Site Top > Fiction > Scenes > Other side of everyday life #1 #2 #3 #4 | Enquete

Other side of everyday life #1

Contents:

  1. 刹那
  2. 殺意が導く夜
  3. 夕暮れ、乾いた瞳
  4. ビュットについて知ってる二、三の事柄

刹那

 真夜中過ぎに雨が降りだすとテレビが告げた。
 ぼくは十二時前に家を出た。
 雨はまだ降りだしていなかった。

 路地裏の一角のちいさな交差点だった。
 信号もなく車も通りかからないそこを、切れかかった蛍光灯がぼんやりと照らしていた。
 ぼくは静かに道の真ん中へと歩いた。
 白い停止線の上に赤黒い染みの跡が残っていた。

 彼女の跡だった。

 ぼくには想像することしかできなかった。
 彼女の体がどんな抛物線を描いたのかを。
 彼女の質量が加速度によってどれくらい増加していたのかを。
 彼女の視線がどんな軌跡を残したのかを。
 そして、その瞬間、彼女がどんなことを想ったのかを。

 知る術は、もう、ない。
 彼女は、逝ってしまった。

 彼女が最後に残した跡は、もうすぐなくなってしまう。

 ぼくはしゃがみこんで指先で触れた。
 雫がぼくのうなじを打った。

(Page Top < Scenes < Fiction < Site Top | Enquete)


殺意が導く夜

<母娘二人刺殺・被告に無期懲役>
 Aさん(当時26)とBちゃん(当時7)の母娘二人が昨年自宅のアパートで刺殺されたとして母親の愛人が殺人に問われていた事件の公判が横浜地裁で22日に開かれ、C裁判長は求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。殺意を否認していた被告の主張は退けられた。
 判決を受けたのは当時無職のD被告(21)。
 判決によるとD被告は一昨年にAさんとテレクラで知り合い以後愛人関係にあったが、事件当日アパートで対面している最中に娘が帰ってくるから早く出ていってくれと言われ、かっとなり台所から包丁を持ち出してAさんを刺殺、ちょうど帰ってきたBちゃんに現場を目撃されたためBちゃんも刺し殺して逃走した。
 弁護側は判決を不服としてただちに上告する模様。

 室内を唯一照らす画面が白と黒のノイズに変わった。
 リモコンを持つ手が勝手に動いた。ノイズの流れが乱れ、すぐに逆回りのニュースが映しだされる。見飽きたキャスターの無表情な顔。世界そのものが自分とは無関係だとでも言いたげなその顔が、Eは嫌いだった。あらゆる不幸を平然と伝える、その顔が。
 やがてその顔が消え、フラッシュが焚かれる中警官に挟まれて階段を車へと後退する若い男の姿に変わった。
 今度も指が勝手に動いた。画面の若い男の動きが静止する。Eはその顔を凝視した。頭を隠そうともしない若い男は、あきらかにふてくされているとわかる態度を周囲に見せつけていた。
 空いているほうの手でテーブルの上のグラスをつかみ、中身を機械的に流しこんだ。灼熱感が喉を一瞬で通りすぎる。だがそれだけだった。すでにボトルは半ば空いているのに、酔いはまったくまわらなかった。
 全部、こいつのせいだ――昏い瞳で、Eは画面の若い男をにらみつけた。
 逮捕されたときにテレビカメラにいやというほど刻みつけられたこの表情以外の顔を、Eはいままで一度も見たことがなかった。法廷でさえ、そうだった。いついかなるときも、この男は自分の態度を崩さなかった――おれが悪いんじゃないと主張する、その態度を。それは、殺されるほうが悪いんだと無言のうちに主張していた。
 殺した人間のことも、そのために自分を恨む人間のことも、画面の男の瞳には映る余地がなかった。
 Eはもう一度グラスをつかみ、生のままのバーボンを胃に流しこんだ。不意にAの、妻の笑顔が脳裡によみがえる。Eは強く眼を閉じてうつむいた。こらえきれなかった涙が頬をつたってあぐらをかいた足に落ちた。
 たしかに、仕事にかまけて気にかけられなかった俺にも落度があった、と思う。引っ越したばかりで近くに知りあいのいなかったあいつが、退屈しのぎにテレクラに電話をかけたことだって責められない。はじめっから深い仲になるつもりなんてなかったんだ。だから、娘が帰ってくる前に出ていって、と言った。なにもかもぶちこわしにするつもりはなかったから。
 ――踏みとどまれたんだ。やりなおすことだって、できたはずなんだ。
 グラスを握る手に、ひとりでに力がこもった。
 頭の向こうからちいさな機械音が聞こえた。顔をあげると、画面が動きだしていた。テープの走行音以外に音はない。Eはテープの進むにまかせた。視線は画面よりずっと遠くに向いていた。
 ――それに、B。あの娘に罪があるはずがない。休みの日に会社に行こうとすると、背広の袖をつかんでなかなか離そうとしなかった。笑うと、その場の空気をいっぺんに明るくした。わがままで気むずかしやだったけど、はじけるような若さと未来があった。それを――それを――……
 画面がふたたび白と黒のノイズに変わった。自動的にリモコンを持つ手が動き、テープを巻き戻して画面を静止させる。すでに細部までを記憶してしまったその顔を、Eはふたたび、凝視した。
 ――全部、こいつのせいだ。
 グラスを持ちあげかけ、中身がなくなっていることに気づいた。ボトルに持ちかえ、無造作に注ぎこむ。酔う希望はすでに捨てていたが、飲まずにはいられなかった。
 とうに夜半を過ぎていたが、明日――いや、今日――は仕事に行く気はなかった。こんな状態で仕事をしても役にたつわけがないことはいままでの経験からよくわかっていた。それに、あの日以来Eは働く意味を半ば失っていた。
 だが、会社を休んだからといってすることもないのだ――こうして、憎んでも憎みきれない男の顔をじっと見つめ続ける以外には。
 室内の静寂を叩きこわすように、電話のベルが激しく鳴り響いた。
 Eは見向きさえしなかった。どうせマスコミに決まってる。部屋を移り、電話番号を何度変えても、やつらはどこからか調べあげて触手を伸ばしてくるのだ。そして、いつも同じ無遠慮な調子でこう訊いてくる――今の気持ちは?と。
 たしかに、法定を出たところでカメラにかこまれたときには思いのたけをあらいざらいすべてぶちまけてやった。あのときは、それこそが望みだったから。だがそれ以上つきあう義理はない。平穏な生活をむしばんだことに関しては、マスコミはこの男の共犯なのだから。
 数回の呼び出しのあと、電話は留守電のモードに切りかわった。とたんに電話の切れる音がした。ほらみろこれだ、とEは思う。非常識な時間にかけてきておいて、詫びの一言さえ残さない。
 かわりに、もう一度ベルが鳴りだした。
 今度は待たなかった。腰をひねって腕を伸ばし、うしろ側の床の上にある電話の受話器を軽く持ちあげ、落とす。電話は沈黙し、Eは姿勢を元に戻した。
 グラスを持ちあげた瞬間、またもやベルが鳴りだした。
 ふりむきざまに電話器を跳ねとばした。受話器がはずれ、本体が壁にぶつかってさかさまにひっくりかえる。だがフックは戻らなかったらしく、受話器からはちいさな声が洩れだしてきた。他に物音のないこの部屋では、それだけで充分な騒音だった。
 電話線をひっこぬこうと立ちあがった瞬間、不意にその言葉がまっすぐ耳に飛びこんできた。
「――に会いたくないか?」
 ふりかえり、Eは床に転がった電話器を見おろした。自分の耳が信じられず、一瞬、ただ立ちつくす。それから、あわてて膝をつくと受話器を耳に当てた。
 わずかな静寂の後、中性的な、感情のうかがえない声が聞こえてきた。その声は、はっきりと同じ言葉をくりかえした。
「犯人に会いたくないか?」
「会いたい。会わせてくれ。二人きりでだ。誰も邪魔しないところでだ」
 引きこまれるようにEは早口でまくしたてた。深く吸いこんだ息を殺し、次の言葉を待つ。
 今度の沈黙は長かった。何分にも思える時間が過ぎてから、やっとふたたび中性的な声が響いた。
「次の住所に、一人で来い」
 マンションの一室らしい住所を告げると、電話は一方的に切れた。
 単調な信号音を鳴らし続ける受話器を、Eは顔から離すとほとんど茫然として見つめた。何者なのか、なぜそんなことを言うのか、本当なのか、信じられるのか――沸きあがった疑問が渦を巻いて脳裡を駆けめぐる。どう考えても嘘に違いない言葉になぜこれほどまでに乱されるのか、自分でもわからなかった。
 そして、なぜあんなことを口走ってしまったのかも。
 ふたたび画面が動きだしたとき、Eはその理由を理解した。
 ふてくされた男の顔は、Eの心の底に熾火のようにくすぶっていた殺意を、かつてなく激しく燃えあがらせた。

 看守の足音の遠ざかる気配に、Dは横たわった体をみじろぎさせた。
 気分が最近になく昂ぶっていて、しばらく寝つけそうになかった。このいつも湿っぽい、昼間でも薄暗い三畳の部屋でできることといえば寝ることぐらいしかない。差入れも絶えてなくなった半年前からは、それだけが唯一の楽しみになっていた。近ごろでは横になって数秒もすれば意識が遠ざかったものだ。
 それが、今夜は、眠れない。
 原因はひとつしかなかった。判決だ。寝がえりをうちながら、Dは裁判官の物わかりの悪そうな顔を思い浮かべる。
 ――あの野郎、人の話をまったく聞きやがらなかった。
 そう思うと、胸くそが悪くなってますます気分が昂ぶった。
 刺したことそのものを否定するつもりはなかった。無我夢中のうちにはらいのけた子供のほうはともかく、女の腹に包丁がずぶりとめりこんだときの感触はいまも掌に残っている。そのことだけが正当に裁かれたのなら、これほど腹がたちはしなかった。
 気に食わないのは、量刑を無期懲役にまで引きあげた検察のやり口、そしてそれを鵜呑みにした裁判官の馬鹿さ加減だった。
 ――なにが「残虐非道」だ、くそ!
 寝返りをうちながらDは思う。言いわたされた判決文などほとんど覚えていなかったが、この言葉だけは耳にこびりついて離れなかった。
 かっとなってやったという供述は、冒頭陳述では殺意を覚えに変わっていた。会おうと言いだしたのは向こうなのに、誘いだしたのは自分だということになっていた。他にもこまかいことを言いだしたらきりがない。警察も検察も、さぞ俺が女を好きなようにしていたということにしたかったのだろう。その成果が、今日の判決だ。
 だが事実は正反対だった。呼びだし相手をさせていたのは、いつも女のほうだったのだ。Dはただそれに従っていただけだ。
 いやだと思ったことは一度もなかった。金も物も与えてくれる便利な女のことを、どうしてそんなふうに思うだろう? ましてや殺そうだなんて、考えたことさえなかった。
 それなのに。あの日、自分から部屋に呼んでおいて、もうすぐ娘が帰ってくるから早く出ていって、とあの女は言いはなったのだ。それまでの親しみのこもった態度とはうって変わった無表情で、冷たく。それさえなければ、ほんとうにやばくなる前に退散していただろうに。
 あの一言が、Dの心のなにかを強く掻き乱した。
 気がついたときには、包丁を持ってあの女の前に立っていた。それでも、女は表情を変えなかった。ただ、わずかに眉をひそめて、一言だけ。ふざけるのはやめて、と。
「……悪いのは俺じゃない」
 数えきれないほどくりかえしたこの言葉を、Dはいまもう一度口に出してつぶやいた。そうさ、悪いのは俺じゃない。あの女のほうだ。あいつがあんなふうに言わなければ、あんなことにはならなかったんだ……
 気分はおさまりそうになかった。Dはいらだたしげに寝がえりをうつ。
 そして、視察孔が開いていることに気がついた。
 足音はなかった。さっきの看守が行ってから、誰も近づいていないはずだ。だが視察孔はたしかに開いていた。息を殺し、Dは扉の外の様子をうかがう。
 見られている気配がした。それも、いつもの看守のような監視のためのものではなかった。もっと深く、存在そのものを見据えられているような――
 そこまで考えてから、不意にどうでもよくなって緊張を解いた。外に誰かがいたからといって、どうだというのだろう? どうせ自分にできることなど何もないのだ。声をかけてこないのはおとなしく寝ているかどうかをたしかめたいだけだからに違いない。なら、そのうち行ってしまうだろう。いつものように。
 そんなことをとりとめもなく思っていると、不思議なことにしだいに本物の睡魔が襲ってきた。Dはごろっと体をころがす。視察孔はまだ開いていたが、もう気にならなかった。
 だから、天から降ってきたようなその声が聞こえてきたとき、Dは自分の空耳だと信じた。
「ここから、出たいか?」
「出たいさ、そりゃあ。こんなとことはさっさとおさらばしてえ。自由になれたら、きっと気分いいだろうな……」
 言葉に応えているというよりも、ひとりごとに近かった。それも本当につぶやいたのかそれとも思っただけなのか、自分でもよくわからないうちに、Dは眠りに落ちていた。

 寝がえりをうったときの、妙にあったかくてやわらかい感触に目が覚めた。
 久しく感じたことのない心地よさにふたたび眠りに沈みながら、しかし理性の一部がなにかがおかしいと警告を発していた。無意識がそれを跳ねのけようと腕を動かす。
 腕が感じた重さの違いが、意識を覚醒に引きずりだした。
 両目を大きく見開いてがばっと上体を起こした。首を左右にふり、次いで自分の掌を見つめる。指先さえおぼろげにしか見えないほど室内は暗かった。当然、様子などはまったくわからない。
 だがここがあの狭っくるしい三畳の部屋でないことははっきりとわかった。なによりもそれは、いま自分の身を包んでいるやわらかい布団そのものが雄弁にものがたっている。それに、匂い。あの湿ってよどんだ匂いが、ここではまったくしない。
 それでいて、闇は独居房のそれよりも敵意に満ちているような気がした。
 混乱している頭にDは片手をあてた。場所も状況も、まったく理解できなかった。
 たしかに、拘置所から出ることは願っていた。願ってはいたが、それが叶うはずがないことも身に染みてわかっていた。ましてやこんな訳のわからない形での脱出なんて、ありうるはずがない。これが夢だというのなら話は別だが――
 そこまで考えたとき、あの言葉が脳裡によみがえった。中性的な、感情のこもらない、あの声が。
“ここから、出たいか?”
 声は、たしかにそう言った。
「――あれは、このことだったのか?」
 漏れた言葉は、頼りないほどか細かった。喉がからからに渇いているのをDは意識する。なにかを強く打つような音が自分の鼓動だということにあらためて気づいた。
 気分を落ちつけようと、気やすめに深く息を吐きだした。そっと、布団から右足を出す。伸ばしたままの足のかかとに畳の感触が伝わった。自分が虚空の上にいるのではないことを知ってすこし安心すると、勇気をふりしぼって立ちあがった。
 普通に立てたことにほっとすると、あらためて首をめぐらせた。あたりはあいかわらず闇に沈んでほとんど見えなかったが、寝ているときよりは様子がわかるような気がした。すくなくとも、それほど広くないことだけはたしかだ。独居房ほどではないにしろ、閉ざされた空間の匂いがする。そうだ、この匂いは前に嗅いだことがある……
 たぐりよせた記憶が細部を取りもどした瞬間、Dは愕然として息を飲んだ。
 待ちかまえていたかのように、闇の一部が四角く切りとられた。
 光は淡く弱かったが、それでも闇に慣れた眼は強かった。Dは反射的に手を光に向け顔を伏せる。
 細めた眼に、今度は足元にまつわりつく奇妙に歪んだ影が映った。
 Dは顔をあげて影の主をたしかめようとした。だが逆光の姿はだらりとたらした両腕くらいしかはっきりと認めることができなかった。それでも周囲にただようただならない気配はいやでもわかる。こいつ、正気じゃない――一目見た瞬間にDはそう感じていた。
 と、影に隠れた顔が不気味に動いて笑みを作った。
 唐突に、Dは影が誰なのかを如った――あの女の旦那だ。醸しだす異様な雰囲気が、写真や法廷で何度も見ていたのにすぐには気づかせなかった。しかし、何故?
 片手の先の長いエッジが光った瞬間、Dは状況を理解した――そして、自分の置かれている立場も。
 影が前かがみになってDに近づいた。
 ――待て!
 叫びながらDはうしろに下がって逃げようとする。だが体はまるで夢のようにゆっくりとしか動かなかった。影は見る間にDとの距離を詰める。
 光のあたった影の顔に喜悦の表情が浮かぶのをDは見た。
 次の瞬間、腹部に鋭い痛みが突き刺さった。

 高い叫びが空気を割った。

 だがそれはEの望んでいた男の悲鳴ではなかった。
 刺した瞬間の昂揚はすぐに失せた。鼓膜に響く女の叫び声をEは信じられない思いで聞く。それから、半ば茫然とした目を足元に崩れおちた体に向けた。
 刺されたはずのDも、Eと同じ目で見、同じ耳で聞いていた。信じられない思いに体が震えるのさえ感じていた。いや、その思いはほとんどDのものでさえあった。
 足元に倒れているのは、あの女/Aだった。
 かがんで抱きおこそうと思ったが、体がこわばって動かなかった。包丁を握る手に生々しく残る感触が、奪いとったものの確かさを伝えていた。
 身動きできないまま、Aが死んでいくのをただ見つめていた。
 いつのまにか室内から闇が去っていた。倒れた女の周囲の光景がいやでも目に入ってくる。布団の柄や畳の色――忘れようにも忘れられない生活の断片。ここは、二人がともにいたあの部屋だった。
 そうだ、あのときもそうだった――真っ白の頭に記憶がよみがえる。あのときは、ただ見おろすばかりだった。それが何を意味するかさえ、わからなかった。けど、いまは――そう、いまなら、わかる――……
 奪ったもの/奪おうとしたものが何か、D/Eははっきりと理解した。
 女のそれよりも大きく激しい叫び声が室内を満たした。Eが望んだ絶望の悲鳴/Dが発せなかった後悔の悲鳴。どちらにとってももはや不要な、故に叫ばなければならない悲鳴。
 すべてをしぼりつくそうとするかのように、絶叫は長く響いた。

 扉が開き、看守に続いて見覚えのある顔が入ってきた。
 だがそれはEの知っている顔ではなかった。カメラの前や法廷で常に浮かんでいたあのふてくされたような色はどこを捜してもない。かわりに、焦躁が色濃くあらわれていた。金網越しに対面しているせいだろうか? そうではないはずだ、とEは思う。同じ焦燥は、自分の顔にもあらわれているはずなのだから。
 Dも、Eの顔にあらわれた焦躁を確かめていた。金網に近づき、Eの前にすとんと腰をおろす。被害者の遺族の面会も、いまは意外でもなんでもなかった。予感さえあったのだ。あのあと、ふたたび独房の中で目覚めたときに。
 そのまま、無言でただ相手を見つめた。
 やがて、疑問が相手の瞳に浮かびあがるのを認めた。Dは/Eはちいさくうなずいた。
 そして、涙が頬をつたって落ちるのを感じた。
 そのまま、Eはうつむいて落涙するにまかせた。悲しみでも怒りでもない、純粋な涙を、ただ流れるにまかせた。
 Dもまた、金網越しの姿と同じようにうつむいて涙を流した。向いの男と同じ理由かどうかはわからなかった。いや自分自身にさえ、理由はわからなかった。ただ、涙を流すことだけでしか、この想いはあらわせなかった。
 互いに向きあう相手を意識しながら、二人は静かに泣きつづけた。

 あるいは、空耳かもしれない。だが、あの特徴的な中性的な声が、たしかに脳裡に響いたような気がした。
“――望みは?”
 答はなかった。答える場所に、もういなかった。

<控訴断念・母娘二人刺殺 被告の意向により>
 AさんとBちゃんの母娘二人が刺殺された事件で、弁護側は24日控訴しない方針を固めた。D被告の意向を受けてのもの。これにより、同被告の無期懲役刑が確定した。

 夕刊の片隅に載っていたこの記事に目を通しおえたとき、電話のベルが鳴った。受話器を取ると、がなるような声が話を一方的にまくしたてた。前にも聞いたことのある、週刊誌の記者の声だった。ひととおり勝手に話すと、記者はコメントを求めて口を閉じた。
「……許された時間を、精一杯生きてほしいと思います」
 静かに言って、受話器を置いた。心を乱すものは、もうなかった。

(Page Top < Scenes < Fiction < Site Top | Enquete)


夕暮れ、乾いた瞳

 正直に云えば、はじめ私はKの話に乗り気ではなかった。
「人形?」
 そう訊きかえした私の声は、普段よりいくらか高く、そして大きかったはずだ。もっとも私たちがいた居酒屋は私の声などかき消されてしまいそうなほどの喧騒に満ちていたが。たとえそうでなくても、Kがそんなことに気づいたかどうか。
 ともかく、Kは横に座る私のほうを見たままはっきりとわかるようにうなずいた。
「そう、人形」
 Kの声は私よりかなり大きい。この返事もまわりの騒ぎを打ち消さんばかりの勢いだった。私もそれに負けないようできるだけおおきな声を出そうと口を開いた。
「そんなもの見に行ってどうするんだ?」
「どうもしないさ。ただ見るんだよ」
 さもなんでもないように言うと、Kは空になったお銚子をカウンターの向こうに見えるように振って追加を頼んだ。私はといえば、まだKの言葉に納得がいかなかった。
「けど、人形だろ? ただの。そんなものわざわざ見に行っても――」
「つまらないんじゃないか、だろ? おまえが言いたいのは。四谷シモンも天野可淡も知らないくせに。どうせリカちゃん人形みたいなもんしか頭に浮かばないんだろう。そんなんじゃないんだから。人形だって立派な作品だぜ? とにかく見るだけの価値はあるって。なにしろ――」
 Kは変わった人間だ。体もでかく声もでかい、繊細などという言葉からはおおよそ縁遠いように見える一方、現代美術を愛好していて、まめに美術館やギャラリーの展示をチェックし、出かける。街中で見かける、私などにはまったくわけのわからない例の得体の知れない絵や彫刻を前にしきりに感心したりうなったりすることもたびたびだ。そういったものについて話すときのKはむずかしい言葉を見事に使う。そのときのKがそうだった。
 私はといえば、調子をあわせてうなずいたりあいずちを入れたりしてはいたものの、話には半分もついていけなかった。Kも本気で私にわからせようとしていたのではないと思う。私がそういった分野に興味がないことはKも知っていたし、それに、一人でさんざん話したKは何本目かのお銚子を空けたあとでこう言ったのだ。
「……ま、ほんと言うと、たまにはちょっと変わったものを見るのも気分転換にいいんじゃないかと思ってね」
 どう返事をしたか、酔っていたので覚えていない。とにかくそれからはおたがいの上司の悪口やテレビのことなどの無駄話に終始し、結局その夜はすっかりできあがってから別れたのだが、それでもKは私にギャラリーの住所と簡単な地図の書かれたメモを私に渡すのを忘れなかった。私はというと、酔った頭で電車に揺られながらそのメモをながめ、Kの不器用な気の使いかたについ苦笑した。そして、いつのまにかそのギャラリーへの行きかたをぼんやりと考えはじめていた。

 家を出るまでは、せっかくKにすすめられたんだから、という意識が強かった。しかしそれも、おだやかな陽射しに照らされた昼下がりの街並みをながめるうちにいつか薄れていた。そして、こんなふうに景色にゆっくりと眼をやりながらの外出がどれだけひさしぶりのことかに気づかされた。Kの思惑は見事に当たったことになる。
 もっとも、そのときになっても私はKの言った人形にそれほど期待してはいなかった。そこにゆったりした気分になっていたことも手伝い、つい寄り道を重ねるうちに、気がつくといつか夕暮れ近くなっていた。ふと我にかえった私は、地図を片手にあわててギャラリーへと進路を修正した。
 そのギャラリーは表通りから二、三本奥に入った人通りのない路地の角にあった。スモークガラスのそのドアの前を、私はあやうく通りすぎてしまうところだった。ギャラリーなどというものには縁がなかったので、まさかそんなにわかりにくいものだとは思っていなかった。
 行き過ぎずにすんだのは、ドアに飾られたプレートのおかげだった。それには展示会の題名らしきものとKのメモに書かれているのと同じMという名前が書かれていた。飾り文字で書かれたその綴りをよく読みとることができたと思う。私はすこし引きかえしてあらためてドアの前に立った。
 しかし、ドアをすぐ開けるというわけにはいかなかった。中の様子をほとんどうかがえないそのドアは馴染みのない相手を拒んでいるようにさえ思えた。すくなくとも自分が場違いな人間だということははっきりしていた。
 誰かを誘って来ればよかった、といまさらながらに私は思った。そうすればもっと気楽になれただろうに。そうだ、それにうまい口実にもなった。出かける前になぜ思いつかなかったのだろう……
「入るの?」
 私はひどく驚いて見えたにちがいない。考えていたことまで見すかされたような気がして、私はあわてて声のしたほうに顔を向けた。
 私のすぐ横に、つばの広い帽子を目深にかぶった小柄な人が立っていた。
「入らんのなら、ちょっとどいて」
 声はあくまで落ちついていた。女にも男にも思える、ちょっと不思議な声だった。つばに隠れて眼が見えないせいもあったろう。私には声の主の性別がわからなかった。
 そんなことを気にしつつ、同時にばつの悪い思いをしながら、私は脇にしりぞいた。そのときになってはじめてその人が持つおおきくて頑丈そうな革のトランクに気がついた。小柄な人はそのトランクを苦もなく持ちなおしてドアを引き開けて中に入った。
 無造作なその動作が、私の警戒を解いたのかもしれない。あるいは、閉まるともう入れないかもしれないと思ったのかもしれない。とにかく、私は半ば反射的に閉まりかけたドアの隙間に身をすべりこませていた。
 入ってすぐのところで、思わず私は立ちつくした。
 その異様な雰囲気をどう言いあらわしたらいいだろう? 第一印象をまだはっきりとつかみきれないまま室内のかもしだす空気に圧倒され、私は救いを求めるようにただ店内を見まわした。
 それほど広くないギャラリーは、どうやら全体を街角の公園に見たてているようだった。ちいさめのブランコやベンチ、砂場、鉄棒などが雑然と並べられていた。光の加減からすると夕暮れに近いらしい。
 そして、そのどれもに赤ん坊ほどの大きさの子供の人形がすえつけられていた。
 しかし、それを本当に子供と言っていいのだろうか? 大人を表現しようとしていないことは確かだった。だがその顔は、普段見なれているマネキンや人形の顔と違い、どこかわざとらしく、機械的だった。まるで表情の下に塗りこめられた毒が隠されているように。そして、なによりもその眼……
 飾られているすべての人形の眼は、閉ざされたままだった。
 たぶん私は、ひどく間の抜けた表情をしていたと思う。驚きのあまり息もできないように見えたかもしれない。そんなかわいらしい年齢はとっくに過ぎていたが、そのときばかりは自信はなかった。そのどちらであったにせよ、もしその部屋にいたのが私だけだったなら、私はずっと立ちつくしたままだったろう。
「お気に召しませんか?」
 その一言が、私を現実に引きもどした。
 我にかえった私は、今度もあわてて、声のしたほうに顔を向けた。すぐ横、受付用のちいさな机のうしろに、私の前に入ったあの小柄な人が立っていた。まだ脱がずにいる帽子に隠れた瞳が、なぜか私のことをじっと見つめているように思えた。
「いえ、そういうわけでは……。しかし、なんというか、その……」
 その場をとりつくろうように言うと、私はもう一度ギャラリーを見まわした。続けようとした言葉は、しかし、やはり出てこなかった。他に人がいることも異様な雰囲気を薄めたりはしなかった。眼を閉じた人形たちに、私は圧倒されていた。
 そのときすぐに出ていってしまうべきだったのだ、と思う。だが、続けて発せられた言葉が、それを許さなかった。
「異様ですか?」
 思考を覗かれたような感触に、私の視線は声の主に引きつけられた。
 鼻から下しか見えない顔からは感情を読みとることはできなかった。まるで人形たちと同じように私には見えた。そういえば、人形の顔はその作者に似るという話を聞いたことがある……
 作られたものではないことを証明するように、その口が開いた。
「よろしければ教えてほしいのですが、私の作品を見るのははじめてでしょうか?」
 考えていたことを裏づけるようなその問いに、私はただうなずいた。すると、人形の作者――Mも、同じようにうなずいてみせた。
「成程」
 言いながらも、Mの顔はまっすぐ私に向けられたままだった。追いつめられたらしいことを私は肌で感じていた。
 やがて、Mの口の端がわずかに曲がった。眼が見えないのではっきりとはわからなかったが、どうやら笑ったらしかった。
「いや、これは失礼しました。なかなかあなたのような人にお会いする機会はないもので」
「……どういう意味でしょうか、それは」
 口調に多少の棘が含まれたのはしかたないだろう。Mの言いかたにはどこか皮肉めいたところがあり、それが私にはひっかかったのだ。これがわざわざギャラリーまで来た人間に対してのものの言いかただろうか?
「誤解しないでください。気を悪くされたのならあやまります。あなたのような人に来ていただいて、ありがたいと思ってるんです、私」
 言うと、私の気を削ぐようにMは顔を下に向けてその場にかがみこんだ。足元に置いてあったトランクを倒し、開く。私は見るとはなしに眼を向けた。
 トランクの中にきれいに収められているものがなにか、すぐにはわからなかった。Mが取りだし、組み立てはじめるまで。
「……よろしければ、説明していただけないでしょうか?」
 あたらしい人形を組み立てているMに私は言った。私はMの真意をはかりかねていた。
「本当に、悪い意味で言ったのではないんです。ただ、あなたのような反応をしてくれる人にはめったに会えないものですから。できればそういう人にもっと来てもらいたいのですが……」
 手を動かしながら、私のほうを見もしないでMは答えた。そのなにげない調子が、かえって私の注意を引いた。
「私のような?」
 聞きかえすとMはちいさくうなずき、完成した人形を抱えるように持って立ちあがった。
「だってあなた、本当に驚いていらっしゃたもの」
 私は息を飲んだ。そんな私を気にかけた様子もなく、Mはギャラリーの奥、天井からつりさげられてるブランコに歩みよってその前でしゃがんだ。
「なにも、驚いてほしい、というわけではないんです。けれど、できるなら第一印象から生じた感情をありのままにあらわしてほしい。私が狙っていることは、それほど複雑でもむずかしいことでもないのですから。
 なのに、多くの人はすでに私の作品を知っています。そして、今度はどんな意図で個展を開いたのか、などと考えながらやってくる。もちろんかれらの意見も私にたくさんの刺激を与えてくれます。だが、それだけではものたりない。
 あなたは、私が望んでいた人なんです」
 言いながらMはブランコに座っていた人形をあたらしく組み立てたものと置きかえた。作業のあいだ、Mは私に背中を向けたままだった。
「……望みとは、驚いてみせることですか?」
 私の問いに、Mはかすかに苦笑したらしかった。
「ええ、そうとってもらってもかまいません」
「しかし、それは当然じゃないですか? いきなりこんな――」ものと言いかけ、私はあわてて別の言葉をさがした。「――場所に入るのと、すこしでも予備知識があるのとではずいぶん違うはずです」
「では、なぜそんな違いが生じるのでしょう?」
 私は言葉に詰まった。と、Mは交換した人形を抱いて立ちあがるとトランクのあるところまで戻ってきた。私はその様子を黙ったままながめた。
 不意に、Mは私に顔を向けた。
「どうです? よろしかったらこの人形を持って帰りませんか?」
「はっ?」
 あまりに唐突な提案に、思わず私は間の抜けた声を漏らした。表情にはあっていたかもしれないが。
「なに、ちょっとしたお願いです。見慣れない人形でも部屋にずっとあれば親しみをおぼえるようになるのか、どうか。私にはそのあたりのことはわかりませんので。
 人形の出来でしたら心配いりません。あのブランコに乗せておくにはちょっとあわないので取りかえただけですから。期間も、かたちとしては貸すことになりますが、あなたの望むかぎり、いつまででも。いかがでしょうか?」
 そのときになっても、Mの眼は隠れたままだった。
 これが、最後のチャンスだった。すこしでも考えたなら、きっと断っていたと思う。そうしていればもう一度やりなおすこともできただろうに。
 だが、答は反射的に口から出た。
「――よろしければ」
 Mの口許に満足そうな笑みが浮かんだ。
 どうしてそう言ったのか自分でも半分あっけにとられているあいだに、Mはかがんで人形を分解するとトランクにおさめはじめた。それから私に向きなおると組み立てかたの簡単な説明をして、名刺とトランクを私に渡した。
 それ以上私のすることはなかった。Mを残してギャラリーを出ると、陽の暮れた道を私は家へと歩きだした。

 帰宅してトランクを置いてからも、なぜこんなものをあずかる気になったのか、私にはまだわからなかった。
 がらんとした居間の隅に座って、私はしばらく持ち帰ったトランクをながめていた。組み立てたものかどうか、決心がつきかねた。あんな人形を部屋に飾って毎日対面する気分とは、いったいどんなものだろう? それを考えると、しまっておいたままにしておいたほうがいいように思えた。
 それでも結局組み立てはじめたのは、がらんとした部屋のせいだった。
 妻が娘をつれて出ていってからというもの、家からは生気というものが感じられなくなっていた。もちろん私自身の雰囲気が家の空気に影響を与えてはいただろう。しかしそれよりも、物理的に人の減ったこと、家に人のいる時間の減ったことそのものが寒々とした空気の原因のように私には感じられたのだ。
 人形だということが、私を納得させる理由になった。ただ部屋を飾るだけでは意味がない――人のかたちをしているからこそ、この家の空気を変えてくれるのだ、と。こうして自分をだましながら、私は手を動かしていた。
 組みあげた人形は、他に適当な場所がないために、サイドボードの上に座らせることになった。そうすると顔が部屋の戸口に向いた。こうしてみると、いまもまだその表情には慣れないものの、異様さはずいぶん薄れたような気がした。一体しかないことや生活の空間にあることも異様さをやわらげる効果があるようだった。伏せられた眼もはにかんでいるようにさえ思えてきた。してみると、たくさんのこの人形を置くことでMは非日常的な空間としてあらわしたかったのだろう、そう考える余裕さえ生まれた。それでもこの人形に帰宅を迎えられたら、すこしはびっくりするかもしれない。そんなことをとりとめもなく考えながら、私は座った人形をためつすがめつした。

 もちろん、人形を飾ったからといって生活が変わるわけはなかった。朝と夜に見るものが増えただけ。事実としてはそれだけだった。予想どおり、電気を点けたとたんに浮かびあがる人形の顔には何度かどきっとさせられたものの。
 しかし、眼を閉じた人形は微妙な部分で私に影響を与えはじめていた。
 最初に気づいたのは、独り言が増えたことだった。部屋にひとりきりでいることが多くなってからその傾向はあったのだが、人形を置いて数日すると自分でもまずいと思うほどに口に出すようになっていた。
 しかも、その口調は明白に人形に語りかける調子に変わっていた。
 気づいたときにはしばらく唖然としたものだ。なぜ私を見てもいない人形に語りかけなければならない?
「おまえのせいだ」
 そう面と向かって言ったことの異常さに気づき、私は独り言を無理に押さえようとはしなくなった。
 生活の一部になることで異様さこそほとんど消えたものの、サイドボードに座った人形はまだ若干の異和をその顔に残していた。それが、わずかではあるものの私におちつかなさを感じさせていて、それを解消するために語りかけるのだ。私はそう考えることにした。 思えば、こんな経験は以前にもあった。新婚のころだ。二人で同じ部屋にいることに慣れるまで、私は妻によく話しかけた。たわいない内容が多いことも同じだった。人形と違い、妻は私の言葉に答えてくれたが。
 妻との場合は、居心地の悪さがなくなるにしたがって言葉も減っていった。ひとつ屋根の下で暮らすということは黙っていても自然にいられることだと思っていたから、私は何の不安も感じていなかった。妻の口数がすくなったのも同じ理由だと信じていた。
 結局、私は妻のことがまったくわかっていなかったのだ。決定的なあの日、彼女は堰が崩れたように一晩中ずっとわめきつづけた。まるでそれまで話さずにいたことをすべて吐きだしてしまわないと、また、むりやりにでも私に聞かせないと気がすまないとでもいうように。
 ――普段から言ってくれればよかったんだ。それでも私は聞いてくれないと責められただろうか。あるいは、――もっと早くあの日が来てしまえばよかったんだ。そうすれば、もっと早く、娘ができる前に、やりなおすこともできただろうに。
 気づいたとき、こんなことを私はつぶやいていた。誰にも言えないが、誰かに言わなければならないことだった。
 それから私の言葉の内容は変わった。上司の悪口や愚痴、ささいな不平や不満。そんなことばかりをつぶやくようになった。家に帰るとその日気に入らなかったことを言いながら着替えることが、いつか私の日課になっていた。
 人形に対しては口数は減らなかった。むしろ増えた。妻や友人にさえ言わないようなことまで話すようになった。言葉を聞いてくれる存在がいることの安心感を、はじめて私は感じていた。余計なことは何一つ言わないことも、私は気にいっていた。
 話すとき、人形をいちいち見たりはしなかった。なぜそんな必要があるだろう? たとえ眼を閉じていたとしても、いることはたしかなのだから。
 一月もしないうちに、人形は私の生活の一部になっていた。
 Kと呑みに行ったときも、Mの人形が家にあることは話さなかった。ギャラリーの印象をすこしのあいだ話題にしただけだ。その他はいつもの調子の話ばかりだった。
 ただ、その合間にKはこんなことをぽつりとつぶやいた。
「まあ、おまえもだいぶ落ちついたみたいで安心したよ」
 あの人形のせいだと知ったら、Kはどんな顔をしただろう?
 Kにそう言わせたように、すくなくとも表面上は、私は以前の私に戻っていた。離婚の痛みもしだいに薄れてきたように感じていた。
 娘のことを思うときだけ、心に刺さった棘がちいさくうずいた。
 出ていったその日から、何度電話機に向かいあったかわからない。離婚の条件でも月に二回の面会は認められていた。しかし妻は娘をつれてきてまでは会わせようとはしなかったし、私もまた、電話番号を最後まで押せなかった。別れることが決まるまでも、それからも。なぜだか、娘に会うことが私にはためらわれたのだ。
 その感じが消えたわけではなかった。だが、会いたい、いや、会わなければならないという気持ちが日増しに強まっていたのも、事実だった。
 そして、とうとう私は受話器を手に取った。眼を閉じた人形に背を向け、私はすでに覚えていた番号を正確に押した。
 しばらくぶりに聞いた元妻の声は出ていったときと同じようによそよそしかった。次に出た娘の声も、すこし固く感じられた。そのことを努めて気にしないようにして、私は娘を次の日曜に家に遊びに来るようにと誘った。できれば一人で来るように、と言って。まだ小学校に入ったばかりの女の子が一人で出歩くことを心配して彼女は結局はついてくるだろうが、こう言っておけばすくなくとも家にあがろうとは思わないはずだ。
 娘はすぐには答えなかったが、最後には私と約束をした。その声がうれしそうに聞こえたのは、たぶん、私の錯覚だったと思う。

 玄関に立った娘は、すこしはにかんでいるように見えた。
 靴を脱ぐのを待ってから、私は娘を抱きあげた。いっしょに住んでいたころはめったにやらなかったことだ。おそらく私はすこぶる上機嫌に娘の瞳に映ったことだろう。娘は、人形より重く感じられた。
 抱えられた瞬間、娘は歓声をあげて私の首に両腕をまわした。それから、それまでの遠慮した様子などすっかり忘れてしまったかのように次から次へと話しはじめた。私は笑いながらそれを聞き、ときにはあいづちをいれながら娘の顔を見つめたまま奥へと歩いた。
 居間の入口に来たとたん、娘は腕にぎゅっと力をこめた。
「おい、痛いよ。どうしたんだ?」
 ちょうど笑っていて眼を閉じていた私は、娘の体から伝わってくる普通じゃない気配に思わず足を止めた。
 眼を開くと、おびえる娘の横顔が映った。ちいさな瞳がおおきく見開かれて一点に向いていた。私は娘の視線を追った。
 そして、娘を抱きあげたままでただ立ちつくした。
 娘が、そして私が見たのは、サイドボードに腰かけたあの人形だった。だが見ているのは私たちだけではなかった。人形もまた、私たちを見つめていた。
 両眼を開いたその人形は、表情さえ違っていた。わざとらしさは消え、造りものめいた影は失せ、まるで生きて意志を持つかのように私たちに眼を向けていた。そして、なによりもその瞳……
 人形の瞳の奥には、激しい憎しみが宿っていた。
 動けずにいると、おびえた娘のささやき声が聞こえた。
「パパ、あんな怖い人形どうしたの? まるでおこってるときのパパがもう一人いるみたい」
 言われて、はじめて私は理解した――人形の瞳が、私と同じものを見ているのだということを。
 そのあとのことはよく覚えていない。娘はすぐに帰ったのだと思う。居間に残った私は、ひとり(違う、そうではない!)呆けたように座っていた。
 気がついたとき、人形の眼はふたたび固く閉ざされていた。

 私はほとんど無我夢中で家を飛びだした。どこへ向かっているのかさえほとんど意識していなかった。だが行先はひとつしかありえない。ギャラリーの前に立ったとき、私はそのことをあらためて思い知らされた。
 ギャラリーの扉はすっかり暗くなった夜の闇に吸いこまれそうに見えた。心の闇を反映しているような気がして、私はそれを打ち消すように扉を開いて中に入り、
 すぐのところで立ちつくした。
 ギャラリーの奥から、一対の眼が私を見すえていた。
 外よりも昏い室内で、一瞬、それは星に見えた。しかしその光は星よりもずっと強い力を宿していた。私の心を見透かすような輝きを。
 いつか、瞳の数が増えていた。そのどれもが私を見ていた。どれもが、私の心を見透かす輝きを放っていた。
「どうしました?」
 突然の言葉に、私は反射的に声の方向に顔を向けた。
 私の横、すこし離れたところに、同じ一対の瞳が私を見ていた。
 天井で蛍光燈が瞬いた。強い光に私は腕で眼を隠し、慣れるのを待ってからふたたび声のしたほうを見た。
 Mがそこに立っていた。瞳はもう見えなかった。前に会ったときと同じ帽子のつばにすっかり隠れてしまっていた。
 言うべき言葉を見つけるまで、ずいぶん時間がかかった。やっとのことで、私は奥を指さして口を開いた。
「あ、あれは――」
 言いかけ、横目で奥を見て、私は言葉を失った。
 はじめに気づいた瞳があった位置には、人形がブランコに座っていた。その眼は、しかし、開いてはいなかった。外の世界にはまったく関心がないかのように。
 私は部屋の中を見まわした。人形たちが前に来たときと同じようにあちこちにたたずんでいた。前に見たときと同じく、瞳を閉じて。
 私は途方にくれてたたずんだ。
「――見たんですね?」
 Mの言葉は、問いではなく、確認だった。私はふりむきはしなかった。見なくても、Mの眼が帽子の陰から私を見つめていることがわかった。
「なに、ちょっとした仕掛けですよ。ときたま開くように造ってあるんです。いつ開くのかは、埋めこんでしまうと私にもわからんのですが」
 私は首を力なく横にふった。Mは事実の半分しか話していなかった。たしかにいつ開くのかはわからないだろう。だがどうして開くのかは知っているはずだ。
 いつわりに対したときに、人形は眼を開く。隠された真実を明かすために。
 人形たちと同じように、私も眼を閉じた。すでに私も、物を云わずたたずむだけの存在になっていた。
 脳裡にMの皮肉な笑みが浮かんだ。その顔は、私にこう言っていた――わかっただろう?

 思えば、人形といっしょに暮らしはじめたあのときから、私はすでに気づいていたのだろう。だが私は必死になって自分をごまかしつづけていた。それを考えれば、娘は、そしておそらくは妻も、私のことをよく知っていた。いや、私のことをいちばん知らなかったのは私自身だったのかもしれない。
 だが私は知ってしまった。もういつわることはできない。
 それは事実なのだ。私が出ていった妻を憎み、妻についていった娘を憎み、上司を、同僚を、そしてこの世のすべてを憎んでいることは。理由もわからないほど、その憎しみは私の奥に深く根ざしている。
 Mはそのことをわかっていた。だから、私に人形をあずけたのだ。聞かなくても私にはわかった。なぜなら、Mも私と同じ種類の人間だから。
 人形はまだサイドボードに腰かけている。あれ以来眼を開いたところは見ていない。
 独り言は言わなくなった。言う必要はなかった。言わなくても、人形はわかっている。
 おそらく私はすっかり回復したように周囲の眼には映っているだろう。Kも会社の人間も、私に対して不必要に気をつかわなくなった。それはそれでありがたいことだった。私も気をつかわなくてすむ。
 だがこれだけは断言できる。いまの私のことをわかっている人間はいない。娘も、妻でさえも。私の本当の姿など、誰にもわかるはずがない。
 そうだろう? 本当の私は、この人形の瞳の奥にいるのだから。
 その場所で、私はすべてを憎み続ける。

(Page Top < Scenes < Fiction < Site Top | Enquete)


ビュットについて知ってる二、三の事柄

 ビュットのことを話そうと思う。
 なんだそりゃ?という人も、とりあえず話を聞いてみてほしい。ぼくだってそんなにたくさんのことを知ってるわけじゃないし、役にたつ話でないことは保証するが、ひまつぶしくらいにはなるはずだ。悪いけど、ちょっとのあいだつきあってくれないだろうか?

 ぼくがビュットのことをはじめて知ったのは、二月くらい前の日曜日だった。
 早かったのか遅かったのか、正直いって、よくわからない。そのころのぼくは仕事がいそがしくて帰りはいつも遅かったし、しかも行きはねぼけまなこ、帰りは疲れた体を引きずって部屋に戻ることだけを考えていたからまわりのことを気にする余裕なんてぜんぜんなかった。当然夜は死んだように眠っていたので、夜中にビュットが訪ねてきていたとしても気づかなかったろう。ひとり暮らしで、しかも三月前に引っ越してきたばかりのぼくはそんなわけでビュットのことを知らないでいた。ビュットのあらわれはじめのことを知らないのは、いまから思うと惜しかったという気もする。
 それはともかく。その日のそのとき、ぼくは駅前商店街の喫茶店『メルヘン』でランチセットを食べていた。ひさしぶりに休日出勤をしなくてすんだせいで目をさましたのは十二時すぎ、それから食事の支度をするのもめんどうなので手軽に外食ですませることにしたのだ。いそがしさのせいで部屋に食い物がなかったというのもあるし、残業代のおかげで財布がすこしばかりふくらんでいたということもあった。もっともそんなこととは関係なく、だいたい月に五回くらいは昼食の支度がめんどうになるのだけど(夕食になるとその回数が増えるのはご想像の通り)。『メルヘン』に入ったのは、広い窓から天気のいい景色がながめられたからだ。ちなみに、その日注文したのはミートソースとコーヒーのセット。おっと、これはどうでもいい。もっとも、この話自体がどうでもいいといえばどうでもいい。
 えーと、なんだったっけ? そうそう、あの日曜日のことだ。スパゲッティをたいらげたぼくは、まだどことなくぼんやりとした頭で窓の外をながめながらコーヒーをすすっていた。窓際の席からはあかるい街の光景がよく見えた。通りを歩くのはたぶん買い物にでも行くのだろう親子連れや子供たちの集団、それに若い男女のカップルなど。平凡といえばそれまでだけど、そんなふうに街をながめるのがひさしぶりだったぼくには心やすまるものだった(もっともカップルが目にはいったときにはうらやましいと思わずにはいられなかったけど)。ぼくはなんとはなしに外を見やったものだ。
 と、窓の外すぐのところを、テーブルの高さくらいのなにかが通りすぎた。
 はずかしながら、気づいたのはそいつが通りすぎてから何秒かたってからだった。目にはいったときには気にもしなかったけど、どうもそいつはなんだかおかしなものに思えたのだ。
 それでもまだぼんやりとしていたぼくは、のろのろとそいつが通りすぎていったほうに顔を向けた。そこにはそんなおかしなものはいなかった。ぼくは首をひねりながらコーヒーカップを持ちなおした。
 そのとき、鈴を鳴らしながら店のドアが開いた。
 なにげなく視線を向けたぼくは、あやうくカップを落としかけた。我が目を疑い、何度もまばたきをした。眠気なんて一気にどっかにふっとんでいた。
 扉のところに立ってたちいさいそいつは、どう見ても人間じゃなかった。
 そんなことを云えば、そいつは地球上の生き物にさえ見えなかった。からだの大きさは小学生低学年くらいで、全身はぽやぽやの緑色だ。頭らしきもののてっぺんからはうさぎの耳をもっと細くしたようなものがぷらんとたれさがっている。そしてなによりもぼくをおどろかせたのは、二本の足らしきもので立っていて二本の手らしきものを持っているところ(そのうちの一本は開けたままの扉を支えていた)だった。
 さらにびっくりしたことに、扉のむこうには同じかたちの生き物(といっていいんだろうか?)がまだ何匹(?)も立っていた。
 ぼくがあぜんとして見つめていると、いちばんはじめに入ってきたそいつはきょろきょろとしかいいようのない動作で頭(らしきもの)を動かして店の中の様子をうかがった。それから、興味をなくしたように(本当にそう見えたのだ!)背を向けて(背と呼んでいいのかわからないが)店を出ていった。そのあいだ、ぼくの目はそいつに釘づけになっていた。
 扉が閉まり、そいつらが見えなくなったところで、やっとぼくは我にかえった。
「ね、ねえ、いまの――」
 自分でも誰に声をかけようとしているのかよくわからないまま口を開いたとき、ウェイトレス(実はこの娘がぼくがこの店に来る目的のひとつだったりする)がぼくよりもっとおおきな声でカウンターの中のマスターに質問した。
「マスター、なんです? いまの――あれ」
「なんだいくみちゃん、見たことなかったの? あれがビュットだよ、ビュット」
「ビュット!?」
 ぼくとウェイトレスの驚きの声は見事にハモッた。マスターは、むしろぼくたちの態度に驚いたようだった。
「なんだ、知らなかったの?」
 ぼくはウェイトレスのいくみちゃんと顔を見あわせた。あらためて店内を見まわすと、すくないほかの客は平然としていた。つまり、知らないのはぼくといくみちゃんだけだったのだ。
「そ、それで、なんなの? ビュットって」
 ぼくが言うと、マスターはお皿を拭きながらにやっと笑ってみせた。
「あれが最近街で話題の宇宙人ですよ、お客さん」
「うちゅうじん!?」
 自分にもぼくの声はひどくすっとんきょうに聞こえた。マスターはそんなぼくの反応を楽しむかのようににやにや笑いを浮かべたままだった。
「そ。二週間くらい前から見かけるようになったんだよね。最初はおおさわぎしたんだけど、どうやら害はないみたいだからみんなほったらかしにしてるんだ。それに連中、動くとすごくいい音をたてるから、最近じゃ街の人気者だよ」
「――音?」
 いくみちゃんの言葉に、ぼくははっとして扉のほうを見た。そうなんだ、言われてやっと気がついた。
『メルヘン』の扉には、鈴なんてついていなかった。
 ぼくは扉をだいぶ長いあいだ見つめつづけた。ぼおっとしてるのは、眠気のせいばかりではなかった。

 一度気づいてみると、あとはいやでも目にはいる。実際、ビュットは街のいろんなところにいた。朝夕の駅までの往復のあいだでもけっこう見かけた。ぼくでさえ気がつくのだから、ビュットはきっと普段から街にあふれていたに違いない。もちろん休みの日の日中にはたくさんのビュットがあちこちうろついていた。
 そんなふうにたくさん見かけていながら、ビュットの印象はというと、なぜかぼんやりとしている。それは、なにもぼくだけじゃないと思う。ほかの生き物とはぜんぜん違うその姿のせいで一目見ればビュットだとすぐわかるのだけど、そのくせかんじんのかたちそのものは見るたびに変わってるような気がするのだ。色だって基本は緑色だけどその濃さや色調はそれぞれで違っている。
 どうやらそれはかたちだけの問題じゃないらしい。どうもビュットというのは存在感が希薄、というよりあやふやなのだ。
 それを象徴するようなエピソードがある。こんなヘンなものが突然(『メルヘン』のマスターによるとそうだったらしい)街中にあらわれて注目されないわけがない。当然はじめに気づいた人たちはおおいにさわぎ、たくさんの人が警察やテレビ局に通報し、その結果警官・報道陣・その他もろもろが大挙してこの街に押しかけてきた。
 とはいうものの、実際は警察なら交番の巡査、テレビ局なら遊び半分でやってきた使い走りが本当にビュットを目撃して必死になって電話をしてからだというから、そのあいだにはずいぶん時間が過ぎていたのだろう。そんなこんなでパトカーやテレビカメラがやっと到着したときには、ビュットはすっかり街から姿を消していた。集まった人たちはぶつぶつと文句をいいながらてんでんばらばらに去っていった。
 ところが、だ。押しかけてきた連中がいなくなってみると、いつのまにかあたりにはビュットがあふれていたというのだ。あわてて電話して呼び戻してみたが、連中が戻ってくるとまたもやビュットは影もかたちもない。そんなことを数回くりかえして、通報した人たちはすっかり狼少年にされてしまった。警官もテレビ局ももう来ない。そのかわり、ビュットはあたりをうろうろしている。
 そんなときに、だれかがこんなことを言いだした。つまり、ビュットはきっと好きなように姿を見せたり隠したりできるんだ、と。
 言われてみれば、たしかにそうだと思えるところがある。ビュットが気になるのはあくまでこっちが意識したときだけで、慣れてみればいてもいなくてもおんなじようなものなのだ。そんなわけだから、ぼくが二週間もビュットに気がつかなかったのはぼくがぼおっとしているからというわけではない、と、思う(いくみちゃんの名誉のためにつけくわえると、彼女はバイトをするときだけこの街に来るのだ。駅と『メルヘン』を往復するだけ、あとはウェイトレスをしていたのではいくら『メルヘン』がひまな喫茶店でも気づかなくても無理はない)。まあぼくのことはともかく、街のだいたいの人はこうやってビュットのことを納得した、とマスターは言っていた。
 当のビュットはというと、自分でもひとり(一匹?)では存在感がなさすぎると気づいているのか、たいてい数人(しかしいったいどうやって数えたらいいんだろう?)でかたまって行動していた。それでもこっちにしてみればいるようないないようなという状態だし、べつにじゃまになるようなことをするわけでもないので(むしろじゃまにならないようにしてるんじゃないかと思うほどだ)、いつのまにやら街の風景に自然にとけこんでいた。だれもビュットのことを特に気にしたりはしなかった。ふたつの例外的な場面を除いて。
 そのうちのひとつは、実はよくわからない。もっともビュット自体のことがよくわかっていないのだけど。宇宙人だというのもだれかが勝手に言いだしただけのことらしいし、意志の疎通に成功したという話も聞かない。どうも犬や猫のようにはいかないようだ。かといって相手が知的生命体とも思えないところがむずかしいところで――
 脱線した。ひとつは、実は起きてから気づく。ほら、前にも言ったあれ、音のことだ。
 どんな原理かは想像もつかないのだけど、ビュットは折に触れて本当にさまざまな音を鳴らすのだ。ぼくがはじめてビュットを見たときに聞いた鈴のような金属的な音もあれば、ガラスを割ったような音、ハープのような音、風が木の葉をそよがせる音から果てはなんともいえずやさしいやわらかい音まで、ありとあらゆる音がビュットの体からとびだした。ビュットがいれば、地球上のおよそすべての音と、さらにそれ以上の文字どおり聞いたことのない音が楽しめそうだった。
 ただ、残念なことにビュットがいつどんなときにどんな音をどうやって鳴らすのかはほとんどはっきりしない。基本的にはビュットのそばにいるときに偶然音が鳴るのを楽しむしか手がないのだ。あのすばらしい音の数々を偶然に頼ることでしか聞けないなんてなんとももったいないことだけど、相手がビュットであればこれもしかたない(学者先生がいればつきっきりで研究するところなんだろうけどこの街にそんなえらい人がいるって話は聞いたことがないし、それにつきっきりになるには相手に存在感がなさすぎた)。そういえばビュットという名前ははじめてビュットに気づいた(というのが正確なんだろうな、やっぱり)人がちょうどそのときに“ビュット”という音を聞いたから、ということになっている。宇宙人説とおんなじで眉唾ものだとぼくは思う。
 もうひとつのほうは、だれにでもすぐにわかる。やろうと思えばいまここで体験だってできる。どうしてもっていうなら、ぼくが相手をしてもいい。で、どうしたらいつもそんなまぬけな顔でいられるんだい?
 とまあこんな調子で喧嘩をはじめれば、いつのまにやらどこからともなくビュットがあらわれ集まって、当人たちをとりかこむのだ。まあ喧嘩と一口で云ってもピンからキリまでいろいろあるけど、集まるビュットの数はなんとそれにあわせて変わる。ちょっとした口論なら五、六体、まわりが気づくようなものになると十数体、どつきあいだと三十は軽く超える、といったあたりがだいたいの目安だろうか。やじ馬だとするなら、ビュットはみなけっこうなもの好きだ。
 で、まあ、いくら存在感が希薄でもまわりを囲まれるとさすがに気になるものだ。しかも不思議なことに、やじ馬みたいに集まっているときのビュットはなぜかよく音を鳴らす(基本的には、といったさっきのことに対する例外だ)。それも、これまたなぜか、なのだが、喧嘩している当人たちにしてみれば気勢がそがれるような音ばかりを、である(そんなときのビュットはたがいに会話してるんじゃないか、とぼくは思ったことがある)。
 喧嘩している当人たちにはそんなことはどうでもいいようなものだ。けれど、ビュットを見たり鳴らす音を聞いたりしているとどうも腹をたてているのがばからしくなるらしい。するとどうなるか。なんと、たいていの喧嘩やいさかいがうやむやのうちに解決してしまうのだ。当人たちにとっていいことかどうかはよくわからないのだけど。
 ビュットはというと、騒ぎがおさまってちょっとするともう音を鳴らすのをやめてしまい、いつものようにいるんだかいないんだかよくわからない状態に戻ってしまう。あっ、と思ってももう遅い。あの音を聞くことはもうできなくなっているのだ。残念。
 とまあこんなふうにときどきその存在をひかえめながら主張することはあったけど、ビュットはだいたいはただいるだけだった。街の人たちも特に気にしたりはしなかった。ちょっと風変わりなものがいるだけで、あとは以前となんにも変わってなかった。
 ……といいたいところだけど、実はちょっとだけ変わったところがある。もしかしたらぼくがそう感じているだけかもしれない。でも、ぼくにはその変化はありがたかった。
 それは、街の雰囲気だった。
 ビュットがあらわれる前、ぼくはどうもこの街になじめないでいた。なんだかよそもののような気分がずっと抜けないでいたのだ。理由のほとんどは、引っ越してきたばっかりで、しかも朝夕の行き帰りと休みの日しかいなかったからなんだとは思う。思うけど、でも街の人の視線がどうしても冷たく感じられるときも、あった。それは、なにもぼくの気にしすぎのせいばかりではなかったろう。
 それが、変わった。はっきりどこが、といえるわけじゃない。けど全体的に、ずいぶん雰囲気がやわらかくなった。『メルヘン』のマスターだって前は声をかけにくく見えた、といえばだいたいわかってもらえるだろうか。
 ぼくは、それをビュットのおかげだと勝手に思っている。ビュットを見たりするとなんとなくほのぼのとした気分になるのはぼくだけじゃないだろう。それに、あの音。ほかの人のことはわからないけど、ぼくはビュットが鳴らした音で不快なものを聞いたことがない。どれもこれも人をなごませるような音ばかりだ。これも、ずいぶん影響しているはずだ。個人的には、『メルヘン』のマスターやいくみちゃんと話すきっかけを作ってくれた、ということもある。
 だから、ぼくはビュットに感謝している。感謝してはいるのだが……

 そういえばなんとなくおかしいな、と思いはじめたのは一週間くらい前だった。自分で云うのもなんだけど、あくまでぼくの気づいたのがそれくらいだったと云うことだから実際にはもうすこし前からはじまっていたのかもしれない。そのへんは、まあ、よくわからない。ともかく、ぼくが気がついたのがそれくらいだった、ということだ。
 最初の数日は、どうも街の雰囲気が違うな、くらいのことしか感じなかった。なにしろぼくは普段は会社の行き帰りしか街を通らない。どこがどう違うのかなんてことをぼんやり考えているうちに部屋についてしまい、あとはそのことをすっかり忘れてしまうというのがその数日のパターンだった。
 はっきりとわかったのはその週の土曜日だった。あのいそがしさはどこへやら、すっかりきちんと土日を休めるようになったぼくはその日も目をさますと身支度をして昼食のために『メルヘン』に向かった(ビュットのことで話すようになってから、ぼくは週に一回は『メルヘン』に行くようにしていたのだ)。その日はいい天気だったんだけど、やっぱりどうも雰囲気が違う。どことなく沈んでいるし、いやにさびしくなったような気がする。なんでだろう?と考えながら歩いていて、商店街の入口前の信号で立ちどまったときにやっと思いあたった。
 ビュットが見あたらなかったのだ。
 正直いって、めずらしいこともあるもんだ、くらいにしかそのときのぼくは思っていなかった。それでもビュットの姿が見えない街が妙にさびしく感じられたのも事実で、『メルヘン』のカウンターに座るとすぐにそのことが口から出た。もちろんぼくにしてみれば何気なくという以上の意味はなかったのだけど。
 だから、マスターからすぐに反応がかえってきたことのほうがかえってびっくりした。
「そうなんだよ。最近ちょっとビュットが変わった行動をしててさ」
「なんです? それ」
 こういう話になるといくみちゃんはすぐに寄ってくる。マスターはまたもまだ言ってなかったっけ?という顔をしながら話しはじめた。それによると、ここ最近ビュットはどういうわけか常にひとかたまりになっているらしかった。そうじゃないビュットはほとんどいなくなって、その結果かたまりにぶつからない人にはビュットがいなくなったように見える、と。
「ふーん」と、ぼく。
「なんででしょうね」と、いくみちゃん。
「なんでだろうね」と、マスター。
 土曜の午後の昼下がり、ビュット効果とでもいうべきものはまだ残っていて、だれもそのことを深く考えようとはしなかった(おまえはいつもそうだろう、と言われればぼくには反論のしようがない)。ビュットの行動がぼくたちに影響を与えるなんて想像もしなかったのだ。そんなわけだからその話はそれっきりおしまいになり、ぼくはといえばボンゴレが出されるまでいくみちゃんとたわいのない無駄話をしているうちにそのことはすっかり忘れてしまう始末だった。もちろん、帰りの道ゆきでもビュットは見かけなかった。
 そんなこっちの考えがすっかりまちがってると思い知らされたのが、その次の日の日曜だった。
 その日は前日に引き続いての上天気で、しかも気味の悪いことにこのぼくが朝の九時なんて時間に目をさましてしまった。思えばこれがまずよくない前兆のひとつだったのかもしれない。加えて、布団から頭を出して時計と外の天気を見くらべているうちにあることを実行しようと決心したのもまずかったのかもしれない。
 あることってなにか、って? もちろん掃除に決まってる。ぼくの部屋の清掃状況は世間一般の独身男性の平均に決して劣らないと自負している。そんなぼくが掃除しようと思いたったのだから、これはもう魔がさしたとしかいいようがない。このことひとつをとってみても、その日の様子がどこかおかしいというのがわかるもんだ。もっともぼく自身はそんなことにはこれっぽっちも頭がいかず、ただもう元気に起きあがって着がえをはじめた。
 呼び鈴が鳴ったのはトーストを食べて窓を開け、しきっぱなしの布団を引きずって干そうとしているときだった。思わずぼくは動きを止めてドアをしばし見やった。ぼくの部屋に来る人間なんて大家か新聞の勧誘ぐらいしか思いつかない。どっちも朝っぱらには似あわないので、だれだろうと思いながらぼくは布団を放して玄関に向かい、隣のまちがいじゃなかろうかと考えながら確かめもせずにドアを開けた。
 そのときのぼくの驚きようといったら、ちょっと想像できるもんじゃないと思う。なにしろそんなことがあるなんて予想外も予想外、ここはどこ?私は誰?って世界だ。いや、実際、そう思った。とにかく、そのときのぼくにできることは玄関に絶句したまま立ちつくすことだけだった。
 ドアの外にはビュットたちがあふれんばかりに立っていたのだ。
 どれくらいたってからかはよくわからない。ほとんど頭まっしろになって茫然としているぼくに向かっていちばん前のビュットがおじぎをした(これにも驚いた。ビュットが人のしぐさのまねをしているところなんてはじめて見た)。
「こんにちは」
「あ、どうも」
 反射的に(このへんが自分でも間が抜けていると思うのだが)頭を下げ、ぼくは先頭のビュットと目をあわせた(つもりになった。なにしろビュットの目なんてわからない)。なさけないことに、ビュットが言葉を発したのだと理解するまで、二、三秒かかった。
「……えっ?……ええ――っ!」
 目の前のビュットに指をつきさし、思わずぼくは叫んだ。と、どういういうわけかうしろにいたビュットたちががやがやという感じでそれぞれ好き勝手に音を鳴らした。その様子はまるで小学生の合奏コンクールの練習風景(ただし音のみ)だった。
 ぼくはというと、そのおかげでますますわけがわからなくなっていた。喧嘩しているわけでも腹をたてているわけでもない、ぼくはただちょっと(と云うには無理があるか)びっくりしただけだ。なのに、なんでこんなたくさんのビュットに注目されてさわがれなきゃならないんだ?
「そう思われるのも無理はありません」
 なんでこんなにいちいちおどろかなきゃならないのかと思うけど、今度のは本当に強烈だった。なんと、ビュットの声がハモッて聞こえたのだ。
 これでぼくは完全に思考停止した。だから、あとの話はどこまでちゃんと聞いていたか自信がない(その理由はわかってもらえるでしょ?)。それでも続けて話しだしたのは先頭のビュットだけだったからぼんやりした頭でもなんとか聞きとれた。それは、こんな話だった。
 ビュットによると、はじまりはちょっとした偶然だったらしい。ふとしたきっかけで(これがビュットにとって相当めずらしいであろうことは想像に難くない)ビュットがいるところと<ここ>が簡単に行き来できることが発見された。簡単に、というのはもちろんビュットにとって。<ここ>というあいまいないいかたをしたのもどうも次元というような意味も含んでいるようだからだ。宇宙人かどうかはともかく、ビュットが想像を絶する存在であることはたしかなようだ。
 それでも好奇心は共通に持っているらしい。話しぶりによると、ビュットはわりに軽い気持ちでここに来た。そして、すっかり気にいってしまった。その結果どうしたかというと、みんなで大挙してやってきて、いついてしまった。
 いついたのには理由がある。ビュットによると、それはこうだ。
「人間の心はとても美しいので、私たちはしばらくここで人間の心を観察することにしました」
 残念ながら思ってるような意味じゃない。ビュットにとって人間の心の美しさの基準はまったく違うのだ。じゃあそれはなにかというと、なんとそれは色なのである。
 なんでもビュットには人間だけじゃなく生き物すべて(含む植物)の心が見えるんだそうだ。その中でも人間の心は、それはそれは色あざやかに映るらしい。なんともうらやましい話ではある。もっとも、それだけならこっちもビュットの音を聞いて楽しんでいたわけだからおたがいさまだ。
 けれどビュットと人間では楽しみかたに決定的な違いがあった。こっちはビュットがどんなときに音を鳴らすのかほとんどわかっていなかったのに対し、ビュットは人間がどんなときに美しい色を見せる心になるか知っている。あろうことか、なんとそれは激しい感情をあらわしているときなんだそうだ。それも、腹をたてているとき、怒っているときがいちばんきれいになる、らしい。
 美しい心に触れると(そうビュットは言った)、ビュットは感心する。感心すると、音が鳴る。ビュットのからだが音を鳴らすのは心が動いた結果なんだそうだ。その音を聞いて、こっちはああいい音だなあと逆に感心する。
 こういった事情が集約されていたのが喧嘩の場面だったのだ。考えてみればずいぶん皮肉な構図である。ビュットは美しい心、つまり喧嘩している心に集まってくる。一方喧嘩しているほうはビュットの音を聞いてやる気をなくしてしまう。どっちにとってもいいのかどうかよくわからない。もっともビュットにしてみれば人間の心は色が微妙に移り変わるところがいいのだそうだから、それでいいのかもしれない。
 しかし、まあ一月以上もいるとさすがのビュットも飽きたらしい。ある日ビュット全員がこれからどうするかを相談した。その結果、この街の人全員の美しい心を見てから帰ることにした。ここのところビュットがかたまって行動していたのは、まだ美しい心を見せたことのない人(つまりビュットのいるところで腹をたてたことのない人)のところを訪れていたからだったのだ。こんなこと誰にもわかるはずがないよ、まったく。
 で、そのときのビュットはぼくの目の前にいた。
「ですから、ちょっとおこってみてください」
 そう言ったあと、ビュットはなんにも話さなかった。全員がどこか期待を隠しきれないという雰囲気だった(どこがそうなんだ?といわれてもこまるが)。当然、音もまったく鳴らさない。
 どれくらい茫然としていただろうか。外はあいかわらずのいい天気で、どこかから子供の声が聞こえてきたりした。ビュットはなんの変化も見せないで、ぼくがおこるのをいつまでも待っていそうだった。
 ぼくはというと、立ちつくしているあいだじゅうずっとおんなじことばっかり考えていた――いったいなにに対して腹をたてればいいんだろう?

 それでビュットがどうしたかというと、実はまだぼくのそばにいる。
 いないじゃないか、って? ちがうちがう、見えてないだけ。言っただろう? ビュットは存在感が希薄だって。あんまり希薄すぎると、そばにいても気づかなくなるもんなのだ。
 あのとき、結局ぼくはビュットを無視して掃除を続けることに決めた。それくらいしかできそうなことはなかったからだ。ビュットはというと、ずっとドアの外に立っていた。部屋の中にはいってきたりしないところがビュットのいいところではある。一日中落ちつかない気分だったけど、部屋の清掃状況は相当に改善された。
 その日はビュットが部屋の前に立っているということ以外何事もなくすぎた。次の日もそうだった。その次の日は、ビュットの数が減った。なにしろ街の人全員をまわらなきゃならないからぼくだけにかかわってるわけにはいかなかったらしい。
 そのかわりに、残ったビュットはぼくといっしょに行動するようになった。もちろん街から出るとビュットに気づく人は誰もいなくなる。ぼくだけがずっとビュットのことを意識したままでいるのだ。
 そのあいだに、ビュットと何回か言葉をかわしたりもした。全員いなくていいのか、と聞いたら、一人が感じたことは他のビュットに直接伝えられるからいいのだ、というようなことを言った。それもあんまり時間がすぎると駄目らしいが。
 逆に聞かれたこともあった。なんであなたの心は美しくならないんですか?と。なんでも訪ねた相手ほぼ全員がビュットが理由を話すと烈火のごとく怒りだすらしい。そうじゃない何人かもずっといるとそのうち腹をたてはじめる。つまりぼくだけがビュットに腹をたててないわけで、それについてビュットは不思議がっているわけだ。
 そんなこといわれたって、というのがぼくの正直な気持ちだ。前にもいったようにぼくはビュットには感謝している。それにビュットが近くにいることが腹をたてる理由になんてぼくはならない。その点は他の人の気分がわからないところだ。
 ま、それでもそのうちには怒ることもあるだろう。そしたらビュットともお別れだ。それはそれでちょっとさびしい気もする。
 それにしても、だ。ビュットなんてものにまで不思議がられてしまうぼくは、いったいなんなんだろう?

(Page Top < Scenes < Fiction < Site Top | Enquete)



Produced by D.B.C.