シリンダーが半回転して主のいなくなった部屋の鍵を解いた。
借りものの鍵をポケットにつっこんでドアを開いた。こもった空気にすこし顔をしかめながら中に入る。ドアを閉めたぼくはその場であらためて部屋の中を見まわした。乱雑だった室内は見事にかたづけられていてとてもあいつの部屋とは思えなかった。
靴を脱いでそっと部屋にあがり、一角を占める机に近づいた。かつては本やらコピー用紙やら新聞やらの束に埋もれてかろうじてノートを広げられるくらいの余裕しかなかったその上もいまは整理されてきれいなものだった。よく似た別の机を前にしているようでぼくはなんとなく気分が落ちつかなかった。
足元にかばんを置き、椅子をひいて腰をおろした。
ひとりでに息が漏れた。
そのまましばらく他人のもののような机の上をなんとはなしにながめた。
重ねられた原稿用紙やレポート用紙、ケースにおさめられたフロッピーの量は想像以上だった。それは過去の乱雑さの中からでは決してわからない種類の情報だった。あいつ自身もよくはわかっていなかったのではないだろうか、そんな気がした。
真ん中に置かれたワープロの下にはさまれたメモ用紙に気づいたのはずいぶんたってからだった。
手に取るとまるっこい字がお願いしますと頭を下げていた。
あの娘はどんなことを想いながらこの部屋をかたづけたんだろう、ふとそんなことを想った。何を想いながら原稿の束をかたづけたんだろう、と。
このままずっと手をつけずにいたい自分に気づき、ぼくはメモ用紙を裏返して戻した。
ワープロの蓋を開いて電源を入れた。年代物の専用機だけどあつかいきれないほどの骨董品ではなかった。ぼくは手を伸ばして近くのフロッピーケースを手に取った。かつての室内を思わせるなぐり書きの字で書かれたラベルをざっと見ていちばん古そうな一枚を抜きだしワープロに挿しこむ。キーを叩いて並んだ文書のひとつを選ぶと白黒の液晶画面いっぱいに文字がずらっと並んだ。
あいつが逝ってしまってから二週間――今日が二度目の、そして本当の、弔問の日だった。
正直に云えばあいつの死の報せはそれほどぼくを驚かせなかった。
もちろんあいつの死を望んでいたわけではない。あいつだっていつこの世からいなくなってもおかしくないような重い病気をわずらっていたり一種の自殺志願者だったりしたわけではない。なのに共通の友人が電話であいつの交通事故を伝えてくれたときに脳裡にまっさきに浮かんだのは来るべきときが来たという奇妙に冷静な認識だった。
なんでそんなふうに思ったのかをわかってもらうのはむずかしいだろう。うまく説明できる自信はまったくない。もし言葉にできるならそもそもそんなふうには思わないだろう、ぼくが感じていたのはそういった種類の逆説だからだ。
あいつは、たぶんわかってくれたんじゃないかと思う。ぼくが先に死んでいたら同じように思ったかもしれない。一度だってそんな話をしたことはないけれど。
そう、たとえて云うなら、ぼくらは世界への在りかたが似ていたのだ。二人ともちいさなフックくらいしかひっかかりを持っていなかった。だからいつそのひっかかりがはずれてしまってもおかしくなかった。
あいつが先に逝ってしまったのは、だからぼくにしてみればたまたまに過ぎなかった。
*
あいつと知りあったのは大学で所属した研究室でだった。
どんなきっかけで話すようになったのかはおぼえてない。たぶん実験用具の受け渡しやたわいのない雑談といったところからだろう。向こうは目立つタイプではなかった。こっちはできるかぎりおとなしくしていることをこころがけていた。
当時のぼくはいまにさらに輪をかけて殻に閉じこもったような生きかたをしていた。他人の目にはたぶんただの三流私大生に映ったことと思う。それはまちがいじゃない。けどぼく自身の胸の奥には世界とうまくかかわれてないという違和感がいつもずっしりと沈んでいた。他人とうまく関係をとれてる気がしない、いわゆる世間一般の中に入れてる気がしない、世界の中に自分の居場所があると思えない――あとになって適応不全と呼ぶことにした、いまはなんとかいっしょにやっていくことをおぼえたさまざまな想いをそのころのぼくはもてあましていた。
そんな人間が自然な友だちづきあいなどできるわけがない。まわりのみんな、何の問題もなく生きているように見える普通の人たちとちゃんとコミュニケーションをとれている気がぼくはどうしてもしなかった。みんなもそれはわかったのだろう。孤立するようなことはなかったものの呑み会などではぼくは端のほうの邪魔にならない位置におさまるのが常だった。
あいつとの関係がそんなふうでなくなったのは夏休みが明けてすぐのころだった。
きっかけは図書館で見かけたことだった。暇つぶしに図書館へ行くことを習い性としていたぼくはその昼休みも特に用もないのに雑誌の書架のあいだをうろうろしていた。そうしてそろそろ食事にでも行こうかとその場から去りかけたとき、不意にあいつの姿が視界の端にひっかかった。
意外な場所にぼくは思わず足を止めてその姿を見つめた。純文学なんてものに興味があるような人間だとは思ってなかったから。
あいつは手にとった雑誌をぱらぱらとめくっていた。
その顔が不意に動いてぼくのほうに向いた。
ぼくに気づくとあいつはばつが悪いようなうざったいと思っているような強さと弱さがいりまじった表情を浮かべた。
その表情がめったなことでは顔を出さないぼくの好奇心を動かした。ぼくは雑誌を指さして訊いた。
「小説、好きなの?」
あいつは顔をしかめて視線を足元のほうにあいまいに落とした。
「わからない」
それはたわいない質問に対するもっとも誠実な答に思えた。
なりゆきでいっしょに食堂に行った。ぼくはB定食を食べながら、あいつはコーヒーを飲みながら、二人でぽつぽつと言葉をかわした。あまりもりあがらなかった。相手の懐をさぐるようなことばかり互いに訊いていたように思う。いま思えばぼくはいつも以上に慎重になっていたようだ。あいつも。
それでもいくつかわかったこともあった。特にあいつが小説に対して単に読むだけ以上の興味を持っていることがわかったのはおおきな収穫だった。
あいつの姿を見かけたときに足を止めたのはぼく自身の似姿を見たように思ったからだった。そうやって人の寄りつかない純文学雑誌なるものに目を通したことがぼくも何度かあったから。でもぼくの場合それは小説が好きだからとか文学に興味があるからといった理由からじゃなく単に表現の一手段としての小説にひっかかりをおぼえていたからに過ぎなかった。一人で自分の考えていることを表現するような手段はといえば小説くらいしか思いつかなかったのだ、そのころのぼくは。なさけないことに。
そんなことをぼくはつっかえながら話した。自分でも書いてみたいと思ってるんだ、くらいのことは言ってしまったかもしれない。そのころはまだ何もしてなかったのに。
それに対して言われた言葉はいまでも鮮明に記憶している。
「書く気があるならすぐにはじめないと駄目だと思うよ。いつ死ぬかわからないんだから」
結局はこの言葉にうながされて、ぼくは言葉をつづりはじめた。
あとでなにかのときに聞いた話ではあいつ自身もこの言葉を口にした瞬間ともかくやってみようと決意したのだそうだ。つまりぼくらは出会ったことで小説を書きはじめたのだ。それにどういう意味があるのかはよくわからないけど。
先に見せたのはぼくのほうだった。その年の冬だ。
とりあえずはじめてみてなんとかまとめてはみたものの、それをどうしたらいいかぼくにはまったくわからなかった。出来映えは自分でよくわかっているからなんとか新人賞に応募するなんてことは論外だった。かといって特に誰かに読ませたいという強い意志も持てなかった。まあ、要するにはずかしかったのだ。
となると残るのはひとつしかなかった。ぼくは半ば押しつけるようにしてあいつにコピーを渡した。
自分から無理強いしたくせにあいつから読んだよという言葉を聞いたときはその場から逃げだしたくなった。
「うまくないね」と眉をひそめてあいつは言った。「でも、かたちにしたのはすごいと思う」
いま思えばひどい言われかたをされたものだ。でもそのときはただうなずくしかなかった。その通りだったから。それに不細工ではあってもひとつのかたちあるものを生みだせたことはすくなからず自信になったし、そのことを評価してもらえたのは素直にうれしかった。
その気分を胸に抱きながらさあ次はどうしようかと考えているときだった。今度はあいつがぼくに作品を突きだしてきた。
文字どおりあいつはすれちがいざまに無愛想に紙袋を突きだしそのまま何も言わずに去っていった。茫然と立ちつくしてその背中をただ見送ったのをいまでもおぼえている。
原稿のほうもそんな雰囲気をよくあらわしていてレポート用紙に書き殴られた汚い字を読みとくのにはずいぶん苦労させられた。さほど長くない話なのに読み終えるまでたしか二日くらいかかったはずだ。
その後何度か顔をあわせたりすれちがったりしながら、あいつは決して自分からは感想を聞こうとはしなかった。そのころはもうそういう奴だとわかっていたからこっちもできるかぎり効果的なシチュエーションというのを頭をひねって考えた。考えすぎたあげく、結局は食堂でA定食を食べているところをつかまえて言ってやった。
「ぼくとはぜんぜん違うな。完成度はまだまだだけど、このまま進めばとんでもないとこまで行くと思う」
正直な感想だった。ぼくにはない種類の才能があいつの話からはたしかに感じられた。
ぼくの言葉にあいつは照れたようにすこし笑った。記憶に残っている数すくないあいつのうれしそうな顔のひとつだ。
向こうがどう思っていたかはわからない。けどこのときからぼくにとってあいつは目標になった。資質が違うから同じ方向に進むことはない。どうやったって無理だ。でも同じ水準を保つことができればきっといい線まで行けるはずだ。そう考えた。
あとになってぽろっとこんなことをこぼしたら志が低すぎるって笑われたけど。
最初の何作かはうまくいった。というか、かたちにするのにせいいっぱいで他のことを考える余裕がなかった。話になりそうなことを見つけ、はじめから終わりまでの道筋をつけ、メモしたり頭の中で組みたてたりしたデッサンをなぞって一本のはっきりとした輪郭を浮かびあがらせる――いまあらためて言葉にしてみるとたったこれだけのことかと思う。けど何もわからない当時はただやみくもに前進するしかなかった。作りかたの手順そのものを作りながら見いださなければならなかったのだ。
特に三作目がひどかった。出来も最低で、あいつにさえ見せずに捨ててしまった。もうこの世には存在しない。自分でもおぼろげにしかおぼえてない。
一人だったらきっと早々に投げだしていただろう。そうしなかったのはあいつがいたからだった。そんなによく会ってたわけではないけど会うとすこしは小説の話になって、お互い似たようなところで苦しんだりしていて笑いあったりした。小説を書くなんて本質的に孤独な作業、それも人にはなかなか口にできないことをわかってくれる他人がいるということはくじけそうになったときの支えになった。
そうやって何作か書いてみて小説というものがなんであるかおぼろげながらもわかってくると、今度は本質的な問題がぼくらの前に姿をあらわしてきた。
言葉の問題だ。
出発点において、ぼくは小説を表現の手段として選んだ。コミュニケーションのひとつの方法として、自分の思っていることを他人に伝えるために。でもいくつか経験を重ねて多少はさまになった作品を読み返してみると、逆にこれで何が伝えられるんだという疑問を感じるようになってしまったのだ。なるほどたしかにすこしはうまくなったかもしれない。でもだからどうだっていうんだろう? 何を云わんとしているのか、そもそも何を伝えたいのか。
結局のところそれは発語への不信だった、といまになって思う。他人とうまく言葉を交わせないぼくがその言葉によって何をあらわそうというのか。本当なら最初に考えておくべきこのことを意識せずにはじめてしまったためにぼくは自分自身が世界に向かって発したはずの言葉をうまく聞けない状態に陥ってしまったのだ。
事情はあいつも似たようなものだった。と思う。話したことがあるわけではないけど作品からはそう読みとれた。五本目まではある程度まっすぐうまくなっていたがその後は頭がつっかえそのまま伸び悩んでいるという感じだった。行間からあがくさまが浮かんでくるようにさえ思えた。
あがくという点に関してはあいつはぼくよりずっと真摯だった。どうにもうまくいかなくなってぼくが書くことを放り投げてしまってからもあいつは呻吟しながらなんとか前に進もうと努力を続けた。そもそものはじめにあいつがどう考えていたのかはわからない。けどそのころにははっきりと、あいつは作家(といっても職業としてではなく自分の満足できる作品を生みだすという意味で)になろうとしていた。
一度、ぼくがまだ書く意志を捨てられずにいたころ、自嘲してこんなふうに言ったことがある。
「いちばんいいのはさっさと死んじまうことだよな。そうすればどんなにへたくそでもみんな真剣に読んでくれる。なにがしかの意味を読みとろうとしてくれる」
あいつは言葉を切るのも待たずにぼくを上目づかいにぎろっとにらんだ。
「冗談じゃないね。生きてるあいだに伝わらなかったら、それこそ意味がない」
その目はとても険しかった。
気持ちは痛いほどよくわかった。
ぼくらは世界へのひっかかりをよりたしかにするために小説というフックを選んだ。だがフックそのものを疑わざるをえなくなったことでひっかかりは前よりかえって危うくなったのだ。
結局ぼくは書くことを放棄した。
ことなかれで大学を卒業し、世間並みに就職した。
まわりの人々と同じふりをすること、そうすることで居場所を失わないようにすること――それがぼくの択んだ道だった。
あいつはというと、就職活動すらせずに卒業した。
「一度ぎりぎりまで追いこまれてからどうするか考えるさ」
そういってあいつは食いつなぐためのバイトをしながら小説を書きつづけた。
容易ならざる道であったに違いない。見いだすにせよ造りあげるにせよ、書くための支えそのものをまずなんとかしなければならなかったのだから。本当に必要最小限しか働かなかったようだから時間は学生のときより自由になったろう。それでも生みだされる量は時と共に減っていったようだ。
ようだ、というのは最近はあまり連絡を取っていなかったからだ。もともと二人とも出無精で友だちづきあいもいいほうではない。同じ場所へ行くことがなくなり生活のパターンが違ってしまうと自然と連絡を取ることもあまりなくなってしまった。思いだしたようにかけたりかかってきたりする電話や季節の変わりめの手紙、それにあいつからは忘れたころにやってくるコピーの束。それらが互いの消息を伝える細いパイプだった。
不思議なことに電話や手紙から伝わってくる雰囲気からはあせりやいらだち、せっぱつまった感じなどをうかがうことはできなかった。むしろ呑気にさえ思えるほどだった。
もちろんあいつがどんな想いで書き続けていたかはわからない。いいかげんだったはずがないと信じてもいる。けれどそうやって生みだした作品が世間に認められるかどうかはあいつにとっては別の問題となっていったようだった。投稿している気配もなくインターネットなどで公開しようともしないとなれば結局はそういうことなのだろう。まわりや世間よりもなによりもまず自分が納得できるものを生みだせるかどうかがあいつにとってはいちばん大事なようだった。そのためなら一生だって費やしたのではないだろうか。自分の存在をしっかりと世界につなぎ止めることができたと確信できるまでは。
その想いを遂げることなく、志半ばにしてあいつは逝ってしまったのだった。
*
鍵を渡されたのは通夜の席でだった。
焼香の場で黒い四角い枠におさまったあいつの写真に向きあったときもぼくは落ちついていた。哀しくなかったわけではない。けど喪失感も含め、すべてはなるようにしてなったという感じだった。
思えばあいつと別れるときはいつもこれが最後かもしれないと心のどこかで考えていたような気がする。それが本当に現実になってしまった――云ってしまえばただそれだけのことだった。
それでもはじめて訪れたあいつの実家の門を出たときはしばらく茫然と立ちすくんだ。
声をかけられたのはそのときだった。
ふりむくと喪服の女性が立っていた。眼鏡をかけたその顔に見おぼえはなかったけどどことなく知っているという感じはあった。
たしかめるようにもう一度ぼくの名を呼ぶと女性は妹ですと言って頭を下げた。
そして、あいつの住んでいたアパートの鍵をぼくにさしだした。
「わたししか知らない兄の遺言です」と彼女は言った。「いえ、死ぬことを知っていて言い遺したわけではありませんからそう言うのはまちがっているかもしれません。でも兄がわたしにそう言伝てていたのは事実です。そのときは冗談だとしか思いませんでしたけれど、こうして現実になってみるとやはりお伝えしておいたほうがいいと思うんです」
こう前置きしてから彼女はあいつの遺言を告げた。
そして今日、ようやくぼくはあいつの遺志を遂げるためにアパートを訪れたのだった。
自分の作品はすべてこの世から失くしてしまうこと――それもぼくの手によって。あいつの妹はそうぼくに言った。
実行すべきかどうか最後まで迷った。一度生みだされた作品はもはや作者の所有物ではない、一個の独立した存在だ。ぼくはそう信じている。ましてや作者でもないこの身に作品を消してしまう権利などあるはずがない。そう、追悼として遺稿集をまとめることだってできるではないか――。二週間ぼくはずっとこのことを考えつづけた。
そうして悩んだあげく、結局は言葉通りにしようと決めた。
わざわざぼくの名をあげたのには理由があったに違いない。それが決心したいちばんの理由だった。そもそものはじまりを共にしたぼくに幕を引いてほしかったのかもしれない、そうも思った。
あいつが何を考えてそんなことを妹に言ったのかはもう知ることができない。だからぼくは自分をそう納得させることであいつとあいつの遺したものに向きあうことにしたのだ。
それにしても消すというのはこんなにもあっけないものか――ワープロのメニューから削除を選んで文書をひとつずつ減らしながらぼくはそう思わざるをえなかった。
もちろんもっと簡単に済ますことだってできた。フロッピーや紙の束を全部ゴミ袋につっこんで出してしまえばそれでよかったのだ。妹の手でずいぶん整理されていたからものの十分とかからなかっただろう。
しかしそれならぼくがする必要はなかった。
それがあいつの意に添うことだと信じて、ぼくは作品のひとつひとつに目を通してから削除したりゴミ袋につっこんだりした。
作品そのものに関しての感想はもう浮かんでこなかった。読んだことのないものが意外に多くあったのには驚かされたけどどれもこれも一定の水準は維持してるものの飛び抜けたところのないものばかりだった。
まるで自分のあわせ鏡を見ているような気がした。
つまりぼくらは世界に己を認めさせるための武器を決定的に欠いていたんだ――その単純な事実をいまさらながらに思い知らされた感があった。
――あいつはどこまでわかっていただろう?
紙の束を四つに裂きながらぼくは自問せざるをえなかった。
わかっていなかったはずがなかった。
にもかかわらずあいつは書くのをやめなかった。ぼくが避けた困難にずっと向きあいつづけた。
ぼくは顔をわずかにしかめながら紙を裂いた。
最後の作品を消去した瞬間、ひとりでにため息が漏れた。
外はすっかり暗くなっていた。
鍵は言われたとおりほこりのたまった牛乳受けにつっこんだ。残りは彼女が、あいつの妹がやるはずだった。
立ち去ろうとしてふと足を止め、ぼくはふりむいてドアを見つめた。
そこはもうぼくの知っていた部屋、あいつの住んでいた部屋ではなかった。
薄く曇った空の下、ぼくは帰途の足を速めた。
鍵を回してノブを引くと壁全体が鈍い音をたてた。
「あちゃちゃ」
思わずつぶやき、ぼくは鍵を挿しなおして反対側に回した。鍵をかけ忘れるなんてどうかしてる、そう思いながらあらためてドアを開ける。なんとなくばつが悪くてぼくは人目を気にするようにこそこそと中に入った。
灯かりをつけたぼくは目に入ってきた光景に一瞬体をこわばらせた。
部屋の様子がでかける前とどこか違っていた。
荒らされた形跡はなかった。記憶とおおきく異なる物どももなかった。だがたしかになにかが違っていた。住んでいる者にしかわからないような微妙さで、なにかが。
――泥棒……?
鍵がかかっていなかった事実にぼくは顔をしかめた。
瞬間、勘がはたらいた。
靴を脱ぎ部屋にあがると机に大股に近づきいちばん下の引きだしを乱暴に引いた。
中はからっぽになっていた。
しばらく茫然とその中身を見つめた。
続けてこみあげてくる発作的な笑いを抑えることができなかった。その場にかがみこんでぼくは笑いだした。おさまらない笑いに背中から倒れてあおむけに寝ころんだ。それでも笑いは止まらなかった。ぼくは大声で笑い続けた。しまいには涙があふれた。
――はじめからこれが狙いだったんだ、あの野郎。
笑いつかれて息を切らしながらそう思った。
これまで書いた作品すべてを詰めこんでおいた引きだしだった。
普通に考えればやったのはあいつの妹に違いなかった。なんらかの方法で合鍵を手に入れぼくに伝えなかった残りの遺言を自分自身で行った、そう考えるのが妥当だ。けど正直なところ誰がやったのかはどうでもよかった。むしろあいつ自身の亡霊が冥途のみやげに持っていってしまったのだと思うほうがいまの気分にフィットしていた。
あいつはぼくの中途半端な現在を道連れにしたのだ。
ぼくはおおきく息を吐きだして瞼を閉じた。
いたずらっぽく笑うあいつのまなざしが目に浮かんだ。
(まあそう急かすなよ)
声に出さずにそうつぶやいた。どうせはじめからやりなおしなんだ、あわてることはないだろう、と。
今度のことをどうやったらかたちにできるかぼくは考えはじめていた。
なんだかいままでの自分がからっぽになってしまったような満ち足りた気分だった。いまはもういないあいつにぼくは心の中で感謝と別れを告げた。
0
重く錆びついたドアを開けると冷たい風が吹きこんできた。体を震わせちぢこまらせながら泰男はドアをくぐりぬけて屋上に出た。
外はもうかなり暗くなっていた。曇りがちな空も夜に深く沈みこもうとしている。けれど人影を見わけることくらいはまだ充分できた。泰男は記憶よりも狭く感じる屋上をざっと見わたした。
相手は角に立っていた。背を向け、体を手すりにあずけて。泰男はほっと息をついて声をあげた。
「よおっ! ひさしぶり! 元気だった?」
背中は右手を軽くあげた。下を見おろしているらしい頭はふりむきもしなかった。
(変わってないな、ったく)
泰男は口元に苦笑を浮かべた。吹きぬけた風に思わず首をすくめてあたりを見まわす。
「なあ、どっか行こうぜ? やっぱまだ寒いわ。鍋でもつついてあったまりながらのんびり話すべ。な?」
応えはなかった。
「どうせ呑みに行くんだからどっか適当な店で待ちあわせしてもよかったのに。なんでまたこんなとこにしたんだ? なあ?」
泰男は視線を戻した。背中はあいかわらず下を見おろしていた。さすがにちょっとむっとした。
「おい、トモ――」
いらいらが声にあらわれた。泰男は大股に歩いて背中に近づいた。
あと数歩、というところで相手はふりむいた。
次の瞬間にはすぐ目の前に立っていた。頭ひとつ低いところから眼鏡の奥の瞳が泰男をじっと見つめていた。不意をつかれ泰男はわずかに身をすくめた。
追いかけるように伸ばされた手がその目をふさいだ。
「――!?」
文句を言おうと口を開きかけた瞬間、ちいさなつぶやきが耳に忍びこんだ。
「さよなら」
1
狭い玄関でじたばたして編みあげのブーツを脱ぐとようやく人心地ついた。
「あーあ、やれやれ」
立ちあがり、思いっきり背伸びして息を吐きだす。それからスリッパ立てのスリッパを足で床に落としつっかけるとボストンバッグもトートバッグも置きっぱなしのまま居間へ向かった。
「ただいまあ」
のんびりと言いながら顔を出すとダイニングに座っていた母といきなり目があった。
「美穂! あんたはもう、もうちょっとしゃんとした顔で帰ってこれんのかね、まったく」
美穂はしれっとした顔でまだちょっと早かった春物のコートを脱いだ。
「いーじゃない別にそれくらい、遠いところから帰ってきて疲れてるんだから」
「それとこれとは話が別。そうやっていっつもだらけた顔を見せてると結婚しても直らないんだからね」
(ほら来た)
内心身がまえつつ口調にはおくびも出さず美穂は応えた。
「あら、それなら心配ないわ。あたしは目下独り身ですしそれらしき相手もいませんし、予定もあてもその気もありませんから」
言葉を切ってにこっと微笑む。母は肩を落としてわずかにうつむき、なさけない顔を浮かべて息をついた。
「……ほんとにもう、あんたはねえ……友だちみーんな結婚したっちゅーに、まだそんなこと言うちょるかね」
「悪いけどみんなじゃないわよ、お母さん。東京組はまだ半分以上残ってるし、連絡ないってことはトモもナッキもまだだろうし」
母の向かいの椅子にコートをかけて腰を落ちつけ、美穂はテーブルの上に載っていたおせんべいに手を伸ばした。
つまんだおせんべいを口に入れようとして、母のきょとんとした顔に気づいた。
「トモって誰ね」
美穂は思わずちいさく声をたてて笑ってしまった。
「やだもうお母さん、もうボケがきてるの? ほら、あのトモよ、お隣に住んでた内藤さん家の。一回引っ越してったけど高校でまた同級生になった」
母はきょとんとした顔を変えなかった。
「知らないねえ。そんな子いたっけか」
美穂は表情を真顔に戻した。
「ちょっとお母さん、ふざけるのはやめてよ」
「ふざけてなんかないって。トモ、ねえ……内藤さん?」
母は首をひねって考えこむ。その真剣な様子に美穂は目元をやわらげた。
「ま、いいや。それよりお茶でも入れてくれない? 喉渇いちゃった」
その言葉に母は美穂をきっとにらみつけた。
「ほんとにもう、あんたって子は、親を顎で使うなんてどういう料簡かね、まったく」
ぶつぶつ言いながら、しかし決していやそうなそぶりは見せず、母は立ちあがってキッチンに向かった。その背中を美穂はすこし目を細めてながめた。
そして表情をわずかに曇らせた。
2
気がつくとエアポケットに落ちたみたいに一人になっていた。
微笑を浮かべたままちいさく息をつき、美穂は壁際へと優雅に歩いた。手に持つグラスを口元に運んですこし舐める。もうそれぞれを聞き分けることなんてとてもできないざわめきを心地よく感じながら美穂は壁を背にしてあらためてホールの中をながめわたした。
かつての同級生たちは皆晴れやかな笑顔を浮かべて楽しげに言葉を交わていた。右手側の奥では盛装した二人、蛍と暁が来る人来る人にあいさつをくりかえしている。その心から幸せそうな表情には見るだけで心あたたまるものがあった。
(長い春だったわねえ、しかし)
美穂は口元の笑みを深めた。
きっかけはこの二人の結婚だった。記念にパーティーをやりますという通知がめぐる中、誰かが卒業してからちょうど十年だしとつけ加えた。それで話は一気に盛りあがり、いっそのこといっしょに同窓会もやってしまおうということになるまではあっというまだった。そんなわけでかなり広い会場は新郎新婦の親族に友人、会社関係の同僚、そしてかつての松葉が丘高校三年D組の同級生たちで大盛況となっていた。
(立食パーティーで正解だわ、まったく)
くすっと笑い、ふたたび口をつけるとグラスは空になっていた。美穂は首をすこしかしげて次は何を呑もうか思案した。
その耳になつかしい野太い声が響いた。
「おやおや、こんなところで壁の花をしているのは誰かと思えば――」
美穂はぱっと隣をふりあおいだ。
「金原くん!」
金原泰男はにやにや笑いを浮かべてのぞきこむように美穂を見ていた。
「おひさしぶり、秋川さん」
二人はグラスをあわせた。澄んだ音が響いた。
「元気? いま何やってるの?」
「あいかわらず親父の下で働いてる。いつまでたっても半人前あつかいでさ、まいっちまうよ、まったく。そっちはどう?」
「こっちもあいかわらず。毎日毎日おんなじ仕事をずっとくりかえしてるわ。最近になってようやく仕事の中身がすこし変わってきたけど」
「へえ。まあもうずいぶん長いもんな。それも当然か」
訳知り顔でそう言うと泰男はすぐに表情をにやにや笑いに戻した。
「で、どうなの? 結婚退職の予定のほうは。めったにこっちに帰ってこない、連絡よこさないってことは向こうにいいやつがいるんだろ?」
「うっさいわね。そんなのないわよ」
そっぽを向いて美穂は不機嫌な顔を作ってみせる。泰男は頭を低くしてその横顔をのぞきこんだ。
「ほんとか? ほんとは上司と不倫でもしててやめられないんじゃないのか?」
美穂は泰男を横目できっとにらんでみせた。
「あんたねえ、オヤジ週刊誌の読みすぎじゃないの? そんなテレビドラマみたいな話なんてそうころがってるもんじゃないのよ」
「なんだ、すこしは期待してたんじゃないか」
「ほんと言うと、ちょっとね」
表情をやわらげ美穂はちろっと舌を出す。二人は声をあげて笑った。
ひとしきり笑ってすこし落ちつくと美穂は替えのグラスを取りにカウンターバーへと歩きだした。
「ほんとたのむぜ、おい。美穂の結婚式でスピーチするのが俺の長年の夢なんだからさあ」
言いながらついてくる泰男に美穂は肩をすくめた。
「うっさいわね、あんたなんかにたのむわけないでしょ。何言いだすかわかったもんじゃないんだから」
「おうよ、あることないことしゃべりまくってやるぜ。そこがいいんじゃないか、結婚式のスピーチなんて」
「それは違うって、悪いけど」
ワインのグラスを手に取り、美穂はくるりとふりかえった。
「そうねえ、あたしとしてはあんたよりもトモにしゃべらせたいわね。いったいどんな顔をして何を話すものやら――」
笑みを浮かべグラスを口元に運ぼうとして美穂は動きを止めた。
泰男はきょとんとして美穂を見つめていた。
「誰だ? それ」
「――来てない?」
美穂はあたりを見まわした。そういえばたしかにまだ顔を見ていない。
そんな美穂の様子に泰男はからかうような笑みを浮かべた。
「おいおい、よしてくれよ、まだボケるような歳じゃないだろ? 今日集まってるのは松葉が丘高校三年D組の同窓生たちだぜ? 中学だか小学校だかのクラスメイトは来てないって」
そう言って泰男は水割りの入ったグラスを口につけた。
美穂は息を飲んでその顔を見つめた。
その視線に泰男はグラスを口から離して美穂を見た。真剣な表情で、目元に気づかわしげな色を浮かべて。
「なあ……大丈夫か? 疲れてんるじゃないのか?」
応えようとして、美穂はうまく言葉を出すことができなかった。
奇妙に気づまりな沈黙が二人のあいだに横たわった。
「ねえねえ見て、二人だけで見つめあっちゃって、何話てんのかしら、ほら」
「あらほんと。いつまでたっても仲いいのね、まったく」
からかうようなその言葉に美穂と泰男はいっしょに視線を転じた。
カウンターバーの前で並んで立った香と緑がいたずらっぽい顔をして二人を見ていた。美穂と目のあった香が手に取ったばかりのグラスを目の高さにかかげる。
「よおお二方、おひさしぶり。そっちこそなんだい、あいかわらずくっついてちょろちょろ動きまわってるの? 駄目だよもういい大人なんだからいーかげん自立しないと」
顔に笑みを戻して泰男は楽しげに言う。緑はカウンターに手を伸ばしながら澄ました顔で応えた。
「あら、いーじゃない別に、ずいぶんひさしぶりに会ったんだから。こんなときくらい昔に戻って楽しませてよ」
「そうそう、普段は子育てで目がまわるくらいいそがしいんだからすこしくらいの息抜きは大目にみてほしいわ。金原くんみたいに奥さんほったらかして遊びまわるわけにはいかないんだから」
香の言葉に泰男は顔をしかめた。
「おいおい、人聞きの悪いこと言わないでくれよ。誰よ、そんな根も葉もない噂を流してるのは」
「あらまあしらばっくれて。もしかして金原くん、その筋じゃ自分が有名人だってことわかってないの?」
「ねえねえそれってどんな話? 聞かせて聞かせて!」
好奇心丸出しの顔になって美穂は身を乗りだす。泰男は今度はあわてた表情に顔を変えた。
「ちょ、ちょっと待てって、な? おい、そーゆー余計なことには興味持たなくていいから、な? おい、おまえらも余計なこと話すなよ、な? な?」
「さあて、どうしようかなー」
顔を横に向け、目だけで泰男を見て香は言った。口元に浮かぶ笑みは親しげで楽しげだった。
「さて、皆様、ご歓談中とは思いますが、ここで新郎新婦の友人代表より一言ずつお祝いの言葉を――」
3
蛍光灯の光が部屋の中を冷たく照らしだした。
おぼつかない足どりでふらふらとベッドに近づき、美穂はすとんと腰をおろした。タクシーに乗る前に買ったペットボトルのウーロン茶を口を開けて二口三口飲む。ふうっと息をつき、蓋を閉めて足元に置いた。
そのまま上半身をベッドに横に倒し、なんとなく部屋の中を見まわした。
人生の半分以上を寝起きしてすごした部屋は十年たったいまもあのころの姿をとどめていた。
たしかになつかしいその様子が、けれどいまはどことなくよそよそしく感じられた。
(今日はお風呂に入らないで寝てしまおう)
そう心に決めると美穂は体を起こし立ちあがって服を脱ぎはじめた。
話してさわいでたくさん飲んで、ずいぶん酔っていた。心地よく疲れてもいた。なのに頭の片隅がしんとして冴えていた。ひとりになったいま、その部分がしだいにおおきくなるのを美穂はなんとはなしに感じていた。
パジャマに着替え終わって布団をかぶるころにはそれは端的なひとつの疑問になっていた。
(――どうしちゃったんだろう?)
美穂は目を閉じた。
瞼の裏にトモの顔が浮かんだ。
トモは――内藤友彦はとうとう姿をあらわさなかった。
そのこと自体は気にしてなかった。十年目の同窓会で全員がそろうなんて期待するほうがどうかしてる。実際今日も四分の一くらいは来てなかったはずだ。その一人一人の理由をいちいち詮索してもしょうがない。話ができなくてさびしかったが、しょうがない。
気になるのは彼の不在に対する皆の反応だった。
それはあまりに徹底していてかえって不自然なくらいだった。誰もトモがいないことに触れはしなかったのだから。美穂とトモの仲のよさは誰もが認めていたはずなのに。
それどころか、トモの話題自体出てくる気配がまったく感じられなかった。二次会でも、そのあとのカラオケでも。
まるで内藤友彦というクラスメートがはじめから存在していなかったかのように。
美穂はつむる目に力をこめた。
話しながら、笑いながら、何度も訊こうと思った。でもそのたびに結局言いだすことができなかった。泰男にさえももう一度は訊くことはできなかった。
誰も答えてくれない気がして。誰もおぼえていると言ってくれないような気がして。母親のように。泰男のように。
(――でも……)
美穂は寝がえりを打った。
トモはまちがいなく存在していた。美穂の人生の重要な一部を占めて。
4
いつ出会ったのかなんておぼえてない。物心ついたときはいつも二人でいた。そんなふうにして二人は育った。
トモは泣き虫だった。ちょっとからかわれるとすぐむきになって反撃しようとし、いつも最後には声をあげて泣きだした。二人で遊んでいたころは美穂がもっぱら泣かせ役だった。けれどもっとたくさんで遊ぶようになったら美穂はかばう立場になった。いまになって思えばまるで姉と弟のような関係だった。
でもそれも小学校に入るまでだった。教室などで男女がグループに分かれるころになると二人のあいだにも自然と距離ができるようになっていた。
トモがいなくなることを知ったのは小学四年の二学期も半ばを過ぎたころだった。テレビを見終えて部屋に眠りに行こうとする美穂に母がなんでもないことのように声をかけた。
「そうそう、お隣の内藤さんね、今度の日曜にお引っ越しするんだって。ちゃんとトモちゃんにお別れ言いなさいね」
寝ぼけまなこが一気に冴えたのをおぼえている。
「えーっ!? なんで!? ねえ、なんで、なんで!?」
問い詰める美穂に、けれど母も父も理由をきちんと説明しようとはしなかった。口をにごすばかりの態度の裏に感じられるオトナの事情に美穂も強く追求することはできなかった。しぶしぶとベッドに入った美穂はお隣さんがいなくなった光景を想像しようとしてみたがうまくいかなかった。
次の日、学校から帰ってくると玄関の前にトモが立っていた。
美穂に気がつくとトモは声をあげようと口を開いた。けれど言葉は出てこなかった。そのままうつむくトモに美穂はゆっくりと近づき、すぐ目の前で足を止めた。
うつむいているとトモの背は美穂より頭ふたつくらいちいさかった。そのつむじのあたりを美穂はだまって見おろした。
どれくらいそうしていただろう。やがてぽつんとつぶやくようにトモが言った。
「……うち……ひっこすんだって……」
「……うん」
なんて言っていいかわからず、美穂はただそう答えた。
その目の前に、トモは右手を差しだした。
美穂はその手を両手で握りしめた。
すこしのあいだ二人はそのままじっとしていた。
そしてトモは泣きだした。それまで見たことのない静かな泣きかただった。
どうしていいかわからず、美穂はただそのままじっとしていた。
トモは長いあいだ静かに涙を流しつづけた。
5
鬱々とまどろんでいると着メロが部屋中に鳴り響いた。あわてて飛び起ると美穂は机の上に放りだしてあった携帯電話を手に取った。
「もしもし……香? おはよう! え? うん、ちょっとね。えへへ……いやー、のんびりできる数少ない機会だし。
えっ? いやまあそりゃそうだけど、ちょっとそんな言いかたはないんじゃない? あたしだって楽に年休取ってるわけじゃ……ほんと!? いいじゃない、それ! 行く行く! うん……うん……OKOK、わかるわかる。え? うっさいわね、余計なお世話よ……はいはい、じゃまたあとでね。はーい、じゃ!」
上機嫌で電話を切ると美穂はにんまりと笑い、それから着替えをかかえておおあわてでお風呂場へと急いだ。
集まったのは全部で十一人だった。その中には昨日いなかった真紀と和代の顔もあり、女だけという気安さもあって話はおおいに盛りあがった。ファミリーレストランの一角をわがもの顔で占め、席とドリンクバーのあいだを何度も行き来するうちに外はいつのまにか暗くなりはじめていた。
昔に戻ったような楽しい時間に終わりを告げたのは緑の言葉だった。
「――いけない、もうこんな時間! 帰って夕ご飯の支度しなくっちゃ!」
とたんに席の空気が落ちつかなくなった。
あわただしく帰っていく既婚組を見送るともう話を続ける雰囲気ではなくなっていた。それでもしばらくは言葉を交わしつづけたが、それもやがて途切れがちになり、最後には妙に重苦しい沈黙が席を支配するようになっていた。
「……出ようか……」
誰からともなくそうつぶやきが漏れ、美穂たちは席を立った。
「ごめん、あたしちょっと用あるから」
店を出たところで皆にそう声をかけ、美穂は一人反対方向へと歩きだした。
6
再会したのは入学式でだった。
同じ中学だった友だちたちときゃあきゃあ言いながら掲示された入学者一覧でクラスをたしかめ、さあ教室へ行こうかと歩きだしたとたん、その姿はまるで不意打ちのように瞳に飛びこんできた。
そのたたずまいはいまでもくっきりと脳裡に焼きついている――たくさんの初々しい制服姿が行き交う中、トモはまるで他に誰もいないみたいにたった一人ぽつんと立っていた。
最後に顔を見てからもう何年もたっていたのに、幼いころの面影はもうほとんど残ってなかったのに、どうして一目でわかったのか、わからない。けれどあっと思ったときには美穂はもう声をあげていた。
「――トモ!」
その言葉に、まるで一時停止を解かれたみたいにトモは首をめぐらせて美穂に顔を向けた。
一瞬遅れてその顔に見おぼえのあるきょとんとした表情が浮かんだ。
「……ミーくん?」
「やっぱり、トモだ!」
ふたたび声をあげ、友だちたちを置き去りにして美穂はトモに走りよった。待っていたのはなつかしい笑顔だった。
後になって美穂は何度もこの場面を思いかえした。そしてそのたびにどうしてもたったひとつ思いだせない表情が残った。ふりむいたトモが自分の名を呼ぶ前の一瞬に浮かべていた表情だけはどうしても思いだすことができなかった。
7
用などなかった。ただ一人になりたかった。
街は夕闇に沈みはじめていた。
(まるでいまのあたしみたいだ……)
ふと、そんなことを思った。
緑の一言は痛かった。たぶん本人は何の気なしに言ったのだろう。だからこそ、余計に、痛かった。
あの魔法のように楽しかった日々はもう二度と戻ってこないのだ――当の仲間の口からそうはっきりと宣言されたような気分だった。
そんなことを思いながらあてもなく歩いていると街もそれまでとは違って見えた。
ぱっと見は何の変哲もない地方都市だ。昔の面影そのままのように見える。でも意識しだすといやでも古さとあたらしさが目についた。酒屋だった角の店はコンビニに姿を変え、古臭い自転車屋のシャッターは閉じたまま、あの道の奥にはけばけばしい貸しビデオの看板――……
(変わってくんだ……なんでも)
美穂は目を伏せて息をついた。
ひとりだけ世界から取り残されたような気分だった。
自分が悪いことはよくわかっていた。泰男にも言われたことだ。でも決着がつくまではどうしても自分から過去をたぐりよせる気にはなれなかった。都会での生活が望んでいたかたちを成すまでは。
(けれど結局あの人はあたしの傍らにいっしょにたたずんではくれなかった……)
美穂はもう一度息をつき、
ふと足を止めて顔をあげた。
高校の帰りによく通った道だった。商店街のすこし裏になっていて、信号がないので待たされずに歩けた。かつておおきな声でさわぎながら通り抜けたその両側には普通の家と中途半端な高さのビルが変わらぬ様子で不規則に並んでいる。
そのうちのひとつ、道の向かい側のビルを美穂は見ていた。
見おぼえのあるビルだった。記憶に残る姿よりすこし薄汚れていたが、たしかにまちがいない。その屋上のあたりを美穂は見た。じっと見つめた。
そして意を決して駆けだし車道を横切った。
見つめていたその場所から誰かに見られたような気がした。
裏のドアは記憶どおりの場所にあった。息を落ちつかせるために短く深呼吸してからドアノブを握る。ドアは抵抗もなく開いた。美穂はそっと中をのぞき込んで様子をうかがった。
蛍光灯がむきだしのコンクリートの壁と階段をぼんやりと照らしだしていた。
中に入ってそっとドアを閉め、音をたてないよう気をつけながら美穂は静かに階段をのぼりはじめた。
前にものぼったことのある階段だった。
そのときは一人じゃなかった。トモに泰男、それにたしか和代がいたはずだ。季節はたしか同じころ。高校の帰り道、突然泰男が夕陽を見たいと言いだして皆で屋上にのぼれるビルを探したのだ。いくつものビルに挑戦したあげくとうとう最後にどのドアにも鍵のかかっていないこのビルにたどりついたのだが、地平線を見わたしたときにはもう日はすっかり暮れていた。達成感と失望が奇妙に入り混じったヘンな気持ちでぶつぶつ言いながら階段を降りたのをおぼえている。
その屋上から、誰かが自分を見ていた。
美穂には一人しか考えられなかった。
屋上へのドアは閉まっていた。その前に立って足を止め、美穂は深く息を吸いこんだ。ノブをつかみ、ひねろうとして、わずかにためらいをおぼえる。けれどノブはあまりに軽く回り、ドアは苦もなく開いた。
出ると藍色の空が視界いっぱいに広がった。
狭い屋上に人影は見あたらなかった。
(――やっぱり気のせいか……)
落胆に肩を落としかけ、
背後に人の気配を感じた。
ふりむこうとして、
「動かないで」
その言葉に美穂は射すくめられたように動けなくなった。
8
印象的な再会を果たしたにもかかわらず、その後話をする機会はなかなか訪れなかった。
クラスがいっしょだったら絶対違った。でもいくら同じ高校とはいえ同じ授業を受ける機会さえないくらいクラスが離れていると顔を見る機会さえ実はあまりなかったりした。たまにすれ違ったりしたときもどちらかが用事があったりしてゆっくりしてはいられなかった。
そしてなによりも美穂はいそがしかった。あたらしい生活に目をまわしたり部活であちこち駆けまわっているうちに月日はあっというまに一年近く過ぎ去っていた。
運がめぐってきたのは高二の春だ。もう友だちたちとさわぐこともなく、一人でクラス替えの掲示をたしかめていたら、ぼそっとつぶやくような声がうしろから聞こえた。
「いっしょだ」
ふりむくとトモが立っていた。
頭ひとつ低い位置から美穂の顔を見あげたトモは照れくさそうな笑みを浮かべて言った。
「二年間よろしく、秋川さん」
トモの呼びかたが「秋川さん」から「美穂」に変わるまでにはそう長い時間はかからなかった。
それは楽しかった二年間の思い出の大切な一部だ。美穂とトモは幼なじみではなく高校生の友だちの仲になり、そのまわりには愉快な仲間たちがいた。ときにはいやなことや傷ついたこともあったが、全体としては冗談を言い笑いあう素敵な毎日だった。試験や受験のプレッシャーをものともせず、どれだけみんなで遊びまわったことか。あんな幸福な日々はもう二度と来ない、美穂はそんなふうにさえ思っている。
けれどそんな日々に棘のように刺さった出来事を、美穂はいまも忘れることができない。
高三の一学期も終わりのころだった。放課後、図書室に寄っていた美穂は帰ろうとして忘れものに気づきもう一度教室に戻った。誰もいない教室はさびしげで、美穂はなんだか去りがたくなって窓辺にたたずんで外の景色をながめた。
そうやって思うのはやはり将来のことだった。
部活はすこし前に引退していた。志望する大学も絞りこみ、あとは受験勉強まっしぐら、そういう時期だ。夏期講習の申しこみも済んでいる。けれど……
卒業すること、近い将来いまの生活が変わるということを、美穂はまだいまひとつ実感としてとらえることができなかった。
(そりゃあいつまでも高校生のままでいられるわけはないに決まってるけど……)
そう思いながら、それでも友だちたちと離ればなれになってしまうということがどうしてもピンとこなかった。
「――あれ?」
突然のその声に美穂は我にかえってふりかえった。
教室に入ってきたトモは美穂を見ながら自分の机に近づいてた。
「どうしたのさ? こんな時間に一人で」
なんとなく見られたくないところを見られたような気がして美穂は視線を逸らした。
「そっちこそどーしたのよ、帰宅部がこんな時間まで」
「図書室で本読んでたら閉館時間だって追い出されてさ。で帰ろうと思ったら忘れもの思いだして」
「……ふうん」
トモ、いたっけ? 見なかったような気がするけど。そう思いながら、けれど訊いてみる気にもならず、美穂はそれだけ言った。
それでなんとなく会話は途切れた。
すこし間があってから声が聞こえた。
「元気ないね」
「そんなことないよ」
そう応えた声はたしかに力がなかった。
それでまた言葉は途切れた。
やがて静かな足音が聞こえた。
ああ、トモらしい気の使いかただな、そう思った。自分から手をさしのべるのではなく、でも助けを求められたらすぐに応じられる距離で待つ。助けが必要なさそうであればあとはその人自身にまかせる。積極的に手を貸そうとする美穂や泰男とは正反対のそのやりかたが仲間を支える力のおおきなひとつになっていることを美穂はわかっていた。
そこでひとつの疑問が浮かび、美穂は視線を教室に戻して声をあげた。
「トモ!」
ドアのところで足を止め、トモは肩越しにふりむいて美穂を見た。
「――トモってさ、こまったりしたときって誰に相談してるの? やっぱり金原くんあたり? もう親になんかそんな話しないでしょ? ねえ、どう?」
そこまで一気に言い、その勢いにわれながらきょとんとして、美穂はトモを見つめた。
そんな美穂の様子にトモはあっけにとられた感じで二、三度まばたいた。
そして口元を引き締めると視線をすっと横に逸らした。
「相談なんてしないよ。誰にも」
「――なんで?」
思いがけない答に考えるより先に言葉が出た。
と、トモは横目でちらっとだけ美穂を見て、すぐに顔を隠すように顔の向きを元に戻した。
「……話したって、誰にもわかってもらえるはずがないから」
そして声をかける間もなくドアを開けて出ていった。
追いかけようとした美穂の動きは音をたてて閉ざされたドアによってさえぎられた。腰を浮かしかけ、口を開きかけたままで、美穂は強い拒絶にただ立ちつくした。
きっとこのときトモはあの思いだせない表情をしていたにちがいない――美穂はそう信じている。
9
ひさしぶりに聞く声だった。
聞いたことのない声だった。
その昏い調子は飛びだそうとした言葉を喉につかえさせた。唾を飲み、何度かまばたきしてから、美穂はなんとか息を吐きだした。
続きの言葉が聞こえてきたのはそれからすこししてからだった。
「来るんじゃないかと思ってた……
来なければいいと思っていた」
あえぐように呼吸をし、ようやく美穂は口にする言葉を見つけだした。
「なにやってんのさ? トモ。こんなところでひとりさびしく」
軽い調子で言おうとして失敗した。いやになるくらいかすれてうわずった声だった。
答はなかった。
美穂は待った。息はしだいにおおきく深くなり、なのに心臓の鼓動はいよいよ速まった。
だが答はなかった。
「そうだ、昨日はどうしたのさ? みんな集まったのに。蛍はすごくきれいだったし暁もすごい幸せそうだったよ。来ればよかったのに」
美穂は目を閉じた。
「――そんなに大事な用があったの?」
答はなかった。
たまりかねてふりむこうとしたそのとき、制するように言葉が耳を打った。
「知らない人のパーティーに顔を出すわけにはいかないよ」
さびしげな、自嘲するような声だった。美穂は胸が締めつけられるような思いでやっと言葉を絞りだした。
「……何言ってんのさ」
「事実を。ぼくのことを知ってるのはもう美穂――秋川さんだけだよ。
それも、今日で終わりだ」
目を閉じたまま美穂は息をおおきく吸いこんだ。
「何言ってんの? トモ。言ってることがわからないよ。トモのこと知ってるのはあたしだけってどういうこと? そんなわけないじゃない。泰男だってカッちゃんだってシンだって香だって――」
「知らなかっただろ?」
美穂は息を詰まらせた。
「――トモ! あんた――」
それ以上言葉を続けることはできなかった。
トモの言葉もそこで途切れた。
沈黙が、すこしのあいだ、続いた。夜はさらにその色を濃くした。
先に口を開いたのは美穂だった。
「あたしは信じないわよ、トモ。そんな――自分のことを忘れさせることができるだなんて」
「違うさ。そうじゃない」
トモの声に疲れがにじんだ。美穂は泣きたくなった。いま美穂のうしろに立っているトモは美穂の知らないトモだった。
「……ぼくは、はじめから存在していなかったんだ。だからぼくがやっているのは記憶の消去じゃない。誤った痕跡の掃除に過ぎないんだ」
美穂は笑い声をあげた。乾いたその声はちっとも楽しそうには聞こえなかった。
「いいかげんにしてよ、トモ。いったいどうしちゃったの? わけわかんないよ。どうしていまごろになってそんなこと言うの? あんたずっとあたしたちといっしょにいたじゃない。いっしょに笑ってたじゃない。つまらなかったなんて言わせないよ。あたしたちみんな友だちとして仲良くしてたんだから!」
叫びはすっかり暗くなった空に拡散して消えた。
戻ってきた静けさに忍びこむようにトモの声が耳に届いた。
「あの二年には感謝してるよ――感謝すべきなんだと思う。すくなくともあのときあの場所にいたみんなはぼくの存在を認めてくれてた。それだけは、たしかに、まちがいない。
でも、それだけだ。
誰も、ぼくを、ぼくとしては認めてくれなかった――
もう、限界なんだ」
美穂は背筋が凍るのを感じた――トモの声に、口調に、言葉に。
幼なじみがはじめて明かした孤独と絶望の表明に。
「――なんでいまごろになってそんなこと言うのよっ!?」
叫んだつもりの言葉に、しかし力はなかった。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらそれでも美穂は言葉を絞りだした。
「そんなことあんたがひとりで勝手に思ってるだけじゃない! そんなの誰だってすこしは思ってることじゃない! あたしたちみんなトモのこと好きだったじゃない! なんであんたひとりだけそんなことでそんなことまで思いつめなきゃいけないのよ! なんであんただけ――」
涙が声を詰まらせた。美穂は鼻水をすすりあげた。
その耳に、ぽつんと、つぶやきが聞こえた。
「……ごめん」
はっとして美穂はふりむいた。そこに自分の知っているトモがいるような気がして。あのどうしても思いだせない顔をしたトモではなく引っ越しの日にただ静かに涙を流していたトモがいるような気がして。
たしかめる前に両目は掌でふさがれた。
「さよなら――ミーくん」
0
目覚めると外はよく晴れていた。
パジャマのままあくびをしながら居間に入っていくと洗いものをしている母にきっとにらみつけられた。
「まったくもう、あんたったら本当にだらしがないんだから」
「いーじゃない今日ぐらい、明日からまたまじめなお勤めの日々がはじまるんだから」
まだまだもの言いたげな母の視線を悠然と無視し、美穂は新聞を床に広げた。
「指定席は取ってあるの?」
「ありまーす。それぐらいは用心するって」
テレビ欄から順に斜め読みしてページをめくる。地方面を開いたところで自分と同じ年齢が目に入り、美穂はそのベタ記事にざっと目を通した。
男性飛び降り自殺
昨夜午後八時過ぎ、S市M町五丁目の路上で男性が頭から血を流しているのを通行人が発見し警察に通報した。男性は病院に運ばれたがすでに死亡していた。所持品などから男性は会社員内藤友彦さん(28)。警察ではビルの屋上から飛び降り自殺したものとして捜査を進めている。
美穂はちょっと顔をしかめた。
(誰かの知りあいじゃなきゃいいんだけど……)
「ねえ美穂、お野菜いくつか余ってるのがあるんだけど、どれか持って帰る?」
「えーっ。いーよそんな、荷物になってたいへんだもん」
応えながら美穂は新聞をめくった。
1
呼び輪を鳴らすとドアは待ちかねていたように開いた。
顔を見せた姉は私を認めるとほっとしたようなかえって不安になったような複雑な表情を浮かべた。
「――いらっしゃい。よく来てくれたわね」
手土産を渡し、私は玄関に入って靴を脱いだ。
「親父は?」
そう訊くと姉は視線を二階のほうへと泳がせた。
「さて、じゃあまずは挨拶にうかがうとするかな」
努めてなんでもない風を装って言ったつもりだった。が、やはりそうは聞こえなかったらしい。姉はわずかに顔をこわばらせた。私は見なかったふりをして鞄を持ったまま二階への階段を登った。
寝室の襖は開いたままだった。敷居の前で足を止め、私は膝をついて腰をおろした。
父は文机の前に正座してペンを動かしていた。横顔をこちらに向けもせずに。
「武か」
視線をそらすそぶりすら見せずにそれだけ言った。
「ご無沙汰」
私もそれだけ言うとあとは黙って何事かを書きつづける父の姿をただながめた。
姿勢のよさはあいかわらずだった。短く刈った髪も老眼鏡をかけた顔もこのあいだ見たときとそうおおきく違っているようには思えない。しかしよく見ると髪は薄くなったように感じられたし、老いの気配も前に会ったときよりも確実に強くなっていた。
しばらく二人ともそのまま無言で過ごした。
やがて父がちいさく息をついた。手を動かしたまま。
「……なさけないもんだ。絶対にこんなみっともない真似はせんと誓っておったのに」
「自然の摂理には逆らえないさ」
言いながら私は鞄を開いた。おおきめの紙袋を取り出し、上半身だけを部屋に入れて手を伸ばし文机の脇に置く。父は目だけをぎろっと動かして袋を一瞥した。
「まったく、気に触る倅だな、お前は」
「土産だよ。この様子なら無駄にはならないだろ。足りなくなったらまた来るさ」
言って立ちあがる。と、ようやく父は手を止め顔をあげて私を見あげた。
「帰るか」
「ああ。とりあえず様子を見に来ただけだから。そのうちまた来るよ」
「来なくていいぞ。今日の調子で気分を乱されたんじゃかなわん」
私は肩をすくめた。次に見たときには父はもう視線を文机の上に戻していた。もう一度肩をすくめ、私は部屋を離れた。
「……まだ半年もたってないのにねえ」
湯飲みを私の前に置き自分も向かいの席に腰を落ちつけると姉は深いため息をついた。
「まあどうにもならないことだからね」
とりあえずそう言い、私は熱いお茶をすすった。その予感があったからいっしょに住むことにしたんじゃないか、とはやはり言えなかった。母を亡くしてからかたくなに独居を守りつづけた父がいまになって娘夫婦の世話になることにした理由は、しかしあらためて考えてみると他に思い浮かばなかった。
そのまましばらく二人とも黙ってお茶を飲んだ。
やがて姉がぽつりと言った。
「……親孝行らしいことしようと思ったんだけどねえ」
私は何も言わなかった。気持ちはわからないでもないが私自身はまだとてもそんなふうには思えなかった。
「……それにしてもねえ……」
目を伏せたまま言い、姉はため息をついた。
私はお茶を飲み干してそっと立ちあがった。姉はぱっと顔をあげて不安げな目で私を見た。
「もう帰るのかい? ご飯でもいっしょに食べていったらいいじゃないか」
「いや、今日は仕事のついでに寄っただけだから。あの調子ならまだしばらく大丈夫だろう。また来るよ、折をみて」
私の言葉に姉は納得したようなしないようなあいまいな感じでうなずいた。私は鞄を持ちあげて玄関へと向かった。
2
呼び鈴を鳴らしてからドアが開くまですこし間があった。
開いた隙間から顔を出したのは義兄だった。義兄は私の顔を認めるとぎこちない笑顔を浮かべた。
「やあ、いらっしゃい」
それからためらうように何度か口を開け閉めして、ようやく続けた。
「……ちょっと、遅かったよ」
「――そう」
つぶやいて目を伏せた。どんな顔をしていいかわからなくて。
そのまますこしのあいだ立ちつくした。
「……まあ、ここにこうしているのもなんだから」
義兄にそう言われ、私は靴を脱いで二階へとあがった。
階段を登りきると襖を開けたままの寝室の端に座る姉の背中が目に入った。ふりむいた姉は力のない目で私を見ると座ったまま体をずらして入口をあけてくれた。
敷居の手前で立ち止まり、私は部屋の中央を見おろした。
布団の上には灰白色の立派な繭ができていた。
気のせいか枕のまわりの繭はまだできたばかりで湿っているように見えた。
「待ってたんだよ。おまえが来るのを。首まで繭におおわれてしまってもまだ、『武はまだか』、ってね……」
私の視線に気づいて姉は言った。
私はただちいさくうなずいた。
しばらくそのままでいた。
やがて来るまでに気になっていた言葉が自動的に口をついて出た。
「準備、しないとね」
「そんな、武君、気をつかわないで。着いたばかりなんだからすこし休むといい」
うしろからの義兄の声に応じるように姉は立ちあがった。
「そうよ、武。あたしたちでできることはまずやるから。それよりもすこしお父さんといてあげて」
私を押しのけるように部屋を出て姉は私の肩を押した。力なんてまったくこもってなかったのに私はされるままに部屋に入った。ふたつの足音が階段を降りてちいさくなり、消えた。
私はあらためて繭を見おろした。
それから喪服の入ったガーメントケースと身のまわりの品を詰めたバッグを置き、力なくその場に座りこんだ。
そしてただぼんやりと繭をながめた。
いざとなればやはりいろいろ思うところもあるだろう、ずっと漠然とそう思ってきていたのだが、いざ現実となって直面してみると何も思い浮かばなかった。ただなにかが欠落した感触があるばかりだった。あつれきの数々を思いかえしてみても、残るのはその欠落の感触だけだった。
――……取り残された、ってことなのか?
目を閉じ私は首を横に振った。認めたくなかった。だがしかし、そのことについてあれこれ言いあう相手はもうこの世にいなかった……
しばらく放心していたらしい。気がつくと部屋の中は薄暗くなっていた。いつまでも厚意に甘えてぼうっとしてはいられない。私は立ちあがった。
部屋を出ようとしたところで文机が目にとまり、思わず足を止めた。
隅にかたづけられたその机の脇には紙の束はひとつも残っていなかった。
喜ぶべきことのように思えた。満足すべきことのようにも。だが心は動かなかった。意思に反して、動かなかった。
寝室に背を向け、私は階下へと降りた。
3
業者の手伝いをしているうちに時間はあっという間に過ぎていった。
六曜の都合で翌日通夜、翌々日に告別式となったため時間の余裕はほとんどなかった。なのにしなければならないことは山のようにあり、しかもそのどれもがはじめてのことばかりで手際よくさばくことはとてもできなかった。そうするあいだには連絡を受けてやってきた親族たちの相手もしなければならなかった。文字通り目のまわるようないそがしさだった。
そのおかげでしばらくのあいだ父のことを考えなくて済んだ。
一度伯母の一人に引き戻された以外は。
「まあ、こんなに立派な繭を作っちゃってねえ」
そう言った伯母の口調には、しかしなぜか無念とくやしさがにじみだしていた。
背後に立っていたのでそのときどんな表情をしていたのかはわからない。けれど私の心にその光景は斜め前から見たものとして焼きついた。
式そのものはつつがなく進行した。
通夜にも告別式にもたくさんの人が足を運んでくれた。妙なものでなんとなくほっとした。無宗教献花の式自体もほとんどの人が父らしいと思ってくれたようでこれも安心した。
そう思ったのはやはりかなり気が張りつめていたせいだろう。火葬場で棺が釜に収められるまで私はそのことをすっかり失念していた。
いったん気がついてからはそのことで頭がいっぱいになった。
なにがどんなかたちで姿をあらわすのか一刻も早く知りたかった。しかし同時にそんなふうに考えている自分に内心おおきくうろたえていた。いままで気にしたことなどなかったのになんでいまさら、と。すっかり落ちつかなくなった私はまわりの不信げな目も気にしていられなくなった。
やがて係の人が待合室にやってきて終わりを告げた。
私たちは連れだって炉へと歩いた。なるべくうしろになるようにしたのだがやはり前に出ないわけにはいかなかった。姉と二人並んで皆の前に立った私は息を深く吸いこんで引きだされた釜の中に目を凝らした。
骨のかけらの間、薄く積もった灰の中央が薄く盛りあがっていた。
姉が先に一歩前に出た。一礼して脇に置いてあった箸を持つ。続いて前に出た私は同じく脇に置いてあった盆を胸の前に持った。
姉はぎこちない手つきで中央の盛りあがりのふちに箸を刺し、灰に隠れていた本を取りあげて私の持つ盆に乗せた。
私は目を疑った。
表紙には私の名しか書かれていなかった。
4
さんざん迷った。読む前にも迷ったし、読んでからはもっと迷った。
そしてやはり誰にも見せないことにしようと決めた。
人に見せられないようなことが書かれていたわけではない。その点では父は徹底していた。腹に隠し持っていた想いを父は誰にも知らせずに文字通り墓の下にまで持ちこむつもりでいたに違いなかった。
そして、信じられないことにそれに成功していた。
つまり私の名だけが表紙にあらわれたことに意味などないのだった。
無論深読みならいくらでもできる。見せることにしたら皆よろこんでそうするだろう。いや、見せなければ見せないのでそうするのだ。ならどちらでも同じことではないか。
言い訳に過ぎないと百も承知で、私はそう理屈をつけた。
姉夫婦は納得したようだった。親類縁者の中には不満げな様子をうかがわせる者もいたが文句を言わせる隙は与えなかった。私に残されたものを私が好きにして何が悪い?――すくなくとも表面上はそういう顔をして私は事を進めた。
航路の選択にもすこし迷った。
やはりある程度の時間の余裕は欲しかった。それにできれば明るいあいだ洋上にいる時間が長いほうがいい。あまりたびたび港に寄るのも人目につきやすくなるのでよろしくない。そういうふうに考えていくと選択の幅は狭められはするのだが、それでもまだ目移りする程度には残った。
結局決め手になったのは休みと便の都合だった。少々情けなくはあったものの考えてみれば特にこだわりがあるというわけでもなかった。むしろ気がつくと好奇心のほうが強くなっていて、チケットを手配し終えたときにはすこし浮かれている自分にあらためて気づき思わず苦笑を漏らしたほどだった。
その好奇心に応えるかのように、水平線からあらわれようとする太陽は漠然と想像するよりずっと美しかった。
窓越しにその光景をながめていた私はふとわれに返るとあわてて袋を手にして船室を出た。
船尾の甲板には幸い他に人影はなかった。ほっと息をつき、端に寄って手すりに肘をあずけると私はもう一度息をついた。
足元のずっと下では泡だった潮水が後方遠くまでずっと続いて流れていた。
しばらくその流れをずっとながめた。
それから太陽に向きなおり、背筋を伸ばして袋の口を開いた。
本は旅に出る前に細かくばらばらにちぎってあった。手をつっこんでそれをつかみ……
しばらくそのままでいた。
感傷だ、父ならきっとそう言っただろう。そのとおりだと思う。しかしそうとわかっていてなお、ふんぎりをつけるのには多大な意志の力を要した。
やがてついに手を引き抜き、私はかつて父だった本の切れぎれの断片を空に投げ捨てた。
紙切れは風に舞って船尾へと流れ、そのうちに海に触れて沈み見えなくなった。
私は袋を逆さにしてゆすり残っていた紙切れを追いだした。一度おおきなかたまりがごそっと落ちるとあとはいくつかがちらほらと落ちて流れていくばかりだった。
激しくゆすっても何も出てこなくなったので手をつっこんで残りをかきだした。
そして空になった袋を両腕で胸に抱きしめ、そのまましばらく呆けた。
――何をやってきたんだろうな、俺たちは。
ふと、そんな言葉がぽかんとした心に浮かんだ。
そして気づいた――父の死を覚悟してからずっと、そのことを考えながら考えないようにしてきたことに。
答はすぐには出そうになかった。
――そんな簡単に出てたまるか。
そんなことを思い、思わず苦笑した。
一生をかけてきた父との格闘の意味がそう簡単にすっきりと腑に落ちるとは思えなかったし、また、そうしたくもなかった。
「……時間はあるさ」
声に出してそうつぶやき、空をあおいで息を吐いた。
陽射しは次第に強さを増してきていた。港に着くまでにはまだかなりある。すこし横になろう、そう考えて私は船室へと歩きだした。