T.戦前期 ハイキングクラブから尖鋭的な山岳会へ転換していった時代
昭和14年から昭和20年まで(1939−45)

鵬翔山岳会は法政大学高等商業学校OBが中心となって、昭和14年3月12日に創立されました。

 発足当初の会員数は32名で、企画、編輯、会計、庶務の委員制をとり、郷右近実氏が代表に選ばれました。

 現会員関清薫、向後保両氏、昨年亡くなられた森田達雄氏は創立会員として加わっておられます。

 元会員伊東正治氏の手により昨年復刻された「年報」第1号によりますと、創立1年目には会員数は110名を数え、その内女性会員が34名となっています。

 第1回山行の高水三山ハイキングを皮切りに東京近郊のハイキングを中心に年間に40回の山行が行われています。

 昭和14年、15年はそういったハイキングクラブでしたが、山行を繰り返すうちに、より充実した達成感を求めるようになるのは、自然な成り行きでした。

 やがて、近くてより高い山、より難しい山、丹沢の沢や三ツ峠の岩場を目指すようになります。

 そして徐々に谷川岳へ目を向けていきました。

目指す方向が少しずつ転換されていくにつれて、半数近くを占めていた女性会員の多くは脱落して行きました。

 本日ここに出席されている犬塚寿子野崎登代両会員は方向転換についてこられた戦前からの女性会員で、失礼ながら当会の重要文化財的存在として、お二人とも80歳を超えられ、今後ますます健康で長寿を全うされるようお祈りしたいと思います。

 聞くところによりますと、犬塚先輩は7月にインド西部の山岳地帯へ、幻の花ブルーポピーを探しに行かれるとのことで、その意気盛んなところは大いに学ばねばなりません。

 また、野崎先輩とは先年ご一緒にアンデスを旅し、車によるものではありましたが、標高5千メートルを超える高地を訪れるなど、好奇心の旺盛なことには頭が下がりました。

 昭和17年から18年へかけて谷川岳に頻繁に向かうようになりました。

昭和18年の記録は、ほゞ完全なものがありますので、調べてみますと、丹沢方面には延べ50回の山行がしるされており、西丹沢中川川流域開拓に会を挙げて取り組んだことが窺えます。

 丹沢に並行して谷川岳へは延べ40回を超す山行が行われました。

この年の特異な行事としては、4月29日、鎌倉の鶴岡八幡宮から宮城までの天長節奉祝行軍50キロが、東京府山岳聯合會主催で千数百名が参加して行われています。

 それは社会活動の全てが戦争に向かって収斂されていった時代の特徴を如実に現している行事でしたが、当時100名余りの会員を擁する当会から僅か9名しか参加しなかったところをみると、自由な山登りに生き甲斐を感じていたわれがの先輩たちは、そういった押し付けの翼賛行事に無言の抵抗を示したと考えるのは私の思い過ごしでしょうか。

 仲間の多くが戦地に駆り出され、やがてはわが身となる、明日をも知れない青春を、未踏の岩壁にぶつけていったのは当然の帰結かも知れません。

 この時期に登山史に残る初登攀が達成されています。それは波状的な谷川岳一ノ倉沢滝沢下部の攻撃の結果、昭和19年7月には森田、中野満両会員によって、それまで何度も退けられた滝沢下部が完登されました。

 なお、その前週には谷川岳南面の幕岩Cフェースが、森田、小川芳之両会員によって落とされました。

 当時盛んに一ノ倉に通った関根庄寿会員に伺いますと、戦時中は登山服姿で列車に乗ると、非国民として警官や憲兵に咎められるので、学生服や背広姿で、山の道具は風呂敷に包み、土合の中島喜代志氏の小屋で、着替えて一ノ倉沢の岩壁を登ったそうです。

戦争がいよいよ激しくなり、有力会員の多くが召集される一方、軍需工場の激しい労働、食糧不足、空襲などによって、活動は殆どされない状況に追い込まれて、昭和20年8月15日を迎えました。


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