1
「……あの、ちょっと……いえ、そんな、結構ですから……すいません、その、手を……やだ、触らないでください……やっ、ちょっと……やめて、やめてください……やめてってば、人を――きゃあっ!」
 腕をつかまれたまま足をからめられ、加代は脇の生垣の隙間をすり抜けて芝生の上にうつぶせに倒れこんだ。
 ――何するんですか!?
 そう叫ぼうと身をよじったその目の前で銀色の刀身が鈍く光った。
「――っ!」
 思わず身を引こうとして自分の足が男の体でしっかりと押さえつけられていることに気がついた。ナイフの向こう側で暗がりに浮かぶふたつの目がいやらしく笑っていた。
 ――慣れてる!
 加代は心の底から恐怖を覚えた。
 気持ち悪い笑みを背景にナイフがじりじりと迫ってきた。
 できるかぎり遠ざかろうと加代はせいいっぱい身を引いた。両手で芝生を強く押す。と、足を押さえつける力がすこしゆるんで体が動いた。加代はそのままあとずさった。
 ナイフは同じペースで迫ってきた。男には足の上に乗せた体をどけるつもりはさらさらないようだった。
 加代はさらにあとずさるしかなかった。公園の奥、さらに暗いほうにみずから入りこんでいくとわかっていても。それが男の思いどおりだとわかっていても。
 頭の中はめまぐるしく回転していた。どうしたらこの危機を切り抜けられるか、どうやったら逃げられるか。けれどくりかえされるのは“どうしよう”という言葉ばかりで具体的なことは何ひとつ思い浮かばなかった。逆に悪い想像は頭の別の部分でどんどんふくらんでいた。
 ――この公園に誘いこんだのもきっと人通りがほとんどないからなんだ。もし誰かが通りがかってももうすぐ夜だからこんなに奥にきちゃったら何しててもわからないに決まってる。勇気を出して大声をあげたら?――そしたら刺されて殺されちゃう!
 後頭部になにかがぶつかるのと同時に恐ろしい想像に加代は目をぎゅっと閉じて身をすくめた。
 そのままじっとしていたが何も起きなかった。
 加代はおそるおそる目を開いた。
 ナイフの向こう側から見つめる瞳が満足げに笑っていた。
 目をそらしたくてそれさえできず、加代はただ首をのろまに左右に振った。
「……いや……お願い、やめて……お願い……」
 思わず漏らした言葉はかすれてほとんど聞きとれなかった。
 男はナイフをゆっくりと下げた。いやらしく歪んだ口元がはっきりと見えた。
 同時にスカートの内側に手がすべりこんできた。
「――!」
 悲鳴を押し殺し反射的にあとずさろうとして加代は後頭部をしたたかに打った。
 痛みに閉じた目をふたたび開くとナイフは胸元を切り開こうとしていた。
 ――助けて!
 加代は両目をぎゅっと閉じて心の中で叫んだ。
 瞬間、どすんという鈍い音と振動が体に伝わった。
「――なっ、なんだっ、てめいは!?」
 男のうろたえただみ声に加代は目を開いた。
 二人のすぐ横に人がうつぶせに倒れていた。
 木の葉がいくつもまとわりついた体をがばっと起こして加代と男を交互に見、顔にあいまいな笑みを浮かべた。
 男に違いなかった。それ以外は薄汚れていてよくわからなかった。小柄ででっぷりとした体、伸び放題の髪と髭、ぱんぱんにふくらんだ背中のデイパック。一見ほとんどホームレスと変わりないようなありさまだが、それほどひどくない服と肌がそう思わせる一歩手前で印象を救っていた。
 それだけのことを見て取るあいだに加代の脚に乗っかった男は持っているナイフをホームレス一歩手前のほうに突きだした。
「どっから沸いてきやがった?この野郎! さっさとあっち行け! こっちゃいいとこなんだ、邪魔すんな!」
 吠えるように言葉を投げつけ、いつのまにか脚に巻きつけていた腕に力をこめる。そのあまりの強さに加代は息が止まってしまいそうな気がして声をあげることができなかった。
 そんな加代の恐怖をよそにホームレス一歩手前は何が起きてるのかわからないというような様子で男を見つめた。
 と、すっかり理解したとでも言うように笑みを深めて何度も何度もうなずいた。
「わ、わかりゃいいんだよ、わかりゃ。さっさとあっち行けよ、ほら」
 妙な雰囲気を感じ取ったのかすこしトーンを落として言うと男はホームレス一歩手前を振り払うように手を動かした。
 ――もしかしたら……!
 加代がそう思ったのも束の間、ホームレス一歩手前はやけに元気な調子でその場にすっくと立ちあがった。笑ったままもう一度おおきくうなずき、その場でくるっと二人に背中を向ける。
 ――行かないで!
 声に出せずにそう叫んだ瞬間、ホームレス一歩手前はデイパックをおろして手に持ち振りむきざまに男の頭にぶちあてた。
「がっ!」
 不意をつかれた男は加代の脚の上からころがって芝生の上にあおむけに倒れた。
「てめえっ! この野郎――」
 叫びながら上体を起こそうとする男の頭にホームレス一歩手前は今度は真上からデイパックを落とした。どすんという鈍い音とともに男はふたたび倒れる。ホームレス一歩手前は加代の脚を飛び越えナイフを持つ手を踏みつけるとさらに何度か男の頭をデイパックで叩いた。
 その一部始終を加代は何が起きたのかよくわからないまま至近距離で見ていた。
 デイパックを背負いなおすとホームレス一歩手前はかがんで男の手から離れたナイフを拾いあげた。あぶなっかしそうにつまんだそれをあさっての方向へと投げ捨てる。そして加代に顔を向けるとあわてた様子で何度もうなずいた。
 意味するところを理解するまで数秒かかった。
 ――もう押さえられてない!
 あわてて立ちあがった。ホームレス一歩手前が手を伸ばして加代の手を取った。
 そのまま二人で一目散に逃げだした。
 どこをどう走ったのかまったくわからない。ただ夢中で先を急いだ。あの恐怖から遠ざかれるならどこだってよかった。遠ざかるためには走りつづけなければならなかった。
 やがてつかんだ手を引っ張る力に加代は我にかえった。
 振りかえると遅れてついてくるホームレス一歩手前が泣きそうな顔で加代を見ていた。
 はっとして立ちどまった。とたんに疲れがどっと押し寄せてきて、加代は手を離し曲げた膝に手をついて深呼吸をくりかえした。
 気づいてみると慣れないあたらしい靴のおかげでともすると立っていられなくなりそうなくらい足が痛くなっていた。いまにも崩れそうになる脚を必死で支えながらすこしずつ息を整え、加代は顔をあげてあたりを見まわした。
 目立ちはじめたネオンの光がいくつも目に入った。通りには多くの人たちがどこかせわしない様子で行き交っている。どうやら繁華街の端まで戻ってきたようだった。これなら万が一あの男が追いかけてきたとしても勝手なことはできないだろう、そう思って加代はすこしほっとした。
 そしたら今度は通りすぎる人たちの視線が気になりだした。
 心あたりはあった。忘れるはずがない。けどほんの何十秒かはそこまで頭がまわらなかった。おさまってきた息にもうひとつ深呼吸を加えると加代は体を伸ばして視線を転じた。
 すぐ隣のホームレス一歩手前は直前の加代とおんなじ姿勢で息をあえがせていた。
「あ、あの……大丈夫、ですか?」
 そう声をかけるとホームレス一歩手前は顔をあげた。荒い息のままぐるりとあたりを見まわす。そして視線を加代に戻すと疲れた顔に笑みを浮かべて右手を差しだした。
「……あ、あの?」
 加代の問いにホームレス一歩手前は手を上下に振った。握手を求められているらしかった。
「あ、ありがとうございました」
 頭を下げて加代はその手を握った。
 ホームレス一歩手前は手をぶんぶんとおおきく上下に動かした。動きを止め、加代の顔を見てにっと笑う。加代はつられて自分の顔もすこし笑ったような気がした。
 と、握る手の力がふっとゆるんだ。
 そのままホームレス一歩手前は全身から力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
「あ、あの――あの!」
 離れきらない手に引っぱられるようにして加代はかがみこんだ。ホームレス一歩手前の顔を上から覗きこむ。けれど体を丸めこむようにうつぶせに倒れているせいでその表情をよくうかがうことはできなかった。加代は肩をゆすろうと空いてるほうの手を伸ばした。
 指が触れようとした瞬間、ものすごい音が響いた。
 思わず手を引っこめた。そこに続けてもう一発。加代は真っ赤になってうつむいた。まるで自分の腹の虫が鳴ったように。通りすぎる人たちの笑い声が聞こえてきそうな気がした。
 しばらくそのままでいたが、ホームレス一歩手前はぴくりとも動こうとはしなかった。ときおり腹の虫を鳴かせる以外は。
 途方に暮れた加代はおそるおそる顔をあげてあたりを見まわした。
 その視線が一点で止まった。
 視線の先にあるものとホームレス一歩手前を見くらべ、すこしためらってから、まだつかんだままの手をそっと放した。えいやとばかりに立ちあがって駆けだす。途中で振りむくと道行く人々はホームレス一歩手前のまわりを避けるように遠巻きにして歩いていた。
 息を切らして戻ったときもホームレス一歩手前は同じ姿勢のままだった。
 ほっとして加代はさっきと同じようにかがみこんだ。空いてるほうの手を肩へと伸ばす。また腹の虫がなったが今度は引っこめたりはしなかった。
「あの――あのっ!」
 恥ずかしさをこらえながら声をかける。と、ようやくホームレス一歩手前は顔をすこしだけあげてとろんとした目を加代に向けた。
 その目の前に加代はコンビニの袋を突きだした。顔を赤くして、わずかにうつむいて。
 ホームレス一歩手前はがばっと跳ね起きてコンビニの袋をまじまじと見つめた。
2
 ――なにやってんだろ、あたし。
 背もたれのないちいさなまるい椅子に猫背になって座っているとどうしてもそんなふうに思わずにはいられなかった。
 隣の席ではホームレス一歩手前が丼の中身を直接胃に放りこむみたいにかきこんでいる。ちらりとその姿を見て、加代は自分の前にある空の丼に視線を転じた。
 空にしたのは加代ではない。ホームレス一歩手前だ。二人の前に同時に出された丼のうちひとつをあっというまに空にしてしまいなお物足りなさそうにしていたので、注文はしたものの手をつけかねていた加代は思わず自分の分を差しだしてしまったのだ。
 もちろんそのこと自体はなんでもなかった。なんでもなかったが――……
 ――なにやってんだろ、あたし。
 やっぱりそう思わずにはいられなかった。
 わざわざ遠路はるばる知らない街にやってきたというのに、危ないところを助けてもらったとはいえ見知らぬ得体の知れない男と二十四時間営業の丼屋に並んで座ることになろうとは、今朝家を出るときにはまったく予想だにしなかった。
 丼屋を選んだのはホームレス一歩手前だった。加代はもうすこしはいい店に入ろうと思ったのだ。いくらなんでもお礼がコンビニ弁当ひとつというのはあんまりだから。けれど一気に弁当をたいらげすこしだけ元気になったところをうながして立ちあがらせいっしょに歩きだしたホームレス一歩手前は最初に通りがかったこの店の前からてこでも動こうとしなくなってしまった。もうすこし別の店にしませんかと何度言ったかわからない。でもホームレス一歩手前はどうしても首を縦に振らず、とうとう加代は根負けしてこの店に入ってしまったのだった。
 ――なんだかなあ……
 そんな割り切れない思いは頭の中から消えそうになかった。加代はまた横目で隣を見た。
 ホームレス一歩手前はちょうどすっかりきれいにした二杯目の丼をテーブルに置くところだった。顔にはようやく満足げな表情が浮かんでいる。コンビニ弁当を食べはじめたときの鬼気迫る雰囲気を思いだして加代はすこしおかしくなった。人間というものは空腹が満たされただけでこうも変わるものだろうか、と。
 コップの水を飲み干すとホームレス一歩手前は深く息を吐きだした。
 それから席を降り、あらたまった様子で加代に向きなおると深々と頭を下げた。
「あ、いや、そんな、気にしないでください。助けてもらったのはあたしのほうなんですから」
 加代はあわてて両手を突きだしおおきく振る。と、ホームレス一歩手前は照れたような顔になって頭のうしろを掻いた。人なつっこいしぐさだった。
「――あの、あんなところで何してたんですか?」
 ついそんな問いが口をついて出た。
 ホームレス一歩手前はにこっと笑って両の掌をあわせた。左の頬にあて目を閉じて首を傾ける。すぐに目を開きはっとした顔になって左右を見まわすと上を向いて伸ばした両腕を上下に動かした。
「……寝ているところにあたしたちが来たから姿を隠そうと木の上に登った……?」
 いくらかあてずっぽうに言った加代の言葉にホームレス一歩手前はうれしそうにうなずいた。手を額にかざして下を見るをふりをし、あわてた顔をして素早くしゃがみこむ。
「……落ちたんですか?」
 立ちあがったホームレス一歩手前はなさけない感じで笑った。加代は思わず頭を下げた。
「――ごめんなさい!」
 ホームレス一歩手前は顔の前で手をぶんぶんと横に振った。椅子の足元においてあったデイパックを背負いなおし、加代によく見えるように横を向いて指差す。ぱんぱんにふくらんだデイパックはよく見るとけっこう痛んでいたが本人や身なりよりははるかにきちんと手入れされているようだった。
 そのままホームレス一歩手前はその場で歩くまねをした。笑みを浮かべて。
「……野宿で旅行しているから……気にならない?」
 ホームレス一歩手前は足を止めてひとつおおきくうなずいた。
 何のなぐさめにもならなかった。加代はうなだれて言った。
「……でも、あの……すみませんでした」
 ちょっとこまった顔になってデイパックをおろし、ホームレス一歩手前は加代の横に座りなおした。
 二人のあいだで沈黙が一休みした。
 ――なにやってんだろ、あたし。
「……あたしもですね、旅行で来たんですよ、この街」
 ふとそんな言葉が口から漏れた。
 そしたら止まらなくなった。
「知りあいがいるんです。この街に。って言っても会ったことないんですけど。
 インターネットで知りあって、ずーっとメールのやりとりしてて。すっごい感じのいい人で、コメントの書きこみやメールにはいっつも遅れずに返事してくれて、愚痴を書いても親身に受け答えしてくれて。そんなんじゃほんとのことなんてわからないのかもしれないけど、でもあたし、ずっと思ってたんです。ああ、いい人だな、って。
 いつのまにか、気がついたらその人とやりとりするのがいちばんの楽しみになってたんです。
 もちろん友だちと長電話したり集まってわいわいやるのも楽しかったんです。あいかわらず。でもみんな働くようになったら話題もいつのまにか微妙に変わってきちゃってて、気がついたら会社の愚痴や悪口をみんなで言いあうようになっちゃったりしてて。それはそれで大事なことだとは思うんですけど、でも最後にはため息しか出てこなくなっちゃったりして、悩みは打ち明けられるからたしかに心はすこし軽くなるんですけど、でもそれって気分がすっきりしたり晴れたりするのとはちょっと違って……
 あの人とはそんなことなかったんです……」
 そこまで言ったところではっとした。
「――ごめんなさい! 何一人でしゃべってるんだろ、あたし。こんな話、退屈ですよね?」
 急に恥ずかしくなってきて加代はおそるおそる上目づかいで隣を見た。
 それまでと違った真剣な、けれどやさしい表情で、ホームレス一歩手前は加代を見ていた。
 視線があうとゆっくりと首を横に振った。やわらかな雰囲気にすこし救われた気分になって、加代は顔をあげて息をついた。
 そしたらかえって言いづらくなった。
「……続き、聞きたいですか?」
 ホームレス一歩手前は表情を変えないでうなずいた。ほっとしたようなそうじゃないような複雑な気分を味わいながら加代はもう一度息をついた。
「……でもそれが、最近ちょっと変わってきてたんです。
 つまらないことなんです、ほんとに。メールの返事が遅れるようになって、言葉の数がすこし減って、なんだかはぐらかされたように感じることが多くなって。そんなことがしばらく続いて。
 それであるときあたし、ふと思ったんです。ああ、きっとあの人、彼女ができたんだ、って。だからあたしのことあんまり気にかけてくれなくなっちゃったんだ、って。
 そしたらなんだかいてもたってもいられなくなっちゃって……
 好きだとかそういうんじゃないんです。顔も見たことないのに、声も聞いたことないのに人を好きになれるようなタイプじゃないんです、あたし。でも今度は、今度だけは、一目でいいから姿を見ておかないと気持ちに区切りがつかないような気がして……」
 いつのまにかうつむいていた。加代はくすっと笑った、つもりだった。目に涙が浮かんでいるのが自分でもわかった。
「……馬鹿みたいですよね、あたし。だってあの人がどんな顔してるか知らないんですよ? それどころかどこに住んでるかもよくわからないんです。それなのにいままでのメールや書きこみからそれらしい場所を見つけだして、宿や電車の切符を予約して、一人旅なんてしたことないのに、休みを取って家を飛びだして……
 それで、あんな目にまであって……」
 あとは言葉が続かなかった。かわりに涙がぽろぽろとこぼれた。
 ぎゅっと目を閉じ、声をあげないようにして、加代は泣いた。膝の上で握りしめた拳の上に雫が落ちた。
 物音がとても遠くに感じられた。世界の中で自分がたった一人になってしまったような気分だった。
 と、肩にそっと手が触れた。硬いけれどやさしい感触の手が。
 加代は顔をあげた。
 涙ににじむ視界の向こうにホームレス一歩手前の微笑みが見えた。
 ちいさく笑い、加代はハンカチで涙をぬぐった。言葉が自然に口から漏れた。
「――ありがとう」
 ホームレス一歩手前は照れたように笑った。
 そして加代から手を離すと椅子から降りてデイパックを手にドアに一息で駆け寄った。
「――え? あの――」
 きょとんとして加代は声をかける。その言葉が届いたのかどうか、ホームレス一歩手前は振りかえると加代に向かって深々と頭を下げた。そのままうしろに下がってドアを開ける。頭をあげてバイバイという感じで手を振ると、店を出たとたん走ってどこかに行ってしまった。
 一人残された加代は椅子にぽつんと座ってホームレス一歩手前が遠ざかっていった軌跡をただ目で追いかけるばかりだった。
3
 ドアは重たげな音を立てて閉まった。
 ロックがかかっていることをたしかめ、なんとなくちいさくため息をついて、加代はホテルの廊下をエレベーターへと歩きだした。
 足どりは決して軽くはなかった。昨日の出来事にうしろから引っぱられているみたいな気分だった。
 ホームレス一歩手前がすこし軽くしてくれた心は置き去りにされたことで元に戻ってしまっていた。
 帰ってしまおうか――ホテルに戻ってきてから何度そう思ったかわからない。ユニットバスでシャワーを浴びながら、ベッドの上でなかなか寝つけず何度も寝返りをうちながら、バイキング形式の味のよくわからない朝食を一人黙々と食べながら。そのたびに気持ちは揺れ、けれど思いきってそうしてしまう踏んぎりはつかないまま、結局はじめの予定通りこうして部屋を出るところまで来てしまっていた。
 なんとなく流されて行動しているように思えて、それが加代の気分を沈ませていた。
 エレベーターに乗ってロビーに降りてもその気分は、あたりまえだが、変わらなかった。
 ――どうしよう?
 そんなふうにまだぐずぐずと考えながら加代はホテルを出た。
 うつむき加減の視界の端に写った姿に、思わず立ちどまって顔をあげた。
 ホテルの正面に立っていたホームレス一歩手前は加代を見て照れたような笑みを浮かべた。
「――あ、あの――どうしてここが――」
 疑問はうまく言葉にならなかった。小走りで駆け寄って加代はホームレス一歩手前をただ見つめた。
 笑みを浮かべたままホームレス一歩手前はひとつちいさくうなずいた。
 そして足元に置いてあったデイパックを背負いなおし歩きだした。すこし行ったところで振りむいて加代を手招きする。加代はあわてて後を追いかけ歩きだした。
「――あの、あたしのこと――あの、どうして――」
 横に並んではみたもののあいかわらず疑問はうまくまとまらなかった。とりあえず加代はいちばんたしかめなければならないことに意識を集中した。
「――あの、どこへ行くんですか?」
 横目で加代を見てホームレス一歩手前はいたずらっぽく笑った。歩きながら。わけがわからないまま、それでもホームレス一歩手前の様子や態度に拒むだけのものを見いだせず、加代はホームレス一歩手前に並んで歩いた。頭の中にいくつもの疑問を渦巻かせたまま。
 ようやくホームレス一歩手前が足を止めたのは住宅街の一角でだった。
 あたりにはアパートや敷地に余裕のない一軒家が所狭しと立ち並んでいた。道路は歩道がなく、おおきい車同士だとすれ違うのにこまりそうな幅。等間隔に並ぶ電柱が道幅をさらに狭めている。加代の生まれ育ったところや住んでいるところとさして違いのない景色だった。
「……あの……ここは?」
 すぐうしろに立ちどまった加代はホームレス一歩手前におそるおそる訊ねた。
 振りかえったホームレス一歩手前は信号のない交差点の向かい側を指さした。笑顔で。加代はその示す先を目で追った。
 小ぶりな二階建てのアパートがあった。元は明るい色だったろう外壁がすこしくすんでいる。外に張りだした廊下に並ぶドアと洗濯機から間取りがひかえめらしいこと、それほどあたらしくないだろうことが察せられた。
「……?」
 加代は視線をホームレス一歩手前に戻す。と、ホームレス一歩手前は指先を下に動かしいた。もう一度その先を追いかけると郵便受けのかたまりが見えた。
 言わんとするところがわかって加代は息を呑んだ。
「――そんな! だって、でも――」
 それ以上は驚きで言葉にならなかった。そんな加代の様子をホームレス一歩手前はおもしろそうに見ていた。
 気分がなんとかすこし落ちついたところで加代はあらためてホームレス一歩手前を見た。おおきく息を吸いこんでから口を開く。
「――どうしてわかったんですか? あたし、あの人の名前さえ言ってない」
 ホームレス一歩手前は首をひねった。いたずらっぽい笑顔を浮かべて。本気で答えようとしていないことはあきらかだった。
 加代は視線をアパートに戻した。
 思いがけない展開にどうしていいかわからなかった。
 もちろんありがたいと思う気持ちはあった。けれど余計なことをしてくれたという気持ちも同じくらいあった。心の準備くらいさせてくれないとこまる、そう言ってやろうかと思った。迷いはまだ消えてはいなかったから。
 そんなことを思って立ちつくしていたら背中を軽く叩かれた。
 振りむくとホームレス一歩手前はうなずいてもう一度アパートを指さした。
 なんて言っていいかわからず、加代はただこまった目でその顔を見かえした。
 なんで?とでも言うようにホームレス一歩手前は首をかしげた。
 何の疑問もないその様子に加代は息をぐっと詰まらせた。
 そう、ここまで来て迷う理由なんてあるはずがなかった。本当は。あるとすればこの街まで泊りがけでやってきた決意をなかったことにしたい自分の臆病さだけ……
 そう理解しながらなお、加代はその場から動くことができなかった。
 と、ホームレス一歩手前の視線が動いた。自分からそれた視線の先を加代ははっとして追いかけた。
 二階まんなかあたりの部屋の前で女の人がドアに鍵をかけていた。
 心臓が一度おおきく鼓動を打った。
 歩きだした女の人は階段を降りて道路に出た。加代たちが歩いてきたほうへ向かって大股で歩を進める。途中距離を置いてすれ違うときに不審げな視線を加代に送ってよこした。それで自分がずっと視線を離せないでいたことに気づき、加代はあわててあさってのほうに顔を向けた。気づいてみると空は比較的いい天気だった。
 そのまましばらくじっとしていた。
 そしたら袖を引っぱられた。視線を元に戻すと女の人はもうかなり遠くまで離れていた。
 加代は深く息を吐きだした。なさけなくて涙が出そうになった。
 ――ここまで来て何をためらっているんだろう?
 ふと気がつくとホームレス一歩手前が心配そうな目で加代を見ていた。
 無理に笑顔を作り、顔をアパートに向けた。
 このままじゃいけない、心底そう思った。この気持ちに終止符を打たないとここから一歩も先に進めない、と。
 加代は足を一歩前に踏みだした。
 ホームレス一歩手前がついてこないことはうしろを見なくてもわかった。そのほうがよかった。たしかにここまでものすごく助けてもらったけど、ここからはひとりでしなければならないことだったから。
 郵便受けのかたまりにまっすぐ向かい、その前で立ちどまった。それぞれの名札に目を走らせる。貼られていないものもあったので確認はすぐに済んだ。
 目的の名字はたしかにそこにあった。
 さっきとは違うしかたで胸がひとつ高鳴った。思わず空を見あげてほっとちいさく息をつく。位置からして出ていった女の人は関係ないらしいとわかって。
 あらためて部屋番号を確認し、二階だったので階段へと足を運んだ。
 ドアの前で足を止め、深く息を吸いこんだ。指を呼び鈴に伸ばし、
 やはりすぐには押せなかった。
 長いあいだだった気もするしすぐだった気もする。とにかく最後には指先がボタンに触れた。涼やかな音が軽く響いた。
 何も起きなかった。
 もう一度押し、今度はさっきより長く待った。
 何も起きなかった。
 三度目を押そうとして思いとどまった。約束もせず予定も知らずにやってきたのだ、都合よく部屋にいるとはかぎらない。いまごろになってそんな単純なことに気づいて加代は笑いそうになった。実際に出てきそうになったのは涙だったが。
 ほっとしたような気の抜けたような気分になって加代は肩を落とした。
 そのまましばらく立ちつくしたが、やはり何も起きなかった。
 いつまでもそうしていてもしかたがなかった。とりあえず出直そう、そう思ってドアの前を離れた。
 階段を降りたところで誰かとすれ違った。
 うつむいていたのですぐには気づかなかった。二、三歩進んだところではっとして振りかえった。
 階段を登っていく買い物袋を手にした女の人のうしろ姿が見えた。
 予感がした。加代は音を立てないよう気をつけて歩を早めた。
 ホームレス一歩手前は同じところに立って気遣わしげな不安げな目で加代を見ていた。その横で足を止めると加代は何も言わずに振りかえった。アパートの二階にじっと目を向ける。
 さっき階段を登っていった女の人がさっき加代がその前に立っていたドアの前に立って、
 ドアを開けて中に入っていった。
 頭が真っ白になった。
 立ちつくしたまま加代はアパートの閉ざされたドアをただ見つめた。
 肘のあたりをつかまれていることに気づくまでずいぶんかかった。
 気づいてもすぐには反応しなかった。ようやくぼんやりと顔を向けるとホームレス一歩手前と目があった。ホームレス一歩手前は心配そうな顔をしていた。
 ――やだ、そんな顔しないでください。
 そう言って笑おうとして失敗した。
 くしゃくしゃになった顔を隠すにはうつむいた顔を両手で覆うしかなかった。そのままの姿勢で加代は嗚咽した。そんな自分にとまどい手をつけかねてうろたえるもう一人の自分を意識しながら。
 肘のあたりをそっとつかんだままの手をずっと感じながら。
4
 考えてみればはっきりとわかったことなんて何ひとつなかった。はじめて会った男の人に連れまわされて一人合点しただけ。本当にそうかどうかなんてわかってない。
 でもそれでいいんだという気がした。大事なのは本当かどうかじゃない、自分で動いてみたこと、そして気持ちに決着をつけたこと。
 目が覚めたらそんな気分になっていた。
 我ながら意外だった。ベッドに横になるまでは、いや、横になってからも眠るまでは何度も寝返りを打ちながら、悲しみを反芻していたのだから。なのに身を起こしてベッドから出て、カーテンを開いて朝の光を室内に招きいれたら気にならなくなっていた。
 もしかしたらそれは一時の心の安らぎに過ぎないかもしれない。でもいまはそれを大事にしたかった。
 昨日は味のさっぱりわからなかった朝食も今日はおいしく味わって食べられた。満腹して満足し、部屋でテレビを見たりしてのんびり過ごしてから加代は荷物をまとめてチェックアウトした。
 ホテルを出たところで足を止めた。
 ホテルの正面に立っていたホームレス一歩手前は加代を見て照れたようなばつの悪いような笑みを浮かべた。
 加代は微笑んだ。予想していたわけではなかったけど意外でもなかった。
「おはようございます」
 言って頭を下げ、加代は歩きだした。どうして来たのかわかる気がしたから。
 想像どおりホームレス一歩手前は加代のすこし斜めうしろからついてきた。
 ――並んで歩けばいいのに。
 そう思ったけど口にはしなかった。声にしてしまうといまの雰囲気が壊れてしまうような気がしたから。
 そのまま駅に着くまで二人とも何も話さなかった。
 改札の前で振りかえるとホームレス一歩手前が自動販売機のほうに駆けていくところだった。さして待ちもしないで戻ってくる。加代のそばまで戻ってくると指先でつまんだ切符をかざして見せた。
 ――?
 内心問いを浮かべているあいだにホームレス一歩手前はさっさと改札を通って中に入った。振りむいて加代を手招きする。とりあえず笑いかえして加代も改札を通った。
 ――いっしょに行く気かしら?
 それも悪くない気がした。なんなら帰るんじゃなくて別のところに気の向くままに行ったっていい。ぜんぜん知らない街で二人でしばらく過ごすのだ。特に何を話すでもなく。
 ――でもまあやっぱり帰らないと。仕事もいつまでも休めないし。
 そんなことを考えながら加代はホームレス一歩手前を追って階段を登った。
 ホーム上に人影はまばらだった。それも当然で、片側には列車がもう止まっていた。始発なのか時間待ちなのか、まだ動きそうな感じはない。加代が帰るのとは逆方向の列車なのであわてることはなかった。
 ホームレス一歩手前は端のほうへとどんどん歩いた。男の人っていくつになっても端っこが好きなのかしら、などと思いながら加代はあとに続いた。
 と、ホームレス一歩手前はいきなり振りかえって加代を見た。
 にこっと笑って頭を深く下げた。
「――そんな! お礼を言わなきゃいけないのはあたしのほうです! だって、あの――」
 あわててそこまで言ったらそれ以上言葉が出てこなくなった。鼻の奥がつんとした。
 ――まずい!
 反射的に加代は頭を下げた。向こうよりもさらに深く。そしたら自然に言葉が出てきた。
「――ありがとうございました!」
 心の底からそう思った。
 発車を告げるベルが鳴って加代は頭をあげた。
 ホームレス一歩手前は笑顔で加代を見ていた。その手が、指がまっすぐ上に伸びる。
「――そら!」
 ホームレス一歩手前の指が指し示す先を加代は目で追いかけた。
 いままで見たことがないほど鮮やかな青空が広がっていた。
 美しさにただ見とれた。
 ドアの閉まる音にはっとして視線を戻すとホームレス一歩手前が消えていた。
 あわててあたりを見まわした。見つけたのは列車の中だった。窓際で笑顔を浮かべて加代に手を振っていた。
「――」
 なにかを言おうとして、けれど言葉が口から出てくる前に、列車は重たい音を立てて動きだした。
 つられて二、三歩よろめいた。窓の向こうのホームレス一歩手前が笑顔のまま指を空に向ける。その姿がすこしずつ遠ざかっていった。加代は足を止めて去っていく列車を見送った。
 見えなくなるまで見送った。
 それからふと空を見あげた。
 青空はさっきと変わらない鮮やかさで加代の頭上いっぱいに広がっていた。