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Other side of everyday life #4

Contents:

  1. ばいばい、がーる
  2. 天秤を司る影

ばいばい、がーる

1

「……あの、ちょっと……いえ、そんな、結構ですから……すいません、その、手を……やだ、触らないでください……やっ、ちょっと……やめて、やめてください……やめてってば、人を――きゃあっ!」
 腕をつかまれたまま足をからめられ、加代は脇の生垣の隙間をすり抜けて芝生の上にうつぶせに倒れこんだ。
 ――何するんですか!?
 そう叫ぼうと身をよじったその目の前で銀色の刀身が鈍く光った。
「――っ!」
 思わず身を引こうとして自分の足が男の体でしっかりと押さえつけられていることに気がついた。ナイフの向こう側で暗がりに浮かぶふたつの目がいやらしく笑っていた。
 ――慣れてる!
 加代は心の底から恐怖を覚えた。
 気持ち悪い笑みを背景にナイフがじりじりと迫ってきた。
 できるかぎり遠ざかろうと加代はせいいっぱい身を引いた。両手で芝生を強く押す。と、足を押さえつける力がすこしゆるんで体が動いた。加代はそのままあとずさった。
 ナイフは同じペースで迫ってきた。男には足の上に乗せた体をどけるつもりはさらさらないようだった。
 加代はさらにあとずさるしかなかった。公園の奥、さらに暗いほうにみずから入りこんでいくとわかっていても。それが男の思いどおりだとわかっていても。
 頭の中はめまぐるしく回転していた。どうしたらこの危機を切り抜けられるか、どうやったら逃げられるか。けれどくりかえされるのは“どうしよう”という言葉ばかりで具体的なことは何ひとつ思い浮かばなかった。逆に悪い想像は頭の別の部分でどんどんふくらんでいた。
 ――この公園に誘いこんだのもきっと人通りがほとんどないからなんだ。もし誰かが通りがかってももうすぐ夜だからこんなに奥にきちゃったら何しててもわからないに決まってる。勇気を出して大声をあげたら?――そしたら刺されて殺されちゃう!
 後頭部になにかがぶつかるのと同時に恐ろしい想像に加代は目をぎゅっと閉じて身をすくめた。
 そのままじっとしていたが何も起きなかった。
 加代はおそるおそる目を開いた。
 ナイフの向こう側から見つめる瞳が満足げに笑っていた。
 目をそらしたくてそれさえできず、加代はただ首をのろまに左右に振った。
「……いや……お願い、やめて……お願い……」
 思わず漏らした言葉はかすれてほとんど聞きとれなかった。
 男はナイフをゆっくりと下げた。いやらしく歪んだ口元がはっきりと見えた。
 同時にスカートの内側に手がすべりこんできた。
「――!」
 悲鳴を押し殺し反射的にあとずさろうとして加代は後頭部をしたたかに打った。
 痛みに閉じた目をふたたび開くとナイフは胸元を切り開こうとしていた。
 ――助けて!
 加代は両目をぎゅっと閉じて心の中で叫んだ。
 瞬間、どすんという鈍い音と振動が体に伝わった。
「――なっ、なんだっ、てめいは!?」
 男のうろたえただみ声に加代は目を開いた。
 二人のすぐ横に人がうつぶせに倒れていた。
 木の葉がいくつもまとわりついた体をがばっと起こして加代と男を交互に見、顔にあいまいな笑みを浮かべた。
 男に違いなかった。それ以外は薄汚れていてよくわからなかった。小柄ででっぷりとした体、伸び放題の髪と髭、ぱんぱんにふくらんだ背中のデイパック。一見ほとんどホームレスと変わりないようなありさまだが、それほどひどくない服と肌がそう思わせる一歩手前で印象を救っていた。
 それだけのことを見て取るあいだに加代の脚に乗っかった男は持っているナイフをホームレス一歩手前のほうに突きだした。
「どっから沸いてきやがった?この野郎! さっさとあっち行け! こっちゃいいとこなんだ、邪魔すんな!」
 吠えるように言葉を投げつけ、いつのまにか脚に巻きつけていた腕に力をこめる。そのあまりの強さに加代は息が止まってしまいそうな気がして声をあげることができなかった。
 そんな加代の恐怖をよそにホームレス一歩手前は何が起きてるのかわからないというような様子で男を見つめた。
 と、すっかり理解したとでも言うように笑みを深めて何度も何度もうなずいた。
「わ、わかりゃいいんだよ、わかりゃ。さっさとあっち行けよ、ほら」
 妙な雰囲気を感じ取ったのかすこしトーンを落として言うと男はホームレス一歩手前を振り払うように手を動かした。
 ――もしかしたら……!
 加代がそう思ったのも束の間、ホームレス一歩手前はやけに元気な調子でその場にすっくと立ちあがった。笑ったままもう一度おおきくうなずき、その場でくるっと二人に背中を向ける。
 ――行かないで!
 声に出せずにそう叫んだ瞬間、ホームレス一歩手前はデイパックをおろして手に持ち振りむきざまに男の頭にぶちあてた。
「がっ!」
 不意をつかれた男は加代の脚の上からころがって芝生の上にあおむけに倒れた。
「てめえっ! この野郎――」
 叫びながら上体を起こそうとする男の頭にホームレス一歩手前は今度は真上からデイパックを落とした。どすんという鈍い音とともに男はふたたび倒れる。ホームレス一歩手前は加代の脚を飛び越えナイフを持つ手を踏みつけるとさらに何度か男の頭をデイパックで叩いた。
 その一部始終を加代は何が起きたのかよくわからないまま至近距離で見ていた。
 デイパックを背負いなおすとホームレス一歩手前はかがんで男の手から離れたナイフを拾いあげた。あぶなっかしそうにつまんだそれをあさっての方向へと投げ捨てる。そして加代に顔を向けるとあわてた様子で何度もうなずいた。
 意味するところを理解するまで数秒かかった。
 ――もう押さえられてない!
 あわてて立ちあがった。ホームレス一歩手前が手を伸ばして加代の手を取った。
 そのまま二人で一目散に逃げだした。
 どこをどう走ったのかまったくわからない。ただ夢中で先を急いだ。あの恐怖から遠ざかれるならどこだってよかった。遠ざかるためには走りつづけなければならなかった。
 やがてつかんだ手を引っ張る力に加代は我にかえった。
 振りかえると遅れてついてくるホームレス一歩手前が泣きそうな顔で加代を見ていた。
 はっとして立ちどまった。とたんに疲れがどっと押し寄せてきて、加代は手を離し曲げた膝に手をついて深呼吸をくりかえした。
 気づいてみると慣れないあたらしい靴のおかげでともすると立っていられなくなりそうなくらい足が痛くなっていた。いまにも崩れそうになる脚を必死で支えながらすこしずつ息を整え、加代は顔をあげてあたりを見まわした。
 目立ちはじめたネオンの光がいくつも目に入った。通りには多くの人たちがどこかせわしない様子で行き交っている。どうやら繁華街の端まで戻ってきたようだった。これなら万が一あの男が追いかけてきたとしても勝手なことはできないだろう、そう思って加代はすこしほっとした。
 そしたら今度は通りすぎる人たちの視線が気になりだした。
 心あたりはあった。忘れるはずがない。けどほんの何十秒かはそこまで頭がまわらなかった。おさまってきた息にもうひとつ深呼吸を加えると加代は体を伸ばして視線を転じた。
 すぐ隣のホームレス一歩手前は直前の加代とおんなじ姿勢で息をあえがせていた。
「あ、あの……大丈夫、ですか?」
 そう声をかけるとホームレス一歩手前は顔をあげた。荒い息のままぐるりとあたりを見まわす。そして視線を加代に戻すと疲れた顔に笑みを浮かべて右手を差しだした。
「……あ、あの?」
 加代の問いにホームレス一歩手前は手を上下に振った。握手を求められているらしかった。
「あ、ありがとうございました」
 頭を下げて加代はその手を握った。
 ホームレス一歩手前は手をぶんぶんとおおきく上下に動かした。動きを止め、加代の顔を見てにっと笑う。加代はつられて自分の顔もすこし笑ったような気がした。
 と、握る手の力がふっとゆるんだ。
 そのままホームレス一歩手前は全身から力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
「あ、あの――あの!」
 離れきらない手に引っぱられるようにして加代はかがみこんだ。ホームレス一歩手前の顔を上から覗きこむ。けれど体を丸めこむようにうつぶせに倒れているせいでその表情をよくうかがうことはできなかった。加代は肩をゆすろうと空いてるほうの手を伸ばした。
 指が触れようとした瞬間、ものすごい音が響いた。
 思わず手を引っこめた。そこに続けてもう一発。加代は真っ赤になってうつむいた。まるで自分の腹の虫が鳴ったように。通りすぎる人たちの笑い声が聞こえてきそうな気がした。
 しばらくそのままでいたが、ホームレス一歩手前はぴくりとも動こうとはしなかった。ときおり腹の虫を鳴かせる以外は。
 途方に暮れた加代はおそるおそる顔をあげてあたりを見まわした。
 その視線が一点で止まった。
 視線の先にあるものとホームレス一歩手前を見くらべ、すこしためらってから、まだつかんだままの手をそっと放した。えいやとばかりに立ちあがって駆けだす。途中で振りむくと道行く人々はホームレス一歩手前のまわりを避けるように遠巻きにして歩いていた。
 息を切らして戻ったときもホームレス一歩手前は同じ姿勢のままだった。
 ほっとして加代はさっきと同じようにかがみこんだ。空いてるほうの手を肩へと伸ばす。また腹の虫がなったが今度は引っこめたりはしなかった。
「あの――あのっ!」
 恥ずかしさをこらえながら声をかける。と、ようやくホームレス一歩手前は顔をすこしだけあげてとろんとした目を加代に向けた。
 その目の前に加代はコンビニの袋を突きだした。顔を赤くして、わずかにうつむいて。
 ホームレス一歩手前はがばっと跳ね起きてコンビニの袋をまじまじと見つめた。

2

 ――なにやってんだろ、あたし。
 背もたれのないちいさなまるい椅子に猫背になって座っているとどうしてもそんなふうに思わずにはいられなかった。
 隣の席ではホームレス一歩手前が丼の中身を直接胃に放りこむみたいにかきこんでいる。ちらりとその姿を見て、加代は自分の前にある空の丼に視線を転じた。
 空にしたのは加代ではない。ホームレス一歩手前だ。二人の前に同時に出された丼のうちひとつをあっというまに空にしてしまいなお物足りなさそうにしていたので、注文はしたものの手をつけかねていた加代は思わず自分の分を差しだしてしまったのだ。
 もちろんそのこと自体はなんでもなかった。なんでもなかったが――……
 ――なにやってんだろ、あたし。
 やっぱりそう思わずにはいられなかった。
 わざわざ遠路はるばる知らない街にやってきたというのに、危ないところを助けてもらったとはいえ見知らぬ得体の知れない男と二十四時間営業の丼屋に並んで座ることになろうとは、今朝家を出るときにはまったく予想だにしなかった。
 丼屋を選んだのはホームレス一歩手前だった。加代はもうすこしはいい店に入ろうと思ったのだ。いくらなんでもお礼がコンビニ弁当ひとつというのはあんまりだから。けれど一気に弁当をたいらげすこしだけ元気になったところをうながして立ちあがらせいっしょに歩きだしたホームレス一歩手前は最初に通りがかったこの店の前からてこでも動こうとしなくなってしまった。もうすこし別の店にしませんかと何度言ったかわからない。でもホームレス一歩手前はどうしても首を縦に振らず、とうとう加代は根負けしてこの店に入ってしまったのだった。
 ――なんだかなあ……
 そんな割り切れない思いは頭の中から消えそうになかった。加代はまた横目で隣を見た。
 ホームレス一歩手前はちょうどすっかりきれいにした二杯目の丼をテーブルに置くところだった。顔にはようやく満足げな表情が浮かんでいる。コンビニ弁当を食べはじめたときの鬼気迫る雰囲気を思いだして加代はすこしおかしくなった。人間というものは空腹が満たされただけでこうも変わるものだろうか、と。
 コップの水を飲み干すとホームレス一歩手前は深く息を吐きだした。
 それから席を降り、あらたまった様子で加代に向きなおると深々と頭を下げた。
「あ、いや、そんな、気にしないでください。助けてもらったのはあたしのほうなんですから」
 加代はあわてて両手を突きだしおおきく振る。と、ホームレス一歩手前は照れたような顔になって頭のうしろを掻いた。人なつっこいしぐさだった。
「――あの、あんなところで何してたんですか?」
 ついそんな問いが口をついて出た。
 ホームレス一歩手前はにこっと笑って両の掌をあわせた。左の頬にあて目を閉じて首を傾ける。すぐに目を開きはっとした顔になって左右を見まわすと上を向いて伸ばした両腕を上下に動かした。
「……寝ているところにあたしたちが来たから姿を隠そうと木の上に登った……?」
 いくらかあてずっぽうに言った加代の言葉にホームレス一歩手前はうれしそうにうなずいた。手を額にかざして下を見るをふりをし、あわてた顔をして素早くしゃがみこむ。
「……落ちたんですか?」
 立ちあがったホームレス一歩手前はなさけない感じで笑った。加代は思わず頭を下げた。
「――ごめんなさい!」
 ホームレス一歩手前は顔の前で手をぶんぶんと横に振った。椅子の足元においてあったデイパックを背負いなおし、加代によく見えるように横を向いて指差す。ぱんぱんにふくらんだデイパックはよく見るとけっこう痛んでいたが本人や身なりよりははるかにきちんと手入れされているようだった。
 そのままホームレス一歩手前はその場で歩くまねをした。笑みを浮かべて。
「……野宿で旅行しているから……気にならない?」
 ホームレス一歩手前は足を止めてひとつおおきくうなずいた。
 何のなぐさめにもならなかった。加代はうなだれて言った。
「……でも、あの……すみませんでした」
 ちょっとこまった顔になってデイパックをおろし、ホームレス一歩手前は加代の横に座りなおした。
 二人のあいだで沈黙が一休みした。
 ――なにやってんだろ、あたし。
「……あたしもですね、旅行で来たんですよ、この街」
 ふとそんな言葉が口から漏れた。
 そしたら止まらなくなった。
「知りあいがいるんです。この街に。って言っても会ったことないんですけど。
 インターネットで知りあって、ずーっとメールのやりとりしてて。すっごい感じのいい人で、コメントの書きこみやメールにはいっつも遅れずに返事してくれて、愚痴を書いても親身に受け答えしてくれて。そんなんじゃほんとのことなんてわからないのかもしれないけど、でもあたし、ずっと思ってたんです。ああ、いい人だな、って。
 いつのまにか、気がついたらその人とやりとりするのがいちばんの楽しみになってたんです。
 もちろん友だちと長電話したり集まってわいわいやるのも楽しかったんです。あいかわらず。でもみんな働くようになったら話題もいつのまにか微妙に変わってきちゃってて、気がついたら会社の愚痴や悪口をみんなで言いあうようになっちゃったりしてて。それはそれで大事なことだとは思うんですけど、でも最後にはため息しか出てこなくなっちゃったりして、悩みは打ち明けられるからたしかに心はすこし軽くなるんですけど、でもそれって気分がすっきりしたり晴れたりするのとはちょっと違って……
 あの人とはそんなことなかったんです……」
 そこまで言ったところではっとした。
「――ごめんなさい! 何一人でしゃべってるんだろ、あたし。こんな話、退屈ですよね?」
 急に恥ずかしくなってきて加代はおそるおそる上目づかいで隣を見た。
 それまでと違った真剣な、けれどやさしい表情で、ホームレス一歩手前は加代を見ていた。
 視線があうとゆっくりと首を横に振った。やわらかな雰囲気にすこし救われた気分になって、加代は顔をあげて息をついた。
 そしたらかえって言いづらくなった。
「……続き、聞きたいですか?」
 ホームレス一歩手前は表情を変えないでうなずいた。ほっとしたようなそうじゃないような複雑な気分を味わいながら加代はもう一度息をついた。
「……でもそれが、最近ちょっと変わってきてたんです。
 つまらないことなんです、ほんとに。メールの返事が遅れるようになって、言葉の数がすこし減って、なんだかはぐらかされたように感じることが多くなって。そんなことがしばらく続いて。
 それであるときあたし、ふと思ったんです。ああ、きっとあの人、彼女ができたんだ、って。だからあたしのことあんまり気にかけてくれなくなっちゃったんだ、って。
 そしたらなんだかいてもたってもいられなくなっちゃって……
 好きだとかそういうんじゃないんです。顔も見たことないのに、声も聞いたことないのに人を好きになれるようなタイプじゃないんです、あたし。でも今度は、今度だけは、一目でいいから姿を見ておかないと気持ちに区切りがつかないような気がして……」
 いつのまにかうつむいていた。加代はくすっと笑った、つもりだった。目に涙が浮かんでいるのが自分でもわかった。
「……馬鹿みたいですよね、あたし。だってあの人がどんな顔してるか知らないんですよ? それどころかどこに住んでるかもよくわからないんです。それなのにいままでのメールや書きこみからそれらしい場所を見つけだして、宿や電車の切符を予約して、一人旅なんてしたことないのに、休みを取って家を飛びだして……
 それで、あんな目にまであって……」
 あとは言葉が続かなかった。かわりに涙がぽろぽろとこぼれた。
 ぎゅっと目を閉じ、声をあげないようにして、加代は泣いた。膝の上で握りしめた拳の上に雫が落ちた。
 物音がとても遠くに感じられた。世界の中で自分がたった一人になってしまったような気分だった。
 と、肩にそっと手が触れた。硬いけれどやさしい感触の手が。
 加代は顔をあげた。
 涙ににじむ視界の向こうにホームレス一歩手前の微笑みが見えた。
 ちいさく笑い、加代はハンカチで涙をぬぐった。言葉が自然に口から漏れた。
「――ありがとう」
 ホームレス一歩手前は照れたように笑った。
 そして加代から手を離すと椅子から降りてデイパックを手にドアに一息で駆け寄った。
「――え? あの――」
 きょとんとして加代は声をかける。その言葉が届いたのかどうか、ホームレス一歩手前は振りかえると加代に向かって深々と頭を下げた。そのままうしろに下がってドアを開ける。頭をあげてバイバイという感じで手を振ると、店を出たとたん走ってどこかに行ってしまった。
 一人残された加代は椅子にぽつんと座ってホームレス一歩手前が遠ざかっていった軌跡をただ目で追いかけるばかりだった。

3

 ドアは重たげな音を立てて閉まった。
 ロックがかかっていることをたしかめ、なんとなくちいさくため息をついて、加代はホテルの廊下をエレベーターへと歩きだした。
 足どりは決して軽くはなかった。昨日の出来事にうしろから引っぱられているみたいな気分だった。
 ホームレス一歩手前がすこし軽くしてくれた心は置き去りにされたことで元に戻ってしまっていた。
 帰ってしまおうか――ホテルに戻ってきてから何度そう思ったかわからない。ユニットバスでシャワーを浴びながら、ベッドの上でなかなか寝つけず何度も寝返りをうちながら、バイキング形式の味のよくわからない朝食を一人黙々と食べながら。そのたびに気持ちは揺れ、けれど思いきってそうしてしまう踏んぎりはつかないまま、結局はじめの予定通りこうして部屋を出るところまで来てしまっていた。
 なんとなく流されて行動しているように思えて、それが加代の気分を沈ませていた。
 エレベーターに乗ってロビーに降りてもその気分は、あたりまえだが、変わらなかった。
 ――どうしよう?
 そんなふうにまだぐずぐずと考えながら加代はホテルを出た。
 うつむき加減の視界の端に写った姿に、思わず立ちどまって顔をあげた。
 ホテルの正面に立っていたホームレス一歩手前は加代を見て照れたような笑みを浮かべた。
「――あ、あの――どうしてここが――」
 疑問はうまく言葉にならなかった。小走りで駆け寄って加代はホームレス一歩手前をただ見つめた。
 笑みを浮かべたままホームレス一歩手前はひとつちいさくうなずいた。
 そして足元に置いてあったデイパックを背負いなおし歩きだした。すこし行ったところで振りむいて加代を手招きする。加代はあわてて後を追いかけ歩きだした。
「――あの、あたしのこと――あの、どうして――」
 横に並んではみたもののあいかわらず疑問はうまくまとまらなかった。とりあえず加代はいちばんたしかめなければならないことに意識を集中した。
「――あの、どこへ行くんですか?」
 横目で加代を見てホームレス一歩手前はいたずらっぽく笑った。歩きながら。わけがわからないまま、それでもホームレス一歩手前の様子や態度に拒むだけのものを見いだせず、加代はホームレス一歩手前に並んで歩いた。頭の中にいくつもの疑問を渦巻かせたまま。

 ようやくホームレス一歩手前が足を止めたのは住宅街の一角でだった。
 あたりにはアパートや敷地に余裕のない一軒家が所狭しと立ち並んでいた。道路は歩道がなく、おおきい車同士だとすれ違うのにこまりそうな幅。等間隔に並ぶ電柱が道幅をさらに狭めている。加代の生まれ育ったところや住んでいるところとさして違いのない景色だった。
「……あの……ここは?」
 すぐうしろに立ちどまった加代はホームレス一歩手前におそるおそる訊ねた。
 振りかえったホームレス一歩手前は信号のない交差点の向かい側を指さした。笑顔で。加代はその示す先を目で追った。
 小ぶりな二階建てのアパートがあった。元は明るい色だったろう外壁がすこしくすんでいる。外に張りだした廊下に並ぶドアと洗濯機から間取りがひかえめらしいこと、それほどあたらしくないだろうことが察せられた。
「……?」
 加代は視線をホームレス一歩手前に戻す。と、ホームレス一歩手前は指先を下に動かしいた。もう一度その先を追いかけると郵便受けのかたまりが見えた。
 言わんとするところがわかって加代は息を呑んだ。
「――そんな! だって、でも――」
 それ以上は驚きで言葉にならなかった。そんな加代の様子をホームレス一歩手前はおもしろそうに見ていた。
 気分がなんとかすこし落ちついたところで加代はあらためてホームレス一歩手前を見た。おおきく息を吸いこんでから口を開く。
「――どうしてわかったんですか? あたし、あの人の名前さえ言ってない」
 ホームレス一歩手前は首をひねった。いたずらっぽい笑顔を浮かべて。本気で答えようとしていないことはあきらかだった。
 加代は視線をアパートに戻した。
 思いがけない展開にどうしていいかわからなかった。
 もちろんありがたいと思う気持ちはあった。けれど余計なことをしてくれたという気持ちも同じくらいあった。心の準備くらいさせてくれないとこまる、そう言ってやろうかと思った。迷いはまだ消えてはいなかったから。
 そんなことを思って立ちつくしていたら背中を軽く叩かれた。
 振りむくとホームレス一歩手前はうなずいてもう一度アパートを指さした。
 なんて言っていいかわからず、加代はただこまった目でその顔を見かえした。
 なんで?とでも言うようにホームレス一歩手前は首をかしげた。
 何の疑問もないその様子に加代は息をぐっと詰まらせた。
 そう、ここまで来て迷う理由なんてあるはずがなかった。本当は。あるとすればこの街まで泊りがけでやってきた決意をなかったことにしたい自分の臆病さだけ……
 そう理解しながらなお、加代はその場から動くことができなかった。
 と、ホームレス一歩手前の視線が動いた。自分からそれた視線の先を加代ははっとして追いかけた。
 二階まんなかあたりの部屋の前で女の人がドアに鍵をかけていた。
 心臓が一度おおきく鼓動を打った。
 歩きだした女の人は階段を降りて道路に出た。加代たちが歩いてきたほうへ向かって大股で歩を進める。途中距離を置いてすれ違うときに不審げな視線を加代に送ってよこした。それで自分がずっと視線を離せないでいたことに気づき、加代はあわててあさってのほうに顔を向けた。気づいてみると空は比較的いい天気だった。
 そのまましばらくじっとしていた。
 そしたら袖を引っぱられた。視線を元に戻すと女の人はもうかなり遠くまで離れていた。
 加代は深く息を吐きだした。なさけなくて涙が出そうになった。
 ――ここまで来て何をためらっているんだろう?
 ふと気がつくとホームレス一歩手前が心配そうな目で加代を見ていた。
 無理に笑顔を作り、顔をアパートに向けた。
 このままじゃいけない、心底そう思った。この気持ちに終止符を打たないとここから一歩も先に進めない、と。
 加代は足を一歩前に踏みだした。
 ホームレス一歩手前がついてこないことはうしろを見なくてもわかった。そのほうがよかった。たしかにここまでものすごく助けてもらったけど、ここからはひとりでしなければならないことだったから。
 郵便受けのかたまりにまっすぐ向かい、その前で立ちどまった。それぞれの名札に目を走らせる。貼られていないものもあったので確認はすぐに済んだ。
 目的の名字はたしかにそこにあった。
 さっきとは違うしかたで胸がひとつ高鳴った。思わず空を見あげてほっとちいさく息をつく。位置からして出ていった女の人は関係ないらしいとわかって。
 あらためて部屋番号を確認し、二階だったので階段へと足を運んだ。
 ドアの前で足を止め、深く息を吸いこんだ。指を呼び鈴に伸ばし、
 やはりすぐには押せなかった。
 長いあいだだった気もするしすぐだった気もする。とにかく最後には指先がボタンに触れた。涼やかな音が軽く響いた。
 何も起きなかった。
 もう一度押し、今度はさっきより長く待った。
 何も起きなかった。
 三度目を押そうとして思いとどまった。約束もせず予定も知らずにやってきたのだ、都合よく部屋にいるとはかぎらない。いまごろになってそんな単純なことに気づいて加代は笑いそうになった。実際に出てきそうになったのは涙だったが。
 ほっとしたような気の抜けたような気分になって加代は肩を落とした。
 そのまましばらく立ちつくしたが、やはり何も起きなかった。
 いつまでもそうしていてもしかたがなかった。とりあえず出直そう、そう思ってドアの前を離れた。
 階段を降りたところで誰かとすれ違った。
 うつむいていたのですぐには気づかなかった。二、三歩進んだところではっとして振りかえった。
 階段を登っていく買い物袋を手にした女の人のうしろ姿が見えた。
 予感がした。加代は音を立てないよう気をつけて歩を早めた。
 ホームレス一歩手前は同じところに立って気遣わしげな不安げな目で加代を見ていた。その横で足を止めると加代は何も言わずに振りかえった。アパートの二階にじっと目を向ける。
 さっき階段を登っていった女の人がさっき加代がその前に立っていたドアの前に立って、
 ドアを開けて中に入っていった。
 頭が真っ白になった。
 立ちつくしたまま加代はアパートの閉ざされたドアをただ見つめた。
 肘のあたりをつかまれていることに気づくまでずいぶんかかった。
 気づいてもすぐには反応しなかった。ようやくぼんやりと顔を向けるとホームレス一歩手前と目があった。ホームレス一歩手前は心配そうな顔をしていた。
 ――やだ、そんな顔しないでください。
 そう言って笑おうとして失敗した。
 くしゃくしゃになった顔を隠すにはうつむいた顔を両手で覆うしかなかった。そのままの姿勢で加代は嗚咽した。そんな自分にとまどい手をつけかねてうろたえるもう一人の自分を意識しながら。
 肘のあたりをそっとつかんだままの手をずっと感じながら。

4

 考えてみればはっきりとわかったことなんて何ひとつなかった。はじめて会った男の人に連れまわされて一人合点しただけ。本当にそうかどうかなんてわかってない。
 でもそれでいいんだという気がした。大事なのは本当かどうかじゃない、自分で動いてみたこと、そして気持ちに決着をつけたこと。
 目が覚めたらそんな気分になっていた。
 我ながら意外だった。ベッドに横になるまでは、いや、横になってからも眠るまでは何度も寝返りを打ちながら、悲しみを反芻していたのだから。なのに身を起こしてベッドから出て、カーテンを開いて朝の光を室内に招きいれたら気にならなくなっていた。
 もしかしたらそれは一時の心の安らぎに過ぎないかもしれない。でもいまはそれを大事にしたかった。
 昨日は味のさっぱりわからなかった朝食も今日はおいしく味わって食べられた。満腹して満足し、部屋でテレビを見たりしてのんびり過ごしてから加代は荷物をまとめてチェックアウトした。
 ホテルを出たところで足を止めた。
 ホテルの正面に立っていたホームレス一歩手前は加代を見て照れたようなばつの悪いような笑みを浮かべた。
 加代は微笑んだ。予想していたわけではなかったけど意外でもなかった。
「おはようございます」
 言って頭を下げ、加代は歩きだした。どうして来たのかわかる気がしたから。
 想像どおりホームレス一歩手前は加代のすこし斜めうしろからついてきた。
 ――並んで歩けばいいのに。
 そう思ったけど口にはしなかった。声にしてしまうといまの雰囲気が壊れてしまうような気がしたから。
 そのまま駅に着くまで二人とも何も話さなかった。
 改札の前で振りかえるとホームレス一歩手前が自動販売機のほうに駆けていくところだった。さして待ちもしないで戻ってくる。加代のそばまで戻ってくると指先でつまんだ切符をかざして見せた。
 ――?
 内心問いを浮かべているあいだにホームレス一歩手前はさっさと改札を通って中に入った。振りむいて加代を手招きする。とりあえず笑いかえして加代も改札を通った。
 ――いっしょに行く気かしら?
 それも悪くない気がした。なんなら帰るんじゃなくて別のところに気の向くままに行ったっていい。ぜんぜん知らない街で二人でしばらく過ごすのだ。特に何を話すでもなく。
 ――でもまあやっぱり帰らないと。仕事もいつまでも休めないし。
 そんなことを考えながら加代はホームレス一歩手前を追って階段を登った。
 ホーム上に人影はまばらだった。それも当然で、片側には列車がもう止まっていた。始発なのか時間待ちなのか、まだ動きそうな感じはない。加代が帰るのとは逆方向の列車なのであわてることはなかった。
 ホームレス一歩手前は端のほうへとどんどん歩いた。男の人っていくつになっても端っこが好きなのかしら、などと思いながら加代はあとに続いた。
 と、ホームレス一歩手前はいきなり振りかえって加代を見た。
 にこっと笑って頭を深く下げた。
「――そんな! お礼を言わなきゃいけないのはあたしのほうです! だって、あの――」
 あわててそこまで言ったらそれ以上言葉が出てこなくなった。鼻の奥がつんとした。
 ――まずい!
 反射的に加代は頭を下げた。向こうよりもさらに深く。そしたら自然に言葉が出てきた。
「――ありがとうございました!」
 心の底からそう思った。
 発車を告げるベルが鳴って加代は頭をあげた。
 ホームレス一歩手前は笑顔で加代を見ていた。その手が、指がまっすぐ上に伸びる。
「――そら!」
 ホームレス一歩手前の指が指し示す先を加代は目で追いかけた。
 いままで見たことがないほど鮮やかな青空が広がっていた。
 美しさにただ見とれた。
 ドアの閉まる音にはっとして視線を戻すとホームレス一歩手前が消えていた。
 あわててあたりを見まわした。見つけたのは列車の中だった。窓際で笑顔を浮かべて加代に手を振っていた。
「――」
 なにかを言おうとして、けれど言葉が口から出てくる前に、列車は重たい音を立てて動きだした。
 つられて二、三歩よろめいた。窓の向こうのホームレス一歩手前が笑顔のまま指を空に向ける。その姿がすこしずつ遠ざかっていった。加代は足を止めて去っていく列車を見送った。
 見えなくなるまで見送った。
 それからふと空を見あげた。
 青空はさっきと変わらない鮮やかさで加代の頭上いっぱいに広がっていた。

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天秤を司る影

1

 重いドアの閉まった音で我にかえった。
 呆然と立ちつくし、矢島忠雄は見覚えのない室内の様子をただながめた。
 作りつけのベッドにデスク。ちいさな奥まった窓。質素な壁面にわざとらしく飾られたちいさな絵――典型的なその構成をすぐに把握したにもかかわらず、ビジネスホテルのシングルルームの入口にいるのだと理解するまでしばらく時間がかかった。
 地に足がつかない感じで誘いこまれるように奥に進み、椅子ではなくベッドに腰をおろした。
 手に持っていた鞄が床に落ちた。
 吐息がひとりでに漏れた。
 ひどく疲れていた。
 そうだ、こんなことをしている場合ではない――そんな思いが脳裡に浮かんだ。それはここ数日、数週間、いや数ヶ月前からずっと頭の片隅にこびりついたままの言葉だった。
 空回りしていた言葉だった。
 眼鏡をはずし、閉じた目を指で押さえた。
 どうすればいいのかわからなかった。
 どうしてここにいるのかわからなかった。
 どこにいるのかわからなかった。
 どうやってこの部屋までやってきたのか、記憶が完全に欠落していた。
(落ちつけ)
 声に出さずにつぶやいて自分に言い聞かせた。
 鍵はドア脇の台に乗せた。その感触は残っていた。だからチェックインは普通に済ませたはずだ。その前は?――
 覚えていない。
 半日をはじまりから振りかえってみることにした。朝は普通に家を出た。これは覚えていた。会社にもいつもどおりに着いていた。フロアの雰囲気は悪かったが、これはここしばらくずっとそうだった。いまさら気にするほどのことではない。そう自分に言い聞かせて席に向かい、それから――
 電話が鳴った。
 自分でも驚くほど体がびくっと震えた。
 胸のあたりに手をあて、背広の内ポケットに入っている携帯電話を押さえた。
 呼びだし音は鳴り止まなかった。止む気配はなかった。
 くぐもったその音はまるでなにかの警告音のように狭い室内に響いた。
 数十回その音を聞いた。
 止む気配はなかった。
 耐え切れなくなって電話機を取りだしディスプレイに目をやった。明滅するライトが「公衆電話発信」の字を強調していた。
 切ってもすぐにかけなおしてくるだろうことは容易に想像できた。あきらめて通話にし、電話機を耳元に近づけた。
 聞き覚えのない声がささやいた。
 記憶がよみがえり、矢島忠雄はすべてを理解した。

2

 廊下の壁に背中を持たせかけ、金山浩はちいさく息をついた。
 まわりでは鑑識官たちがせわしなく行き交っていた。まっすぐ伸びた廊下の端の曲がり角では何人かが不安げにこちらをながめている。あんまりこんなところを見られてはまずい、そう思って背中を壁から離すと、開きっぱなしの入口から上司の林が顔を出した。
「どうした? ちゃんと現場検証しとかんか、んん?」
 そこまで言って金山の顔を見つめ、意味ありげににやりとした。
「ははあ、仏さんを見るのははじめてか?」
「違いますよ、そんなんじゃありません。ただ……」
 言ってしまってからしまったと思った。粘りの取調べが信条の林は言いかけた言葉を聞き逃しはしない。どんな言葉も、決して。
「ただ? どうした?」
 林はすっかり聞く態勢になっていた。金山はしかたなく言葉を続けた。
「……ただ、どうしてこう、みんな死んでまで秘密を守ろうとするんだろう、と……
 だってしょせんは汚職や贈賄ですよ? 命をかけるほどのことはないような気がするんですけど」
 林はなんだそんなことかという顔をしてみせた。
「さあな、金持ちのおえらいさんには俺たち下々にはわからないような心配事があるんだろうよ。ほら、なまけてないで仕事しろ、仕事」
「はい。あ、ちょっと……」
 金山は落ちつきなくあたりを見まわした。「……トイレに行ってきていいですか?」
「――さっさとしろっ、この野郎っ!」
 フロア全体に響きわたるような大声で怒鳴って林は顔をひっこめた。
 何人かが驚いて動きを止めていたが、慣れっこの金山はちいさく肩をすくめただけだった。廊下をエレベーターのほうへと歩きだす。部屋のトイレは使うわけにはいかない。一階に共用のトイレがあるはずだった。
 さっきこっちを見ていた人々の姿はなかった。林の一喝に退散したのかもしれない。スラックスのポケットに両手をつっこんだ金山は特に注意もせずに角を曲がった。
 とたんに誰かにぶつかった。
「――ごめんなさいっ!」
 かわいらしい声でそう言い残すと相手は背中を向けて走り去った。金山の目指す方向、エレベーターのほうへと。その小柄な姿はすこし先の角を曲がって見えなくなった。エレベーターホールのある場所だった。
 その軌跡を金山はちょっとあっけにとられて立ちどまって見ていた。
 ――なんだ? あれ。
 こんなホテルの客層とはとても思えないような女の子だった。かといって警察の捜査活動に興味があるようにも見えなかった。
 ――なんだかなあ……
 ちいさく肩をすくめ、金山はふたたび歩きだした。

3

 ドアが閉まるとエレベーターは上昇しはじめた。
 振りむいてドアに向きあい、そのままあとずさって、少女は壁に背中を持たせかけた。顔の前で両手を組んで祈るように眼鏡の奥の目を伏せる。ちいさく動く唇は実際言葉にならないつぶやきを紡ぎだしていた。
 エレベーターの停止と同時に唇も動きを止めた。少女は両目をおおきく見開いて正面を見つめた。
 わずかな音を立ててドアはなめらかに開いた。
 人の出入りをふさぐように背の高いがっしりとした人間が乗りこんできた。
「――っ!」
 気圧されたように少女は壁に背中を強く押しつけた。
 偉丈夫はそれ以上踏みこまずに少女に正対した。背後でドアが閉まる。エレベーターは下降をはじめた。
 すこしのあいだ少女を見つめてから、偉丈夫は視線を横にそらして鼻を鳴らした。
「やれやれ、素人じゃないか。舐められたものだ」
 組んでいた手をほどき、少女はショルダーバッグに素早く手をつっこんで抜きだした。
「どうかしら。試してみればわかるわ」
 言い終えたその顔の前に両手で握ったナイフをかざした。
 その刃を偉丈夫は横目で一瞥した。
「……試すまでもあるまい」
 片手が素早く動いた。
「!?」
 少女はナイフをはじかれていた。痛みを感じるのと同時にナイフが足元に落ちる。あわててしゃがんでナイフを拾い顔をあげた。
 偉丈夫は両手を広げ覆いかぶさるようにして少女に顔を突きだしていた。
「さあ、やれるならやってみるがいい。刺してみろ。それで俺が殺せると思うのなら。自信があるならできるはずだ。さあ――」
 影の落ちた顔に不気味な笑みを浮かべ、偉丈夫はゆっくりと迫った。
 少女は身をちぢこまらせた。ナイフを持つ手にひとりでに力がこもる。その手を振りあげればいいだけなのに、それができなかった。
 ナイフが震えているのが自分でもわかった。
 偉丈夫は笑みを深めた。
 その右腕が弓を引くように振りあげられた。
 同時にエレベーターが停止した。
「――何をしている!?」
 偉丈夫は上体を起こして振りかえった。
 少女は跳ねるように立ちあがった。
 突きあげたナイフはあっさりとかわされた。偉丈夫は入ってきた男と体を入れかえ肩越しに振りかえって少女を見る。エレベータの外に半歩足を踏みだし唇を歪めた。
「邪魔が入ったな。続きはまた今度だ――その機会があれば」
 言い捨て走り去った。
「待てっ!」
 追いかけようとした体は閉まるドアにさえぎられた。エレベーターはふたたび下降しはじめる。舌を打ちながら金山は振りかえった。
「大丈夫だっ――!?」
 言葉はそこで途切れた。
 少女は角を背にして立っていた。顔の前に両手で握ったナイフをかざして。
 金山は思わずあとずさった。
「君、ちょっとそれ――」
 と、まるで全身から力が抜けてしまったみたいに少女はその場にへたりこんだ。
 手から落ちたナイフが床に転がった。少女は放心したように眼鏡の奥の視線をドアの向こうの遠くに向けていた。
 状況が理解できず、だが異様な雰囲気だけははっきりと感じながら、金山は少女とナイフをただ見おろした。

4

「……あのさぁ……」
 いつまでも黙ってはいられなかった。ため息をついてから金山はふたたび口を開いた。
「まじめに答えてくれないかなぁ。こんなもの振りまわして、いったいどうするつもりだったの?」
 少女は意外そうな顔をしてみせた。
「まじめに答えてるじゃないですか。他に何をするっていうんですか?」
「……いいかい? お嬢ちゃん」
 疲れた声で言い、金山は左手を伸ばしてテーブルの上のナイフをつかんだ。体の前に引き寄せて右手の人差し指で刃の先端に触れる。すこし強く押すと刃はきしみながら力を加えた分だけ柄の中に沈んだ。よく見ると刃の縁はところどころメッキがはがれて乳白色のプラスチックが顔をのぞかせていた。
「こんなおもちゃで人を殺せるわけないでしょうが。俺もいそがしいんだからつまらない冗談につきあってる暇はないの。さ、さっさと本当のこと言って。おこったりしないから」
 おもちゃのナイフをテーブルに置きなおして金山はソファの背もたれに体をあずけた。
 ホテルの一階ロビーに他に人影はなかった。フロントにもいまはスタッフの姿はない。現場検証の関係でいそがしいのかオフィスで別の仕事をしているのか、いずれにせよ少々おかしな言葉が飛びかっても聞かれそうにない点はありがたかった。もっとも実際は子どもみたいな女と二人で話をしているというだけであぶなかったが。そんなこととは関係なく林は職場放棄だとかんかんに怒っているに違いない。
 その怒りを少しでもやわらげるためにはとにかく早く戻るべきなのだが、どうやらそれはそう簡単にはいきそうにないということを金山はプラスチック製のナイフを拾いあげたあたりから漠然と感じていた。
 その予感はここまで少女を連れてきて言葉を交わした時点で確信に変わった。こんなものを振りまわしてどうするつもりだったのか、そう聞いた金山に少女はこう答えたのだ――
 殺すためだ、と。
 二の句がつげずにまじまじと見つめた少女の顔にはさして特徴がなかった。眼鏡をかけているせいで何割かましになっている感じだ。まだ幼さの残る顔だちは短い髪とあいまってどうかすると少年と言っても通用しそうだった。つまりこれが美人だったら応対も違っていたかもしれないがありがたいことにその心配はない、ということだった。そこで金山は気をとりなおしてもう一度同じ質問をくりかえしたのだった。
 少女はきょとんとした顔で金山を見かえしていた。
 金山が口を開かないでいるとようやく次の言葉を漏らした。
「……あたし、人を殺すだなんて言ってません」
「――はあ?」
 思わず口をついて出た声にはいらだちがはっきりとあらわれていた。しかし少女がそれを気にする様子はなかった。
 落ちつけ、自分にそう言い聞かせて金山は言った。
「……じゃ、何?」
「悪です。正確には悪が行使する力の一部、ですけど」
「――はあっ!?」
 金山はあっけに取られて少女をただ見かえした。
 その視線を少女は平然と受けとめた。
 ――キ印か?
 そう思わずにはいられなかった。
 そんな金山の想いに気づいているのかどうか、少女はまったく表情を変えなかった。
「……名前は?」
「近藤です。近藤杏。でもこの名前に意味はありません。なぜならいまあたしは近藤杏ではないからです」
 きっぱりとよどみなく少女は言った。金山は右の掌を少女に向けて視線をそらした。
「わかった。君の言いたいことはよーくわかった。君は君のやりかたで悪と戦ってくれたまえ。俺たちは俺たちのやりかたでやるから。引きとめて悪かったね。じゃあ」
 早口でまくしたて、金山は席を立って背を向けた。これ以上わけのわからない話につきあわされるのはごめんだった。
 歩きだそうとした瞬間、少女の言葉が耳を打った。
「どうして重要参考人が都合よく死ぬのか不思議に思っているんじゃありませんか?」
 はっとして振りかえった。
 少女は金山をまっすぐ見つめていた。真剣な表情で。
「ご心配なく、刑事さん。あなたは何も話してはいませんから」
 ぞっとした。少女は知るはずのない情報を口にしていた――それも知るはずはないとみずから明かして。
 動けずにいると少女――近藤杏は作りもののような微笑を浮かべて首をすこし傾げた。
「せっかくですからもうすこしお話ししませんか? 協力できるんじゃないかと思うんです、お互いに」
 誘われるままに金山はふたたびソファに腰をおろした。
 そのまましばらくただ近藤を見つめた。
 少女はまったく表情を変えずに金山を見かえしていた。どうやら自分から口を開く気はなさそうだった。しかたなく金山は喉から問いを絞りだした。
「……君は……何者だ?」
「それはもうお話しました」
「……いや、話してない。あれだけじゃなにがなんだか――」
「あたしが何者かなんて関係ないんじゃないですか?」
「――いや、しかし――……」
 どう言っていいかわからず、金山はそれ以上言葉を続けられなかった。
 と、近藤の表情がほんのすこしだけやわらいだ。
「たぶんあたしの言うことを刑事さんは信じれくれないと思います。だったらはじめから話さないほうがいいんじゃないですか? そんなこと知らなくたって手助けしあうことはできるはずです」
 金山は首を左右に力なく振った。とてつもなくばかげた話をしている、そう理性が訴えていたが、それでも話をやめることはできなかった。
「……しかし、具体的には何をどうやって? こっちは君が何を知ってるのかも何ができるのかもまるでわからない。それに――そう、相手が誰であれ、人が殺されるのを見過ごすことはできない」
 近藤はちょっとこまった顔をした。
「あたしは誰も殺す気はありません。刑事さんが考えるような意味では。
 あたしが向きあっているのはこの現実とはすこし異なる位相の問題です。さっきも言ったとおりその点について充分に説明する気はありません。説明しても信じてもらえるとは思えませんから。だって刑事さん、さっきまでそうだったでしょう?
 ただ何をする気かはお知らせできます。
 あたしは次の関係者が殺されるのを防ごうと思っています」
「……どうやって?」
「刑事さんには理解できないと思います」
 金山はかっとなった。
「――どうしろって言うんだ!? こんなあいまいでわけのわからない話を聞かされるほうの身にもなってみろ! こんなんで協力なんてできるわけないじゃないか!」
 怒鳴り声に近藤は表情を作りもののような微笑に戻していた
 しばらくそのまま金山を見つめてから、やがてその口をちいさく動かした。
「……協力はむずかしいようですね、残念ながら」
 近藤は立ちあがった。「わかりました。手助けは期待しません。ですけど、もしかしたらそのときになってお互いお役にたてることがあるかもしれません。そのときはできるかぎり刑事さんに情報を知らせるようにします。
 じゃあ、これで」
 ちいさく会釈をし、背を向けてドアへと歩きだした。
 その背中を金山は目で追った。呼び止めることも立って追いかけることもできなかった。ただそのうしろ姿を外に出るまで見送った。
 やがて近藤が完全に見えなくなってから詰めていた息を吐きだした。
 事態はまったく理解できなかった。だが自分が異常の縁に身を置く羽目になったらしいことだけは疑いえないように思えた。

5

 数日が何事もなく過ぎた。
 矢島忠雄の死は自殺として片づけられた。他殺を疑わせる証拠がない以上それ以外に合理的な推論はありえなかった。現場の人間は不満を募らせていたが表だって口にする者はいなかった。はじめてではない、いままでに何度もくりかえされてきたことだった。
 二課の人間は皆自分のほうがいまにも自殺しそうな暗い顔をしていた。
 捜査は目に見えて停滞した。
 金山もおかしな少女のことを思いかえすような気分ではなかった。

 携帯電話が振動したのは机に向かって報告書を書いているときだった。
 ポケットから引っぱりだしてディスプレイを見ると番号非通知の呼びだしだった。集中力を削がれてむっとしたがこういうときこそ何があるかわからない。金山は電話を受けて耳にあてた。
「もしもし」
「お忙しいですか?」
 聞こえてきた声に思わず息を呑んだ。
「――君は……」
「忘れられてませんでしたね。よかった」
 ちっともうれしくなさそうに電話の向こうの近藤は言った。金山はあたりを見まわした。
「……どうしてこの番号を――」
「呼びだしをお願いするより確実だと思って。
 時間がないんです。急いで来てください」
 せわしない様子の、切羽詰まった感じの声だった。
「来てって、でもどこに? なんで?」
 近藤は早口で会ったのとは別のビジネスホテルと人の名前を告げた。
「今日またやるつもりなんです。あたしだけだとまた駄目かもしれません。刑事さんが来てくれればなんとかなるかもしれないんです。お願いします」
 金山は言葉に詰まった。
 近藤の言うことが本当ならただちに飛びだすべきだった。だが言うことをそのまま信じていいものかどうか金山には判断がつかなかった。
 ためらいに沈黙を破れずにいると、やがて抑えた声が聞こえてきた。
「……わかりました。刑事さんには頼りません。一人でなんとかしてみせます」
 そして電話は切れた。
 すこしのあいだ金山は手に持つ携帯電話を見つめた。
 ――次に誰がいなくなったらいちばんこまる?
 そう自問自答した。考えるまでもなかった。関係者の誰がいなくなっても捜査は事実上終わりだった。
「――くそっ!」
 小声で悪態をつき、あらためてあたりを見まわした。フロアの同僚は皆いそがしそうに立ち働いていて金山を気にする気配は感じられなかった。
 それでも数秒逡巡した。
 それから上着を手にかけころがるように部屋を出た。

6

 重いドアの閉まった音で我にかえった。
 呆然と立ちつくし、秦雅則は見覚えのない室内の様子をただながめた。
 作りつけのベッドにデスク。ちいさな奥まった窓。質素な壁面にわざとらしく飾られたちいさな絵――典型的なその構成をすぐに把握したにもかかわらず、ビジネスホテルのシングルルームの入口にいるのだと理解するまでしばらく時間がかかった。
 地に足がつかない感じで誘いこまれるように奥に進み、椅子ではなくベッドに腰をおろした。
 吐息がひとりでに漏れた。
 ひどく疲れていた。
 閉じた目を指で押さえた。
 どうすればいいのかわからなかった。
 どうしてここにいるのかわからなかった。
 どこにいるのかわからなかった。
 どうやってこの部屋までやってきたのか、記憶が完全に欠落していた。

 煙を深く吐きだして腕時計に目をやった。
 交差点の向かい側のホテルの入口に目を向け、次いでそのビルを見あげた。
 姿は見えなかった。だがどの部屋にいるかはわかっていた。
 落とした煙草を踏みつけ、ホテルに背を向けて歩きだした。
 すぐ先にあった人のいない電話ボックスに手をかけ扉を開いた。
「コインが足りなかったらどうするんですか?」
 聞こえてきたその声に偉丈夫は電話ボックスに入ろうとした動きを止めて振りかえった。
 すこし離れたところ、歩道の端に立った近藤は真剣なまなざしで偉丈夫を見つめていた。
 偉丈夫は口元を笑みのように歪めた。
「――おまえか」
「どうして携帯電話を使わないんですか? いまどきめずらしいですよ。別に問題ないでしょう?」
「……気分の問題だな。それに、問題はないとは言っても多少わずらわしくはある」
 身を引き電話ボックスの扉を閉め、偉丈夫は近藤に向きなおった。
 しばらく二人とも対峙したまま動かなかった。歩道に人影はなく、ただときおり車が通り過ぎるだけだった。
 偉丈夫が先に口を開いた。
「ナイフはいらないのか? あの茶番のナイフは」
「人目につきますから。騒ぎにはしたくありませんし」
「……すこしは学習したというわけだ」
 喉を鳴らすようにちいさく笑い、偉丈夫は足を一歩前に踏みだした。
「だがそれでどうやって私を止める? 象徴なしで相手を傷つけられるほどの手練れではあるまい」
「試してみますか?」
 人差し指を伸ばし親指を立て、他の指を曲げた右手を近藤は顔の前にかざした。曲げた指を左手で包むように握る。
「たしかに象徴は力をかたちにするためには有効です。でもそれがなければならないというわけではありません。大切なのは意志ですから」
「――ほう」
 偉丈夫は素直に感心した表情を浮かべた。
「失礼した。経験不足は否めないようだが、一人前には違いないようだ。全力で相手せねばなるまい、礼儀として、な」
 言葉を切ると背筋を伸ばした。
 体がひとまわりふくらんだように見えた。
 わずかにひるみながら、しかし近藤はあとずさりはしなかった。
 そのまま二人は互いを見据えたまま身じろぎひとつしなかった。
 と、近藤の視線が偉丈夫からわずかにそれた。
 偉丈夫は一気に間合いを詰めた。近藤の腕をつかもうと右手を伸ばす。身を沈めてその腕をかいくぐり、振りむきざまに近藤は偉丈夫のうしろの首筋に銃のかたちをした指を伸ばした。
 結ばれた想像の線を払いのけるように偉丈夫は拳を握った腕をうしろに振りまわした。近藤はうしろに跳んで距離を保つ。指先の狙いはそらさないまま。
 近藤に対して半身になった偉丈夫はにやりと笑みを浮かべた。
 近藤は真剣なまなざしを変えなかった。
「――君!」
 突然の声に釣りこまれるように偉丈夫は視線を転じた。
「行ってください! 部屋を捜して!」
 偉丈夫を見据えたまま近藤は声をあげた。離れたところにいた金山はうなずいて背を向けホテルへと駆けだした。
「――貴様!」
 叫びながら偉丈夫は金山を追って走りだす。その隙をついて近藤は偉丈夫に一気に近づいた。
 偉丈夫は怒りの目を近藤に向けた。だがその腕は目ほどには素早くは反応しなかった。
 偉丈夫の腕よりも足よりもほんのすこしだけ早く、近藤はそのこめかみにまっすぐ伸ばした右人差し指を突きたてた。
 肘を胸に受けて突きとばされ、背中から歩道に落ちた。
「痛っ!」
 思わず声をあげながらも近藤は手をついてすぐに体を起こした。立ちあがりながら偉丈夫の姿を目で捜す。中腰になって走りだそうとして、近藤はその勢いを弱めた。
 偉丈夫はすこし先に行ったところでうつぶせに倒れていた。
 小走りで近づき、頭の近くでしゃがんでその顔を覗きこんだ。
 目を閉じた偉丈夫は見たことのない表情をしていた。憑きものが落ちたような、とまどいをあらわにしたような。首筋に触れて息があることをたしかめ、近藤はほっと息をついた。
 すぐに立ちあがってホテルへと駆けた。
 フロントには目もくれずにまっすぐエレベーターに向かい、開いたドアから飛び乗って行き先の回数のボタンを迷わず押した。ドアが閉じて上昇する。途中止まることなくエレベーターは目的の階にたどりついた。
 開いたドアの向こうに金山の姿が見えた。
 エレベーターを降りた近藤にちらと目を向け、視線を足元に落として首を力なく横に振った。
「……遅かったみたいだ。いま合鍵を取りに行ってもらっている」
 近藤は息を呑んで眼鏡の奥の目をしばたかせた。うつむくのと同時に肩から力が抜けた。
 その落胆を我がことのように感じながら、金山は訊かずにはいられなかった。
「なあ……君がやろうとしたことはいったいなんだったんだ? 正義の追求か? それともただの空騒ぎか?」
 答が返ってくるまでしばらくかかった。
「……自殺は止められません」
 あきらめのただよう言葉にむっとして金山は近藤に一歩詰め寄った。
「おいっ! いったい君は――」
 言いかけた金山の機先を制するように近藤は顔をあげた。
 金山は息を呑んだ。まったく感情の浮かんでいない顔を目のあたりにして。とても人のようには見えないその顔は、だが瞳だけには異様な光をたたえていた。
「止められません。私には――私たち、には――……」
 金山をまっすぐ見つめながら棒読みで言い、ふっと瞳から光が失せ、がっくりとうなだれた。
「……おい、君……」
 ちいさく声をかけ、金山はおそるおそる手を伸ばした。
 触れようとした直前になって近藤ははっと顔をあげた。金山はあわてて手をひっこめた。
 近藤は何度も目をしばたたかせて不安げな表情できょろきょろとあたりを見まわした。
「――どこ? ここ」
 小声でつぶやくその姿はそれまでの様子とはまったく違っていた。
「――君?」
 その言葉に近藤は金山に顔を向けた。不安をあらわにして。
 どうしていいかわからず金山はただ立ちつくした。と、近藤はふたたびあたりを見まわしてからあとずさった。エレベーターのすぐ前で立ちどまって下行きのボタンを押す。ドアはすぐに開いた。合鍵を持ってきてくれるよう頼んだ男とその上司らしいすこし年配の男が緊迫した面持ちで降りてくる。入れかわるようにして近藤はエレベーターの中に身を隠した。
「お待たせしました。さ、早く――」
 男たちは先に歩きだした。エレベーターのドアが閉まって下降しはじめる。何が起きたのか理解できないまま、とにかくしなければならないことをするために金山は男たちの後を追った。

7

 重要参考人と目された二名が相次いで自殺したことで防衛庁への物資納入をめぐる汚職事件は全貌が解明されることなく終息を向かえた。書類送検されたり懲戒処分されたりした人間はいずれも現場の担当者ばかりで事の主役がその中に含まれていないのは誰の目にもあきらかだった。マスコミはしばらくのあいだ黒幕と噂された政治家たちの周辺や利権への食いこみを狙った外国資本の存在などについてあれこれとあることないことを騒ぎたてたがそれも別の耳目を集める事件が起きるまでだった。
 そうして事件は人々の脳裡から急速に忘れ去られた。他の多くの事件と同じように。

 金山も例外ではなかった。担当の一人として世間よりずっと長く深く事件にかかわっていながら、ふと気がつけば世間と同じようにいつしか事件の多くのことを思いかえさないようになっていた。近藤と名乗ったあのおかしな少女のことも。
 ただなぜか、少女が別れ際に見せた瞳だけはときおりふとした機会に脳裡によみがえった。
 あの異様な光をたたえたまっすぐな瞳だけは。

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