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Other side of everyday life #2

Contents:

  1. 想いはセピアに溶けて
  2. 風花
  3. 残りもの
  4. 季節変わるとき

想いはセピアに溶けて

 その写真館は、商店街のはずれの角にあった。
 そう、写真屋じゃない、写真館だ。店の名前がどうだったかはおぼえてないけど、そう呼ばないとぴったりこない。それくらい、それは古めかしい建物だった。外に面しているのは写真立ての並ぶショーウィンドウと、なぜか簡単には開きそうに思えない木製の枠の頑丈そうな扉のみ。木の枠にはめこまれているのは店の名前が印刷されたガラスだったけど、下半分はすりガラス、透明な上半分の向こう側はいつもカーテンで隠されていて、内側の店の様子が見えたことはなかった。扉が開いているところを見たことも、記憶にあるかぎり、一度もない。
 小学校三年まで住んでいた街のその写真館のことをおぼえていたのは、けれど、いま思いだすと不気味にも神秘的にも感じられるその建物のせいではなかった。
 たしかに子供のころのぼくは、いや、ぼくたちはみんな、不思議なものや未知のものに焦がれていた。焦がれてはいたけれど、その対象としての写真館は、商店街のはずれとはいえ明るいところにありすぎた。威圧感をともなう不気味なその建物に、ぼくはむしろ医者と同じような嫌悪を感じとって自分からはあまり近づかなかったという気がする。それよりもぼくたちの遊び場はまだ近くに残っていた雑木林の暗がりやそこそこの広さの原っぱ、それに橋の下にこっそり作った秘密基地だったりした。
 記憶にある写真館は、そういったこととはまったく関係なかった。
 ぼくにとってのその写真館は、思いだすかぎり、いつもふりかえって見るものだった。商店街に入っていくときのことはまったく記憶にない。いつも遊びに行ったりプラモデルを買おうとしたりする前で頭がいっぱいだったせいかもしれない。とにかく夕暮れの帰り道、横断歩道をわたりきったとき、あるいはその前、ふと気になってうしろをふりかえる――それが、ぼくと写真館の接点だった。
 そうして見る写真館のショーウィンドウには、いつもかならず決まった一枚の写真が微笑んでいた。
 和服を着た、上品な感じの女の人の写真だった。水彩画のような淡いふわっとした感じの撮りかたで、年齢の印象が薄いのはそのせいではないかと思う。細かいところはあやふやだけど、やや斜めに置かれた椅子に座っていて、その顔がまっすぐ正面を向いていたことだけはおぼえている。それと、きれいな女だといつも子供心に考えていたことも。
 他の写真についてはまったく印象がなかった。もしかしたら定期的に並べかえられていたのかもしれない。だけどそれなら、その女の人の写真だっていつも飾られていたわけじゃないはずだ。それに同じ人が撮った写真なら他にいいと思ったものがあってもおかしくない。なのに、ぼくがおぼえているのはたった一枚、微笑む女の人の写真、それだけだった。
 写真館とそのショーウィンドウに飾られた女の人の写真は、その街の思い出の片隅にいつもなぜかしっかりとあった。

 大学への通学途中に昔住んでいた街が含まれていたのは、単なる偶然だった。
 なにしろその街とのつきあいはもうまったくなかったのだ。引っ越していま住んでいる場所はその街から電車で一時間ほどしか離れていなかったけど、あたらしい友だちはすぐに遠くなった友だちたちのことをなつかしまなくていいようにしてくれた。気楽に行き来できるほどのこづかいをもらってもいなかった。それでも何度か手紙のやりとりはしたけれど、小学校を卒業するころにはいつしかそれも忘れ、高校に入るころにはすでにぼんやりしたいい思い出になっていた。結局、引っ越してからは一度も訪れたことはなかった。
 試験を受けに行くときや発表を見に行くときにその街の駅を通りすぎても、特になんということはなかった。そりゃあなつかしい場面のいくつかが脳裡をよぎったりはした。だけどそんなものは眼前のプレッシャーにとっては邪魔物以外の何物でもない。ぼくはあわててふりはらったものだ。それじゃあ帰り道はというと、ほとんど脱力状態でなんにも考えていないうちに通りすぎてしまった、というのが正直なところだ。
 なんとか入学が決まって週の大半の朝夕に通りすぎるようになっても、事情はあまり変わらなかった。なにしろ大学一回生、昔のことを考えるよりもいまを追いかけることのほうがたいへんだった。やりたいこと、しなければならないことは無限に思えるほどたくさんあり、それらひとつひとつに忙殺されるうちにいつか時間は過ぎていった。

 だから、途中下車して昔住んでいた街を歩いてみようなんて考えついたのは、単なる気まぐれのせいなんだと思う。
 条件はいくつかあった。学期末の試験が午前中で終わり、バイトもなくて午後はまるまるあいていたこと。すでにキャンパスは閑散としていて知りあいの誰にも会わなかったこと。サークルの部室にも鍵がかかっていたこと。とりあえず明日からしばらくは大学に行かなくてもいいこと、などなど。
 よーするに、ヒマだったのだ。
 加えて、その日の天気がバツグンによかったことも理由のひとつだった。電車の窓から見あげても、空はきれいに澄みわたっていた。こんな日にまっすぐ家に帰るなんてもったいないなあ、なんてことを考えながらぼくはぼんやりと外をながめていた。
 ちょうどそのとき、車内放送がいつも通りすぎていた駅の名前を告げた。その一言が、ぼくをホームへと押しだした。
 降りてはみたものの、しかしぼくはまだすこしためらっていた。こんなかたちで生まれ育った街に来るのはなんだかばつが悪いなあ、という感じだ。それとも、もしかしたら予感だったのかもしれない。
 その一瞬の迷いは、電車がドアを閉めて走り去っていったことで断ち切られた。ぼくは息をついてホームを改札口へと歩いた。
 違うな、そうはじめて感じたのは改札を出て階段を下り駅前のちいさな広場の光景を十年ぶりに目にしたときだった。
 はじめは、ぼんやりとした記憶とほとんど同じ構図にむしろびっくりした。けれどすぐに違和感がそれに取ってかわった。理由はすぐに飲みこめた。建物は同じでも店が違うし、店が同じでも古ぼけていたり改装されてあたらしくなっていたりしていたのだ。考えてみれば当然のことだ、ぼくが目にしたのは十年前と似て異なる光景だったのだから。
 それでもぼくは、しばらく体を景色に慣らすように立ちつくさなければならなかった。
 歩きだしても違和感はなくならなかった。強くなりもしなかった。思い出のそれとそっくり同じようでいて、けれど確実に異なっている風景。瞳に映るそれは、ぼくにたったひとつのことだけをくりかえし告げていた――ここはもうおまえの育った街ではないんだ、と。そんな尻のあたりがむずむずするような感覚に軽いめまいをおぼえながら、ぼくは街を歩いた。
 違いにばかり目がいっていたので、変わらないものにはすぐには気がつかなかった。
 ふりかえったのは横断歩道を三分の二ほど渡ったところでだった。昔と同じ信号のない横断歩道の上でぼくはしばし立ちつくし、それから車が近づいてくるのにもかまわず商店街へと走って戻った。そして、軽く息をつきながら目の前の建物を見つめた。鼓動が速まっているのは駆けたせいばかりではなかった。
 写真館は、昔のままの姿でそこに立っていた。
 いや、落ちついて見てみるとさすがに昔のままとは云いかねた。過ぎ去った年月のぶんだけ老朽化は確実に進み、いっそう古びた感じを強くかもしだしているように思えた。もっとも昔のままだと感じるぼくの記憶そのものが古ぼけているのだ。はたしてどこまでそういっていいものか、本当のところは自分でもよくわかっていなかった。
 にもかかわらず。その写真館は昔のままだ――そうぼくははっきりと感じていた。
 なぜだろう? 完全に通りすぎてしまうまで、ぼくは写真館のことなど思い浮かべもしなかったというのに。首をひねるようにしてぼくは視線を転じ、
 そのまま息をのんだ。
 視線はくぎづけになったままびくともしなかった。
 記憶の底に埋もれていた思い出がはっきりとあざやかによみがえった。その映像が目の前の光景に重なり、もう一度、ぼくは息をのみこんだ。
 ぼくの視線を支配したのはショーウィンドウに並べられていた写真立てのうちのひとつだった。他のものよりも二回りほどおおきいそれは、一連のディスプレイの中でいちばん目立つように置かれていた。
 そしてそのフレームの中では、記憶にあるのと同じ和服の女の人がぼくに向かって微笑んでいた。
 ――ぼくに向かって?
 その馬鹿げた考えに、ぼくはぎゅっと目を閉じて二、三度首を横にふった。そんなことがあるわけがない。彼女が笑顔を向けているのは十年以上も、ことによったら何十年も前のカメラに対してだ。その目線が、いまたまたまぼくのほうに向けられているように感じられるだけ。そうだろう? 変わってしまった街に変わらないものを見つけたから、かえってびっくりしてしまったんだ。さわぐほどのことじゃない。
 そう自分に言いきかせると、すこし落ちつきが取りもどせた。ぼくはゆっくりと息を吐きだし、目を開いた。
 そして、写真館の扉がすこしだけ開いていることに気がついた。
 すくなくともこの点に関しては、昔のままとは云えなかった。だけど実際に開いた戸口を目のあたりにしても、この写真館が営業しているとは信じられなかった。なにしろ人が住んでいることさえ想像できないような建物なのだ。いまどき誰がわざわざこんな店を利用しようと思う?
 けれど、その隙間はぼくを惹きつけた。電車を降りたときと同じように、なにかがそっとぼくの背中を押した。
 音を立てないように注意しながら、隙間を人が通れるくらいに大きくした。そこから頭だけを入れて、ぼくは中の様子をうかがった。
 意外なことに、中はとても明るかった。外からながめていたときには気づかなかったけど、よほど外の光をうまく取りいれているのだろう。照明はまったくついていないのに、光があふれているとさえ言いたくなるほどだった。吹きこんだ風が、浮かんだほこりをかき乱す。
 明るさに目が慣れてみると、中はやはり外見に負けないほど年期が入っているように見えた。壁や天井はどことなくくすみ、何の匂いか、すえた匂いがかすかにただよっている。それでも不思議と古びた感じはしなかった。むしろ清潔な印象さえ受けた。光のせいだろうか?
 そんなことを考えていたそのとき、奥のほうでぱたぱたと音がした。
「お客さん? どうぞ、お入りになって」
 聞こえてきたのは、女の人の落ちついた声だった。
 反射的に身を引きかけた。なんとなくのぞき見がばれたようでうしろめたかった。それに、そもそも入る理由は何もなかった。写真屋にも用はない。
 だけど、ぼくは引きかえさなかった。
 理由はたぶん、隙間をのぞいたのと同じ好奇心だった。まさかそんなことはありえないとわかっている。けど、ぼくは声の主を一目見てみたかった。
 玄関に完全に入ると、うしろ手に扉を閉めた。古い店らしく、あがるには靴を脱いでスリッパにはきかえなければならなかった。してみると医者みたいだという昔の印象はあながち間違いじゃなかったことになる。
 きれいに並べられたスリッパのひとつにはきかえると、ぼくは短い廊下を奥へと進んで広い部屋に入った。部屋の中は廊下よりももっと明るかった。ぼくは声の主の姿をさがして首をめぐらせた。
 そのままの姿勢で、たぶんぼくは三十秒はただ絶句していたと思う。
 そのあいだ、声の主は微笑したままただ黙ってぼくを見ていた。
 陽光に浮かぶ和服を着たその姿は、ショーウィンドウに飾られている写真そのままだった。いや、あたりまえのことながら、まったく色褪せていないだけ、印象はさらに鮮やかだった。しかし――目の前の光景は、本当に現実なんだろうか?
 どのくらいそうしていただろう。時間の感覚をすっかり失くしてしまっていたぼくの瞳の中で、やがて、彼女の口元がゆっくりと動いた。
「それで、ご用は?」
「えっ? あっ、そうですね、えーと……」
 われにかえったぼくは、ごまかすように彼女から視線をそらしてカウンター全体をながめた。
 床が板張り、壁が漆喰で塗られていることなど、建物の造りが古いことをのぞけば普通の写真屋と変わりないようだった。壁の棚にはフィルムの箱がつみ重ねられ、まわりにはたくさんのプリント見本が張られている。チューリップ畑や子供が写っているそれらの写真はどれも明るすぎて室内の雰囲気に似あっていなかった。もっとも、それを云うならカウンターやフィルムなど今風の写真屋の体裁を整えているものすべてが建物全体から浮いた存在だった。
 彼女は違った。あきらかに、建物の側に属していた。
 ちらりと目を向けると、彼女はまだぼくを見つめていた。ぼくは必死になって言うべき言葉をさがし、ついにそれを見つけた。
「……証明写真を撮ってほしいんですけど」
 たしかに、合宿免許に行く予定を立てていたためにいずれは必要になるものではあった。しかしそれにふさわしい姿をしているとはとても言えないこともまた事実だった。彼女があらわしたかすかな困惑の表情を、だから、ぼくは当然のものとして受けとめた。
 彼女の表情の意味は、けれどぼくが想像していたものとはまったく違っていたようだった。
「あら、でも……よろしいんですか?」
 そう尋ねる彼女の顔には、困惑に変わって喜びが、抑えてはいるが、見えていた。
 言いかたも、ぼくを注意するような調子ではなかった。それよりも自分の望みがかなえられることにはにかんでいるようにさえ聞こえた。なぜだろう? 撮影をお願いしたのはこちらだというのに。
「じゃあ、あの、そのうしろの椅子に座って、お待ちになってください。すぐに支度しますから」
 言うと、彼女はカウンター脇の戸口から出ていった。
 ふりむくと、壁際に建物と同じくらい古そうな木製の椅子が置いてあるのが見えた。床と同じように飴色に鈍く光っている。一人がけで、立派とは言えないけど、頑丈そうな椅子だ。ぼくはすこし迷ってから、結局彼女にすすめられたとおりに腰かけることにした。
 それほど待たないうちにまたぱたぱたという音がして、彼女は部屋に戻ってきた。四角いおおきなカメラを先につけたこれまた年代物らしいごっつい三脚を両腕で抱えていた。ふらふらと、よろめきそうになりながら体をななめにしてカウンターの横をすりぬけると彼女は三脚を床に置き、開いてきちんと立てるとほっと息をついて微笑んだ。
「うまく撮れなかったらごめんなさいね。本当に、息子が早く帰ってきてくれればいいのだけど……。
 すいませんけど、その椅子をカメラの前に運んでくださりません?」
「息子さん?」
 立って椅子を持ちあげながらのぼくの問いは、どちらかといえば自分の気まずさをなんとしたいためのものだった。すぐにぼくは軽はずみなことを言ったと後悔した。
 けれど、彼女は気分を害した様子もなく言葉を返してよこした。
「ええ。この店も、本当は息子のものなんですよ。あたしはただのお留守番だから、写真も失敗しないように撮るのがせいいっぱいなんです。本当、早く戦争から帰ってきてくれればいいのだけど……」
 一瞬だけ目を伏せると、彼女はすぐに笑顔に戻った。
「あらいやだ、こんなことお客さんにお話しするようなことじゃありませんわね。ごめんなさい」
 椅子を置きながらぼくは笑みを返してみせた。つもりだったけど、本当に笑っているように見えたかどうかには自信がない。たぶんひどくぎこちなかったろう。彼女が言った言葉のうちのひとつがひっかかって、ぼくをうまく笑わせなかった。
 戦争?
 戦争って、いったいなんのことですか?――喉まで出かかったこの問いを、ぼくは言えなかった。あらためて聞かれるものではないことを彼女の態度は示していた。しかし……
 どう見ても彼女は、五十を越してるようには見えなかった。
「さて、と。じゃあ、椅子に座っていただけますか?」
 言われるままに、ぼくは黙って椅子に座った。彼女がファインダーを覗くとその顔はあらかた隠れてしまって表情はまったくわからなくなった。それでもぼくは彼女の表情を、そして一挙手一投足をじっと見つめようとした。
 と、彼女はファインダーから目を離すとすこし顔をしかめてぼくを見た。それからもう一度ファインダーに目を押しあてると、曲げていた腰を伸ばしてまたぼくに直接目を向けた。表情は軽い困惑の色に変わっていた。
「……すいませんけど、椅子のうしろに立ってもらえないかしら? せっかく運んでもらって申しわけないんですけど、そのままだとうまくおさまってくれないの」
 彼女の言葉に、今度もぼくは素直に従った。そうしないといけないような気がした。椅子を動かしましょうかと言えるような雰囲気ではなかったし、ぼくもそんな気分ではなかった。
 そうしてカメラのほうに向くと、彼女がなんともなつかしそうな顔でぼくを見つめていた。
「ほんとにまあ……なんて似てるのかしら」
 彼女の口調には詠嘆が、郷愁が、遠い過去への想いが、はっきりとあらわれていた。
 ぼくは訊いた。訊かなければならなかった。
「似てるって……息子さんにですか?」
「はい。ほんとにもう、あの子ったらどこで何をしているのか……手紙ひとつよこさないで……」
 うつむき、彼女は袖で顔を隠した。
 すこしして顔をあげた彼女は、はじめの笑顔に戻っていた。
「ごめんなさい。いやねえあたしったら、お客さんに関係ない昔のことばっかりお話しして。さ、急いで撮ってしまいましょうね」
 言いはしたものの、彼女はまだためらうようにして動かなかった。それから、迷いの残るその瞳をぼくに向けると、意を決したように口を開いた。
「あの……こんなお願い、虫がよすぎると思われるかもしれませんけど……」
 ぼくは何も言わずに次の言葉を待った。聞かなくてもわかったけど、待った。
 彼女は予想どおりの言葉を発した。
「あなたを撮った写真、私のために焼いてもかまわないかしら?」
 うなずく自分の首を、ぼくはなぜか他人のもののように感じた。
 彼女の顔に安堵の表情が広がった。
「ありがとうございます。じゃあ、今度こそ――」
 彼女はファインダーを覗きこんだ。
 一瞬後、光のあふれる室内を凍りつかせるようなシャッターの音が響いた。

 外の陽射しは、写真館の中に負けないくらい明るかった。
 実際に体験した一連の出来事を、ぼくは夢のように感じていた。いまだに、信じられない。こうして外の光景を見てみると、その感じはさらに強くなった。
 すべてが幻だったとは、思わない。けれど、いくつかの事柄はぼくの目にありのままではないなにかを映しだしていたはずだ。
 たとえば、彼女。写真の人物と彼女は同じ人間だったのか? もしそうなら、十年以上の年月が過ぎながらなぜ同じ顔をしている? あるいは、彼女は写真の女の人の娘なのかもしれない。しかしそうすると、息子はどの戦争に行ったまま帰ってこない?
 いまなら、はっきりとわかる――彼女の写真を撮ったのは、彼女の息子だということが。
 もしかしたら、写真は、時に被写体そのものをあまりに十全に写しとってしまうということなのかもしれない。
 こんな考えかたはおかしいだろうか? けれど、昔の人が写真に対して感じていた恐怖、魂を取られてしまうというあの恐怖に理由はなかったのだろうか? ぼくたちは撮られることに慣れすぎてわからなくなってしまっているだけなのかもしれない。それだけの写真が撮られていないということなのかもしれない。それとも逆に、写しとられたものがすべてになるのだろうか? ファインダーを覗き、シャッターを押したその人の望むそのままで、写された人は定着させられてしまうのか?
 どちらであっても、それほどおおきな違いじゃない。すくなくともぼくが相手にしていたのは、写真の中の彼女だった。
 そして、もしかしたら彼女は、ぼくを――彼女の息子によく似たぼくを撮りたいと、ずっと考えていたのかもしれない。
 そのために、今日ぼくはこの街をふたたび訪れたのだろうか? この日のために、写真の中の彼女は子供のころのぼくを、そして今日やってきたぼくを、見つめていたのだろうか?
 わからない。
 わからないけど、そんな気がする。
 そんなことを考えながら、ぼくは去っていく自分のうしろ姿を見送っていた。

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風花

 二月の寒い日のことだった。学校からの帰り道、陽も暮れかけたちいさな公園で、牧子はちいさな男の子を見かけた。
 水銀灯のあかりの下、他にだれもいない公園で、男の子は砂場でシャベルを使って遊んでいた。脇を通る道から公園の中を見た牧子は、こんな時間に子供がひとりでいるなんてと思ったが、その日はそれだけで通りすぎた。
 次の日、同じ時間に通りかかると、昨日の男の子が公園の中にいた。やはり水銀灯のあかりの下、ひとり砂場でシャベルを使って遊んでいた。その日も牧子はその様子をながめただけで通りすぎた。
 次の日は土曜で部活も休みだったので、牧子は昼過ぎにその公園の前を通りかかった。何気なくのぞいてみると、数人の子供と母親がそれぞれ遊んでいたが、あの男の子は見あたらなかった。
 日曜日の夕暮れどき、買い物の帰りにふと思いついてその公園によってみると、まだ明るいのに誰もいなかった。そんなものかと思って牧子は家に帰った。
 月曜日、暗くなってからの学校の帰り、いつもの公園の前を通るとまたあの男の子を見かけた。男の子しかいない公園の中をながめながら牧子が通りかかると、男の子は牧子を見てにこっと笑った。牧子は笑顔をかえして通りすぎた。男の子の笑顔は妙に心に残った。
 その日の夜は特に冷えこみ、次の日の朝、牧子が起きて外を見ると雪が降っていた。一晩のあいだに積もったらしく、あたりは一面の雪景色だった。傘をさし、サクサクと音をたてて雪をふみながら牧子は学校へ行った。
 雪は音もなく降りつづいた。
 その日の帰り、暗い雪の降る道を歩いていた牧子は、公園の前を通りかかったときにふと中を見て、思わず立ち止まった。そこでは、水銀灯のあかりに雪がちらつく下、あの男の子が砂場でシャベルを使って遊んでいた。今日も男の子はひとりだった。
 と、ふいに男の子は牧子を見てにこっと笑った。前に見たときと同じ、印象的な笑い顔だった。
 ちょっとびっくりしたものの、牧子はすぐに笑いかえした。それから何の気なしに公園に足を踏みいれ、砂場にいる男の子のそばに近づいて、男の子の上に傘が来るように手をのばした。
 牧子を見あげると、男の子は照れたようなおとなしい声で言った。
「こんばんは」
「こんばんは。ねえ、こんな時間にひとりで何してるの? もう遅いよ。お家に帰らなくていいの?」
 牧子が訊くと、男の子は下を向いてびしょびしょの砂をいじりはじめた。見ると、頭にも肩にもそれほど雪は積もっていなかった。
 次は何を訊こうかと牧子が考えていると、男の子はぽつりと言った。
「待ってるんだ」
「誰を待ってるの? お母さん? それとお父さんかな?」
 牧子の問いに、男の子はうつむいたまま答えなかった。牧子はしゃがみ、男の子の顔をのぞきこんだ。笑顔と同じくらい印象的なその顔は、どこかさびしげだった。
「あたしもいっしょに待っててあげようか」
 つい口から出た牧子の言葉に、ぱっと明るい表情を浮かべて男の子は顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんとほんと。だって、ひとりじゃさびしいでしょ?」
 牧子は首をかしげてほほえんだ。男の子は本当にうれしそうな顔で牧子を見つめたが、しだいに表情をくもらせてうつむいた。
「……どうしたの?」
「いっしょに待っててくれるより、ぼく、つれてきてほしいな」
「いいわよ。誰を? どこに行けばいいの?」
 牧子がたずねると、男の子は真剣な表情でいきなり顔をあげた。すこしおどろいた牧子の手に男の子は自分のちいさな手をのばして重ねた。
 さっ、と風が吹き、風花が舞った。
 あっ、と思うと同時に、牧子は浮かんだような気がした。
 気のせいではなかった。牧子は本当に宙に浮かんでいた。ふわふわと空に飛んでいてしまいそうな牧子を、立ちあがった男の子のちいさな手だけがつなぎとめていた。男の子の前に自分の体が倒れているのを牧子は見た。
「ぼく、ずっと天使を待っているんだ。お父さんもお母さんも、ほかのみんなも、つれてくるって言ってくれたけど、ずっと帰ってこないんだ。だから、お姉ちゃん、お姉ちゃんが天使を捜してつれてきてよ」
 待って、牧子が言おうとしたその時、男の子は手を離した。
 ふわっと牧子は浮きあがった。地面がどんどん遠ざかっていく。舞うように地上から離れていく牧子とは反対に、踊るように降る雪をあびながら、公園に立った男の子は牧子をずっと見あげていた。

“昨夜、高校生原牧子さん十七歳が公園でひとりで倒れているのを近所の主婦が見つけました。牧子さんはすぐに病院に運ばれましたが、すでに死亡していました。死因は心臓マヒと見られています。牧子さんはおとなしい性格で――”

 男の子は今日もひとりで天使を待っている。

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残りもの

 よく考えるとただの偶然の積み重ねに過ぎないけど、でもやっぱり運命のようなものを感じてしまう出来事の経験がきっとあなたにもあると思う。恋人との出会いとか、誕生日に買った馬券が大穴を当てたとか。重要さは人それぞれだから、どんなにささいなことでも当人が大事だと思えばそれは偶然では説明のつかないことになる。あなたのはどんなことだろう? ぼくの場合、これから話すことがまさしくそれだった。
 それまでに重なった偶然を並べてみると、次のようになる。まずそのときの一人旅のルートにその街が含まれていたこと。ぼくが旅行好きだというのに土地の郷土料理などにはまったく興味がなく、夕食というと手ごろなバーですませる人間だということ。加えて地方の都市にはありがちなことだけどその街にはバーなどというしゃれたものがなく、かわりになぜか年代物のライブハウスが見つかったこと。
 そして、これがいちばん大事なことだけど、その日、彼がその店で歌っていたこと。
 たぶん、看板になぐり書きされていたその名前に好奇心をおぼえて店に足を踏みいれたことで、ぼくは偶然を運命に変えたんだと思う。

 とはいうものの、狭くて汚い階段を降りて防音の役にはたちそうもないドアを開けるまでは本気で彼だと思っていたわけじゃなかった。同姓同名の人間なんて世の中にはいくらでもいる。はっきり言って、もしそうだったらおもしろい、程度の考えだった。チャージも安かったし。
 けれど、そんな考えは店に一歩足を踏みいれたとたんにきれいにふっとんだ。
 そのときの感覚を、どう説明したらいいだろう。馬鹿みたいに単純に言えば、わかった、のひとことで済む。けど……
 いや、やっぱりとりあえずはそう言うしかないだろう。店に入ってその姿を見たとたん、ぼくはわかってしまったのだ。
 店の奥、ステージの中央に彼はいた。ステージといっても広さはスーパーの階段の踊り場程度しかなく、しかも大半は主のいないピアノやドラムが占めていた。残りもマイクスタンドやらアンプやらでいっぱいだ。
 その真ん中においてある椅子に、彼は座っていた。
 彼はギターをかかえて歌っていた。記憶にあるのとは違う、低くしわがれた声で歌っていた。つまびくギターはゆったりとした心地のいいリズムで同じパターンのコードを何度もくりかえしていた――ブルースだ。戸口のところに立ったまま、ぼくはしばらく彼の歌に聞きいった。
 一曲歌い終えると、彼はちいさく頭を下げた。拍手はなかった。暗がりの中をよく見てみると、狭い店の中にはそもそも客がほとんどいなかった。彼はそんなことをまるで気にした風もなく、しばらくチューニングをしてからふたたび歌いだした。
 ぼくはそっと歩いてカウンターまで行き、チャージの半券を渡してバーボンのロックを頼んだ。肩越しにふりかえって見ると、彼は同じ調子で歌っていた。どこかで聞いたことのある曲のような気がするのは英語で歌っているせいかもしれなかった。もしかしたら本当にスタンダードなのかもしれないが、あいにくぼくはそっちのほうにはうとい。いずれにせよ、昔の彼のイメージとは正反対の曲には違いなかった。
 差しだされたグラスを手に、壁際の席に陣取った。夕食をとるという本来の目的はもうすっかりどうでもよくなっていた。バーボンをちびちびと嘗めながら、ぼくは彼の歌に聞きいった。
 やがて何曲めかを歌い終えると、彼は立ちあがって深く頭を下げた。ぼくは軽く拍手をしたが、そんなことをしたのはぼくだけだった。彼はまたもやたいして気にした様子も見せず、ギターをスタンドに立てかけてステージから客席に降りるとスピーカーのすぐ前の席に腰かけた。店の照明がいくらか明るくなり、ステージが終わったことをはっきりと告げた――すくなくとも今回の分は。
 彼が客席に降りてきたのにはちょっと驚いた。いくらちいさなライブハウスとはいえ、楽屋らしき場所は別のところに用意してあるのが普通だからだ。それに、もし彼が本当にぼくの思ったとおりの人物だとしたらそんな無防備な行動はらしくなかった。いま考えると、それは彼のいつもの態度だったのだろう。あるいは、これもまたつけたすべき偶然のひとつなのかもしれない。ともかく、彼はぼくの近くのテーブルに腰を下ろすと置きっぱなしのグラスに手を伸ばしてすっかり泡の消えたビールを喉に流しこんだ。
 我知らず、という感じでぼくは腰を浮かしていた。グラスを片手に彼のテーブルに近づき、脇に立ってその横顔を見つめた。
 どうか、はじめからそのつもりだったなんて思わないでほしい。そもそも店に入るときには半信半疑だったわけだし、彼を見たあとでも自分の感覚に確信を持ってはいなかった。いや、それを他人にうまく伝えられるかどうか自信がなかった、と言ったほうがいい。たとえその相手が当人だったとしても。ぼくの体の動きはぼくにとっても予想外だったのだ。
 半分は自分のとった行動で、半分は彼を間近で見たことでぼうっとしていると、彼はぼくに一瞥をくれた。
「あっ、こっ、こんにちは」
 思わず言ってしまってから、こんばんはと言うべきだったことに気づいて顔をしかめた。彼はそんなぼくの態度には無関心な様子でグラスに視線を戻した。ぼくはすこしほっとした――なぜって、その動作には拒絶は感じられなかったから。
「ここ、いいですか?」
 ぼくはグラスを持ったほうの手で空いてる席を示した。言葉でも態度でも、彼は応えなかった。すくなくともはっきり断ったわけじゃない、そう解釈してぼくは椅子をひっぱるとさっさと座ってしまった。いま思うとずいぶん大胆なことをしたものだ。それでも彼はちらりとぼくに目を向けただけで何も言わなかった。ぼくはグラスに口をつけてなんとはなしに彼をながめた。
 そのうち、彼が何も気にしていないことにぼくは気づいた。というか、気づかざるを得なかった。
 ときおりグラスを引きよせてビールを飲むだけ。彼がすることは、本当にそれだけだった。視線はずっとそのグラスに向けたまま。ぼくどころか、店内の誰にもどこにも関心がないようだった。
 これじゃあ、いてもいなくてもおんなじわけだ――そう思うと、なんだかしゃくに触った。ぼくはすこし多めにバーボンを飲むと思い切ってぐっとぐっと身を乗りだした。
「失礼ですが、あの、――さんじゃないですか?」
 これもまた、いま思えばこれ以上はないくらい単刀直入な訊きかただった。意識してなかったけど、いくらか酔いがまわってきていたのかもしれない。けれど、関心をこちらに引きつけようというぼくなりのせいいっぱいのやりかたには違いなかった。
 果たして、その努力は成功した。彼はほんのすこしだけぼくに視線を向けたのだ。
「違うよ」
 にべもなく言い、彼は視線をさっさともうほとんど空いてしまったビールのグラスに戻してしまった。とりつくしまもないとはまさにこのことだ。
「本当に?」
 ぼくはくいさがった。その程度にはぼくは自分の感覚を信じていたのだ。
 と、彼はいきなりまっすぐぼくを見つめると頭をぐっと近づけてきた。
「どうしてそう思う?」
 低い声で発せられた問いに、体を引いて背もたれによりかかり息を吐きだした。今度はぼくが考える番だった。いまと同じく、そのときもぼくの感じかたを言葉でうまく説明できるとは思えなかった。ぼくは彼の視線を浴びながら真剣に答を探した。
 と、彼は視線をそらしてぼそっとつぶやいた。
「同姓同名の人間なんて、いくらだっているんだぜ」
 僕ははっとしてあらためて彼を見つめた。彼はテーブルに両肘をついてグラスをながめていた。たしかに、その態度などからあの彼だと類推するのはかなりむずかしかった。
 しかし――
「違います。すくなくとも、それだけじゃない」
 わざと強い調子で言い、もう一度身を乗りだして彼に顔を近づけた。
 彼は横目でぼくを見た。瞳にはさっきまでの無関心のかわりに不信があらわれていた。そのときになってやっと、これが彼にとってはじめての経験ではないだろうことにぼくは気づいた。うかつにも、ぼくは彼がもっとも嫌うであろうやりかたで近づいてしまったのだ。
 そうわかると、逆に開きなおってしまった。やっぱりかなり酔いがまわっていたんだろう。駄目でもともと、訊くだけは訊いておかないとなんのために入ったんだかわからない。そう思って、彼の視線を真正面から受けとめた。
「そう、たとえば、あの日あの会場であなたを見ていた、というのは?」
 いくらか挑発的に言った。そうだ、これもつけたすべきもうひとつの偶然だった。人気絶頂のときでさえ、彼を生で見た男がそれほどいるとは思えない。あのときも、覚えているかぎりぼくのまわりにいたのは女の子ばっかりだった。
 と、ぼくを見ている彼の目がすこし細まった。関心を示したのか不快をあらわしたのか、ちょっと判断に困る程度の変化だった。ぼくは黙って彼の言葉を待った。
 しかし彼は何も言わず、かわりに背筋を伸ばすと緊張を解くように深く息を吐きだした。それでもぼくは待った。それまでと違い、そのときの彼の態度にはぼくを拒否しようという様子はうかがえなかった。
「……やっぱり、違うさ。すくなくとも、あんたが見ていたのはいまあんたの目の前にいるこの俺じゃない」
 ぼくに向けて、というよりも独り言のように、ぼそっと彼はつぶやいた。
「……どういう意味ですか、それ?」
 思わずぼくは訊きかえした。なぜって、その言葉はそれまでと違いぼくの問いを認めた上で発せられたものに違いなかったからだ。なのになぜ否定するのか、当然のことながらそのときのぼくにはさっぱりわからなかった。
 そんな心中を見透かしたように、彼は目だけを動かしてぼくを見た。
「言葉通りさ。あの日、俺はステージに立たなかった。あんたの前で歌ったのがどれほど俺に見えたとしてもな」
 言うと、彼は苦い思いをかみしめるように瞼と口を閉じた。

 ここで、すこし彼の説明をしておいたほうがいいと思う。
 もっとも、もうあなたは彼が誰なのかを察しているかもしれない。だとすると、あなたのほうがよっぽど事情に詳しい可能性が高い。なにしろぼくはワイドショーや週刊誌のたぐいをほとんど見ない(あ、マンガは別ね)から、あの大騒ぎのについてなにかを語るのは極めて不適格だと言わざるを得ない。
 それでも、このぼくがおおよその事情を知っているくらい、あの騒ぎは世間の関心をさらった。異常だった、と言っていいと思う。あのとき、あらゆる人々(その中にあなたが含まれないことを切に願う)は渦中の人間がいないのをいいことにあらゆることを好き勝手に述べたてていた。それはまた何人かの関係者を犠牲にさえした。彼が逃げ、避けようとし、ぼくに対して警戒したのは、まさしくそのような関心の持たれかたに対してだ。
 だから、無駄な抵抗だと知りつつ、ぼくは手掛かりとなるような固有名詞を明かさないことにはじめから決めていた。彼をまたもや世間の前に引きずりだすことをぼくは望んではいないからだ。誰であってもマスコミに容赦なく喰い散らかされる様子は見るに忍びない(ぼくがテレビなどを見ない理由はそれだ)。まして数すくないとはいえ言葉を交わした知りあいをむざむざと餌食として差しだすようなまねはできるかぎりしたくなかった。
 けれど、自分でも矛盾していると思うのだが、こうして事の顛末を記す以上最低限の説明はしなければならない。そこで、極めて抽象的な書きかたをさせてもらうことにした。それでも、まだ誰だかわからないあなたがこれからのくだりを読んでピンとくることがあるだろう(残念ながらその程度の説明は必要だ)。そのときはどうしてこんなまわりくどい云いかたをしているのか、彼が何から逃げ何を避けようとしているのかをよく考えてほしい。特殊な例だとあなたは思うかもしれない。けれど、これはいつ何時かたちを変えてあなたを襲うことがないとはかぎらないことなのだ。

 しつこいくらいに予防線を張ったのは、彼がその事件の前から有名人だったからだ。それも、名前を出せばすぐにわかってしまうほどの、だ。ただし、あなたの性別や年齢によってはまるでなじみがないかもしれない――彼の主な仕事は女の子に対して歌うことだったから。
 アイドルとはちょっと違う。すくなくとも、彼は作られた存在ではなかった。自分で曲を書き詩をつけて歌い、それが認められて世の中に出た。彼の場合、まず表現したいことが先にあって、それを世に問うために音楽という方法を選んだのだった。
 もっともそれが優れていたかというと、正直言って当時のぼくはそうは思わなかった。いや、いまでもそうだ。ラジオやテレビで耳にした彼の歌は、ぼくにはその他多くの流行歌とそう違って聞こえなかった。武骨に自分の想いを吐きだそうという姿勢は感じれられたけど、しかしその想いそのものがありきたりな若者のそれにぼくには思えた。
 たぶんそのために、彼の人気に火がついたのだろう。
 むらがったのは女の子たちだった。彼の(当時の)端正なルックスがかなり影響を与えたのは否めない。しかしそれ以上のなにかが彼女たちをとらえて、彼は熱狂的に迎えいれられたのだ。
 出すシングルはすべて初登場一位をくりかえした。満を持して売り出されたファーストアルバムはミリオンセラーを記録した。コンサートのチケットは発売後五分で売り切れた。音楽誌は彼をこぞって表紙にとりあげた。あきらかに、彼はそのとき女の子たちの話題の中心にいた。
 なんでぼくがこんなことを知ってるかというと、当時つきあっていた彼女が彼にすっかりイカれていたからである。チケットを二枚確保したのもぼくだ(なんで二階席なんだってさんざんなじられたけど)。すっかり夢中の彼女の様子がぼくにはぜんぜんおもしろくなかったけれど、そこはまあ惚れた弱みというやつ。せっかく自分で確保したということもあって、ぼくは彼の初のホール・コンサートまでのこのこついていっている。
 コンサート自体は、ぼくにはひどく退屈なものだった。これは彼のせいじゃない。彼は彼なりに懸命に――歌もギターも下手だったけれど――歌っていた。けれど、ぼくの隣で髪を振り乱して踊っていた彼女も含めて、観客の大半は彼の歌を聴いていなかった。
 いちばん露骨にそれがあらわれたのは彼がカバーのバラードを歌ったときだった。コンサートの中盤で歌われたそれは、おそらく彼のフェバリット・ナンバーだったんだろう。歌いだしを聴いただけで熱の入れようはすぐにわかった。実際あのコンサートのハイライトだったと思う。なのに、歌い終わったときの拍手はそれまでの曲よりずっとすくなかった。それだけじゃない。彼が歌っているあいだ、多くの女の子たちがとなり同士でお喋りをしているのをぼくは見ていた。
 わかってみれば簡単なことだった。すでによく知られている、アップテンポの曲にはよく反応する。テンポがゆっくりしてたり知らない曲だったりすると反応は極端に鈍る。あれなら口パクでレコードが流れていても誰も問題にしなかっただろう。そう、たとえ気づいたとしても。
 ともあれ、そのこと自体をとやかく言ういわれはない。お決まりの二回のアンコールも含め、コンサートは無事に終わった。彼女は上気した顔で興奮をぼくに話し、ぼくは彼女も含めた女の子たちの反応に不快な印象を受けていたのでおざなりに応え、それが原因でその日は喧嘩別れしてしまった。ぼくたちのあずかり知らぬところだったけど、そのときにはもうそれは起こっていた。
 翌日、スポーツ新聞の一面は彼の失踪の報で埋めつくされた。
 記事やワイドショーやその他もろもろの情報をいくらかき集めても、わかることはたったひとつしかなかった。すなわち、アンコールを終えた彼がそのままスタッフの静止を振り切ってホールから走り去り、そのまま戻ってこなかったことだけ。どうしてそんなことをしたのかも、どこへ行ったのかも、さっぱりわからなかった。そして、いつか戻ってくることがあるのかも。
 ぼくの印象では一月くらい、マスコミはこの話題でもちきりだった。両親や友人、昔のバンド仲間、果ては小学校のときの同級生まで捜しだしてきて彼の消息を知ろうと躍起になっていた。当時つきあっていた彼の恋人などは二十四時間リポーターに監視され、神経をすり減らされた挙げ句自殺未遂までしでかすはめになったほどだ。たしか彼の父親も一度リポーターをどなりつけている。そうしたことさえ、マスコミはさも大事件であるかのように事細かにお茶の間に伝えた。
 しかし手がかりは何もなかった。そうこうするうちに膨大な取材の結果彼が本当に突然何の理由もなしに逃げだした(と当時のワイドショーは決めつけていた)ことがはっきりしてくると、マスコミは関心を急速に薄れさせていった。まるで潮が引くように、とでも言ったらいいか。手の届かない獲物は彼らにとっては興味の対象外だったのかもしれない。季節が変わるころには彼の話題はテレビからも雑誌からもすっかりなくなっていた。彼女はそれよりもすこし長く悲しんでいたけれど。
 その後、彼は世間からすっかり忘れさられてしまった。

「……じゃあ、逃げたのはあなたじゃない、と?」
 かろうじてぼくは言葉を見つけだした。これほど筋道の通らない話を聞かされるとは正直いって思っていなかった。だまされてるんじゃなかろうかという疑念が、このときはじめて脳裡をよぎった。
 と、彼の瞼が半分だけ開いた。不用意に逃げたなどと言ったことに気づき、ぼくはあわてて口を手で押さえた。
 しかし、彼はもう言葉尻を気にしたりはしていないようだった。テーブルに向けられた視線はもっと遠くのどこかで焦点をむすんでいた。
 やがて、彼の口がゆっくりと開いた。
「……いいや。逃げだしたのは、確かに俺だ。まだまだガキで世の中のことなんかなんにもわかっちゃいなかった、若いときの俺だ。
 だが、ステージの上に立ったのは俺じゃない。俺は、あの上に立てなかった。行けなかった……」
 ふっ、と言葉を切ると、彼は唇を噛んだ。無念に似た表情が彼の目元に影を落とした。

 彼の話を要約すると、次のようになる。
 そのとき、彼はステージの袖で満員の観衆の前に登場する瞬間を待っていた。ホールは会場直後から女の子たちの期待でたかぶっていた。開演時間を過ぎるころになると最高潮に達していた。
 彼は緊張していた。それまでちいさなライブハウスでしか歌ったことのない者がいきなり超満員の観客の熱気の前に飛びだそうというのだから、それも無理はない。曲が売れた自信も入念にくりかえしたリハーサルも役にたたなかった。彼はひどく頼りない気分で出番を待っていた。
 やがて客電が落ち、先に出て演奏をはじめるバックバンドのメンバーがひとりずつステージにあがっていった。歓声がわきおこり、拍手が鳴り響いた。彼の名前を叫ぶ黄色い声がいくつも重なった。
 不安を覚えたのはそのときだった。あの声は本当に自分を呼んでいるのだろうか、と。
 一曲目のイントロが始まった。彼は不安を感じたままステージのすぐ脇まで駆けあがって観客席をちらっと見やった。
 そして、そのまま立ちすくんだ。
「そう、俺が姿をあらわす前から、観客は熱狂していたんだ。そして、その熱狂のままに俺を待ち受けていた。いや、精確に言えば、俺を、じゃない。彼女たちの心に存在する、イメージとしての俺を、だ。あいつらは俺という個人を見ようとなんかしてなかった。マスコミに流通し、彼女たちが勝手に創りあげたイメージが重ねられればそれでよかったんだ。
 俺には、あいつらの開いた顎が見えたような気がしたよ――そいつは俺を喰いつくそうとじっと待ち構えていた」
 飛びだすべきタイミングになっても彼は動けなかった。喰われるのを恐れて。そのままでいてもコンサートは主役不在のまま何事もなく進行しそうに思えた。本当にそうかどうか、彼は結果を知りたかった。
 瞬間、彼の横からだれかがステージの上に飛びだした。
 歌がはじまった。歓声はさらに高まった。彼は手をあげてそれに応えた。新人のデビューコンサートとしては上首尾のスタートだった。
 その一部始終を彼は見ていた。
 歌っているのはまぎれもなく彼自身だった。まちがえようがなかった。声も表情もアクションも、彼が思っていたとおりだったのだから。
「俺は叫び声をあげた。すくなくとも、そのつもりだった。けれど自分の耳にさえ声は聞こえなかった。大音量の演奏と歓声にかき消されたのか、それとも――はじめから声は発されなかったのか」
 ステージに背を向け、彼は逃げだした。
 誰も彼を止めなかった。彼の存在にさえ、気づかないようだった。

 話を終えると、彼は目だけをぼくに向けた。
「わかったかい? あれは俺じゃないってことが」
 ぼくは応えなかった。正直に言えば、なんて言えばいいのかわからなかった。信じがたい話ではあったけれど、でも作り話にしては真に迫りすぎていた。
 とまどうぼくをしばらくながめると、彼はグラスにほんのすこし残っていたビールを飲み干した。すっかり気が抜けていたらしく、彼は顔をしかめてグラスを置いた。
「さて、こんな話でチャージ代分の元が取れたかどうかはわからんがね」
 独り言のようにつぶやいて、彼は立ちあがった。
 いつのまにか店内の照明が暗くなっていた。ぼくに背を向けると、彼はステージに戻ってギターを抱えた。どうやら二回目が始まるらしかった。
 その彼の姿を、ぼくはじっと見ていた。彼がここでは逃げださずに歌える理由を考えながら。違うのは大きさと観客――
 そこまで考えたところで、ぼくは席を立った。
 かたちはどうであれ、ぼくもまたあのとき彼を喰いつくそうと待ち構えていたひとりに違いなかった。そのうえさらに、いまになって真相を聞きだそうという余計なお世話までのうのうとしでかしたのだ。そのまま座り続けて彼の歌を聞く資格はないように思えた。
 たぶん、彼もまた、ぼくのような人間に向けて歌っているわけではないだろう。
 彼の歌がはじまった。ぼくはドアを押してライブハウスを出た。

 とりあえず、ぼくの話はこれで終わりということにしておく。
 とりあえず、というのはぼくにとってはまだ終わってないからだ。あの日ライブハウスを出るとき、今度はぼくが逃げだすわけだ、という考えがぼくの頭をよぎった。なら、いつか彼の歌を聞きに戻っていくこともできるはずだ。どうすればいいのか、いまのぼくにはさっぱりわからない(なにせ単なる行為の問題ではないのだから)。けれど、彼の前にふたたび、そして今度は何も恥じることなく、姿をあらわせる人間になりたいと思う。彼がふたたび人前で歌うようになったように。
 それが果たせるようになったとき、ぼくはあの日感じたこと運命ときちんと呼べるようになるのだと思う。

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季節変わるとき(2000年春版)

 マリナード地下街のトイレで着がえた。
「まったくもう、なんでこんな大事な日に部活が重なるんだろ」
 ぶつぶつ言いながら脱いだ制服をたたんで紙袋に詰めこむ。個室の中とはいえ下着姿でいるのは心細い気がして急いで取りだしたブラウスに袖を通した。予想通り狭い場所での着替えはなかなかむずかしく、あのワンピースをあきらめてよかったと思いながら千夏はスカートのホックをしめた。いちばんのお気にいりを着て行けないのはとても残念だったけど。
 肩までの髪をブラシでていねいにとかすと紙袋からポシェットをひっぱりだした。肩からさげたその中からコンパクトとルージュを取りだす。ルージュの色はおさえめのピンク。買ったばかりの新品で使うのはこれがはじめてだ。千夏はコンパクトを真剣にのぞきこんでていねいに紅をさした。
 トイレを出ようとして鏡に映る姿に思わず足を止めた。上目づかいで自分の顔をしばらく見つめ、前髪をちょっとなおしてみる。あらためて見なおすとすこし子供っぽい気がした。伸ばしかけの髪の長さも中途半端みたいだ。そういえば――
 ――いけないいけない、こんなふうに考えちゃ。
 なんだか暗くなってきた自分の顔を否定するように千夏は目を閉じて頭を左右に振った。一年に一度の大事な日なんだから楽しくしなくちゃ、こんなんじゃ“彼”に会えないぞ。そう考えて鏡に笑いかける。向きあう自分の笑顔に千夏は満足げにうなずいた。
 奥まった通路を戻るとすぐに左右に伸びる地下街に行きあたる。左手側、ゆるやかな下りを進んでいくとその先にあるのは地下鉄関内駅だ。階段を登れば馬車道通り。今日の千夏の目的地はその反対側、右手方向にある伊勢佐木町だった。
 JR関内駅に向かう地下街を横目で見ながら千夏は短い階段を登った。ちょっとした広場の出店のあいだを通り抜けて壁際のコインロッカーまで歩く。制服詰めの紙袋とかばんを押しこみコインを入れて鍵をまわし、がちゃんと音が響いたところで思わず息をついた。とりあえずこれで不審に見られる様子はなくなった、はずだった。
 ――知ってる人に見られたら結局駄目なのよねー。
 調子が悪いと嘘をついて部活をさぼってきたのだからできれば誰にも見つかりたくなかった。けどここまできたらどうしようもないこともまた事実だった。見つかったら開きなおるしかないのだ。
「よしっ」
 ちいさくつぶやき気合いを入れて千夏はコインロッカーに背を向けた。
 地上にはまばゆい光があふれていた。天高く続く真夏の青い空に白いおおきな雲がいくつか浮かんでいる。千夏はまぶしさに目を細めた。空気に触れただけで汗が吹きでてきた。
 この暑いなかでみんなは練習してるんだ、そう思うとほんのちょっとだけ心が痛んだ。けどそんな想いはおだやかな風が吹きぬけて木々の葉を揺らした瞬間どこかへ行ってしまった。千夏はウェルカムゲートをくぐって伊勢佐木町へと歩きだした。
 人通りは思ったより少なかった。そう言えばいつも人混みにまぎれてって感じじゃなかったっけと思いながら署名の誘いをするりとかわす。そうやって有隣堂と松坂屋のあいだを過ぎ、不二屋の前まで来たところで足を止めて銀色の街路灯によりそって立った。“彼”とはじめて会った場所で。
 時計を見たりはしなかった。待たされないのはわかってたから。
 動かないでいるとたくさんの人が目の前を横切っていった。ちいさい子供を連れたお母さん、スーツ姿の男の人に制服姿の女子高生たち(一瞬自分の高校の生徒に見えて千夏はどきっとした)。聞いたことのない言葉を話す彫りの深い顔の人々に顔は見分けがつかないのに聞いたことのない言葉を話す人たち。さまざまな人の行き来を千夏はなんとなくながめた。一人一人の顔を注意して見たりはせず、ただ“彼”があらわれるのを待った。
 自転車に乗った小学生が千夏の前を通りすぎていった。
 瞬間、すべての動きが静止した。
 ――来た!
 そう思うのと同時に千夏の目の前の空間がゆらめいた。ゆらめきはすぐにはっきりとした輪郭をかたちづくってその中に像を描きだす。像はすぐに実体を持った人の姿となった。瞳は千夏をまっすぐ見つめていた。
 先に口を開いたのは“彼”だった。
「やあ」
 すこしはにかんだような口調に千夏は最高の笑顔を浮かべた。
「ひさしぶり」

            *

 はじめて“彼”に会ったのは小学校に入った年だった。
 その日千夏は伊勢佐木町に来ていた。本当は家族で海に行く予定だったのだけど急な用事でお父さんが会社に行かなければならなくなりかわりにお母さんが買い物に連れてきてくれたのだ。海に行くのをすごく楽しみにしていた千夏は来る前から不機嫌だった。これ以上ないというくらいの上天気も千夏の機嫌をさらに悪くさせ、それはお母さんが食べさせてくれたソフトクリームひとつくらいではなおったりはしなかった。
 爆発したのは帰り道でだった。お母さんの長い買い物につきあわされていいかげんうんざりしていた千夏は不二屋の前で足を止めパフェを食べさせてほしいと強くねだった。だけどお母さんはもうわがままを聞いてはくれなかった。そのとたんなんだかものすごくくやしくなってしまい千夏は大声で泣きだしてしまったのだった。
 立ちどまったまま泣きじゃくる千夏をお母さんはいいかげんにしなさいとたしなめるばかりでなだめようともしなかった。それがなおさら気にいらなくて千夏は意地になって泣き続けた。自分でももう馬鹿みたいだと感じていたけれど泣き止むきっかけはもうどこにもなかった。
 そのときだった。
(どうしたの?)
(えっ?)
 突然の言葉にきょとんとして千夏は目を開いた。
 涙ににじむ目に斜め下からのぞきこむ顔が映った。知らない顔だ。千夏は腕で涙をぬぐってあらためてその顔を見た。男の子はちょっとびっくりした目で千夏を見ていた。
 と、何を思ったのか男の子は突然自分の頬を両手でつぶしてぎゅっとひねった。ヘンな顔に千夏は思わず吹きだしてしまった。
(やーい、さっきまで泣いてたのにもう笑ってやんの)
 男の子は体を起こすとうしろに二、三歩さがって千夏を指さし笑った。せっかく笑ったのにまたむっとして千夏は男の子をじろっとにらみつけた。
 そのときになってようやくまわりの様子がなんだかおかしいことに気づいた。
 あたりはいつのまにか気味が悪いほど静かになっていた。音楽も歓声もまるで聞こえなくなっていたのだ。それだけじゃない。人も自転車も揺れる木も、目に見えるものすべてがそのままの状態で静止していた。子供の手を離れて宙に浮かぶ風船さえも。
(なに、これ――)
 びっくりしてただあたりをながめていると耳に陽気な笑い声が飛びこんだ。
(あんまりおおきな声で泣いてるからみんなびっくりして止っちゃったんだよ)
(……そんなことないもん)
 千夏はむっとして男の子をにらみなおした。それでも男の子は笑ったままだった。なんだかとても馬鹿にされているような気がして千夏はさらにむっとした。
(そんなことないもん! あたし、そんなにおおきな声でなんか泣いてないもん!)
 足を一歩前に踏みだしたときには男の子はもう駆けだしてた。
(やーい、泣き虫!)
(泣き虫なんかじゃないもん!)
 千夏は男の子を追いかけて走りだした。
 男の子はちょこまかといろんなところを逃げまわった。人々のあいだをすりぬけたり通りに出ているワゴンの下に隠れたりベンチの下をくぐりぬけたり。たまに手が届きそうになるとすぐに遠くに離れていった。千夏はむきになって男の子を追いかけた。男の子は笑って逃げた。
 とうとう疲れはてて千夏は立ち止まるとその場にしゃがみこんでしまった。うつむいてレンガ敷きの地面を見たまま何度も何度も呼吸をくりかえす。暑さに頭がくらくらしてきていた。
 けれどその視界のはしっこに細い足が入ってくるのを千夏は見逃さなかった。
(……だいじょうぶ?)
 その言葉と同時に千夏は立ちあがって男の子の手をぎゅっとつかんだ。
(つかまえた!)
 そのままびっくりしている男の子を置いて千夏は逃げだした。
 男の子の足の速さにはやっぱりかなわず千夏はすぐにつかまった。男の子はにっと笑ってまた駆けだした。千夏はまたむきになって男の子を追いかけた。
 何度そんなことをくりかえしただろう。千夏はいつのまにか追いかけっこに夢中になっていた。逃げるより追いかけるほうが長かったけどそんなことは気にならなかった。なぜだかすごく楽しかった。
 そうして不二屋の前に戻ってきたときだった。逃げまわっていた男の子が千夏のお母さんの横で突然足を止めた。全速力で走っていた千夏は立ち止まれずにその背中におもいっきりぶつかってしまった。
(いったあい! なによ、とつぜん――)
 声をあげる千夏に男の子はふりかえってにこっと笑いかけた。
(ああ、楽しかった。じゃあね)
(えっ?)
 聞きかえした瞬間、男の子はかき消すようにいなくなった。
 同時に世界がいっせいに動きだしてざわめきや音楽がふたたび通りを満たした。あまりに突然の変化に千夏はただびっくりしてその場に立ちつくした。
 急に泣きやんでおとなしくなった千夏をお母さんは気味悪がった。千夏は千夏でいまの出来事を説明しようとしたけどうまく話せなかった。それにお母さんがまじめに聞いてくれそうもないことがわかったのですぐに話すのをやめてしまった。いいもんね、と千夏は心の中でつぶやいた。あの男の子と遊べてとっても楽しかったんだから、と。

 それからは伊勢佐木町に来るたびに男の子があらわれるのを心待ちにするようになった。まだ一人で電車で出かけられる歳ではなかったからチャンスは親に連れられて来る年に数回だけ。そのたびに千夏は男の子の登場を楽しみに待った。
 けれど期待はいつも空振りだった。そのうちに千夏もあれは夢だったんだと思うようになっていた。

 二度目に会ったのはそうやって男の子のことをほとんど忘れてしまったころだった。
 その日千夏はいとこに連れられて伊勢佐木町を歩いていた。ひさしぶりに親戚が千夏の家に集まったので子供たちだけで映画を見に来たのだ。映画はそれなりにおもしろかった。けどいちばん年下の千夏はそのとき一人だけまだ小学生でなんとなく大人びたみんなの話の中にうまく入っていくことができなかった。もうちっちゃくもないからみんなも特別にかまってくれたりはしなかった。笑いながら歩くみんなのちょっとうしろを千夏は一人ぼんやりと歩いていた。その日も暑くてよく晴れた日だった。
 松坂屋の前まで来たところでもうすぐ駅だと千夏は顔をあげた。
 瞬間、世界が静止した。
 突然の出来事に息を飲んだ千夏の両目をだれかの手が覆った。
(きゃあ!)
 悲鳴をあげて手を振りはらい、千夏はふりかえって相手をにらみつけた。
 瞳に映った姿に驚きに目をまるくした。
 男の子は千夏のすぐ目の前で笑っていた。おおきくなっていたけどすぐに“彼”だとわかった。
 何も言えずにいる千夏をしばらく見つめてから男の子はからかうように言葉を投げた。
(何にそんなに驚いたの?)
 その口調と笑い顔があんまりにくたらしくて、
(うるさいな!)
 千夏は唇をとがらせて男の子に一歩詰め寄った。とたんに男の子はおおげさに肩をすくめ背中を向けて走りだした。追いかけて千夏も走りだし、あとははじめて会ったときと同じだった。
 さんざん走りまわって疲れきったころ、男の子は親戚のみんなのいるところまで戻ってきて立ち止まった。ふりかえってなにか言おうとするその口を封じるように千夏はあわてて男の子の手をぎゅっとつかんだ。
(だめ! ちょっと待って。すこしお話しよ、ね?)
 千夏の言葉に男の子は二、三度まばたいてからうなずき、二人は街路樹を囲むレンガに並んで腰をおろした。
(あのときのこと、ずっと夢だと思ってた)
(ぼくは本当のことだって知ってたよ)
(どうして? あたしのことあれから見たことあるの? この近くに住んでるの? だったら、年に何回も来てるんだから、もっと前に顔を見せてくれたっていいじゃない)
(うーんと、そうじゃないんだ。なんて説明すればいいのかな……)
 男の子はこまった顔をして蒼い空をまっすぐ見あげた。
(いつもここにいるわけじゃないんだよ。タイミングがあったときしか駄目なんだ。で、そのときに君がいるとはかぎらない。だから今日はすっごい偶然なんだ。わかる?)
 男の子は千夏に視線を戻した。今度は千夏が目を伏せた。
(そしたら、もう会えないの?)
(……どうだろう……周期性があるみたいだからうまく同調できればまたここに来ることができると思うけど……)
 その言葉に千夏はぱっと顔をあげた。
(じゃあさ、じゃあ、あたし来年の今日またここに来る! だからあなたもがんばってここに来て! ね、また会お、ねっ!)
 千夏は男の子をまっすぐ見つめた。男の子はちょっと表情を曇らせてうつむいた。ずっとそのままで動かない男の子に千夏は不安になって首をかしげた。
 と、やがて男の子は思いきったように顔をあげた。
(うん、わかった。君が来るなら、ぼくも来る)
(ほんと!? じゃああたし、来年の今日、ぜったいここに来る! だから約束して!)
 千夏は右手の小指をさしだした。ゆびきりげんまんをしたふたりは互いを見つめてうなずきあった。
 男の子はすぐに手を離して立ちあがった。
(じゃあね、また来年!)
 千夏が立ちあがったときには男の子はもう消えていた。まだ話したいことがいっぱいあったのに、とむくれながら千夏は動きだしたいとこたちのうしろに戻った。
 今度は誰にも話さなかった。話しても誰も信じてくれないとわかっていたから。これは自分だけの秘密だ、そう千夏は心に誓った――千夏とあの男の子だけの大切な秘密だと。
 たった二回会っただけで名前さえ知らないのに千夏にとって男の子は特別な存在になっていた。

 それから毎年同じ夏の日に千夏はここへやって来た。“彼”も約束通りあらわれた。さすがにもう走りまわったり追いかけあったりはしなかった。そのかわりふたりは街のいろいろなところを歩いた。
 歩きながら千夏はたくさんのことを話した。一年のあいだに起こったこと、学校のこと、友達のこと、嫌いな先生のこと、兄弟や両親のこと、他にも思いつくかぎりのことすべてを。気がつくと話しているのはいつも千夏ばかりだった。けど“彼”はいやな顔ひとつしないでとても熱心に聞いてくれた。
 そして千夏に話すことがなくなったころ、短い別れの言葉を告げて“彼”がいなくなることでふたりの特別な一日は終わるのだった。
 いつもいなくなったあとで“彼”のことをなんにも知らないことに千夏はあらためて気づいた。どうやってあらわれ去るのかさえも。でも千夏はもうそのことで思いわずらったりはしなかった。だって、来年の同じ日に同じ場所で会えるとわかっていたから。
 今日が、一年ぶりのその日だった。

            *

 どちらからともなくふたりは歩きだした。話したいことがもう喉まであふれかかっている千夏はあいさつもそこそこに口を開いた。
「ねえ聞いて、今日ここに来るのほんっと大変だったんだから。高校に入ってすぐに真奈美って娘と知りあったんだけどこの娘がすごく積極的なの。それでひっぱられてあれよあれよというまに――」
 中学と違って運動部に入ったこと。今日練習があったけど嘘をついて途中でぬけだしてきたこと。はじめてトイレで着がえたこと。やさしい先輩やいじわるな先輩のこと。高校生になって変わったこと、変わらないこと……
 この他にもたくさんのことを千夏は話した。微笑みながら“彼”は話に耳を傾けてくれた。あいづちをうったりあいだに言葉をはさんだり、時には聞きかえしたりしながら。そのしぐさにうながされて千夏はいろいろなことを話し続けた。いつもと同じように。
 けれど――
「でも美紀ったらひどいのよ、あたしの前をしらんぷりで通りすぎたりして。もうちょっと愛想よくしてくれたっていいと思わない? 同じ中学から来たんだもん、あたしはもっと仲良くしたいと思ってるのに――」
 話しながら千夏は何度も“彼”の様子をうかがった。なにかがいつもと違っているような気がして。けどそれがなにかはわからなかった。“彼”はいつもと変わらないおだやかな微笑みを浮かべて千夏の話を聞いていた。
 気のせいだ、きっと――そう信じて千夏は言葉を重ねた。話したいことはまだたくさんあったから。おもしろかった本にマンガにテレビ。高校に入ってだんだん勉強がむずかしくなってきたこと。得意な教科に苦手な教科、好きな先生やきらいな先生。あたらしくできた友達のこと。
 それから、はじめて好きになった男の子のこと。
 まだ誰にも話していないことだった。気づいた瞬間から最初にうちあけるのは“彼”と決めていたのだ。それくらいこれは特別なことだった。
 千夏は全部を最初から話した。はじめてすれちがったときのこと。いっしょの委員会になったこと。それほどめだつわけでもないのになぜか気になったこと。はじめて言葉をかわしたときのこと。いつのまにかその子のことばかり考えるようになっていたこと。好きになった男の子のことを千夏は話しつづけた。
「一目ぼれっていうのが本当にあるならきっとあの瞬間がそうだったんだと思う。そのときはわからなかったけど、でもはじめてすれちがったときにもうその種があたしの心に植えつけられていたのよ。だってそうじゃなきゃ説明がつかないもん。そうでしょ?
 たいしてかっこいいわけでもない、どっちかっていうとさえない男の子を好きになるなんて自分でも思ってなかった。でも人を好きになるってことにはきっと意味があるんだわ。だからあたしが彼を好きになったことにも、きっと大切な意味があると思うの。そうでしょ?」
 千夏が目を向けた瞬間、並んで歩いていた“彼”が突然立ちどまった。
 千夏はあわてて足を止めてふりむいた。ちょうどオデオン前の横断歩道にさしかかるところだった。信号が変わるのを待つ歩行者たちのあいだでふたりは同じように静止して向かいあった。
「どうしたの? 急に立ちどまったりして」
 千夏は首をかしげて問いかけた。ずっと感じていた不安が胸の中で急速におおきくなっていた。
「ごめんなさい、話つまらなかった? すこし休む?」
“彼”に近づこうと千夏は足を前に出した。
 と、“彼”の顔に哀しげな笑みが浮かんだ。
「――ごめん。もう、限界だ」
 その言葉と同時に“彼”の体がゆらいだ。
 千夏は伸ばしかけた手を止めた。おおきく目を見開いて“彼”を見つめる。その視線を“彼”はまっすぐ見かえした。
 それから、ふっ、と息を抜くように視線をそらした。
「同調できなくなってきてる。今年はなんとか最後まで持つと思ったんだけど……」
“彼”の視線はどこか遠くのほうへと向いていた。千夏は息を飲んでその顔を見つめた。
 言葉から、表情から、姿から――“彼”のすべてからたしかさが消えかけていた。
「どうしたの? ねえ、どうしたの?」
 やっとの思いで千夏は喉から声を絞りだした。自分でも信じられないほどうわずった声だった。
“彼”は足元に視線を落とした。
「とてつもなく幸運だったと思う。ぼくは――ぼくたちは。
 信じられる? 全部偶然の積み重ねなんだ。ぼくが位相の違うこの世界に同調することができたのも、その世界でさらにぼくと同調している君に会えたのも、そしてそれを何度もくりかえせたのも。いまでも信じられないよ、こんな奇跡みたいなことが起きたなんて。だから、いままで持ちこたえられただけでも、感謝しなくちゃいけない」
 つぶやくように言うと“彼”は顔をあげて千夏をまっすぐ見た。
「はじめて君に会ったときは本当にびっくりした。まさかこんなところでだれかと知りあえるなんて思ってなかったから。ずっと一人だったから期待さえしなくなっていたんだ。
 だから、ずっと待ってたよ。君が来るのを。ぼくにとってこの日はとても大事な日だったんだ。
 でも、もうおしまいだ」
“彼”は表情を曇らせて目を伏せた。
「――何を言ってるかわからないよ」
 千夏はただ“彼”を見つめた。胸の中にうずまく想いはそれ以上言葉にはならなかった。
 こんな日が来るなんて想像さえしたことがなかった。いつでも夏のこの日に来れば“彼”に会えると思っていた。
 ――こんなふうに突然おしまいになってしまうなんて――……
 たまった涙が“彼”の姿をぼやけさせた。
 ふたたび千夏を見つめると“彼”は笑みを浮かべた。まるで千夏の心を察したかのように。
「ごめん、こんなことになっちゃって。
 でも大丈夫だよ。きっとうまくいく。君が好きになった人だろ? 信じなくちゃ。ぼくに話してくれたように話すことができれば彼だってきっと――」
 静止した景色の中で“彼”の姿が激しくぶれた。まるで周囲に吸いとられるように色が急速にあせていく。
“彼”は驚きもうろたえもせずただ静かに微笑んでいた。ちいさく動いた唇が声にならない言葉を千夏に伝える。
「――待って!」
 体を縛りつけていた強い力を振りはらい、千夏は“彼”に飛びついてその体を強く抱きしめた。
 瞬間、“彼”はたしかに千夏の腕の中にいた。

 永遠にも思える一瞬のあと、千夏は支えを失ってその場に前のめりに倒れこんだ。
 起こした体を街のざわめきが包んだ。通りすぎる車の音、人々の会話、流れる音楽。横断歩道のとうりゃんせが鳴りはじめた。どこか遠くから蝉の鳴き声が聞こえてきた。
 千夏は首を振ってあたりを見まわした。すべては元に戻っていた。強く照りつける太陽の光の下、あたりの人は敬遠するように千夏のまわりを離れて歩いた。
 どこにも“彼”の姿はなかった。
 聞こえなかった言葉が千夏の頭の中で何度もくりかえした。
(――さよなら)
 目を腕で覆いその場に体を伏せて千夏は泣いた。服が汚れることも好奇の視線もどうでもよかった。失ったもののおおきさが千夏にはよくわかっていた。それを埋めるためにはただ泣き続けるしかなかった。
 風がかすかに秋の気配を伝えた。

            *

 時計の針は約束の時間の十五分過ぎを指していた。
 ――まったくもう、しょうがないんだから。
「今日は部活ないってわかってるはずなのに」
 千夏はつぶやいて息をついた。じっとしていても汗が肌ににじんでくる暑さにアイスクリームを一口なめる。それから顔をあげて通りに目を転じた。
 真夏の強い陽射しが街をくっきりと浮かびあがらせていた。陽光の下をたくさんの人がそれぞれの方向へと歩いていく。街灯の下のベンチに座ったまま見あげる人々の顔はどれも楽しげだった。
 千夏はなんとなく頭を軽く左右に振った。いちばんのお気にいりだったワンピースもピンクのルージュもこんな華やかな日にはなんだか子供っぽく感じられた。背中の中ほどまで伸びた髪もすこしうっとうしい気がした。
 ――髪、切ろうかな。思いきってショートにばさっと。
 そんなことを考える千夏の目の前を男の子がふたり駆けぬけていった。その行く先を目で追いながら溶けかかったアイスクリームをかじる。そして残った最後の一口ほどをじっと見つめた。
 それはあきらめきれない千夏の最後の願いそのものだった。これを食べ終わるまでは待とうと決めたのだ――奇跡がもう一度起きるのを。
 最後の希望の一口を千夏は口の中に放りこんだ。
 瞬間、陽差しに浮かびあがるすべてのものが静止した――
 ような気がした。
 千夏は立ちあがり太陽に向かって伸びをした。通りに背を向けて不二屋のショーウィンドウをながめる。絶対ただじゃすませないぞと思いながら。来たら何をおごらせようか……
「ごめん! 待った?」
 うしろから飛びこんできたその声に千夏はわざと不機嫌な顔を作ってふりかえった。
「遅い。こんなに待たせるなんて何してたの?」
「いやー、バスに一本乗り遅れちゃってさ。いつもかならず五分遅れて来るのに今日にかぎって時間通りなんだぜ。走り去ってくの見てあぜんとしたよ、ほんと」
 言いながら彼はきまり悪げに頭をかいた。その態度を見ているとおこっていられなくなって千夏はくすっと笑った。彼はほっとした顔になって胸の前で手をあわせた。
「それで、今日はどうする? 見たい映画でもある?」
「こんないい天気なんだもん、映画館に入るなんてもったいないよ。散歩しよ、ほら」
 言葉を交しながらふたりは並んで歩きだした。
 千夏はだれかの笑い声を聞いたような気がした。

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