた。
「……“虎”と離れたくなかったのさ」
Bはわずかに目を細める。パタゴニエフは横目でBを見た。
「あんた、“虎”を着たことは? “虎”でなくてもいい、外骨格機動装甲に身を包んで戦場に赴いたことは?」
Bは何も言わなかった。それが答だった。パタゴニエフは視線を戻した。
「ならわからんだろうな。おれと“虎”は一体だったんだ。だから、離れられなかった」
その“虎”は、もうない――パタゴニエフは目を閉じた。
「“虎”はただの乗り物じゃない。身にまとうと乗員の神経系にコミュニケーション回路を直接接続して各種センサーの情報を合成して五感を拡張するんだ。冷静なときは二重の感覚を意識せざるをえない。しかし気分が高揚するとその境界は溶け、“虎”の感覚がすべてだと感じるようになる。そのときおれは最強の存在になるのさ――その戦場でかなうもののない、無敵の存在に。
そいつが、忘れられなかったのさ」
パタゴニエフは記憶を反芻して息をついた。
右手がブーツに触れた。その感覚に我にかえったパタゴニエフは生き残る可能性を一瞬で計算していた。確率はないに等しかったが試してみるだけの価値はありそうだった。
「なあ、教えてくれよ。なんでそんなことを訊く? あんたの好奇心か?」
顔をあげて斜めにBを見あげる。Bは微動だにしなかった。それでもパタゴニエフにはその瞳が肯定を示しているように見えた。
「あんた、誰だい? 軍の人間じゃないんだろ?」
パタゴニエフの問いにBはわずかに顎を引いた。
「……R・B」
パタゴニエフはおおきく目を見開く。裏の世界にすこしでも足を踏みこんだことがある者なら知らないはずはない名前だった。連邦警察情報部情報0課のR・B――“カラーズ”でもっとも優秀だと噂される一人。
「こいつは驚いた。“カラーズ”にも人間らしさってもんがあるんだ」
本心からパタゴニエフは言った。Bは目を細める。それは“カラーズ”なりの動揺のあらわれだとパタゴニエフは信じた。
パタゴニエフはブーツからナイフを引き抜いてBに投げた。
斜め後方に跳びながらBは引金を引いた。銃弾がパタゴニエフの顎を貫く。ナイフはBの右の胸に刺さった。避けるには距離がなさすぎたが急所は外れるようにBは動いていた。
だがナイフの刃に塗られた毒はかすり傷だけで人を殺すのに充分なものだった。
Bは着地に失敗してあおむけに倒れた。見当はずれの方向を向いた銃口が火を吹く。二、三度けいれんしてBはそのまま動かなくなった。
全身に張りめぐらされたナノマシンネットワークはBの心停止を確認すると生命活動情報の記録および送信を打ち切りかわりに被験者の死を伝えた。その信号を受信した連邦警察管理下の通信衛星は一般には公開されていない特別回線でBの死を連邦警察本部に転送した。
次のBを目醒めさせる準備がはじまった。
落ちていた。
ただそれだけを感じていた。
何も見えない。何も聞こえない。いや、視覚や聴覚といった感覚そのものが、ない。救けを求めて伸ばす手もない。身体もない。空間もない。
ただ落下しているという感覚だけがあった。
(まるで果てのない奈落に沈んでいるよう――)
以前にもあった。そんな想いがかすめた。それは、けれど未知の出来事ではないという安心よりもまた同じことがくりかえされているという恐怖を呼びおこした。
(私が私でなくなっていく――)
そう想起した瞬間、支えていたなにかが消えた。理性が失せて原初的な恐れに支配される。
声にならない悲鳴をあげた。落ちるあいだ続く、長い、長い悲鳴を――
*
広げようとした両手がなにかにさえぎられている。
開いているはずの目に闇しか映らず、一瞬恐怖におちいりそうになった。吐きだす息がまわりで泡立つ。心臓の鼓動が感情をあおるように昂ぶる。
ほかならぬその感覚が理性を呼びもどした。
――生きている?
単純な想いがすべてを理解させた。
鼓動はしだいに静まっていった。次に何が起きるのかはわかっていた。ゆっくりと呼吸をくりかえしながら一連のプロセスがはじまるのを待った。
やがて全身を包んでいた液体が減りはじめた。
体の半分ほどが空気に触れたところで頭の向こうから光が射しこんだ。足の先を支点にしてキャノピーがゆっくりと開く。ひさしぶりに/はじめて見る光に、思わず目を細めた。
光に目が慣れるまで待った。それから呼吸のためのマスクをはずし、縁に手をかけて上体を起こす。足まで伸びたプラチナブロンドの髪が体にまとわりついた。なめらかな、まだ色素で染められていない白い肌の上を水滴が流れ落ちた。
「気分はどうだ? ルビー」
低い声にBは顔をあげて赤い瞳を横に向けた。
壁面に組みこまれた機器類とコンソールを背にして男が椅子に座っていた。白衣をまとった細い長身を背もたれにあずけて無表情にBを見つめている。Bは何も言わずに男の顔を見かえした。これもまた見覚えのある光景にすぎなかった。
Bの直接の上司であるイーセスは視線を背後に転じると伸ばした手でコンソールを数回叩いた。
「また、目覚める直前に心拍数の上昇を記録した。レム睡眠時に緊張が生じるようだな。悪夢でも見るのか?」
眼窩をすべった瞳がBに向く。Bは応えず自分の体に視線を戻して濡れて光る右の胸に触れた。
たしかにナイフが刺さったはずのそこには、しかし傷を感じさせるようなものは何一つ残っていなかった。
Bはたしかめるように手を下にすべらせた。刻まれていた傷痕はすべてなくなっていた。そうでなければならなかった。彼女はいま生まれたばかりだった。
「任務はザヌバが後の処理をした」
イーセスの言葉にBは伏せていた顔をあげた。Bに体をむきなおらせたイーセスは組んだ足の膝の上に手を重ねてBをまっすぐ見つめていた。
「報告書も提出されている。ザヌバは君らしくないミスだと言っていたが……どうなのかな」
問いを無視してBは立ちあがりカプセルから出た。足元がわずかによろめく。体に馴染み折りあいをつけるようにBは床を踏みしめた。流れ落ちる雫が床を濡らした。
後を追うように立ちあがるとイーセスはコンソールを一度軽く叩いた。
「ザヌバの報告書はいつものところに置いてある。それを参考にして君の報告書を作成・提出してくれ。以後は命令があるまで待機。以上」
決まり文句を口にするとイーセスは白衣の裾をひらめかせて蘇生室の出入口へと歩いた。その軌跡をBは目で追った。
「……どれだけ、経った?」
イーセスはドアの前で立ち止まった。
「六連邦週だ」
ふりむきもせずに言い、壁面に手を伸ばす。ドアは音をたてて開閉し、Bは静かな室内に一人残された。
ドアの開く音にコロシニエフは顔をあげた。
向かいの壁の正面に白い矩形が切りとられたように口をあけていた。その中に小柄な人影が浮かんでいる。まっすぐ見つめる赤い瞳を認めたコロシニエフは皺の刻まれた顔に微笑を浮かべた。
「やあ、ルビー」
深く響く声で言って立ちあがり、木製のおおきながっしりした机の上で右手を軽く広げる。
「ひさしぶりだな。まあ適当に座ってくれ」
言葉が終わるより先にBは室内に足を踏みいれていた。壁際に並べられた椅子のひとつに腰をおろす。両側の壁一面を占める大量の古い紙製の本を一瞥するとコロシニエフに視線を戻した。肩のあたりで無造作に切った髪が揺れた。
「消してくれ」
決しておおきくはないが意志のはっきりした声でBは言った。
コロシニエフの瞳に浮かんだ軽い驚きはすぐに理解に置きかわった。
「ああ……そうだったな、君は」
言葉とともにコロシニエフの姿は室内から消失した。
「ときどき消し忘れるんだよ。まあドアが開いたとたんに投影しはじめるより都合がいいことも多いんだが……気にさわったかな?」
声は部屋全体から均等に響いた。Bは顔を横に向けた。
「いや」
感情のない乾いた言葉にコロシニエフは消し去った幻像の眉をひそめさせた。やがてすこし低くなった声が空気をやわらかく揺らした。
「そうか――また、生まれたか」
Bは応えなかった。
しばらく、沈黙が室内を支配した。
破ったのはBだった。
「……目醒めるとき、いつも同じ夢を見る。
落ちている。どこか、果てしない深みへ。他の感覚はまったくないのに、落ちていることだけは、わかる。
何から落ちているかはわかっている。私からだ。死ぬ前の私から、落ちている。もう二度と手の届かない遠くへとひたすら離れていく……」
言葉を切るとBは両目を閉じた。
「目醒めたときはいつも不安だ。存在に自信が持てなくて。
私は私のはずだ。死んだ私も、目醒めた私も。だが二人は決して同じではない。死んだ私の体はどこかで朽ち、目醒めた私は生まれたばかりの体をはじめて世界に晒す。その体に傷跡はない。生きてきた証は。
生まれかわった私はそれまでの私ではない。記憶だけを引き継いだ、あたらしい存在だ。それでも、私は私だと言えるのだろうか?」
Bの口元がわずかに歪んだ。
静寂が部屋に沈んだ。
やがて、どこからともなく声が響いた。
「……さて、な。死ぬこともままならなくなった身としてはなんとも言えん。
だがわしにとっては君はルビー以外の誰でもないよ。たとえ何度生まれかわったとしてもな」
Bは目を開いて机に顔を向けた。その向こうに初老の男の姿が一瞬浮かび、Bに微笑みかけて、消えた。
Bは微笑らしきものをかすかに浮かべた。
立ちあがったときには消えていた。Bは大股でドアに歩み寄った。
「ちょっと待て。忘れものだ」
声に足を止め、ふりかえって机を見る。その上にはいつのまにか掌に乗る程度のおおきさの四角い箱があらわれていた。
Bは机に近づいて箱を手にとり目の前にかざした。フレームの内側には短い髪のBが写っていた。最後にここに来たときのBのキューブ・フォトだった。
「持っていくだろう?」
コロシニエフの問いにBはちいさくうなずいた。
机に背を向け、ドアまでまっすぐ歩いた。ドアは静かに音をたてて壁に引きこまれる。
「さよなら」
ふりむきもせずに言い、Bは部屋を出た。
ドアが開くと自動的に照明が灯った。
物の少ない、殺風景な自分の部屋にBは足を踏みいれた。首をめぐらして壁に造りつけの棚に目をやる。
いちばん上の段にキューブ・フォトが並んでいた。写っているのはすべてBだった。それぞれの自分の残された最後の顔が無表情にあたらしいBを見つめていた。
その右端に、Bはあたらしいキューブ・フォトを置いた。