「平和問題ゼミナール」
(旧)ユーゴ便り
Masahiko Otsuka Presents
-since 1998-
(Since 98/05/31)

ユーゴ政変特集」緊急レポート第2弾!
最終更新 2000/10/19 0:00

第37回配信 <ユーゴ政変特集・2>
2時間「革命」(?)


ユーゴ連邦議会(今年3月撮影)
   前回配信に続きユーゴ政変特集、今回は10月5日のレポートを発表します。
   4日までのイキサツ。9月24日のユーゴ大統領選で15党からなるセルビア民主野党連合(DOS)推薦のV・コシュトゥニツァ候補は50%を得たとして一方的に勝利を宣言。一方現職のS・ミロシェヴィッチ陣営は結果の発表を渋りながら第2回投票を公示、これに応じられないとするDOSは抗議のゼネストを決行しましたがベオグラードでは今一つ成果が上がりませんでした。10月4日、ゼネストの焦点コルバラ炭鉱では警察の機動隊がスト参加者の実力排除に動きましたが、応援に駆けつけた多数の市民の前に手が出せず衝突は回避されました。同日深夜、体制側は憲法裁決定を通して選挙やり直しを宣言するまで妥協しましたが、野党側は予定通りセルビア中からシンパを集めてベオグラードで5日15時の連邦議会前大集会を決行することに踏み切りました。
   先行きの見えない中、「(旧)ユーゴ便り」の筆者は日本のテレビB社のK特派員、カメラマンのボグダン、バーネ運転手兼撮影助手、そして自宅待機でニュースのフォローをしている筆者の妻イェレナとともに情勢の取材に当たり、ベオグラードで起こった出来事の一視角からの証人になりました。

13時頃の議会入り口付近。機動隊員が防弾チョッキ、ヘルメットを着用している。この後前庭全体を守る形に前進した
   前日の段階でコシュトゥニツァはミロシェヴィッチに対し「5日15時までに敗戦を認め辞意を明らかにすること、国営テレビ上層部の更迭」などを要求する公開書簡を発表し、これが今日のDOSの集会の目標としても掲げられています。またセルビア共和国政府は集会に対しては「力の行使による鎮圧もあり得る」と声明を発表。日本政府を含む西側各国がユーゴ政府に対し警告するという動きもありました。一方警察(内務省)ほどではないものの、空爆以降ミロシェヴィッチに近づいたと言われる軍は、当初「混乱には介入もあり」としていたパフコヴィッチ参謀総長が4日になって「市民の意思を尊重する」と慎重な発言に変わったのが注目されましたが、やはり取材の焦点は集会参加者が「ミロシェヴィッチの私兵」と言われる警察=機動隊と衝突するかどうか、です。
   木曜12時はセルビア社会党の定例記者会見(シャイノヴィッチ連邦副首相)があるはずですが、11時ホテル集合の時点では確認が取れず。同じ12時にコシュトゥニツァが党首を務めるセルビア民主党の会見が予定されています。カメラマンのボグダンは「集会でいいカメラポジションが取りたいから、15時開始なら13時半には連邦議会前にいたい」とのこと。取りあえず市中心部の社会党に行ってみましたが特に会見がある風でもなく、すぐ近くのセルビア民主党へ歩いて行きました。この数日清掃公社が全面ストをやっているため、途中のゴミ集積箱からはゴミがあふれ、首都の中心部とは思えないような汚さです。この状態はいつまでも続かない。どっちかが勝って、また普通のゴミ収集が始まるだろう・・・。セルビア民主党には日本のテレビC、D社など多数の記者がいました。
   12時10分、記者会見の開始を待っていると今日最初のイェレナからの電話が鳴りました。「連邦議会前に集まっていたチャチャクからの集会参加者が議会突入を図って機動隊と衝突、催涙弾が使われている」というのです。コスいのは承知で、とは言え仕事ですから他のテレビに悟られないように冷静を装いながらK記者に耳打ち。「よし、この会見よりそっちへ行こう」。
イリッチ・チャチャク市長。「親分」と彼の「愚連隊」がこの日の蔭の主役になるとは思ってもみなかった(詳しい解説は次回配信で。写真は「ニン」誌の選挙宣伝から)
   既に共和国広場ではDOSのブレインになっている経済学者グループG17PLUSが集会を開き、ここから連邦議会までは歩行者天国も同然になっています。人をかき分けベンツを議会近くに止めようとすると、K記者と私が後ろに乗っているのを見た市民が運転手のバーネに「何だ中国のテレビが何の用だ」と声を掛けてきました。
   この数年ミロシェヴィッチ政権(特にマルコヴィッチ夫人のユーゴ左翼)は中国に政治的に接近するとともに多くの中国人の滞在を認めるようになっており、ベオグラードはじめ都市部では中国製品ブティックや中華料理店が増えています。東洋人と見ればまず中国人。体制側がこの「中国現象」を表立ってプロモートしていることから、野党側からは中国人の評判がきわめて芳しくありません。
   まだ集会開始の3時間ほど前ですが、議会入り口前には既にチャチャクから連なって到着したバスが何台も止めてあり、前日のコルバラでも一番元気だったこのセルビア中西部の町の人々が笛や怒号で気勢を上げていました。同市のイリッチ市長と取り巻きがこの集団のところに向かうのをボグダンが発見、早速撮影します。車の所に帰って来て「イリッチの奴、酒くせえ」。DOSに参加している「新セルビア」の共同党首なのですが、田舎の土豪、といった雰囲気で他のリーダーと比較すると異色の存在です。K記者と私も車を降りてみると、イリッチ市長はスポーツウェアにジャージー、それを取り囲むのは強そうな「若い衆」20人ほどの一団。「愚連隊とその親分みたいですね」とはK記者。議会正面入り口の近くに来ると、急に鼻をつく異臭が感じられました。左眼がしびれて涙が出てきます。議会前の守りを固める機動隊もガスマスクを外しており、状態は少し落ち着いたところという感でしたが、まだ催涙ガスが少し残っていたのです。集会参加者たちの表情を見ていたK記者が、「今日は雰囲気が違いますよ、みんな怒っている」と言います。記者会見に戻るのは止めて、このまま議会前に残ることにしました。議会前はまだ車が止められる状態ですが、10分、15分でどんどん人が増えて来るのが分かりましたから議会裏手、コソヴォ通りとヴライコヴィッチ通りの角に止めなおしました。
「会社名、JAPAN」と書いて胸に貼っていた。みっともないけど「中国人問題」対策で仕方がない(会社名には「ぼかし」を施してあります)
   正面入り口に展開している機動隊員は約30。警棒はもちろんですが、昨日のコルバラとは違いヘルメット、ガスマスクも装備しています。「最初に小競り合いがあった時に限って本チャンは大したことなかったりするんですよね」と私。とは言え万が一のためボグダンとバーネを議会前に残して13時ごろK記者と昼食を買いに行くことにしましたが、バーネが「中国人だと思われないように」と発案して、「会社名 JAPAN」と紙に書き、機材用のセロテープで私とKさんの胸に貼ってくれました。ちょっとみっともないけど、集会参加者と面倒を起こすよりはましです。テラジエのマクドナルドは閉店。途中ですれ違ったTVモンテネグロのドゥーレカメラマンに聞き、ミハイロ公通りの入り口のサンドイッチスタンドへ。ゼレニ・ヴェナツ方面からも「セルビアを狂気から救ってくれ、コシュトゥニツァよ」と歌いながら一団が坂を上って来ますし、北の通りから南の通りからみんなが中心部を目指して行進して来て、この時間になるともう議会からテラジエ、共和国広場辺りは大変なにぎわい方になっていました。新しいスローガン「GOTOV JE(終わりだ)」を唱える人々あり、96年の反体制運動当時の「Hajmo, haide, svi u napad(ほらみんな攻撃だ)」で気勢を上げる一団あり、さらに古い「Svi,svi,svi(みんな、みんな)」「Bando Crvena(赤い悪賊)」を叫ぶ人あり。笛と歌とシュプレヒコール、今までの反ミロシェヴィッチ集会の総決算という雰囲気です。日本政府が前日体制側に異例の警告を出したこともあり、日本大使館のO政務担当官らの姿も見えました。
翌日のヴェチェルニエ・ノーヴォスティ紙号外特集による14時頃の連邦議会前の状態。この後Aに演壇が設定され、私たちもここにいた。Bは連邦議会正面入り口でAから50m程度
   連邦議会前の集会はこのHPの第24回配信でも書いたように、昨年の8月をはじめ何度か取材していますが、今日はちょっといつもと違いました。車道に止めた車からはいつものように大音響でスピーカーを乗せたトラックが音楽を掛けていますが、入り口正面には演壇もなければ報道陣用のコーナーもありません。13時半ごろボグダンは三脚なし、脚立で撮影、と決定、正面にポジションを設定しますが機動隊の前まで人が集まっていて、あまりいい場所とは言えませんでした。「いったい今日の大事な集会の組織はどうなっているんだ」と文句をいいながらもボグダンがカメラをセットします。そうこうするうちに13時50分ごろ、我々の後方の車道のトラックから、いつも集会の司会を務めるタディッチ新連邦議員(民主党、本業は俳優)が「あと1時間で我々の要求している期限です!」と マイクで話を始めだしてしまいました。慌ててこのトラックの近くに後退。やがてこのトラックから臨設ステージ用の木材が運び出され、演壇が出来たのが14時20分ごろ。いつもの議会正面入り口の演壇ではありません(入り口まで50メートルほど)が、取りあえず幸運にも演壇のすぐ前のポジションをゲットできたわけです。タディッチの独演がしばらく続きましたが周囲からは「ヴェーリョ、ヴェーリョ!」とヴェーリャことヴェリミール・イリッチ・チャチャク市長の登場を期待する声ばかりで、演壇周辺から議会正面入り口までは「一番乗り」を果たしたチャチャクのシンパで固められているのが分かりました。もちろん報道もシンパも入り乱れて押し合い圧し合い、ボグダンの乗った脚立を例によってKさん、私、バーネで囲んで守ります。
   彫刻家、シャバツ市の代表などいわば「小物」のスピーチが続いているうちに14時50分。いつもは15時の予定なら15時半に始まるのが普通ですが、どうも今日の集会は自然発生的に始まってしまったようです。脚立に乗って携帯電話で連絡を取ったボグダンが「ジンジッチやコシュトゥニツァなどの大物は17時過ぎの登場らしいぞ」と告げます。K記者「動けたらいったん仕切り直したいところだけど、これじゃあ動けないなあ」。
   15時5分ごろ、イリッチが今度は背広 で登場。大歓声に迎えられます。上で見通しの利くボグダンは「もう議会前はピオニール公園までいっぱい、まだ来る人の動きが見える」。私たちの周囲のシンパからは「Idemo na Dedinje(デディーニェ[=ミロシェヴィッチ邸のある地区]に行こう)」のコール。K記者に訳すと「ヤバいなあ、みんな殺気立ってるよねえ」。私「議会の機動隊は手薄みたいですけど、この集会終わった後にハネ上がりの連中がデディーニェや国営テレビに向かったりするとヤバいですよね」。K記者「テレビってどこだっけ?」私「すぐここから200メートルです」。15時20分、再び司会のタディッチ。「もう3時になりましたか?・・・でもいいんです、もう負けを向こうが認めなくても、こっちは勝ったんだから!」。また「小物」のスピーチがあって、司会というには饒舌過ぎるタディッチが再びマイクを握って何か話していた時でした。

週刊誌「ヴレーメ」10月12日号の表紙+裏表紙を飾った「クラッシュの瞬間」
   15時30分、タディッチの後方、議会入り口正面が演壇とは無関係に騒然となりました。一瞬私は何が起こったのか分からず、入り口左手のコシュトゥニツァの大看板が揺れるのが見えたのでその辺で何かが起こったのかと思ったのですが、すぐに若者が機動隊のいた位置より先、階段の上で万歳しているのが見えて機動隊網が突破されたのが分かりました。どんどん人々が階段を走り上って行きます。タディッチは「平和裡にやりましょう、みんな下がって、下がって!」。私「ヤバい、クラッシュしちまう!」脚立の後ろを守るK記者が群衆に押されながらボグダンに降りるように指示、私はボグダンのお尻側なのでバーネに伝えます。ボグダンもカメラマンの意地か、すぐに降りようとしません。K記者がもう一度「人に押されて危ない、もう降りろ!」。でボグダンが降りたと思った時、ドーン!という音が数発来て催涙ガスの白煙が上がりました。
   それまで私たちの後ろ、前に前に出ようとしていた人の圧力が今度は左へ、左へという力に変わりました。風下方向ですが、この人の波には逆らえません。それに4人がはぐれないようにすることをまず注意しなければなりませんし、ヴライコヴィッチ通りとコソヴォ通りの角のベンツまで辿りつけば何とか体勢を立て直せるかもしれません。脚立を持って左へ移動(もちろん人の中を走るわけにはいかず、歩いてです)しているうちに催涙ガスに囲まれましたが、幸い爆発してから時間と距離があったためか耐えられない濃さではありませんでした。議会の前庭はあまり人がいないのにK記者が気付き、そちらに向かえと指示します。4人がはぐれないように気を付けながら前庭ですぐにレポートの用意。さっき演壇にいたシャバツ市のDOS関係者は眼を真っ赤にしています。私も目からはボロボロ涙が出てきます。取材班に「こっちだ、こっちだ」と指示して口を開けたからでしょうか、舌もしびれています。Kさんの後方では議会に向かって投石するために走る集会参加者が見えます。Kさんは失礼ながらいつもはレポートには少し取り直しが多く時間のかかるタイプです。しかしこの修羅場ではさすがに一発で決まりました。
   バーネのベンツまで撤退、催涙弾のドーンという音、怒号、笛。大混乱が起こっています。15時35分、日本は22時35分ですから、B社の23時の看板ニュース番組には電話レポートが間に合う時間です。ベンツの蔭に4人身を寄せてKさんと私が携帯電話で東京の外信部に電話しますがまったくつながりません。するとすぐ近くでドーンという音がして、催涙弾が私の覚えている限りでは少なくとも2発落ち、濃い白煙が立ち上りました。狭いヴライコヴィッチ通りの入り口にいたたくさんの人々が歩き出すより前にもう白煙に包まれてしまいました。
A:演壇 B:議会正面入口 C:取材班の車を停めた位置 D:リリヤナさん宅
   今度は私も深く息を吸ってしまいました。途端に肺にしびれを感じ、呼吸が困難になります。苦しそうなKさんの咳混じりの声で「とにかくあっちへ!」で他の人々と一緒に歩き出します。何で走ってくれないんだ!でも狭い通りで、走れるような人の数ではないのです。もうKさん、バーネ、ボグダンがどこにいるか気を使っていられませんでした。海老のように背を曲げて、唾を何度も吐き捨てながら歩きました。中学時代2000メートル走でビリから2番目の奴にまで周回遅れを取って一人で走る最後の1周、の苦しさ。私のすぐ後ろにいたバーネが腕をつかんで、ここに入ろう、と団地の入り口を指しました。
   96年の反体制運動の時も日本のテレビのリサーチでデモにヤジ馬「参加」していて機動隊に突入され、団地に逃げ込んだことがあったのを座り込んで思い出していました。踊り場の階段に30人ぐらいが逃げ込んだでしょうか。ボグダンとカメラは無事。一瞬はぐれたと思ったKさんも這いつくばっているところをバーネが同じ団地に引き入れました(後日談:K記者は道路に嘔吐し文字通り四つん這い、ボグダンもバーネに「オレ死んじまう」と言っていたそうです)。バーネが濡れタオルを持っていたので借りますが、眼と顔をこすると激痛が走ります。「こすっちゃダメだ」とバーネ。クロアチアやボスニアでキナくさい所はずいぶん経験していますし、去年は空爆下のベオグラードにもいた私ですが、これだけ濃い催涙ガスを食らったのは初めてでした。いろいろ知らないことがあるものです。
情勢が落ち着いた9日、リリヤナさん宅をお礼を兼ねて再訪したB社取材班。ガスに取り囲まれた時は100mくらい歩いた気がしていたが、車から彼女の住む団地の入り口までは20歩くらいだった
   私たちも、他の逃げ込んだ人々もまだ半分パニック状態で茫然としていましたが、外のヴライコヴィッチ通りではまた催涙弾の轟音と集会参加者の怒号が高まりました。誰かが気が付いて、「ここに突入されるかもしれない、入り口のカギをかけろ!」と叫びます。そこへまた轟音。誰も冷静な判断が出来ないまま、とにかく階段を上へ上がり始めました。最上階に近く、ドアとは別にガラス戸が階段に面している一室があり、若い女性が踊り場の騒ぎの様子を見ているところでした。集会参加者の一人が「お嬢さん驚かないで、ちょっとだけお邪魔させてください」と言ってドアを開けてもらいました。私たち取材班4名を含む13人がゾロゾロとこの家に入り込みました。若い女性とは別の、主と思しき40代後半の女性が「まあ大変大変、皆さんどうぞ座って下さい」と優しく迎えてくれました。主はリリヤナさんといい、最初の若い女性はたまたま来ていた親戚の人でした。結局日本で言う3LDK程度のこのリリヤナさんの家でこの日の後半を過ごすことになったのです。5分ぐらいが経ったでしょうか、まだ顔と眼のしびれもパニックも覚めないうちにまた一人入ってくる人がありました。紺の迷彩服を着た警官です。私たちも、DOSシンパも一瞬ギョッとしましたが、ヘルメットとピストルを奪われていて、頭から血が流れています。「とにかく応急手当だけさせて下さい」。20代の青年で、やはり私たちと同じように「とんでもないことになった」という焦りの表情。まだ気が立っているDOSシンパと口論になる前に、リリヤナさんが機転を利かせて「どうぞどうぞ、困っている時はどのサイドだろうとどの党派だろうと関係ないですからね」と洗面所に連れて行きました。「まあコーヒーでも入れましょう、ほらあなたもそっちに座って落ち着きなさい、家族もご心配でしょうから電話も使って下さい」とリリヤナさんは14人みなに対して甲斐甲斐しく対応してくれました。有り難いものです。コーヒーを飲んでいるうちに催涙ガスのしびれもパニックも消えて行くのが分かりました。
   携帯電話がダウンしても、通常の電話が使えることはよくあります。リリヤナさんの許諾を得て東京に電話させてもらい、K記者は23時からのニュース用電話レポート。私は自宅に電話してイェレナに無事を伝え、引き続きニュースをフォローして私たちの携帯電話かリリヤナさんの自宅に連絡するように頼みました。
国営セルビアテレビは昨年の空爆で被害を受けなかった西側が炎上した(「ニン」誌10月12日号から)
   ヴライコヴィッチ通り側の窓からは、最上階ということもあって外の状況が今一つよく見えません。誰かが気にして窓を開けた途端に催涙ガスの異臭が家に入り込みます。「うわあ、窓を開けちゃいかん、閉めろ、閉めろ!」。一方反対側の窓からはマイカ・イェヴロシマ通りの区警察署の建物が見えます。屋上からガスマスクを着けた機動隊員が催涙弾を撃っています。周囲ではまだ怒号と笛と催涙弾の音、時に実弾と思しき音もしています。出血が止まって洗面所から出てきた警官にDOSシンパが「あんたが今とても出られる状態じゃないね、ガスマスクは持ってないのか」。警官「議会裏口の担当でガスマスクなんか最初から持ってないよ、ピストルとヘルメット取られてぶん殴られたんだ」。私たちにも「あんた方2人は日本人か、中国人と間違えられるからしばらく外に出られないだろうな」。というわけで、しばらくはイェレナから時々電話で送られてくるニュースを書き取り、日本語でK記者に、セルビア語で取材班と他の人々に伝えるのが私の役目になりました。
   17時、国営テレビが「燃上」(ラジオ・インデックス)中。大量の催涙弾が使われている。集会参加者も武器で応戦中。現在国営テレビをめぐって「戦闘」が展開中、火炎ビンが使用されている模様。路上に警察官多数。
   17時20分、連邦議会は集会参加者が中に入った模様、中は誰もいない。国営テレビで「戦闘」継続。DOS幹部ジンジッチによれば「ユーゴ軍は出動したようだが市民に対し発砲することはないと信じる」。
   17時40分、救急医療センター発表によればけが人10名収容。国営テレビ付近は散発的発砲。ジンジッチらDOS幹部は状況が沈静化次第市民に対し声明を発表する予定(「10時とか11時にならなきゃ落ち着かねえよ」と警官)。
   外が静かになってきました。気が付くと区警察署の屋上にも機動隊員の姿が見えません。窓を開けてみると、催涙ガスの匂いはなくなりましたが、今度はこげ臭い匂いがしてきます。すぐ近くの連邦議会が燃えているのか、数百メートル先の国営テレビの煙なのか。
警察署を取り囲む市民、「投降」する警察官・・・。5日の朝までミロシェヴィッチ御用報道に徹していた「ヴェチェルニエ・ノーヴォスティ」紙は6日号外写真特集を出した
   4人がはぐれず、身柄も機材も無事、ということになって落ち着いてみると、やはり心配になってくるのはバーネの車です。テラスから見ている分には無事なようですが、何せ「震源地」連邦議会のすぐ裏手ですから何が起こるか分かりません。バーネにまず車の様子を見に行ってもらって来ました。帰って来て開口一番「とんでもない無政府状態だ、すぐ近くの車がブッ壊されているし、オレの車もいつ荒されるか分からない。売店のガラスが割られてムチャクチャな状態だ。東洋人が出歩くなんてとんでもないし、ボグダンのカメラも危ないかも知れない。」。4人で取りあえずの作戦を立てました。バーネは偵察を兼ねて車を新ベオグラード地区のK記者の泊まっているホテルへ移動、残り3人は待機。衛星伝送は23時だから無理はしない。
   催涙ガスの臭いが消えたのと、私の伝えるニュースを聞いてDOSシンパたちは少しずつリリヤナさんに礼を言いながら去り始めました。ボグダンとバーネは「取材もすべきではないか」という焦りも少しあるようでしたが、またこれを読んでいる皆さんの中にもそうお考えの方があると思いますが、私はこの時点でのK記者の判断は間違っていなかったと思います。取りあえずクラッシュの瞬間とレポートは既にカメラに収めてあります。世界中に画像を配信しているロイターTVやAPテレビニュースが大きな出来事はフォローして東京に送るでしょう。無理に特ダネ狙いをする意味はほとんどない状況です。今大事なことは4人の身柄と機材、撮影済みテープ、バーネの車の安全を第一に考えることだと思われました。やがて家に残ったのは警官と私たちだけになりました。
「セルビアはついに自由になった」翌日の「ダナス」紙
   バーネを送り出してテラスに出たK記者が「うわあ、鉄パイプ振り回してる奴がいる!」と叫びます。私も見ると、ヴライコヴィッチ通りの売店はガラスが割られ、連邦議会裏手はゴミが散乱して、市民が笛を吹きながら四方に歩いているところでした。これではいくら「JAPAN」と胸に大書してあっても外に出るのはまだ賢明ではなさそうです。18時、リリヤナさん宅のテレビはスタジオB(野党系の市営放送局だったが今春体制側に乗っ取られ、ミロシェヴィッチご用放送を続けていた)でしたが、見たことのないアナウンサーが現れました。「これは自由化して最初のニュースです。警察は民衆の側に立ちました。スタジオBも自由化されました。皆さんベオグラードの路上に出て下さい」。驚きが醒めないうちに18時30分、「17時に連邦議会は市民が占拠しました。警察署2箇所も『陥落』し警察官は市民の側に投降しています。国営テレビと連邦議会が炎上していますので、本テレビを通して消防機関に出動を要請します」。今度はイェレナから18時40分、国営テレビ「陥落」、現在放送は止まっている。警察は事実上「降参」した模様。間もなく共和国広場でコシュトゥニツァが演説の見込み。ホテルに無事着いたバーネからも連絡が入ります。大混乱と言えるのは市中心部だけのようだ。状況が落ち着きつつあるようだ。新ベオグラードへ向かうブランコ橋も多数の市民が出ている。
   19時スタジオB。市民側は重傷1名。軍との衝突は現在までなし。コシュトゥニツァは18時に市民の前に登場して勝利宣言を行った。20時、日刊紙「ポリティカ」は明日から編集方針を変更と発表。国営テレビは依然放送なし。ジンジッチは深夜3時から5時ごろの人が少なくなる時間に(旧)体制側が逆襲に出る可能性があるので、夜じゅう市民が路上に出ているように呼びかけている。20時30分ポリティカを初め旧体制系メディアは全て市民(DOS)の側に付いた。ラジオB92も放送を再開。DOSは新たに当選した議員に呼びかけ、連邦議会を今夜にも開会したいとしている。議会、テレビの消火作業は間もなく終了の見込み。ベオグラード市警察も「陥落」。連邦議会、国営テレビ、国営系店舗その他では市民の「略奪」が行われDOSが注意を呼びかけている。

180度編集方針の変わった翌日の「ポリティカ」。一面にはコシュトゥニツァ新大統領の写真
   バーネにも戻ってきてもらい、リリヤナさんに感謝して外に出たのは22時近くでした。その直前に警官の青年も、リリヤナさん宅にあった唯一の男ものの上着を借りて出て行きました。迷彩色のズボンと頑丈な靴は隠すわけに行きませんでしたが、もう警察が「市民の敵」と見られることはないでしょう。リリヤナさんと私たちは「気をつけて」と励まして見送りました。さてこわごわ外に出てみると、大通りには祝勝気分の人々が車で、徒歩で何千人も何万人も出て大変な騒ぎになっています。どこに目指すというわけでもなく中心部に向かっています。私とK記者は胸にまだ「JAPAN」と大書してありますが、ナトリウムランプの下ではよく見えませんから、誰かにカラマれるのではないかという恐怖がまだありました。ボグダンも普段よりカメラに注意しています。バーネが機転を利かせてKさんと私の肩を抱き、3人で肩を組みながら車まで歩きました。
   全てを済ませて新ベオグラードのホテルに帰り着いたのは0時に近い頃でした。今度は催涙ガスではなく空腹になるとうずく食道潰瘍のせいで「海老歩き」してしまいました。昼にサンドイッチをかじっただけでしたから。ホテルのレストランももう閉まっており、4人でK記者のルームサービスでハンバーグにむさぼりつきました。衛星放送で英スカイTV、BBCなどを見るとどこも今日の連邦議会がトップニュースです。連邦議会のクラッシュの瞬間、国営テレビの炎上する様子などが流れました。スカイでは「明日の朝刊の一面」コーナーが流れ、イギリスの新聞も軒並みトップは連邦議会の写真なのが分かりました。ある新聞には「革命 Revolution」の字が踊っています。CNNではミロシェヴィッチが既に「過去の人」として扱われています。新ベオグラードに住んでいるボグダンは自宅へ、バーネと私は万が一の安全上の理由と「あるかも知れない(旧)体制側の逆襲」に備え同じホテルにチェックイン。
   部屋に入って国営セルビアテレビを見ると、市郊外にある臨時スタジオで「12年ぶりに職場に戻った」というツルヴェニャンスキ・アナウンサーとボヤン某なる作家が、セルビア各地から「勝利」を伝える視聴者の電話に応対しています。明日の「ポリティカ」紙も紹介され、コシュトゥニツァの写真が一面に大きく出ています。今日の15時半から17時半までの間に、全てがひっくり返ってしまったようです。
   新ベオグラードの夜は静かでした。テレビは市中心部の祝勝騒ぎを現在進行形で伝えています。「略奪」を控えるよう注意を呼びかけています。セルビアテレビの総裁はリンチされたようです。これは、イギリスの新聞が書くように「革命」だったのだろうか。全てがこれでいい方に向かうのだろうか。私の住んでいる町が「良く」なるのなら、それは多いに結構なことだけど。なぜか私は心から喜べませんでした。もちろんまだ可能性が消えていない「軍とミロシェヴィッチの逆襲」を気にしてピリピリしていたこともあるのですが、それ以上に「中国人」が外に出られなかったこと、店や議会の略奪などを考えていました。これは魔物が跳梁跋扈する「ワルプルギスの夜」ではないか?もちろん哀しい短調ではないけれど、けたたましくフィナーレに向かって行くベルリオーズの幻想交響曲の終楽章がホテルの部屋で一人になった私の中に鳴り響いていました。

前回(第36回)配信=ユーゴ政変特集・1「新・コルバラの戦い」にリンク

(2000年10月中旬)


写真の一部は2000年3月および10月に日本のテレビ取材に同行した際筆者が撮影したものです。また本文もこの取材の通訳として業務上知り得た内容から構成されています。これらの掲載に当たっては、私の通訳上のクライアントから許諾を得ています。画像・本文の無断転載はかたくお断りいたします。


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