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Pieces / 破片(かけら) #2

Contents:

  1. 外縁 / At the edge of
  2. 化生 / Make oneself up
  3. 払暁 / Turning over the night

外縁 / At the edge of

 昨晩の吹雪が嘘のような碧い空が広がっていた。
 ――最近じゃめずらしい嵐だったな。
 戸口に立ったチャパティカはそんなことを思いながら雲ひとつない空を見あげた。いつにも増して冷たい空気のせいか正面に連なるエスポーニャ山脈の峰々がやけにはっきりと姿を見せている。空を裂くように伸びるその雄姿はまるで宇宙へと必死に伸びあがっているようだった。
 ――地肌の厳しさが隠れているぶんだけ冬のほうがまだやさしい貌をしている。
 チャパティカは目を細めた。それが偽りだということをここで暮らす長い年月のあいだにチャパティカは身に染みて思い知らされていた。
 やがて細めていた目を見開くとチャパティカは頭の中で今日の計画を組みたてはじめた。まず何よりも先に家畜小屋の様子を確認しなければならなかった(どこも壊れていなければいいが、チャパティカはそう願わずにはいられなかった)。次は屋根の雪おろしだ。それが終わったら――
 視界の端をよぎった動く影に、チャパティカは半ば反射的に顔を向けた。
 雪原の斜面を一点のしみがチャパティカの小屋へと近づいていた。
「ほう?」
 思わず言葉が漏れた。
 動物の類でないことは動きから見てとれた。チャパティカの小屋より高いところには人の住む小屋はない。とすると考えられることはひとつしかなかった――しみはチャパティカの客なのだ。
 チャパティカは目をすがめた。ふもとから歩いてきたのならまだ明るくなる前に村を出なければならないはずだ。そうまでして会いに来るような人間に心当たりはなかった。
 ――何者だ?
 疑問を覚えながら、目測の距離から到着までの時間をざっと計るとチャパティカはとりあえず裏の家畜小屋へと動いた。
 戸口に戻ってきたときにはもうはっきりとした人のかたちになっていた。背負ったザック以外に荷物らしきものはない。そのザックを含め、露出している肌を除けば訪問者は全身黒ずくめだった。
 腕を組み柱に体をもたせかけてチャパティカは待った。訪問者がどんな類の人間なのかうすうす見当がつきはじめていた。
 たっぷりと時間をかけて小屋に近づくと訪問者は戸口の前で足を止めた。濃い色のサングラスをかけた顔をチャパティカにまっすぐ向ける。チャパティカは相手の全身をながめわたした。
 肉体が鍛えぬかれていることは厚い服の上からでも容易に見てとれた。小柄な体と短く刈られた髪、それに目を覆い隠したサングラスが性別の印象をあいまいにしている。どちらでもたいした違いはないか、とチャパティカは思う。こういった種類の人間が発する匂いは女も男も差はなかった。
 ――そういうことだ。
 チャパティカは片頬を歪める。いつかこんな日が来ることはわかっていたはずだった。あまりに長い年月が過ぎたために忘れかけていただけで。
 チャパティカは笑みを浮かべて口を開いた。
「よくここまで歩いてきたものだな。この老いぼれた裏切り者のテロリストを捕らえるのにそんな手間をかけることはなかったろうに」
 声は自分でも思いがけないほど快活な調子で雪に消えた。
 訪問者はすぐには応えなかった。やがて口だけがわずかに動く。高い女の声がチャパティカの耳に響いた。
「伝言を届けに来た」
 チャパティカは自分の耳を疑った。表情はすぐに苦笑に変わった。
「よしてくれ。軍か警察か知らんが連邦の人間から伝えられるようなことなどあるはずがない。なにかのまちがいじゃないのか?」
 言葉を切って女を見る。見て取れるかぎり女はどんな表情も浮かべてはいなかった。その様子にチャパティカの笑いが不意に止まった。たったひとつだけある心当たりが記憶の底から浮かびあがってきていた。
 チャパティカの心を読んだように女は言った。
「ザイマ・Mからチャパティカ・キネティックへの言伝だ――まちがっているか?」
「――そうか」
 組んでいた腕を解くとチャパティカは空をあおいだ。記憶をたぐりよせるように目を閉じ、訪れてきた女の姿にザイマの面影を重ねてみる。たしかに女のかもしだす雰囲気はザイマの――“カラーズ”のそれだった。
 とっさに出た質問は陳腐なものだった。
「やつはまだ現役なのか?」
「死んだ」
「そうか――死んだか」
 目を閉じたままチャパティカは応えた。驚きはなかった。ただ漠然と感じていた自身の老いをはじめて痛切に意識した。
 やがて目をあけ視線をおろし、訪問者に背を向けるとチャパティカは小屋の扉を開いた。肩越しにふりかえって“カラーズ”を見る。
「どうだ、すこし休んでいかんか? 客人をもてなすようなものは何もないが、茶くらいは出すよ」
 わずかな間を置いてから女は無言のまま体を前に動かした。凍てついていた彫像が動きだしたようにチャパティカの瞳には映った。

「適当に座ってくれ――といっても他に身の置き場所はないだろうが」
 言いながらチャパティカはやかんに水をそそいでヒーターの上に乗せた。
 訪問者はかついでいたザックをおろすとちいさいテーブルの脇に所在なげに置かれた椅子に腰をおろした。流しに向かったチャパティカは頭上の作りつけの戸棚を開いて中からカップをふたつ出す。さっとほこりを流してヒーターの横に置くとふりむきテーブルをはさんで女と向きあった。
「名は何と言う?」
 上目づかいでさぐるように相手を見る。女はまだサングラスをかけたままだった。
「R」
「ふむ」
 チャパティカは身を引いて流しの端に腰をあずけた。ダイニングキッチンに椅子は一脚しかなかった。他に部屋は居間と寝室と屋根裏しかなく、そのどこにも客用の椅子など用意してはいなかった。
「現役だったときには聞かなかったな。色は?」
「B」
「ほう」
 チャパティカは感心したようにつぶやいた。「ありえないもの、ないもの、存在しないはずのもの――R・B。たしか先銀河期から伝わる古語のひとつにそんなのがあったと思ったが、それか?」
 女は応えなかった。レンズの奥から自分をひたと見据える瞳の気配を感じてチャパティカは落ちつかない気分になる。かつてこういった連中と対等に渡り歩いていた、すくなくともそう信じていたことがまるで現実感のないことに感じられた。
 やかんが湯気を吹いた。チャパティカはBに背を向けヒーターのスイッチを止める。近くに置いてあった缶を手に取り蓋をあけて無造作に茶葉を落とすとやかんを持ちあげ軽くゆすってから中身をカップにそそいだ。
「ま、飲んでくれ」
 Bの前にカップを置いて自分のカップに口をつける。Bは落ちついた動作でカップを手に取り口に運んだ。ずいぶん癖のある茶だがBの表情に変化は見られなかった。
 間延びした沈黙が過ぎた。
 先に口を開いたのはチャパティカだった。
「ザイマはどうして死んだ? うしろから撃たれでもしたか?」
 Bはカップをテーブルに置いた。鈍い音がちいさく響いた。
「事故死だ。車の暴走に巻きこまれた」
 Bの口調には感情がまったくこめられていなかった。そのそっけなさがあまりに的確に状況をあらわしているように思えてチャパティカはつい笑いを漏らした。
「事故死か。あの男が。何度も殺そうとして、そのたびに失敗したあの男が、事故死か」
 笑いは止まらなかった。くっくと喉を鳴らしてチャパティカは笑い続けた。
 ようやく笑いやむとチャパティカはいつのまにかうつむいていた顔をあげた。Bの顔は変わらずまっすぐチャパティカに向いていた。瞳の隠された表情からはどんな種類の感情も読みとることができなかった。チャパティカは残っていた息を吐きだした。
「さて、では聞かせてもらおうか。やつはどんな言葉を私に遺した?」
「『偽りを生きるのはやめろ』」
 Bの発した言葉はつぶてのように鋭かった。それでもチャパティカはその言葉の意味を理解するまで数瞬かかった。
「……なんだと?」
 問いは喉の奥から漏れた。Bは応えず、ただわかっただろうとでもいうように顔をすこし上に向けた。
 しばらくチャパティカは呆然とBを見つめた。それから突然腕をふりあげるとテーブルにカップを叩きつけるように置いた。こぼれた中身があたりにちらばる。チャパティカはかまわず一度おおきく頭をふった。
「はっ! 『偽りを生きるのはやめろ』、だと? よく言ったもんだ、あの男が! 人を殺しておいて、何をいまさら!」
 怒鳴り声は小屋を揺らした。チャパティカはやり場のない想いの捌け口を求めるように窓に歩みよると閉じていた窓を開いて両手を窓枠につき外を見やった。
 一面の銀世界はさっき戸口で見ていたときと同じで動くものひとつなく静けさに凪いでいた。それは昨日までの自分の心をあらわしているようにチャパティカには思えた。Bに、
“カラーズ”に会う前の、ザイマの伝言を聞く前の、自分の心を。
 チャパティカは唇を噛んだ。怒りさえ失ってここまで来たのだと信じていたのに、いまチャパティカは強烈な怒りを感じていた。
 ――なんだっていまごろになって!
 チャパティカの脳裡に過去の記憶がよみがえった。思いださなくなって久しい遠い日の記憶が。怒りに支えられ、理想を信じ、そのためになら死んでもかまわないと思いながら生きていた日々が。

          *

 そのときチャパティカは下水道の中を走っていた。
 時間との勝負だった。陽動は成功し目標の連邦の要人は強力なジャマーで遮断された街の一角のビルに孤立していた。警備の大半はこれもチャパティカが起こした近くの爆発現場へと移動していた。あとは一角まるごとを地下から崩すだけ――準備はすべて前の日までにととのえてあった。
 その現場へとチャパティカは急いでいた。
 計画には含まれない行動だった。担当の任務が終了した時点ですみやかに逃走しろという中央委員会の指示を忘れたわけではない。だがチャパティカは現場に向かわずにいられなかった。心を蝕む不安がチャパティカを突き動かしていた。
 これほどおおきな作戦を“カラーズ”が見逃すはずがない――チャパティカを動かしていたのはその確信だった。
 以前から関与が噂されていた連邦警察情報部情報0課の捜査員がチャパティカたちの諜報網に姿を残す活動をはじめたのはそれより数年前だった。以来ウィーギル独立同盟のしかけるテロは重要なものにかぎってかならず失敗するようになった。短期間にせよ連邦軍と全面的に交戦するだけの戦力を保有していた同盟にとってそれは跳躍の前の屈伸を邪魔されているような状態だった。誇張ではなく一時期の同盟にとって最大の敵は“カラーズ”ただ一人だった。
 ザイマ・M――かろうじて知ることのできたその“カラーズ”の名前は同盟の連邦に対する憎悪の象徴だった。
 今度こそなんとしても“カラーズ”を阻止して作戦を成功させなければならない――その強い思いがチャパティカを突き動かしていた。
 暗視ビューアーに倒れた人間が映しだされたとき、だからチャパティカはあわてて足を止めると緊張に身を硬くして両手で銃をかまえた。
 半ば予期していた仲間の死体ではなかった。水路の端に頭をチャパティカのほうに向けあおむけに倒れたその体は胸をおおきく波打たせてあえいでいた。チャパティカは息を殺しビューワーの感度を最大限にあげてその顔をたしかめようとした。
 閉じていた目が開いてチャパティカの目を射抜いた。
 撃ってしまえばよかったのだ、そうあとになって何度後悔しただろう。だがチャパティカは引金を引けなかった。ただ体を硬直させたまま視線を相手とまっすぐ交差させていた。
 そのときにはもうチャパティカは相手が“カラーズ”だということを疑ってはいなかった。男に見えるその体は倒れてなお人を寄せつけない威圧感を発していた。一目で機能不全だとわかる状態であるにもかかわらず。
 そのまま二人はしばらく無言で対峙した。
 先に口を開いたのはザイマだった。
「――撃たないのか?」
 チャパティカは腰を沈めあらためてその頭に狙いをつけた。だが撃とうとはしなかった。殺してしまえ――憎しみが脳裡でそう叫んだのをチャパティカは覚えている。しかし死に直面しているとは思えないその淡々とした口調がチャパティカをためらわせた。“カラーズ”の言葉はそれ以上のことをたしかに伝えようとしていた。
「……撃てばいい。そうすればこの果てのない追いかけっこも終わりだ。君たちも無駄な努力をしなくてよくなる」
「……なんだと?」
 チャパティカは目を細めた。
 ゆっくりとぎこちない動きでザイマは不自由な上半身を起こした。背中の右半分と左腕の肘から先が炭化していた。前かがみになったその口から漏れたため息をチャパティカは聞いたような気がした。
「連邦軍は介入の機会をずっとうかがっている。要人テロは絶好の口実だ。テロの成功を確認したら軍はただちに星系政府の存在など無視して惑星全体を制圧するだろう。君たちの戦力は認める。だがそれはあくまで正面から交戦したときの話だ。奇襲には対応できまい」
 静かに言うと“カラーズ”はぎくしゃくと立ちあがった。隙だらけの動作だった。チャパティカの銃の狙いはいつかその背中からさえそれていた。
「……馬鹿な。星系政府を無視して、だと? 軍にそんな度胸があるものか。連邦評議会の支えなしにやつらが動くはずがない」
「そう思うなら、試してみればいい」
 ザイマはちいさく足を一歩前に踏みだした。
「――待て!」
 チャパティカは叫んで銃をかまえなおす。ザイマは体をがくんとゆすって立ち止まった。
「ならおまえは、“カラーズ”はなぜここにいる? なぜ邪魔をする? なんで逃走を長引かせようとするんだ?」
 声はかすれ震えていた。からからに乾いた口に無理やり唾を飲みこんでチャパティカは答を待った。
 ザイマは肩越しにふりかえってチャパティカを見た。
「……君たちに戦い続けてほしいからだ」
 チャパティカは息を飲んだ。
「秩序だけが世界の相ではない。軍にはそれが理解できない。君たちにも。だとすれば均衡を維持し続けるしか手はない。違うか?」
 問いは、しかしチャパティカに向けられてはいなかった。その視線ももはやチャパティカを通り越して彼方へと向けられていた。
「混沌はひとつの力だ。連邦はそれを必要としている。君たちも連邦の一部なんだ。望もうが望むまいが。
 ここにいるのはそのためだ――連邦を護るため。来るべき時のために
 これでいいか?」
 最後の問いはまっすぐチャパティカに向けられていた。
 チャパティカは答えなかった。答えられなかった。
 一瞬の沈黙のあと、“カラーズ”は視線を正面に戻してふたたび歩きだした。
 ――止まれ!
 理性はチャパティカにそう言えと命じた。だが言葉は喉に詰まって出なかった。なら撃て、理性はそうも命じた。だが撃てなかった。あいつは死にかけている、そのせいだ、そう信じようとした。そうでないことはわかっていた。
 角を曲がって隠れるまでチャパティカは片足を引きずりながらすこしずつ遠ざかるザイマの背中をただ見送った。見えなくなってからもしばらくその場にただ立ちつくした。

 計画は失敗だった。同志を全滅させることで“カラーズ”は目的を達成していた。
 帰還後チャパティカは過去の資料に手あたりしだいに目を通した。特にザイマがあらわれてからの資料を重点的に。複数の資料を突きあわせ、当時の状況を考慮し、成否それぞれの影響を慎重に検討した。
 結果はザイマの言葉が正しいと告げていた。
 同志に相談することはできなかった。掌の上で踊らされていると知ってなお戦い続けられるものだろうか?――どうしてそんな問いをすることができただろう。話せば同盟が瓦解することはまちがいなかった。
 だが“カラーズ”から渡された秘密はあまりに大きすぎた。それを自分一人の胸に納めておくことなど到底できそうになかった。だからといって決して到達することのない目標に向かって行う無駄な努力に没頭することももうできなかった。
 他に選択の余地はなかった。
 チャパティカはウィーギルから姿を消した。同志を裏切って。それはテロリスト・チャパティカの自殺だった。
 長いあいだあてもなく流浪した。テロのための技術はただ生きるためにも役にたった。ウィーギルのことも“カラーズ”のことも忘れようと努めた。秘密は胸の底に埋もれ次第に姿を見せなくなっていった。
 そうしていつか、この山のふもとにたどりついた。それからは山と家畜の様子だけを見て生きてきた。過去を封じ、未来を忘れ、現在だけを相手に、長いあいだ。
 ふたたび“カラーズ”が姿をあらわすまでは。

          *

 握った手の痛みにチャパティカは我にかえった。
 つかんでいた窓枠を放して掌を上に向ける。赤くなった痕がくっきりと残っていた。チャパティカはとまどいの目でその痕を見つめた。これほど激しい感情が自分の内に眠っていたとは信じられず。
 チャパティカは半身を開いて訪問者をふりかえった。
 Bの顔はまっすぐチャパティカに向いていた。あいかわらずどんな感情もうかがうことはできなかった。
「……君は、どうしてここまで来た? 老いぼれた裏切り者のテロリストにとどめを刺しにか? それとも醜態を笑いにか?」
 チャパティカの問いにもBは反応を示さなかった。唇だけがまるで独立した生き物のようにやけにはっきりと動いた。
「伝言を届けに」
「それは“カラーズ”の任務ではあるまい?」
 Bは答えなかった。チャパティカは足元に視線を落とすと頬を歪めた。
「……よく見ておくがいいさ、志をまっとうできなかった者の姿を。そのためにここまで来たのだろうから。
 だがこれだけは言わせてもらうよ。信じられるものを失えば誰だってこうなる。君だって。違うか?」
「そんなことはありえない」
 思いがけない硬い調子の言葉にチャパティカは顔をあげた。
 Bは顔を横に向けていた。サングラスの陰から覗いた赤い瞳がどこか遠くをまっすぐ見つめていた。

 空はあいかわらず雲ひとつなく、天高くまで碧く澄んでいた。
 Bは来た道を正確に戻って斜面を下っていた。遠ざかっていくその背中をチャパティカは戸口に立って見送った。
 そうやってぼんやり遠くをながめながら、チャパティカは伝言のことを考えていた。
 ――どうしてザイマはあんな言葉を私に遺したのだろうか?
 何度目かの問いが脳裡をよぎる。それは答のわかるはずのない問いだった。
 その上で、チャパティカはザイマの言葉をそのままの意味で受けとってもいいのではないかと思いはじめていた。
 ――でなければどうして敵でなくなった者の消息を追ったりする?
 希望的観測に過ぎなかった。けれどチャパティカは他に自分を納得させられる理由を思いつけなかった。おそらく予想外であったろうあの下水道での邂逅がザイマにもなんらかの印象を遺したのだ、そう信じてもいいような気がした。チャパティカほどではないにしても。
 いまならあのときのザイマのことがわかるような気がした――言葉の裏に、態度の影に隠されていた“カラーズ”の疲れが。
 それが“カラーズ”だけのものではなかったこともいまのチャパティカは認めることができた。果てもなく続く闘争の日々に、チャパティカもまた、疲れていたのだ。
 それから長い年月が過ぎた。
 もしかしたら休息の時が終わろうとしているのかもしれなかった。
 ――だが信じられないと知っていてなお信じることはできるだろうか?
 浮かんだ問いに深く息をつくとチャパティカは目を伏せ首を左右に振った。
 わからなかった。いまはまだ。急ぐことはなかった。考える時間はいくらでもあった。
 視線を戻すとBの姿はもう指先ほどにちいさくなっていた。しばらくその背中を見つめてからチャパティカは物置のほうへと歩きだした。

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化生 / Make oneself up

 出口のない迷路の中で彼女は目覚める。
 上体を起こしながらあたりを見まわす。ぼんやりとしていた瞳の焦点が定まるにつれてその表情に不安の色があらわれる。身を護るように足を引き寄せると彼女はあらためて首をめぐらせる。だが闇は彼女に手がかりを与えない。肌寒さに自分の腕で両肩を抱き、共にいた人の影を探して彼女は視線をせわしなくさまよわせる。
 かすかに響く物音に彼女は身をこわばらせる。
 ゆっくりと彼女は肩越しにふりむく。不安に代わって怯えが表情に浮かぶ。細めた瞳は、けれど何もとらえない。
 彼女は助けを求める言葉をつぶやく。聞きとどけられるかどうかわからない、けれど残っているはずの希望にすがった言葉を。耳に届いた悲鳴を打ち消すように。
 突然の咆哮がその希望を断ち切る。
 迫り来る野犬の群れに彼女は顔を恐怖に歪ませる。はじかれたように立ちあがり背を向け走りだす。不安定な精神状態を一気に崩された彼女は襲いかかろうとする野犬の群れが映像だとは気づかない。
 何度目かの角を曲がったところで彼女は立ち止まり行く手をふさぐ巨大な鳥たちを驚愕の目で見つめる。人のかたちの腐肉をあさっている鳥たちは一斉に動きを止めて彼女に頭を向ける。彼女は悲鳴をあげてその場から逃げだす。背後に残された鳥たちの姿がわずかに明滅する。
 角を曲がるたびに彼女の瞳は似たような光景をとらえる。そのたびに彼女は必死に走る。髪をふり乱し言葉にならない声を叫びながら。虚構によって生みだされる本物の恐怖に追いたてられて。
 さまざまな角度からとらえた彼女の表情を映しだすいくつものモニターから彼は目を離さない。
 口元に満足げに笑みを浮かべると彼はひとつだけ離して置いてあるモニターに視線を転じる。迷路の地図の中で彼女をあらわす輝点がなめらかに動いている。輝点はゴールに近づいている。
 彼は準備するためにコンソールの前を離れる。
 彼女は袋小路にたどりつく。
 その入口で彼女は立ちつくす。肩で息をしながら奥に見つけたものをただじっと見つめる。瞳は驚きにおおきく見開かれている。
 彼は彼女に向かって微笑む。
 目覚める前と変わらないその姿に彼女の表情が驚きから安堵へと変わる。涙を溢れさせて彼女は彼に向かって走りだす。彼は両手を広げて待つ。彼女は彼の腕の中に飛びこんでその体を強く抱きしめる。彼も彼女を抱きしめる。
 彼の背後から伸びる八本の細い機械肢も彼女を抱きしめる。
 彼の腕が彼女をきつく抱く。機械肢が彼女の体を締めつける。服を裂き、肉を裂き、骨を砕く。
 彼女は彼の腕の中でずたずたに切り裂かれる。
 抱擁は長く続く。
 やがて彼は両手を広げる。血に濡れた腕のあいだから彼女だったものが彼の足元に崩れおちる。彼女のかたちを残している傷だらけの脚と肩から上が音をたてて床に転がる。
 彼の喜悦の表情を彼女の頭が問いかけるように見あげる。

 ようやく壁際に近づくとディラーナはきつい首まわりをそっとゆるめた。
 ちいさく息をついてホールの中央にぼんやりと目を向けた。豪華なシャンデリアの下ではたくさんの人々が歓談にふけっている。疲れを知らない様子はさながら何度もくりかえされる映像のようにディラーナの目には映った。
 ――よくもまあそんなに話すことがあるものだ。
 壁際にたどりつくまでに交わしてきた退屈きわまりないお決まりの会話の断片が耳によみがえったような気がしてディラーナは顔をしかめた。グラスの残りを一気に飲み干す。社交活動が苦手なディラーナにとってはパーティーへの出席はある種の試練でしかなかった。
 ――このまま帰ってしまおうか?
 そんな想いがふと脳裡をよぎる。とりあえず次のグラスを得るためにディラーナはボーイを捜して首をめぐらせた。
 視界の端に映った人影がその視線をとらえた。
 相手はかなり離れた壁際に一人ぽつんと立っていた。ホールの中央をなんとはなしにながめている。女性の服装をまとってはいるものの一見したところでは男とも女とも判別がつかない。
 ディラーナの職業的な目はその服装に隠された小柄な体の輪郭を一瞬で把握していた。
 好奇心に動かされてディラーナは壁際を離れた。ボーイの押すワゴンからあたらしいグラスを手に取りゆったりと歩を進める。声をかけてくる人々には適当に応えて済ませた。意を察したのかそれともディラーナの評判がよく知れわたっているのか近づいた人々はすぐに離れていった。
 あと数歩という距離まで近づいたところでようやく相手はディラーナに気づいたように顔を向けた。ディラーナはさりげなく横に並ぶ。目であいさつする相手にディラーナは笑顔を返した。
「パーティーはお好きじゃないようですね。それとも、慣れていないのかな?」
 ディラーナの問いに相手は微笑みを浮かべた。赤い瞳が遠慮がちにディラーナを見る。
「慣れていないんです。もっとも、慣れても好きになれるとは思いませんけど」
 ディラーナの耳は女の声に加工の跡を聞きとらなかった。
「なら私と同じだ」
 ディラーナはグラスに口をつける。女は意味ありげに微笑んだ。ディラーナは目だけを女に向けると片方の眉をあげた。
「なにか?」
「いいえ。ただ、いまの話、ちょっと意外だったものですから。あなたのような人がパーティーをお嫌いだなんて信じられません」
 女の言葉にはからかうような口調がかすかに含まれていた。ディラーナはさも意外だという顔をしてみせた。
「おや、私のことをご存知で?」
「ええ、もちろん。ボディ・デザイナーのディラーナ・メスケスといえば連邦でも十指に入る名高いデザイナーですもの。ホールに入ってきたときにすぐにわかりました。
 もっともお顔だけでも拝見したことがあるのはあなたぐらいなんです。私をここにむりやり連れてきた当人はさっさとあいさつ回りに行ってしまうし、話しかけようにもみなさまお相手がおおぜいいらっしゃって。それで、ちょっと退屈していたところでした」
 言葉を切ると女はほっとした様子でグラスに口をつけた。その体の動きをディラーナはそれとわからないように子細に観察した。
「たしかに他の星系から来られたのでは退屈でしょうね」
 女の微笑が驚きに変わった。
「まあ――どうしてそんなことがおわかりになるんですか?」
 ディラーナはすこしくだけた調子でにやりと笑みを浮かべた。
「ヒントはあなた自身ですよ。正確に言えばあなたの体です。動きがまだこの星の重力に慣れていませんね。カラバナよりも重力の強い星に住んでいらっしゃるんじゃないですか?」
 ディラーナはわずかに首を傾ける。女は目を丸くしたままうなずいた。
「ええ、そのとおりです。普段はエスで暮らしています」
「ほう」
 上体を引いてディラーナはあらためて女の全身をながめた。言葉にはしなかったがそれだけでは説明のつかない特徴をディラーナは女の体に見いだしていた。
「でもそんなことまで服の上からでもおわかりになるんですか? さすがですわ、と言いたいところですけど、初対面の相手に対してはちょっと失礼ではないでしょうか」
 女はとがめるようにディラーナを見る。目元に残る笑みが本気ではないことをあらわしていた。
「あ、いや、これはどうも。一種の職業病だと思ってお許しください」
 ディラーナはグラスを女の顔の前にかざしてから口につけた。「ところで、そちらのお仕事は? エスに住んでいらっしゃるということは連邦の職員でしょうか?」
「ええ。連邦警察本部で統計データの整理をしています。カラバナにもデータ調査のために立ち寄っただけなんですが、ここの局長に強く誘われまして、断るわけにもいかなくて……」
 言いながら女はホールの中央に顔を向けた。ディラーナは目だけでその視線を追う。女が見た方向にはキルリアン惑星警察局局長が数人の相手と談笑していた。客人がそばにいないことを気にする様子はなかった。
「まあ無理もありません。連邦警察の客人とあればいいところを見せたいのが人情というものでしょうし、かといって一人だけを相手にするには彼女は有名すぎますしね」
「ええ、それはよくわかっているんですが」
 女はそっとため息をつく。その耳元にディラーナは口を近づけた。
「どうです? こんな退屈なところは抜けだして、どこか別のところにでも」
 ささやきにはじかれたように女はディラーナに顔を向けた。驚きの表情がすぐに困惑に変わる。
「よろしいんですか? そんなことをおっしゃって。それに、誘うならもっとふさわしい方が――」
「なに、こんなところに最後までいても時間を無駄にするだけですよ。ひとりやふたり会場から姿を消しても誰も気にしやしません。局長には私が後で話をしておきましょう。これでもまだなにか?」
 ディラーナは笑顔のまま顎を引いて答を待った。
 女は目だけを動かして視線をキルリアンのほうに戻した。決めかねたようなその態度はディラーナにはお馴染みのものだった。こんなふうに迷ったふりをして気を引く女をディラーナはたくさん知っていた。性転換する前の自分も含めて。
「さ、じゃあ行きましょう」
 女の腕をとってディラーナは歩きだす。女は抵抗せずにしたがった。壁際を歩く二人に注目する者などいなかった。

 触れあったグラスが涼やかな音を鳴らした。
 グラスを引きよせ傾けて唇に触れさせると、やっと落ちついたように女は息をついた。テーブルにグラスを戻して仄暗い室内をそっと見まわす。
「素敵なところですね。よくこうやって誰かといっしょに来られるのかしら?」
 女は向かいの席のディラーナに視線を戻した。いたずらっぽい笑みが目元に浮かんでいた。
「これは手厳しい」
 苦笑しながらディラーナは背もたれに体をあずけた。「ここはとっておきの場所でしてね。よほどのことがないかぎり人を連れてきたりはしないんですよ」
「まあ」
 女の顔から笑みが消え、かわりに驚きととまどいがいりまじってあらわれた。
「そんなところにどうして私なんかを? あなたと違って私なんて一介の市民に過ぎませんのに……」
 目を伏せると女は気分を落ちつかせるようにグラスに手を伸ばして口につけた。
 ――そんなことはないさ。
 ディラーナは目を細めて声に出さずにつぶやく。瞳はずっと女のしぐさや体の動きを観察していた。
 素晴らしい女の体を。
 ディラーナの好みではない部分もあった。だが整った体のラインが見事であることは疑いようがなかった。これだけの肉体を得るためにはディラーナに匹敵するボディ・デザイナーにかなりの金額を払わなければならない。そんなデザイナーは数えるほどしかいない、ディラーナは自負を持ってそう信じていた。
 女の体にはその何者かのタッチが認められなかった。
 それこそがディラーナが女に興味を持った本当の理由だった。
「お仕事のほうはどうですか? こんな平凡な星では変わったことなど見つからなくてつまらないのでは?」
 明るい調子のディラーナの言葉に女はほっとしたように笑みを浮かべた。
「そんなことはありませんわ。統計資料の数値は視点を変えたり他の資料と比較したりすることで様々な事実を教えてくれます」
「ほう。たとえば?」
「そうですね……」
 女は軽く目を伏せ、ためらうような間を置いてから言葉を続けた。「……あまりよい例ではありませんけど、今日私が調べていた行方不明者にしても惑星や都市ごとに差異があります。性別がかたよっていたり年齢のピークが微妙に異なっていたり。もちろん時期によって変動はあるのですが、それらも含めて個性とでも呼びたくなるような特徴がそれぞれの場所で見つかるのです」
 ディラーナは片方の眉をあげるとわずかに身を乗りだした。
「それは興味深い話ですね。この街はどうですか?」
「マンスレートの場合あまり目立つ特徴はありません。ただ、ここ最近はいわゆる適齢期の女性、もちろん姿を消した時点での性別ですが、に気になるかたまりがあります。実は今日はずっとそのことばかりを考えていたんです」
「なるほど。思ったとおり優秀な方のようだ」
 言うとディラーナは話題を打ち切るように片手をあげた。ボーイが音もなく近づいて二人のグラスにあたらしい酒を注ぐ。青くきらめくグラスをディラーナは二人の視線のあいだにかざした。
「そういえばまだ名前をお聞きしていませんでしたね。私だけ正体が割れているというのはすこしばかり不公平だ。教えていただけませんか?」
 ディラーナはグラスをおろしてまっすぐ女を見つめる。女ははぐらかすように笑みを浮かべて首をかしげた。
「そうでしょうか? むしろお互いのために明かさないほうがよろしいのでは?」
「ふむ……」
 ディラーナは顔をしかめた。「しかし、それでは不便だ。あなたに愛の言葉をささやくときにどうすればいいかわからない」
 まじめくさったその表情に女はちいさく笑った。
「では、もしそのようなことがあったら“薔薇”とお呼びください。そんな機会はないとは思いますが」
「おやおや、ずいぶん警戒されてしまったな」
 ディラーナは苦笑してグラスに口をつけた。「せっかく貴重な時間だというのにうちとけて話せないのは残念だ。これで私もけっこうたいへんでしてね、信じていただけないかもしれませんがこうして見知らぬ誰かとふたりきりになることなどそうめったにあることではないのです。常にまわりの目を気にして――」
 それから話題はたわいのないものに移った。ディラーナは有名人としての苦労を語り、“薔薇”はグラスを傾けあいずちをうちながらそれを聞いた。
“薔薇”が眠ってしまうまでディラーナは話しつづけた。
 テーブルの上にうつぶした“薔薇”をディラーナはしばらく見つめた。
 二人が飲んでいた酒に混入されていた催眠誘導剤は一定量を超えると急激にその効力を発揮する、内臓を相当強化していても耐えられない強力なものだった。ディラーナは影響を受けないように中和機能を体内に追加していた。ボーイに合図をするだけで相手を眠らせることができる――これがディラーナがこの店を用意し、まためったに利用しない理由だった。
 やがてディラーナは立ちあがると“薔薇”の横にそっと歩いた。その見事な体を両手で抱えあげて感触をたしかめる。
 壁の一画が音をたてずに開いた。地下へ続く暗い階段をディラーナは腕の中の“薔薇”とともに降りた。

 出口のない迷路の中で“薔薇”は目覚める。
 上体を起こしながらあたりを見まわす。ぼんやりとしていた瞳の焦点が定まるにつれてその表情に不安の色があらわれる。身を護るように足を引き寄せると“薔薇”はあらためて首をめぐらせる。
 かすかに響く物音に“薔薇”は身をこわばらせる。
 ゆっくりと“薔薇”は肩越しにふりむく。不安に代わって怯えが表情に浮かぶ。
“薔薇”は助けを求める言葉をつぶやく。聞きとどけられるかどうかわからない、けれど残っているはずの希望にすがった言葉を。耳に届いた悲鳴を打ち消すように。
 突然の咆哮がその希望を断ち切る。
 迫り来る野犬の群れに“薔薇”の表情が恐怖に歪む。はじかれたように立ちあがって背を向け走りだす――
 ――違う。
 モニターを見つめながらディラーナは声に出さずにつぶやいた。
 いままで何度となくくりかえしてきた狩りだった。そのたびにさまざまな反応をディラーナは目にしてきた。どれもがディラーナを心から楽しませた。しだいにはじめのいつくかの動きからその後の行動を予想することさえできるようになった。予想と違う動きをすればそれもまたあらたな楽しみとなった。いずれにせよ行きつくところはひとつしかないのだから。
 モニターに映る女は違った。
 ――しかし、何が?
 ディラーナは顔を歪ませる。恐怖を浮かべ必死に逃げまわるその姿はいままでの獲物たちと変わらないように見えた。なのにディラーナの理性以外の部分は強い警告を発していた――この女は危険だ、と。
 得体の知れない感覚にディラーナは恐怖を感じはじめていた。
 ディラーナはひとつだけ離して置いてあるモニターに視線を転じた。輝点はゴールに近づいていた。
 ――どうする?
 ディラーナの脳裡に問いが浮かぶ。それは狩りをするディラーナがはじめて感じたためらいだった。
「――生かして帰すわけにはいかない」
 覚悟を決めるようにそうつぶやいた瞬間、それだけが理由ではないことにディラーナは気づいた。
 怖れながら彼女がただよわせる危険の香りにディラーナは魅了されはじめていた。
 もう一度たくさんのモニターに映る“薔薇”の顔に目を向けてからディラーナはコンソールの前を離れた。

 行き止まりの角から女は姿をあらわした。
 ディラーナは我が目を疑った。そこにいるのが直前までモニターで見ていた人間だとは信じられなかった。
 あちこち裂けた服の下からのぞく見事な肉体には傷ひとつついていなかった。ディラーナがかつて求め手に入らなかった体。やがて望みを捨て自らの手によるもの以外のすべてを壊すことを望んだ体。女の体に人工的な手が加えられていないことをいまディラーナは自分の目でたしかめていた。
“薔薇”の赤い瞳はディラーナを見つめていた。
 その顔にはどんな表情も浮かんではいなかった。
 ただ立っているだけの女にディラーナは気圧されていた。
 ――なんてことだ。
 怖れとともにディラーナは理解していた――彼女もまた牙を隠して演技していたことを。ディラーナと同じように。獲物を罠にかけるために。
 罠にかかったのはディラーナのほうだった。
 長いあいだ二人は対峙したまま動かなかった。
 ディラーナは動けなかった。
 恐れることはない、理性はそう叫んでいた。目の前にいるのは武器も持たないただの女だと。だがディラーナの体は意にしたがおうとはしなかった。
 不意に、“薔薇”の唇が動いた。
「何故、殺さない? いままでもそうしてきたんだろう?」
 冷たい乾いた口調がディラーナの内のなにかを切った。
 吠えるような叫びが口からあふれ出た。両目を見開き両手をおおきく広げる。背中のユニットから八本の細い機械肢が同じように広がる。
 言葉にならない声をあげながらディラーナは“薔薇”に向かって突進した。
“薔薇”はディラーナに向かって駆けだした。伸ばしたディラーナの手が届く寸前に跳躍し、一本のワイヤーソーを引き抜きディラーナの両肩に手をついて前方に回転する。ディラーナの瞳は“薔薇”の鍛えられた筋肉の動きをとらえていた。それはディラーナの求めていたものではなかった。
 ディラーナのたくさんの腕が何もない空間を抱きしめた。
 着地した瞬間“薔薇”は両腕を交差させて引き絞った。
 首に巻きついたワイヤーソーがディラーナの頭と体を二つに分けた。
 もう恐怖はなかった。痛みもなかった。ただこの手で女の体を抱きしめたときと同じ喜悦をディラーナは感じていた。
 ――求めていたのは、これだったのかもしれない――

 倒れたディラーナの体が鈍い音を響かせた。それよりもちいさい音がすこし遅れて続く。
 Bは静かに立ちあがった。握っていた手を開いてワイヤーソーを放し、左の掌に残った赤い筋をじっと見つめる。にじむように染みだした血は長い時間をかけていくつもの雫となった。
 やがて左手を握りしめるとBは出口を捜しはじめた。

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払暁 / Turning over the night

 視線の気配が眠っていた意識を揺らした。
 重い瞼を多大な努力を払って開くと数歩離れたところに立つ人影が瞳に映った。輪郭が幾重にもぼやけて姿ははっきりしない。だが夜に溶けそうな全身と対照的な白い口許は瞼を閉じたあとも瞳に残った。
 視線の気配は消えなかった。
 考えるかわりに身じろぎしたとたん、体中を鈍い痛みが駆けぬけた。
 あげようとした声を喉元で制したのはほかならぬその視線の気配だった。ラジャヌムンは歯をくいしばって痛みをこらえた。
 やがて痛みはエコーのように全身に響きながら消えた。安堵にラジャヌムンはちいさく息をついた。
 そして、視線の気配にふたたび気づいた。
 瞼を開くと数歩離れたところに立つ人影が瞳に映った。どうやら一歩も動かずにラジャヌムンをずっと見つめているようだった。
 ――一人にもなれねえ。
 目を閉じると戻ってきた思考が後頭部のあたりでつぶやいた。ラジャヌムンは顔をあおむかせて声を絞った。
「失せろよ。見世物じゃねえぞ」
 我ながら説得力のない言葉だな、ラジャヌムンはそう思わずにはいられなかった。
 視線の気配は消えなかった。
 ――くそっ。
 こもった空気が腹の底から口を無理に開いて出た。
 このまま力を抜いて意識の底に沈んでしまいたかった。だが見られていては安心して我を忘れることもできなかった。ラジャヌムンは痛む体に力をこめた。
 奇妙にやわらかいなにかに背中をあずけたまま右手をうしろに伸ばして壁についた。右足に力をこめてそろそろと立ちあがろうと試みる。足元がふわふわと頼りないというのに足は早くも悲鳴をあげはじめていた。
 背中が浮いた瞬間、腰の下のあたりが崩れた。
 騒々しく崩れるごみにまぎれてラジャヌムンは横に倒れた。鼻をふさぐような臭いがあたりにむっとたちこめる。うんざりして息をつくとラジャヌムンはごみの上にあおむけになった。なにもかももうどうでもよかった。
 ――殺すなら殺せ。そのほうがさっぱりしてていいや。
 すぐに意識は薄れて遠くなった。

 奇妙に明るい光の気配が瞼をなでていた。
 居心地の悪さに無意識のうちに寝返りをうった。と、今度は頬がやわらかな感触に埋もれた。慣れない心地よさはラジャヌムンの意識を乱暴に現実に引き戻した。
「――!?」
 体を起こそうとしてついた手はシーツに深く沈みこんだ。上下に揺れる体と同じ動揺を覚えながらラジャヌムンはうつぶせの体の上体をせいいっぱい起こしてあたりを見まわした。
 ラジャヌムンは天蓋つきの三人は寝れそうなベッドの上にいた。
 ベッドはおおきくて広い清潔な雰囲気の部屋の中央にあった。やわらかい光がその隅々を影なく照らしだしている。ワードローブやテーブルなどの家具はすべて見たことがないほど立派でラジャヌムンの目でもすぐにそれとわかるほどの超一流品ばかりだった。
 しばらくラジャヌムンはただ呆けたように室内を見まわした。
「……――なんだあ!?」
 ようやく生じてきた言葉はマットレスに乗った体をふたたび揺らした。びくっとしてラジャヌムンはシーツに埋もれた手を見おろす。それからそろそろと体を起こすとベッドの上にあぐらをかいて座りこんだ。ふわふわした尻の感触がやけにこころもとなかった。
 理解を超えた事態に思考が麻痺したままとりあえずラジャヌムンは自分の体をたしかめはじめた。
 全身の腫れや痛みはかなり薄れていて瞼も無理なく開けるようになっていた。服は意識を失う前のものと同じ。脱がされた形跡はなかった。治療の跡も見られないことから回復は自然のものだと考えられた。
 ――だとすればずいぶん長いあいだここにほっておかれたわけだ。
 うつむき腕を組んでラジャヌムンは考えこんだ。だがあまりに奇妙な状況は考える糸口さえ与えてはくれなかった。なぶりものにされてたほうがまだましだ、腹立ちまぎれにそんなふうにさえ思った。
 きぬずれのようなかすかなきしみがラジャヌムンのまとまらない思考をさえぎった。
 顔をあげたラジャヌムンの視線の先で部屋の端にあるドアが開いた。続いてすぐに人影があらわれる。
 ラジャヌムンは思わず息を飲んだ。
 女は頭からバスタオルをかぶる以外は全裸だった。
 女は頭を拭きながら壁伝いに向かいの壁際まで歩いた。はじめにタオルの陰に隠れた目を一瞬だけベッドに向けた以外はラジャヌムンを意識する様子はかけらもなかった。その動きをラジャヌムンは半ば口をあけてただ見つめた。
 女の体はラジャンムンの視線を惹きつけて離さなかった。
 小柄な全身は均整のとれた見事な美しさを示していた。無駄のないひきしまった動作がその完璧さをさらに引きたてていた。女の素晴らしい体に彩りを添えるように肌理の細かい肌の上を雫が流れた。
 いつのまにかラジャヌムンは頭の中で女の体の輪郭に自分のそれを重ねていた。くらべものにならなかった。あたりまえだと思っていたあちこちに手を加えた自分の体がいまはひどくいびつなものに感じられた。
 部屋の端に置かれていたバッグの前で女は足を止めた。バスタオルをその場に無造作に落としてその場にかがみこむ。
「――あっ!」
 思わずあげたラジャヌムンの声に女は顔をすこしだけあげて横目でベッドを見た。
「あ、いや……」
 ラジャヌムンは頭をかきながらあいまいにつぶやいて視線を落とした。瞳はすぐに眼窩をすべって女に向いた。盗み見た女は何事もなかったようにバッグの中から服を出していた。気づかれないよう祈りながらラジャヌムンは女の体を見つめた。
 その右肩に残っている一筋の疵を見つめた。
 さしておおきくはないその疵は、それでも女の体の調和を充分すぎるほど壊していた。にもかかわらずそれは女の体を損ねてはいなかった。その疵は女の体に刻みこまれることでたくさんのことをものがたっているようにラジャヌムンには思えた――自分の体に残った無数の疵よりずっとたくさんのことを。
 疵は唐突に服で隠された。
 はっとして我にかえるとラジャヌムンはあらためて女を見た。女はあらかた着替え終えようとしていた。上下黒ずくめのその服装はラジャヌムンの記憶を刺激した。
 それはごみ溜めに倒れていたラジャヌムンを見つめていた影と同じものだった。
「――どうしてこんなところに連れてきた?」
 顎を引き警戒もあらわにラジャヌムンは訊いた。
「気にいらないか?」
 腰を落としバッグの中を整理しながら女は言った。頭は下を向いたままでラジャヌムンのほうをうかがおうとさえしなかった。言葉は冷たく乾いていてどんな感情もうかがうことはできなかった。
 とりつくしまのないその態度にラジャヌムンは苦しまぎれに思い浮かんだ言葉をぼそっとつぶやた。
「……払う代価によるな」
 言ってから、それが馬鹿げた答であることにラジャヌムンは気づいた。
「払えると思うか?」
「いや」ラジャヌムンは肩をすくめた。
「なら余計なことは言うな」
 女の言葉は簡潔で短く、それだけに有無を言わせぬ強い調子がはっきりとあらわれていた。その無造作な言葉の発しかたはラジャヌムンの神経をひどくいらだたせた。ラジャヌムンは身を乗りだすと顔を女に向けてつきだした。
「ちょ、ちょっと待てよ。まだ質問に答えてもらっちゃいないぜ。それがわかってるならなぜわざわざこんなところに連れてきた?」
 女はまるでラジャヌムンなどこの部屋に存在しないかのように黙々と作業を続けた。
「答えろよ」
 あらためて発したラジャヌムンの言葉には抑えきれない怒りがにじみ出ていた。
 気配を察したのか女は手を止めた。今度も顔をあげはしなかった。
「理由が必要か?」
「ああ。でないと納得できない」
 憤然としてラジャヌムンは腕を組んだ。なぜそんなことを問いかえすのかまったく理解できなかった。
 と、女の背中がかすかに震えた、ようにラジャヌムンには見えた。まるで笑うように。
「拾われたペットはどうやって納得するのだろうな」
 かっときて立ちあがろうとしてベッドに足をすくわれラジャヌムンは背中から倒れこんだ。すぐに上体を起こして女をきっとにらみつける。
「ペットなんかになる気はないぞ!」
 ラジャヌムンのありったけの吠え声にも女は動じた様子はなかった。
「気まぐれに相手をしただけだ。飽きれば、捨てるさ」
 言いながら立ちあがると女は黒い帽子を目深にかぶった。言葉にはあいかわらずどんな感情もこめられてはいなかった。
「この部屋は明日まで確保してある。もう戻らないから好きなようにしろ」
 言うと女はラジャヌムンが怒りの目で見つめる中床のバッグを右手に拾いあげてすぐ前のドアに手をかけた。
「待てよ」
 抑えたラジャヌムンの声に女は動きを止めた。顔がわずかにベッドのほうに向く。
「あんた、何者だ?」
 叩きつけるようにラジャヌムンは言った。こんな不可解な出来事に巻きこまれたからにはせめてそれぐらいは聞く権利があるはずだ、そんな思いが語気を強くした。答えなければ力づくでも聞きだすつもりだった。
 女は肩越しにふりむいてラジャヌムンを見た。
 赤い瞳がラジャヌムンをまっすぐ見つめた。
 心の奥底まで射ぬくような冷たくまっすぐな視線だった。
「聞いてどうする?」
 言葉は冷たく硬い塊となってラジャヌムンを打った。
 圧倒され受けとめることができず、ラジャヌムンは息を詰めたままそらした視線をベッドに落とした。
 きぬずれのようなかすかなきしみとともに圧力は消え去った。
 静まりかえった室内に詰めていた息を吐く音が響いた。

 瞳に映る夜は昨日よりすこし沈んで見えた。
 いつもと同じように街を歩きながらラジャヌムンはそのことを意識せずにはいられなかった。
 もちろん一日で街の様子が変わるわけがなかった。まばゆい照明も雑踏の流れも裏通りの物騒な気配もそれぞれとして見ればどこにも変わったところなどなかった。なのにそのどれもがラジャヌムンの瞳には冴えないものとして映った。
 こんなときはできればだれかといっしょにいたいのに、そのだれかを見つけることさえできなかった。
「……くそっ」
 ラジャヌムンはちいさくつぶやいて唾を吐く。唾は地面に落ちる前にだれかの靴にぶつかりそのだれかはどこへともなく遠ざかっていた
 ――全部あの女のせいだ。
 通りの端を歩きながらラジャヌムンは女を思いかえした。その完璧な体と肩の疵、それに忘れようにも忘れられない赤い瞳を。苛立ちの原因は他にはありえなかった。だがあの女の何にそんなに苛立ちを覚えるのかはよくわからなかった。わからない分だけ苛立ちは余計につのった。
「なんだってんだよ、まったく。人のことを馬鹿にしやがって」
 ぶつぶつ言うラジャヌムンの肩にだれかがぶつかった。相手はすれちがいざまにラジャヌムンをにらみつける。ラジャヌムンがにらみかえすと相手はすぐに視線をそらして足早に去っていった。
「けっ!」
 言い捨て角を曲がり、そこではじめてラジャヌムンは自分がどこをめざしていたのかを知って思わず足を止めた。
 ラジャヌムンはいつのまにか昨日倒れていた通りの端に来ていた。
 しばらくその場に立ちつくした。それからためらいながらもゆっくりと一歩前に踏みだした。道の縁を見つめながらそれまでとは違いゆっくりと歩いた。
 そして昨日自分が倒れていたところの前で立ち止まった。
 昨日のごみは片付けられかわりにあたらしいごみがうずたかく積みあげられていた。ラジャヌムンはその中に倒れている自分を思い描こうとした。うまくいかなかった。それでもいま自分が立っているところに昨日はあの女が立っていたことだけは把握できた。
 ――あいつの目にはどう映ったんだろう?
 ふとそんな思いが脳裡をよぎり、不意に訪れた理解にラジャヌムンははっとして身震いした。
 それは苛立ちの理由をラジャヌムンに告げていた――あの目だ。あのなにもかもを見透かすような冷たくまっすぐな視線にラジャヌムンは怯えていたのだった。
 ぶちのめされたのはちょっとしたいさかいが原因だった。なんということのない、肩がぶつかるのと同じ程度の、意地を張りさえしなければすぐにおさまったはずのいさかい。だがラジャヌムンは引かなかった。自分を曲げず相手を責め闇雲に自己の正当性を主張した。袋叩きはその結果だった。
 理由はわかっていた。わかっていながらどうすることもできなかった。自分の居場所はここではないという想い、ここにいるやつらとは違うんだというちっぽけなプライド――この街を離れるだけの能力も金もない現状ではもてあますしかないその想いを、けれどラジャヌムンはどうしても手放すことができなかった。もう何度もくりかえし痛い目にあっているというのに。
 そんなすべてを、強がりも弱さも、あの女は見抜いていたのではないか――あの赤い瞳は。ラジャヌムンはそうとしか思えなかった。だからペットのように扱ったのだ、と。女にとってラジャヌムンはただ見おろすだけの存在でしかなかったから。
 ラジャヌムンは唇を噛んだ。
 かすかな声が首筋をなでるようにラジャヌムンの注意を引いた。
 ふと顔をあげてあたりを見まわした。聞こえてきた声そのものはめずらしくもないものだった――悲鳴だ。だがその調子はこの街で聞き慣れているものとは様子が違った。それはあまりに弱々しかった――存在そのものが消え去る直前にかろうじて漏らすことができただけのように。
 衝動的にラジャヌムンは駆けだした。
 そのときにはもう声は聞こえなくなっていた。路地という路地を知りつくしているラジャヌムンにも的を絞るには短すぎた。だから、勘で走った。
 二度目の声はラジャヌムンに正解に向かっていることを告げた。それは完全な絶叫だった。最初の悲鳴よりおおきく聞こえるのは近づいたせいばかりではないようだった。
 ラジャヌムンは手近なビルに入って暗い階段をのぼった。廊下を駆けぬけ裏口の非常階段に出て手すりから身を乗りだして下を見おろす。
 眼下の行き止まりの狭い路地に黒ずくめの姿があった。
 足元にもうひとつ別の人影があった。不自然な姿勢で倒れたその体は口元を血で赤く濡らしていた。それを除けばその姿はきれいすぎた――顔も身なりも服装も。この街に属す者ではなかった。黒ずくめの女と同じように。正反対の意味で。
 まるで気まぐれのように女の頭が動いて息を飲むラジャヌムンに向いた。
 赤い瞳は濃い色のサングラスの陰に隠れていた。だがその視線は覆いなど関係なしにラジャヌムンを射ぬいた。
 その冷たさにひるみながらもラジャヌムンは女の視線を正面から受けとめた。
 口を開きかけた瞬間、女の左手が闇の中から黒く鈍く光るなにかをラジャヌムンに向かって突きだした。
 ちいさな銃声とともに散った閃光――それがラジャヌムンの右の網膜に残った最後の光景だった。

 気づいたのは自分のねぐらよりいくらかましなベッドの上でだった。
 薄汚れた部屋の様子だけでたいした病院ではないと知れた。それでも命だけしか助けないようなもぐりの薮医者やろくでもないボディ・デザイナーの施設よりはいくらかましなようだった。ぼんやりした頭でラジャヌムンはしばらくただ天井をながめた。
 目覚めたこと自体が驚きだった。この街に死にかけた人間を助けるようなおせっかいがいないことはよくわかっていた。ラジャヌムン自身がそうだから。
 そんな物好きは一人しか知らなかった。
 手を伸ばして頭にそっと触れた。右上半分があらっぽく巻かれた包帯で覆われていた。右目の奥に残る鈍い痛みが傷の深さを問わず語りに告げていた。
 左目を閉じて息を深く吐きだし、ラジャヌムンは自分の失われた希望に想いを馳せた。組織の再生も移植も人工眼球もラジャヌムンの手には届かないものだった。生きながらえたとはいえ片目の喪失によってこれからの人生の可能性がおおきく狭まったことはまちがいないように思えた。
 この街に永久に刻みつけられたような気分だった。
 診察に来た医者は物思いに沈むラジャヌムンをいかにもうさんくさげな目で見た。その理由がわかったのは包帯が解かれたときだった。驚きにラジャヌムンは声もなかった。
 失ったはずの右目の視界には以前よりも鮮明な像が結ばれていた。
 まぶしさに目を細めると光量は一瞬で最適な状態に調整された。感覚にあわない速さにラジャヌムンはとまどう。と、視野の中央、見た感覚では鼻の上あたりにいくつもの数値と連邦標準語の説明が浮かびあがった。まばたきをするたびにその内容は切りかわった。
「なにしろ見たこともない最新型だからうまくつなげたかどうか自信はないがね」
 ふたたびラジャヌムンの頭に包帯をあてがうとそうつぶやいて医者は部屋を出ていった。
 ラジャヌムンは横になって天井をぼんやりとながめた。
 左目が本当に見ているのはあの赤い瞳だった。
「……おまえはおまえの想いにふさわしい存在になったわけだ」
 他人事のようにラジャヌムンはつぶやいた。
 プライドは義眼を与えられたことでかたちになった。それを生かすも殺すもあとはラジャヌムン次第だった。有効に活用すればこの街どころかこの星さえ出ていくことができそうだった。義眼にそれだけの機能があることをラジャヌムンは短い動作の中でも感じとっていた――いまの自分には不釣りあいな能力があることを。
 義眼を残すことで女はラジャヌムンに選択を突きつけていた。
 ――これも気まぐれか?
 その考えにラジャヌムンは顔を歪める。今度出会うことがあったらその無責任な態度を思いきりなじってやりたかった。おそらくもう二度と会うことはないだろう、そうわかっていたからなおさら腹がたった。
 にもかかわらず一方でラジャヌムンは感謝してもいた――自分の想いを理解してくれたことに対して。プライドにかたちを与えてくれたことに。まだそれを素直にあらわすことはできなかったが。
 決意の芽は、しかしまだ胸の奥に埋もれたままだった。
 いつかラジャヌムンは眠りに引きこまれていた。まだはっきりとしない自分の想いを計りながら。

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