女は焼けおちた家の前で立ちつくしていた。
うしろを通りすぎてからようやくその存在に気づいたアル=ハジャブはあわててトラクターを止めるとふりむいてその姿を見つめた。
女はまるでたったいま戦場から戻ってきたようなくたびれた軍服を着ていた。左手にちいさなザックをぶらさげている。右肩には見たことのない毛むくじゃらの小動物が身動きもせずただじっと乗っていた。
照りつける陽射しの元、女は途方に暮れた表情で焼け跡をながめていた。
アル=ハジャブはトラクターを降りて女のほうへ二、三歩近づいた。声をかけようとして口を開きかけ、ためらいを覚えて立ち止まる。女のまわりには人を寄せつけない雰囲気がただよっているようにアル=ハジャブには感じられた。
跡地管理人としての自分の立場を思いだし、アル=ハジャブは意を決して口を開いた。
「フェイ家に用かい?」
女は体をひねってアル=ハジャブに顔を向けた。視線をあたりにさまよわせながら体ごと向きなおって口を開く。だが言葉は出なかった。必死になってこわばった頬の筋肉を動かそうとするが漏れてくるのは喉の奥から直接発せられるような音だけだった。
と、女の肩に乗っていた小動物がふさふさの毛の奥に隠していたおおきな目を外にあらわしてアル=ハジャブに向けた。
「ここは本当にフェイ家でまちがいないですか?」
涼やかな声だった。人間以外の生き物が発する言葉をはじめて聞いてどぎまぎしながらアル=ハジャブは応えた。
「そ、そうさ。かわいそうに、二年前に火事でみんな焼け死んじまったけどな」
口を閉じると女は視線を焼け跡のほうに戻した。顔には途方に暮れた表情が浮かんだままだった。
小動物はまるでまばたきするようにそのおおきな目を毛で二、三度隠した。
「驚かせてしまったようですね。申し訳ありません。
私は彼女のエージェントです。話せない彼女に代わって会話を行なうよう連邦軍によって用意されました。質問したいことなどがあればどうぞ私に向かってお話しください。
ああ、どうかご心配なく。彼女は聞くほうには問題はありませんので」
言葉を切ると小動物はどこかからちいさな木の実を取りだし目よりずっとちいさい口を開いてかじりだした。
女は焼け跡を見つめたまま動かなかった。その姿をただ見ていたアル=ハジャブは唐突に流れる汗に気づいて袖で額をぬぐった。声をかけるんじゃなかった、痛切にそう思った。辺境の農業惑星での人生はアル=ハジャブから日常を超えた出来事への対応能力を根こそぎ奪い去っていた。
立場がこわばっていたアル=ハジャブの口を開かせた。
「あ、あんた、何者じゃ? フェイの血縁はこのあたりにゃいねえけど街に行けば誰かから話を聞くくらいできるさ」
女は顔をアル=ハジャブに向けた。機械のような素速い動きにアル=ハジャブは思わず身を引く。緊張は女の表情を見たことで解けた。女の瞳には驚きらしき色がかすかにあらわれていた。
女の意志に応えるように小動物は木の実を隠して言った。
「彼女はフェイ・カレン・ファーレンです。五連邦年の軍務を終えて生家に戻ってきました」
「……カレン?」
アル=ハジャブは息を飲む。とまどいを全身に浮かべながらも女は両手をわずかに広げてみせた。もどかしげにひきつる口元からは、しかし言葉は出なかった。
小動物が代わりに言葉を継いだ。
「彼女を知っているんですか?」
「知っているともさ、ああ、知っているとも――」
だが、そう続けそうになるのをアル=ハジャブはなんとかこらえた。
女はアル=ハジャブの記憶にあるカレンとは似ても似つかなかった。
フェイ家の末娘のことならアル=ハジャブはよく覚えていた。彼女の両親から娘の連邦軍への志願をどうしたらやめさせられるか相談されたこともある。説得もむなしくカレンは晴れて連邦軍に入隊してこの星を出ていった。たしかにそれは五連邦年ほど前のことだった。それ以来フェイ家の人々が、彼らが不幸な事故でこの世から去ったあとは自分自身が待ち続けていた者の顔を見まちがえるとはアル=ハジャブはどうしても思えなかった。
不審を敏感に察知したように小動物は口を開いた。
「それなら説明しなければなりません。彼女はたしかにフェイ・カレン・ファーレンです。しかしその肉体は変わらざるを得なかったのです――生きのびるために。
フェイ・カレン・ファーレン元二慰は最後に参加した戦闘で全身の三分の一を失う損傷を受けました。救出時に生命維持がきわめて困難な状況であったことはご理解いただけると思います。しかも戦闘はまだ継続中でした。そこで救急医療班は急速細胞増殖による欠損部の充填を試みたのですが、その際戦闘中の応急処置ということもあって残存部との充分な組織適合を行なうことができなかったのです。結果彼女の容姿や記憶を完全に元に戻すことはできず、また発語不全に代表される各種障碍を残すことにもなってしまいました。
しかしそれらはあくまで表面的なものにすぎません。軍の自己同一性判定試験は96.8パーセントの割合で彼女が損傷前の二慰と同じだと判定しました。外見に惑わされないでください。彼女はたしかにフェイ・カレン・ファーレンなのです。
なお障碍に関しては回復までの治療を連邦軍は保証します」
小動物の事務的な口調の言葉をアル=ハジャブは途中までしか聞いていなかった。
「……なんということじゃ……おお……」
つぶやきながらふらつく足でゆっくりと女に歩みよる。ためらうようにわずかにあとずさる女にかまわず近づくとアル=ハジャブは両手を伸ばして女の右手を包むように握りしめた。頬に涙が流れていた。
「おまえを待っとった男がおる。覚えておるか?」
見あげた目が女の瞳をまっすぐ見つめる。視線をそらすと女は苦しげに唇を歪めた。アル=ハジャブはすべてわかっているとでもいうように何度もちいさくうなずいた。
「奴はまだ街におる。行こう。おまえの帰郷を喜ぶものがいることを教えてやる。せめて、それくらいのことがなければな、なあ」
アル=ハジャブは女の手を引いてトラクターのほうへと歩きだした。女はただ引かれるままにアル=ハジャブのあとに続いた。顎のあたりにそれまで見られなかった硬い線が浮かびあがっていた。
ドアにかかっているベルがけたたましく騒ぐ中、ユーリーはアル=ハジャブに引きずられるようにしてコーヒースタンドを出た。
道の端に止められたおおきなトラクターが真っ先にその目に飛びこんだ。続いてそのすぐ手前にたたずむ軍服姿の女。女は顎を引き上目づかいで機嫌をうかがうようにユーリーを見た。
ユーリーはドアの前で立ちすくんだ。
「……カレン? 本当に、君なのか?」
言葉は途方に暮れたようなつぶやきとして口から漏れた。
「96.8パーセントの割合でそうです」
首のうしろから姿をあらわした小動物が事務的な口調で言った。アル=ハジャブは大股に女に歩みよって威嚇するように手を伸ばす。小動物は服の上を素速く動いてザックの中に逃げこんだ。いまいましげに息を吐きだすとアル=ハジャブはユーリーに顔を向けた。
「あんなものの話なぞあらためて聞くことはない。事情はわしが話した通りじゃ」
「……けど……」
ユーリーはアル=ハジャブに視線を転じた。瞳にはとまどいが色濃くあらわれていた。
「馬鹿者! おまえが信じないでどうする! 婚約者じゃろうが!」
アル=ハジャブの一喝を、しかしユーリーはひるまず受けとめた。
「でもこんなことがあるなんて考えてもみなかった! もう帰ってこないかもしれないとは思ったけど――」
言いかけはっとしてユーリーは口をつぐんだ。ばつがわるそうな目でそっと女を盗み見る。その態度を続けて怒鳴りつけようとした瞬間女の動きが目にとまってアル=ハジャブも視線を転じた。
女はザックを胸元に引きあげていた。その口を広げて奥まで手をつっこみごそごそと中をかきまわす。やがて動きを止めほっとした表情を浮かべると女は手を引き抜きためらいがちにユーリーに差しだした。握っていた掌を開いてその上に乗るものを見せるとおそるおそるという感じで上目づかいにユーリーを見つめた。
ユーリーは息を飲んだ。たくさんの想いがあふれて胸が詰まり、涙で視界が滲んだ。
「ああ、それは元二慰が救出された際に固く握りしめていたものです」
いつのまにかザックから頭を出していた小動物が場違いなはっきりとした声で言った。
言われなくてもユーリーはそれがなにかよく知っていた。ユーリーからカレンへのはじめてのプレゼント、つきあいはじめて間もないころに買った安物のブローチだ。傷つき色は落ちてかたちさえも変わっていたがユーリーはたしかにそれを覚えていた。
やがてユーリーは顔をあげた。その表情を見て女は微笑んだ。すこし首を傾げたその顔は不器用な感情のあらわしかたを許してくれと言っているようでもあった。
「……カレン……本当に君なんだね? ああ……」
ユーリーは一歩前に出た。女はブローチをふたたび握りしめ両手を重ねて胸にあてた。
「待っていたよ、長かった……でもこれは夢じゃない。君は戻ってきたんだ」
すぐ前まで近づくと両手をおおきく広げてユーリーは女を抱きしめた。固く、強く。閉じた目から涙が頬に流れた。
「婚姻契約しよう、すぐにでも。もう君につらい思いはさせない。約束する」
女は全身の力を抜くと放心したように空を見あげた。それからすこしぎこちない動きでユーリーの背中に腕をまわした。
アル=ハジャブは目頭をそっと押さえた。
二人は婚姻契約を結んだ。
ユーリーは長年勤めたコーヒースタンドを辞めた。
最大の問題は放置されていたフェイ家の土地を正しくカレンの所有に戻すことだったがアル=ハジャブの尽力によって手続きは滞りなくすすめることができた。焼け落ちた家屋はもはや手がつけられないほど荒れ果てていたのですべて取り壊してあたらしい建物に建て替えた。家が壊されるのを見て女はすこし泣いた。ユーリーはその肩をやさしく抱いた。
あたらしい家は立派すぎるほどのものだった。子供がたくさん生まれることを願ってそうしたのだった。費用はユーリーの貯えと女の連邦軍障碍者年金でまかなうことができた。あたらしい生活のことを考えるとすこしばかり贅沢だとは言えた。
実際しなければならないことはたくさんあり、それにともなう支出もすくなくはなかった。なにしろ農作業のための基本的な道具がそろっていなかった。いくらかはアル=ハジャブやその他の人々の好意によって格安で手に入れることができたもののもちろんそれだけではすまなかった。女の会話能力に回復の兆しは見られなかったため交渉はすべてユーリーがしなければならなかった。他にも堆肥の手配や荒れた農地の手入れなど時間がいくらあっても足りないのではないかと思わせるほどの作業のリストが二人の前には積みあげられていた。
にもかかわらず、春は近かった。二人は寸暇を惜しんで作付けの準備を続けた。収穫を夢見て。
早春の強い陽射しが世界を色鮮やかに照らしだしていた。
小柄な体がまあたらしい家の門の前に立っていた。
トラクターに乗ったアル=ハジャブはその存在に気づくと近づきながら目をすがめて見つめた。見覚えはなかった。なにより帽子から靴まですべてを黒で統一したその姿は牧歌的な風景の中で異彩を放っていた。
すぐうしろでトラクターが止まっても黒ずくめは微動だにしなかった。
「この家に用かい?」
アル=ハジャブの言葉に黒ずくめは無駄のない動きでふりかえった。濃い色のサングラスがアル=ハジャブを見つめる。思わずアル=ハジャブは身を引いた。隠されている瞳に心の奥底までを見透かされそうに思えて。
あざやかな紅い唇が動いて言葉をかたちづくった。
「フェイ・カレン・ファーレンはここに住んでいますか?」
高い、女の声だった。すくなくともひとつ確かなことがわかってアル=ハジャブはすこし安心した。
「そうじゃが、いまの時間なら家にはおらんよ。たぶん裏手の畑のほうじゃろう」
「そうですか。ありがとうございます」
視線をそらすと女はしなやかに歩きだした。
呼び止めようとするようにアル=ハジャブは手を女に向けて伸ばした。だが言葉は出なかった。塀の陰に隠れるまでアル=ハジャブは黒ずくめの姿を見送った。なぜだか不安な感じが心の中から消えなかった。
木の実をかじっていたエージェントが顎を動かすのをやめて顔をあげた。
女は手を止め顔をあげて肩に乗る小動物を見た。それからその視線の先を目で追う。瞳に映る人影に女は目を細めた。
黒ずくめの女は畑の畦のあいだに入って女にまっすぐ近づいた。女は持っていたスコップを置いて立ちあがり腰に手をあてて体をそらした。視線は黒ずくめの女から片時も離れなかった。
五歩ほどの距離を置いて黒ずくめは足を止めた。濃い色のサングラスがまっすぐ女に向く。女はすこし首をかしげて言葉にならない声をちいさく漏らした。頬のあたりに不安の影がわずかに射した。
「フェイ・カレン・ファーレン元二慰ですね?」
黒ずくめの言葉は冷たく乾いていた。
「そうですが、何のご用でしょうか? 私は彼女のエージェントです。質問等は私にお願いします」
応えたその涼やかな声と裏腹にエージェントは全身を小刻みに震わせていた。女は問いかけるように二、三度おおきくまばたいた。
黒ずくめは女にまっすぐ顔を向けたまま言った。
「忘れ物を届けに来ました」
女は体をこわばらせた。小動物は木の実をふさふさの毛のどこかに隠す。疑念もあらわにエージェントは言った。
「忘れ物?」
「記憶を」
嘆くような声が女の喉の奥から漏れた。エージェントは毛の奥からおおきな目を出して見開いた。
遠くから聞こえてくるトラクターの音だけが二人のあいだに流れた。
「……フェイ・カレン・ファーレン元二慰の最後の作戦行動は惑星オスアのD大陸、29-3J地点での現地反抗勢力の掃討支援でした。高密度の熱帯雨林が広く分布するというきわめて悪条件での作戦行動は当初から困難が予想されたため連邦軍は陽動を目的とした部隊をクローン兵士で構成しました。“人間”は部隊を指揮するフェイ二慰一人。一個小隊ほどのクローンたちはいわば捨て駒として送りだされたわけです。もちろんフェイ二慰ただ一人は無事帰還できるよう外骨格機動装甲に身を包んで。
作戦は半ば成功し半ば失敗しました。反抗勢力の攻撃は連邦軍の思惑通りフェイ二慰率いる陽動部隊に集中しました。しかし連邦軍が予想しなかったことにその攻撃は包囲網から脱出するための一点突破をめざした総攻撃だったのです。地下基地を放棄しての捨て身の攻撃に陽動部隊はなすすべもなく壊滅しました。ただ一人を除いて。該当地区からの救援信号を探知した連邦軍は機能不全に陥っていた外骨格機動装甲を回収してかろうじて生きていた乗員を救出しました。あなたを、です。
しかし軍はそれが誰であるかをついに同定できませんでした」
黒ずくめの言葉をさえぎるように女はもう一度嘆きの声をあげた。呼応するように小動物が甲高い鳴き声をたてる。
「彼女はフェイ・カレン・ファーレン元二慰です。軍の自己同一性判定試験は96.8パーセントの割合でそのことを保証して――」
「連邦軍はあなたをわざと泳がせることにしました。仮に推測が正しかった場合一般には存在を許可されない純粋培養のクローン、それも戦闘用の兵士が普通の生活においてどうふるまうかを知るいい機会だと考えたからです。エージェントを監視役として与え、軍はあなたを軍役から解放しました。あなたが希望したとおり、想い出のブローチを胸に死んでいったフェイ・カレン・ファーレンとして」
それまでとはうってかわった割れるような低い声を発しながらエージェントは牙をむいた。
黒ずくめの左手が素速く動いた。
小動物は声をとぎらせて女の肩から落ちた。目と目のあいだに細い針が突き刺さっていた。
女は微動だにしなかった。ただその表情がいまは怒りとも憎しみともつかないかたちに歪んでいた。
黒ずくめの表情は変わらなかった。
「連邦軍に代わって訊きます。無名の兵士としてではなくひとりの名のある存在として生きるのはどんな気分でしたか?」
野太い声で女は吠えた。
地面を蹴って一瞬で黒ずくめに近づいた。俊敏な動きは鍛えぬかれた戦士のそれだった。
女の手が届く寸前に黒ずくめは後方へと跳んだ。
黒ずくめをとらえようと広げた両腕はむなしく宙を泳いだ。着地と同時に女は畦のあいだに前のめりに倒れる。獲物をつかむように両の拳を固く握りしめ、それを最後に女は動かなくなった。
黒ずくめは無言で倒れた女を見おろした。
やがて女に近づくとかがみこんで首筋に刺さった針を抜いた。サングラスをはずして赤い瞳でその顔をじっと見つめる。
女はすぐ目の前のなにかを一心に見つめていた。
黒ずくめはそっと手を添えて女のまぶたを閉じた。