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第89回配信
16日午後、それまで憶測でしかなかった「17日の独立宣言」をサチ州首相が初めて明言しました。すると小雪が降り始める中でしたが、プリシュティナ中心部には赤黒旗とともにたくさんの人が集まってきました。結婚式よろしくクラクションをガンガン鳴らす自動車のボンネットや荷台にも人、人。「ハコ乗り」状態で車から身を乗り出して旗を振る人あり。赤黒旗を身にまといながら駆けつける歩行者あり。世界中から独立取材に集まった報道陣は二千人とも言われていますが、プレスセンターが設置されてマスコミ関係者で賑わうホテル内の喫茶店でも、民族衣装をまとった楽隊が演奏とダンスを始め、州都は集団躁状態に入りました。どの顔にも本当に喜びがあふれています。筆者がこんなに嬉しそうな顔の人々をたくさん見るのは、ここコソヴォでは初めてだったかも知れません。 「民主的に選ばれたわれわれコソヴォ指導部は、この宣言を通してコソヴォが独立主権国家であることを宣言する。これはわれら民族の意思の表れであり、アハティサーリ国連特使のコソヴォ地位に関する推奨と提案に調和するものである」に始まる独立宣言を、クラスニチ州議会議長が読み上げ、セイディウ大統領、サチ首相の記念演説を受けて、議会出席者全会一致(セルビア人議員は全員欠席)のもと採択。憲法に関しては早期採択・発布を約束しただけ、宣言文だけでは「コソヴォ国」なのか「コソヴォ共和国」なのかよく分からないため、報道陣の間でも解釈が錯綜する、などの遺漏はあったものの、ともあれ2008年2月17日の15時40分をもって、コソヴォは独立国(コソヴォ共和国)となりました。
なお本稿執筆時点で日本はまだコソヴォ共和国の独立を承認していませんが、「旧ユーゴ便り」は筆者の生国の政府公式見解に厳密に一致させる必要はないと考え、以後コソヴォを独立国として扱います。ただし国名のアルバニア語表記はコソヴァですが、慣例に従って従来通りコソヴォと表記、また地名に関しても日本国外務省、共同通信、英語圏の報道などの動向を見ながら暫定的にアルバニア語、セルビア語名の併記を続けます。現時点で主な日本語の記事では「境界線」とされているセルビア・コソヴォの境界を「国境」と表記するなど、今後とも日本の主要報道機関と異なる用語表記を用いる場合があります。ただし民族出自を重視せざるを得ない旧ユーゴ圏の現状を考慮し、コソヴォ国民であってもアルバニア人と表します。 筆者はアルバニア語をほとんど解しませんが、「ウリメ・パヴァルスィーア(独立おめでとう)!」は覚えました。独立宣言が採択された17日夕刻以降、周囲のプリシュティナっ子たちがお互いに口々に「ウリメ(おめでとう)!」「ウリメ!」を繰り返しているのですから。7時半からのコソヴォフィルハーモニー管弦楽団の記念演奏会は、国賓など以外はテレビ放送でしか見ることが出来ませんでしたが、8時から始まったポップ、エスノ系中心の野外コンサートでは、会場の市中心部マザー・テレサ広場は大混雑でした。今年は暖冬でしたが、運悪くこの日は例外的な低温となり、時に身を切るような寒風も吹き付けてきます。しかしマイナス8度も何のそのという熱気の中、コンサートの最後にセイディウ大統領とサチ首相がステージ上に姿を現すと、ものすごい歓声が沸き上がりました。前日から続いていた集団躁はトランス状態に近いものになり、筆者はもちろん、同行しているテレビの特派員も「ヨーロッパではパリ以外で見たことがない」と言うほどの盛大な花火が首都の四方から打ち上がって締めくくられました。 「コソヴォ独立により旧ユーゴ崩壊のプロセスは終わった」。サチ首相は議会での記念演説とその後の記者会見での声明で、民主的なシステムとともに、北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)加盟へ向けた国づくりを約束しました。その中でコソヴォは多民族国家であると特に位置づけ、「誰も不安、差別、不公平を感じることがあってはならない。国家機関から差別は撤廃される。多様性はみなのプラスになることだ」と強調しています。
独立宣言に続いて議会採択された新国旗は、アルバニア国旗を連想させる赤と黒のツートーンや鷲、また文字の使用も避けるというアハティサーリ国連特使の進言を受け、議会が公募したものです。 ボスニア同様、EU旗を連想させるモチーフの新国旗(右写真)は、残念ながら外国報道陣からは「デザインとしてはちょっと・・・」とあまり評の芳しいものではありませんでした。筆者たち日本の取材班の通訳を務めたアルバニア人男性は、言葉を選びながら複雑な心境をコメントしてくれました。「赤黒鷲旗はアルバニア民族の象徴で、90年代、セルビア当局とこの旗のために戦って命を落とした人もいると言われるくらいに意味のあるものだ。新国旗に文句を言う人が誰もいないのは、私個人としては良いことだと思うが、少し不思議な気もする。アルバニア本国もやがて国旗を変更し、コソヴォとアルバニアにまたがるあの黒鷲旗は、『民族の象徴』の位置を占める特別な旗として残るのではないか」。 翌2月18日にブリュッセルで行われたEU外相会議は、国内に民族対立の危険を抱えるルーマニア、スペイン、スロヴァキアや周辺国のギリシア、スロヴェニアなどが早期独立承認には慎重な姿勢を見せたため、27カ国一括承認は見送られました。が、18日夕刻からコスタリカを一番乗りに承認の動きが始まりました(AFP同日付はアフガニスタンの承認が最初だと伝えましたが、コスタリカが先であったことが後に伝えられています)。 すぐに米仏が承認したとの報が伝えられ、まだ元気の残っているプリシュティナっ子が今度は星条旗やフランス三色旗を持って集合、祝日ムードはこの日の夜も続きました。
既に読者の皆さんもご存知のように、ロシアはコソヴォ独立に強硬に反対する立場を取り続けており、台湾(中華民国)問題を抱える中国も慎重な構えを崩していません。 国連加盟には総会の3分の2の賛成が必要ですが、そもそも総会には安保理から送付される必要があるため、拒否権のある露中の態度が変わらない現在、コソヴォの国連加盟には見通しが立っていません。また台湾が承認し外交関係樹立を示唆していましたが、コソヴォ当局は中国との関係良化を視野に入れているものと思われ、現在まで台湾に対し態度を明らかにしていません。 コソヴォフィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者、柳澤寿男(やなぎさわ・としお)さんは、独立祝典コンサートの指揮こそ地元アルバニア人のヤシャリ音楽監督に譲りましたが、この場で演奏されたベートーヴェン「歓喜の歌」(交響曲第九番第四楽章より)の練習指導を続けてきました。
プリシュティナ大学農獣医学部のカンベリ助教授は「コソヴォの経済は脆弱で、ほとんどゼロからのスタートだ。大学へ進んでも就職機会がないということで、あまり競争のないまま入ってくる新入生のレベルは低い。もし独立宣言が半年、一年遅れていたら社会不安は深刻なものになっていただろうし、退潮していたアルバニアとの合併論も再浮上していたかも知れない。このタイミングで良かった」と言います。
独立宣言に先立つ2月14日、サチ首相は「独立宣言のその日は24時間停電はないだろう」と記者会見で述べましたが、コソヴォ電気公団は不可能だと抗議。首相が「それでは電気公団の怠業だとみなす」と逆襲するエピソードも残しています。首相と電気公団の名誉のために書いておくと、17日私がいた場所では停電は一回もありませんでした。しかし翌18日からは「またいつも通り」。 旧ユーゴ時代からコソヴォは、工業の発達は遅れているものの、鉱産資源の産地として位置づけられていました。このため筆者のベオグラードの知人の間では「コソヴォの石炭・火発からセルビアが電力供給を受けている」という「神話」が残っています。
筆者も電力関係は不勉強でよく分からないところが多いのですが、どうも電力の需給関係は単純ではないようで、実際にはむしろコソヴォの方がセルビアからより多くの電力供給を受けているようです(日刊ダナス紙=セルビア、昨年12月15日付)。各発電所の冷却水を大量供給するガジヴォド湖は北西部のセルビア人多数地域。前出のカンベリ助教授もインフラ整備が最大の課題、と筆者に賛同した上で、「セルビア人が多数を占める北部と、アルバニア人多数の他地域で別の電力供給網にすることは不可能なはずだ」と想像します。
独立宣言を午後に控えた2月17日の午前、筆者と日本の取材班は北部のミトロヴィッツァに短時間ですが滞在しました。この町は99年の空爆以降、セルビア人が大半を占める北部と、アルバニア人の南部がイバル川の橋で事実上分断された状態が続いています。
独立宣言後、コソヴォ国内のセルビア人居住地域各地ではデモが続き、このミトロヴィッツァでは2月22日にデモ隊と小競り合い状態となった国連警察が、催涙弾を初めて使用するなど緊張をはらんだ状態となっています。23日までにEUによる警察司法ミッション(EULEX)の準備代表団はコソヴォ北部からいったん撤収せざるを得なくなりました。 とは言うものの、国連警察だけでなくNATO主導の多国籍軍コソヴォ展開部隊(KFOR)を相手にしたコソヴォ国内でのセルビア人の「抵抗」ぶりは、バリケード戦術もなく比較的穏便なものにとどまっています。17日以降、セルビア各地やモンテネグロ・ポドゴリッツァ(野党親セルビア勢力が主)、ボスニア・セルビア人共和国首都バニャルーカ(18日と22日デモ隊が米・仏両領事館に接近し機動隊と衝突)にコソヴォ独立反対デモが拡大し連日行われています。週末の24日にはウィーン、独シュトゥットガルトなど欧州各都市のセルビア系住民も同調してデモを組織しました。しかしこれらの中で最も過激な結果を呼んだのはベオグラードでした。
2月21日にはコシュトゥニッツァ首相(中道右派)、最大野党セルビア急進党(右派・極右)のニコリッチ党首代行が出席する独立反対集会「コソヴォはセルビアのものだ」が国家的行事として組織されました。G17、自由民主の親欧両党は参加を拒否。当初出席すると目されていたタディッチ大統領(中道左派)の民主党も、党としての積極参加を直前でキャンセルし、結果的にはほぼ保守勢力のみの集会となりましたが、当日は中距離バスや列車を無料にして地方からも動員した結果、議会会館(旧ユーゴ連邦議会)前広場が主催者発表30万(外国報道15〜20万)の大群衆で埋め尽くされました。ここは2000年10月5日のユーゴ政変でミロシェヴィッチ打倒の主舞台となった場所(第37回配信参照)ですが、8年前の政変当日に次ぐ人出を記録しました。 この集会は議会会館前から行進を行い、ベオグラード最大の正教会、聖サヴァ教会での祈祷で終わることが予定されていました。コシュトゥニッツァ首相ら集会での発言者は、「(17日の米大使館襲撃のような)破壊的行動を起こさないように」と再三参加者に呼び掛けていました。筆者も長年各種の集会をウォッチしていますが、従来、政府主催で教会が後援する形の集会は穏健裡に終わるものが多く、波乱は予想していませんでした。 しかし今回は筆者も読み違えました。
死亡1、負傷200(重傷4)、逮捕者195を数えたワルプルギスの夜。「セルビアの恥だ」、「コソヴォ問題とは何も関係ない悪魔のような奴らの仕業だ」。筆者の周囲の親欧系の友人のみならず、一夜明けたベオグラードの一般市民は眉をひそめています。翌22日にはベオグラード映画祭が予定通り始まり、開幕作品「Ulzhan」の監督を務めたドイツの老匠V・シュレンドルフが、また同映画祭とは別に23日に行われるコンサートのため、スペインが世界に誇るテノール歌手J・カレーラスもベオグラードに到着しています。しかし23日ベオグラードで予定されていたバスケット・アドリアリーグのレッドスター・ベオグラード対ツィボーナ・ザグレブ戦は中止。セルビアの首都はそれなりの平静を取り戻したようにも見えるのですが、まだ一触即発の危険が完全に消えたわけではありません。 騒動を受けて、米政府は国連安保理を通して大使館破壊に抗議、大使館人員の大幅縮小措置を発表しました。またドイツほかEU数カ国はセルビア国民への査証発行基準を当面厳しくするとしています。 前回配信で詳説したように大統領選後のセルビアは、先進国のコソヴォ独立容認・承認に対して強硬な態度を取るコシュトゥニッツァ、ニコリッチなど保守・守旧右派(「EUよりコソヴォ」)と、コソヴォ独立には反対しながらも親欧路線を貫くタディッチら親欧左派(「EUもコソヴォも」)の対立が激化しています。タディッチ大統領と彼が党首を務める民主党は、21日の集会を主催したコシュトゥニッツァ首相ほかの責任を追及、逆に保守勢力は、過激分子を止められなかった過誤は部分的に認めるものの、不在だったタディッチらの「責任逃れ」を追及する構えです。 2月25日、近く大統領選での勝利が有力視されている露メドヴェージェフ第一副首相がベオグラードを訪れ、セルビアの首脳と会談。「コソヴォの一方的独立宣言はセルビアの主権を侵害するものだ」とする従来のロシアの立場を改めて強調しました。選挙直前のこの時期にプーチン現大統領が敢えて同副首相を派遣したのは、大統領交代後も、米・EUに対抗するブロック形成の可能性を示唆しながら強いロシアを示す露外交路線に変化がないことを内外に示す狙いがあるのではないかと見られています。 独立から一週間、「集団躁状態もすっかり落ち着いて平静」(柳澤寿男さん、電話談)というプリシュティナから、コソヴォ問題の焦点は再びセルビアに移ったと言えそうです。 (2008年2月下旬) 本稿執筆に当たっては、多くの紙誌、インターネット資料、テレビ番組を参考としましたが、煩雑さを避けるため日付等詳細出典の記載は一部にとどめました。以下に参照した紙誌、サイト等を列挙します。日刊ダナス、週刊ヴレーメ、TV B92、国営セルビアテレビ、セルビア共和国政府、コソヴォ議会、日本国外務省、BIRN、国連コソヴォ暫定行政機構、ヤッフー!フランス/ジャパンからアクセス可能な仏語/日本語記事、ウィキペディア・フリー百科事典各語各項目 取材に協力を頂いた柳澤寿男氏に謝意を表します。同氏の姓の「柳」の字は、正しくは「木」偏に「夘」です。また画像を提供して頂いたinfobiro社に謝意を表します。画像の一部は、2007年1月、2008年2月に日本のテレビ報道取材に通訳として同行した際筆者が撮影したものです。また本文内容にもこの取材の通訳として業務上知り得た内容が含まれています。これらの本ページへの掲載に当たっては、通訳上のクライアントから承諾を得ています。画像・本文とも無断転載はかたくお断りいたします。本稿発表時現在日本国外務省はコソヴォとセルビア一部地域への「渡航の延期をお勧めします」などの各種危険情報を発出していますのでご注意下さい。「旧ユーゴ便り」には読者の皆さんにコソヴォ渡航を推奨する意図はありません。 Zahvaljujem se na saradnji: infobiro.tv. Zabranjena je svaka upotreba teksta i slika bez odobrenja. |
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